三年生の思いやり
翌日から中間テストが始まった。
この日のテストが終わり、康平が部活に向かう途中で健太とすれ違った。マスクをしている健太が言った。
「風邪引いちまったよ。……昨日のスパーはどんなだった?」
鼻声の健太に訊かれて康平が答えた。
「森谷先輩はカウンターを打ってきたけど、ほとんどブロックの上だったよ。……先輩はわざとブロックの上を叩いてるみたいだったけどな」
「カウンターは貰わなかったんだ?」
「いや、一発テンプル(こめかみ)に貰ったよ。お前が食らったのと同じ左フックさ。一度ダウンを取られよ」
「じゃあ、お前も倒されたのか?」
「いや、立ったままのダウンだよ。……ただ、その後頭が痛かったけどな」
「……そうか。俺はこれから先生達へ行くからさ」
健太は職員室へ歩いていった。
永山高校のボクシング部員は、風邪を引いたら、完全に治るまで部活を休む決まりになっていた。そうしないと、他の選手達に移ってしまうからだ。
但し、休む場合は直接二人の先生へ報告する事になっていた。
翌日の金曜日も健太は部活を休んだ。
この日は三年生が練習場に来て、二年生の練習に付き合っていた。
大崎のスパーリング相手は、体重が近い石山ではなく、何故か清水だった。
康平がその事を訊くと飯島が答えた。
「清水はジャブが上手いからな。大崎の右クロスの練習にはうってつけなんだよ」
康平は納得した。
スパーリングが始まる前、飯島が大崎に指示を出す。
「いいか大崎。俺が一回手拍子をしたら普段通り攻めろ。二回手拍子だったら右クロス狙いだ。分かったな?」
大崎は、その場でステップを踏みながら返事をした。
不思議そうな顔をする一年生達に石山が言った。
「指示を暗号化してるんだよ。試合中に大崎へ指示を出せば、相手にも聞こえるからな」
康平達が感心した時、ラウンド開始のブザーが鳴った。
身長が百六十五センチの大崎に対して、清水は百七十五センチと十センチ高い。
大崎が前進すると、清水が左へ回りながら左ジャブを突いた。
清水の左ジャブは一発では終わらず、二発三発と立て続けに伸びていく。
左へ回る清水を追いながら、大崎は左右に頭を振ってこれをかわした。
頭を左へ振った大崎は、溜めを作って左フックで飛び込み、右アッパーをボディーへ返した。
清水は腕を伸ばしながらバックステップした為、大崎のパンチは届かず、いずれも空を切った。
更に距離を詰めようと前進する大崎に、清水は左へ跳ぶように回り込みながら左フックを放ち、右ストレートを打ち込む。
左フックは大崎の右肩へ当たったが、右ストレートはガードの隙間から顔面へ浅くヒットした。
守勢になった大崎へ、清水は左ジャブを打って前へと出始める。
「大崎今だぞ!」
飯島が叫びながら二回手拍子をした。
大崎は、相手の左ジャブに合わせて右クロスカウンターを放った。
だが大崎のパンチは、清水の顔面ではなく左肩に当たった。大崎は、このパンチをまだ打ち慣れていないようである。
「大崎、タイミングは合ってるぞ。その調子で続けろ!」
飯島は再び二回手拍子をした。
「有馬、清水の動きをよく見ておくんだ」
梅田に言われて返事をした有馬は、清水の動きをじっと見ていた。
清水は、大崎のカウンター狙いに気付いているようだったが、構わず左ジャブを繰り出した。
大崎は、しきりに右クロスカウンターを狙ってそれを放つ。
清水は、小さなスウェーバック(後ろに仰け反るような防御)などをしながら、右グローブで防いでいた。
一ラウンド目が終わると、大崎に飯島が言った。
「お前は右クロスを打ち慣れていないからな。次のラウンドもドンドン狙ってみろ」
赤コーナー側に立っている清水が言った。
「先生、大崎が右クロスを覚えたいんだったら協力しますよ」
「お前、俺の指示が聞こえてたのか?」
「……スパーをしてると分かっちゃうんですよ。大崎のリズムが急に変わりますからね」
「自分でもバレバレなのが分かるんですよね」
大崎はそう言うと、考えているような表情になった。そして彼は飯島に質問した。
「先生、新人戦まであと一週間ですよね。使えるかどうか分からない右クロスより、別の技を強化した方がいいんじゃないですか?」
「……いや、今は右クロスを練習するんだ。後々の為にな」
「……はい」
大崎は返事をしたものの、まだ納得していない様子である。
すると、石山も口を開いた。
「お前に右クロスは必要だよ。訳は次のラウンドが終わってから話すからさ」
「あっ、分かりました」
大崎は素直に返事をすると、軽く体を動かし始めた。
ラウンド開始のブザーが鳴った。
「大崎の奴め、俺より石山の言う事は素直に聞くんだな」
「仕方ありませんよ。大崎の体には、石山の強打が刻まれてますからね」
苦笑する飯島に、兵藤が笑いながら言った。
「……まぁいいか。ところで石山、お前は大崎の苦手なタイプを知ってんだな?」
「大崎は殆んど俺とばかりスパーしてきましたからね。……先生、清水にも指示していいですか?」
「おっ、分かってるようだな。今日だけは許すから、このスパーはお前が仕切れ」
「ちょっとストップ!」
スパーリングを中断させた石山は、大崎へ指示を出す。
「大崎、このラウンドは右クロスを狙わないで、いつも通りに戦うんだ」
大崎が頷くのを確認した石山は、清水にも指示を出した。
「清水ワリィんだが、このラウンドは足を使ってアウトボクシング(離れて戦うボクシング)に徹してくれ」
清水は気難しい顔をして言った。
「俺のコーチは、引退した今も先生達だけなんだよな」
「ん、どうしたんだ?」石山は首を傾げた。
「飯島先生から指示を出して下さいよ。コーチからの指示じゃないと、俺は動けないッスよ」
「俺は石山と同じ指示だから、その通りに動いていいぞ」
「……やっぱり、先生が同じセリフで指示を出して下さいよ。俺は飯島先生の指示だけに忠実なボクサーなんですから。……これは俺の信念ですからね」
清水の話は屁理屈になり、気難しい顔はワザとらしくなっていた。
「どうしたんだ清水の奴?」
「同級生のお前に指示されて、奴は駄々をこねてんだよ」
兵藤が小声で言った。
すると、ドスの効いた梅田の声が響いた。
「清水、時間がねぇんだ! 石山の言った通りやれ」
「はい分かりました」
清水の信念はアッサリと崩れ、素直にリングを回りだした。
スパーリングが再開されると、清水は離れた距離から左ジャブを放った。
ジャブの間隙を縫って、大崎が近付こうとすると、蟹歩き(反復横飛びのようなフットワーク)で大きく離れた。
充分な間合いが出来ると、清水は再び左ジャブを繰り出す。
容易に近付く事が出来ないでいた大崎が強引に突っ込んだ時、清水は小さく下がって右のカウンターを叩き込んだ。
大崎は辛うじてブロックしたものの、一瞬動きが止まった。
その隙に清水は、蟹歩きで右後方へ大きく下がって距離をとった。
そして、離れた位置から左ジャブを打ち出した。
その様子を見て石山が言った。
「清水のボクシングは、あまり打たれないから羨ましいんですよね」
「お前ら三年生の中じゃ、清水は一番クレバーなボクシングをするからな」
「でも飯島先生、一番アホなのは清水なんですけどね」
兵藤がそう言うと、二人はニヤリと笑った。
リング上では、清水のペースでスパーリングが続いていた。
清水は左ジャブで突き放し、距離が近付けばフットワークで離れ、相手が強引に突っ込んできた時はカウンターで迎え打った。
大崎は頭を振りながら前進するものの、相手にいなされ、パンチも単発で終わっている。
「大崎はアウトボクサーが苦手なんだな」
「アイツは殆んど、ファイターの俺とスパーだったからな。アウトボクサーとはあまり手合わせした経験が無いんだよ」
兵藤が呟くと石山先輩が言った。
「インハイの予選は黒木が打ち合ってくれたから接戦だったんだが、国体予選は、青葉台の三年にアウトボクシングでシャットアウトされたからな」
飯島がそう言うと、兵藤が質問した。
「だから大崎に右クロスを打たせてんですか?」
「まず相手の左ジャブを止めたいからな。……ただ、追い足や切り崩しの仕方はまだこれからだよ」
飯島が答えた時、二ラウンド目の終了ブザーが鳴った。大崎は冴えない表情で青コーナーへ戻った。
石山が話し掛ける。
「大崎、右クロスが必要なのは分かっただろ?」
「……そうですね。清水先輩の左ジャブが邪魔で、中へ入りづらかったッス」
「次のラウンドはトコトン右クロスを狙ってみろ。まずは打ち慣れるんだ」
「……当てる自信は無いッスよ」
「当たらなくてもいいんだよ。今日のスパーが終わったら、試合に使える技を教えるからな」
石山がのんびりとした口調で話すと、大崎は大きく頷きながら返事をした。
三ラウンド目が始まる直前に清水が言った。
「石山、大崎はこのラウンドで右クロスを狙うのか?」
「あぁ、今度はアウトボクシングをしないで貰いたいんだよ。……いいか?」
「わーったよ。リクエストに応えてやるよ」
清水はそう答えた後、棒読みのような独り言を聞こえるように言った。
「……まぁ俺は、大崎ごときの右クロスは貰わないけどな」
三ラウンド目が始まった。
開始早々、左ジャブを突く清水の顔面に大崎の右クロスが襲った。
清水の顔の向きが、右側へ大きく変わった。
清水は、体を沈めながら左へ動いて追撃を防ぐ。
「大崎いいぞ! 今みたいにドンドン狙ってけよ」
石山の声に気をよくしたのか、大崎は、度々右のオーバーハンド(右クロス)を打ちながら飛び込んだ。
放たれたパンチの半分は、右グローブや左肩でブロックする清水だったが、残りの半分は彼の顔面へ吸い込まれていく。
そのたびに、清水の顔の向きが後ろを向く程大きく変わっていた。
「清水の奴、スリッピングアウェーを使ってますよ」
驚いた表情で兵藤が言った。
スリッピングアウェーは、相手のパンチの方向に首を捻って空振りさせるディフェンスである。
飯島が言った。
「右クロスがドンピシャの時は、相打ちに近いタイミングで襲ってくるからな。アレを使わないと避け切れなかったんだろ」
「それにしても、大崎はよく清水に右クロスを合わせられますね。……奴の左ジャブには、サウスポーの俺でも手を焼きましたからね」
飯島がニヤリと笑った。
「違うんだよ兵藤。このラウンドの清水は、一本調子の左ジャブしか出してないんだよ」
「……言われてみるとそうですね。角度を変えたり、タイミングをずらしたりするジャブは打ってないですもんね」
「大崎が少しでも右クロスを打ち慣れるように、奴なりの配慮なんだろうな」
スパーリングが終わると、リングから出た清水は独り言を言った。
「俺の左ジャブに合わせられるなんて、大崎は右クロスの才能があるなぁ」
作文を棒読みするような彼の口調に、大崎は、どう反応したらいいか分からないような顔をしていた。
飯島は額に手を当てた。
「あのバカ励ましたつもりなんだろうが、あれじゃ何も言わない方がいいんだよ。……でも何で独り言なんだ?」
「きっと奴は照れ臭いんでしょうね。……ところで先生、相沢の出るライト級にサウスポーはいましたっけ?」
「いや、いない筈だ。みんなオーソドックス(右構え)だよ」
「……そうですか」
兵藤はそう言うと、リングへ入っていった。
続いて相沢もリングに入り、スパーリングが開始された。
普段の兵藤は右利きのサウスポー構えであるが、この時は左足を前に出して斜に構えていた。
飯島に清水が言った。
「兵藤の奴はオーソドックス(右構え)でやる気なんですね」
「この大会で、ライト級にサウスポーがいないのを俺に確認してたからな」
「アイツなりの優しさってわけですか? ……相沢のパンチは食らったらヤバイんですけどね」
清水がそう言うと、隣にいた康平が訊いた。
「相沢先輩って、パンチがあるんですか?」
「高田も相沢と体重が近いからな。奴はパンチがある方だが、……まぁこれは食らった時のお楽しみだ。アレが出来ると恥ずかしいんだよな」
清水は、話し終わるとスパーリングに目を向けていた。
康平はもっと訊きたかったが、質問出来そうになかったので黙ってスパーリングを見る事にした。
リング上では長身の兵藤が足を使い、相沢が追う展開になっていた。
相沢は二発の左ジャブを打って距離を詰める。そして、二発目の左ジャブは、頭を左下にずらしながら突き上げた。
兵藤は辛うじてブロックしたが、相沢は同じ左手でフックをボディーにヒットさせた。
兵藤は、左へ位置を変えて仕切り直そうとしたが、相沢は間を置かずに左フックを顔面に放ちながら飛び込んでいった。
このパンチは右のグローブでブロックされたが、相沢はすぐにボディーへ左フックを叩き込んだ。
これも兵藤の右脇腹を直撃した。
立て続けにボディーへパンチを貰った兵藤は、バックステップした後に右後方へ蟹歩きで大きく移動する。
距離が離れ、追い掛ける相沢へ、兵藤の放った左ジャブがクリーンヒットした。
相沢の顎が上がる程の威力があり、彼の前進が一瞬止まった。
すかさず兵藤が右フックを振るった。
相沢はブロックをしたが、パンチの衝撃でバランスを崩した。
後退する後輩へ、兵藤は左ジャブで突き放しにかかる。
相沢にブロックされたものの、グローブ同士のぶつかる音が練習場に響いた。
清水が隣に立っている飯島に言った。
「兵藤の左ジャブは、ストレート並みの威力ですね」
「いつもサウスポーで打ってるからな。肩がよく回ってるんだよ」
「兵藤を優しいと思った俺が間違いでしたよ。あの右フックは倒す気で打ってますね」
「慣れないオーソドックスでのスパーだからな。本気でやらないと打ち込まれると思ったんじゃないか?」
「そうですね。……ただ今の距離だと、相沢に打たれそうな感じなんですよね」
「そうだな。この距離だと相沢は色々仕掛けてくるからな」
そう答えた飯島だったが、ニヤリと笑った。清水の表情に気付いたようである。
「清水、お前何二ヤケてんだよ。兵藤が打たれるのがそんなに嬉しいのか?」
「な、何言ってんですか? 俺はただ、相沢の成長した姿を見たいだけですよ」
一瞬真顔で答える清水だったが、すぐに嬉しそうな顔へ戻っていた。
ラウンドの中盤になった。
二人はミドルレンジ(中間距離)で戦っていた。
相沢が顔面へのワンツーストレートを軽く打ち、左へ小さくダッキングして強い左ボディーブローを放った。
兵藤は右腕でブロックして左フックを返す。
相沢が左ボディーブローを打った後、すぐに姿勢を低くして右後方へ移動した為、兵藤の左フックは空を切った。
兵藤は、慣れない右構えで左フックを打ったせいか、空振りした後に右へ体が流れた。
パンチを打ち込むチャンスだったが、相沢は左へサイドステップをしていた。
「相沢は相変わらず勘が悪いな」
清水がボヤいた。
ラウンド終盤なると、相沢はワンツーストレートを顔面に放ち、再び左へダッキングをした。
兵藤は、また左のボディーブローが来ると思ったようで、重心を落としてこのパンチに備えていた。
その時、相沢の右フックが兵藤の顔面にクリーンヒットした。
ガッという音と共に、兵藤の上半身が大きく仰け反った。
相沢は、相手が体勢を整える前に右へ動き、左フックをボディーから顔面へダブルで放った。
ボディーへのパンチはブロックされたが、顔面に打った左フックは、兵藤のガードが下がったのもあって、彼の顔面へまともに当たった。
尚も追撃しようとする相沢だったが、兵藤は、相手に体を預けて密着し、後続のパンチを防いだ。
ここで終了のブザーが鳴った。
青コーナー側へ戻った相沢が呼吸を整えるのを見て、梅田が言った。
「コンビネーションの組み立てが遅いんだよ。ラウンドの最初に左ボディーが二発当たったんだから、さっき打った右フックはもっと前に打てた筈だ」
「……でも、兵藤先輩が僕の左ボディーブローを警戒してたか分かんなかったです」
「バカヤロ! そん時は一度左ボディーを打つフェイントをして、相手の反応を見れば分かるんだよ」
梅田がそう言った時、他の教師が練習場に入った。
「梅田先生、ちょっといいですか?」
その教師は相談し始めた。
話を聞き終えた梅田は、飯島に言った。
「飯島先生、私は生活指導で一旦離れるので宜しくお願いします」
飯島が返事をすると、入り口を出る時に、梅田は再び口を開いた。
「石山、無理すんじゃねえぞ。大変だったらマス(ボクシング)でも構わないんだからな」
石山が頷くのを見て梅田は出ていった。
清水が言った。
「何やら誰かやらかしたんですかね?」
「梅田先生は生活指導の担当だからな。……お前が一年生の時みたいに、アホな奴がいるんだよ」
「そ、それは過去の話ですんで。……それでも俺は、部活の時間は真面目でしたよ」
「部活の時だけはな。お前が二年の時、授業の全部が終わった頃に登校して、部活に出たのは前代未聞だったよ全く」
苦笑する飯島から言われた清水は、恥ずかしそうに頭を掻いた。
三人が話している間も、接近戦での打ち合いが続いていた。
慣れない右構えのせいか、兵藤は左のパンチが少なく、右パンチに頼っているようである。
右アッパーが一発当たったものの、逆に相沢のパンチが兵藤に三発ヒットした。
二ラウンド目が終わった時、清水が茶化すように言った。
「兵藤、苦しかったらサウスポーに戻っても構わねぇんだぞ」
「うっせーよ。それじゃあ、相沢の練習にならねぇだろ」
隣にいた石山が、苦笑しながらささやいた。
「ヒデェ奴だな。お前の挑発のせいで、兵藤はサウスポーに戻れなくなっちゃったじゃねぇか」
清水はニヤリと笑った。
「アイツは他人にも厳しいが、自分にも厳しいからな。……これで兵藤は、次のラウンドも打たれるのが確定したって訳だ」
「いや、そうとも限らないぞ。兵藤の奴は何かやるつもりだろうな」
飯島が呟くと、二人の三年生は、意外そうな顔をして彼を見ていた。
三ラウンド目が始まると、兵藤は接近戦をやめて、左ジャブを頻繁に繰り出した。
ただ、一・二ラウンドとは違って強い左ジャブではなく、距離を計るようなスピードのないパンチである。
石山が呟いた。
「兵藤は何か狙ってるっぽいな」
相沢が左ジャブを突いた瞬間に、彼の顔が上向きになった。
兵藤の強い左ジャブがヒットしていた。
だが、彼は追撃せずにスッと後ろへ下がり、再びスピードのない左ジャブを放ち始めた。
警戒した相沢は、小さなダッキングをして的を絞らせないように努めた。
そして、頭を左へずらしながら、左ジャブを二発放って距離を詰めていった。
接近戦になり、相沢がパンチを打とうとした時、兵藤は右ショートアッパーを放った。
これは空振りに終わったが、兵藤はパンチを打ち終わると同時に、体を沈めながら右後方へ大きく移動した。その為、打ち合いにはならず、再びロングレンジでの間合いになった。
「兵藤は往生際の悪い奴だよ全く。接近戦でも駄目だったら、今度はカウンター戦法かよ」
「おいおい、そこは感心するとこだろうが」
ボヤく清水に突っ込みを入れる飯島だったが、言っている事と程遠い清水の表情を見て、口許をほころばせた。
そして飯島は、からかい気味に言った。
「引退しても、ライバルが頑張ってるのは嬉しいよなぁ清水」
「な、何言ってるんですか? 俺と兵藤はそんなんじゃないッスよ。……全国二位の奴とは実績も違うじゃないですか?」
「実績? お前らには、そんなの関係ないんじゃないか?」
「……まぁ、そうなんですけどね」
清水がそう答えた時に、兵藤の左ジャブがカウンターでヒットした。
思いの外威力があるこのパンチに、相沢は一旦距離をとって体勢を立て直した。
石山が言った。
「先生、今年に入ってから兵藤の左が強くなりましたよね」
「そうだろ。奴の左が強くなったのは、清水のお陰なんだよ」
石山が訊いた。
「去年の十二月のスパーですか?」
「そうさ。清水が兵藤の右フックで倒された二週間後に、清水の右ストレートのカウンターで兵藤が倒されたんだ」
「あの時の二人の倒れ方はひどかったですよ。清水は前のめりで、兵藤は大の字に倒れましたからね」
「兵藤が、左ストレートを真剣に強くしようと思ったのは、その時からだな」
「次の日からでしたよね。兵藤がインターバルも休まず、サンドバッグに左ストレートをずっと打ち続けたのは」
石山が言った後に、バチンと音が鳴った。
兵藤の右アッパーのカウンターが、相沢の顔面にヒットしていた。
「ストーップ!」
飯島は声を張り上げ、カウントを数え始める。試合が近い相沢にダメージが残らないよう、早目にダウンを宣告したようである。
スパーリングが続行される直前に、清水が怒鳴った。
「相沢! 相手がカウンターを打ってくるんだったら、やる事があんだろ?」
相沢は、ハッと思い出したような顔をして頷いた。
そして、膝でリズムをとりながらもフェイントを入れ始めた。
その様子を見て、清水は再びボヤいた。
「アンニャロ、俺の右カウンターを警戒して散々フェイントを入れてきたのに、兵藤ん時は忘れてやがんだもんな」
「そう言えばお前も、兵藤の右フックに対抗しようと、右カウンターを必死で練習してたよな」
飯島に言われた清水は、真面目な顔になって答えた。
「頑張れたのは、兵藤を倒す為じゃないんですよね。……同級生のアイツに倒されたくないからですよ」
「まぁ、兵藤も同じ気持ちでやってたんだろうな」
フェイントを混じえた相沢の攻撃に、兵藤のカウンターも、タイミングを外されて殆んど空を切る。
逆に、空振りしたところを相沢に打たれ、防戦にまわるシーンが多くなった。
スパーリングが終わり、ヘッドギアを脱いだ兵藤の顔を見て、清水はニヤニヤ笑っていた。
「兵藤、鏡を見てみろよ」
「え、まさかアレが出来たのか?」
清水に言われて兵藤が急いで鏡を見ると、左目の周りが青くなっていた。
続けて清水は康平に言った。
「相沢のパンチは固いから、青タンが出来易いんだよ。スパーん時は、目の近くにパンチを貰わない事だな」
康平が返事をすると、清水は相沢にも言った。
「相沢、強い左フックもちゃんと当てなきゃ駄目だろ」
「はい。……でも、どうしてですか?」
「両目に青タンを作ってやれば、パンダになったんだからな」
「相沢、このバカに構ってないで、さっさとサンドバッグを打て」
飯島に言われて、相沢はサンドバッグを打ち始めた。
森谷に続いて石山がリングへ入ろうとした時、再び飯島が口を開いた。
「石山、梅田先生も言ってたが無理すんじゃないぞ。ライトスパーだが、大変そうだったらマス(ボクシング)に変えるからな」
「無茶はしませんから大丈夫ですよ」
石山はそう答えると、森谷に言った。
「お前とは、初めての手合わせだな」
「マス以外ではそうですね。……何しろ体重が違いますから」
石山はフライ級(五十二キロ以下)の選手で、今現在は減量していないものの、体重は五十五キロ程度だ。
対する森谷は、新人戦で出場するウェルター級(六十九キロ以下)に体重を調整済みで、練習前はリミットいっぱいの体重である。
二人の体重差は十四キロもあった。
開始のブザーが鳴った。
躊躇なく前へ出る石山に対し、森谷は左へユックリと回りながら左ジャブを突いた。
体重差を考えてか、森谷のパンチは遠慮がちである。
森谷のパンチを難なくかわした石山は、ロープ際へ追い詰め、得意の左強打を打ち始めた。
接近戦になった。
身長百七十八センチの森谷と、百六十二センチの石山とは、かなりの差がある。
揉み合いの距離になると、長身の森谷は長い手を持て余した。
兵藤が呟いた。
「あれは、インハイと国体予選の再現だな」
森谷は、二つの大会の県予選で、同じ相手から判定負けを喫していた。
ガッシリした背の低いインファイター(接近戦を主戦場にするボクサー)に、強引に接近されてロープ際まで押し込まれ、得意の中間距離でのカウンターを出せないまま、三ラウンドを過ぎてしまったのだ。
このスパーリングでも、クリーンヒットこそしないものの、石山が放つ強いショートパンチが目立っていた。
だが、接近戦で優勢であったにもかかわらず、石山は大きく下がって距離を取った。
清水が不思議そうな顔をして言った。
「ありゃ? 石山は自分から離れちゃったよ」
飯島が言った。
「石山は、森谷が打つショートカウンターの練習台になってんだよ」
「相手が中へ入ったところへカウンターですか?」
「まぁな」
「インファイター対策って訳ですか。 ……だから石山は、もう一度中へ入るところから始めるんですね」
飯島が頷くと、清水は納得したような顔になった。
今度は兵藤が口を開いた。
「いくら梅田先生から頼まれたとは言え、よく石山はオーケーしましたね。十五キロ近く体重が違うじゃないですか?」
「いや、梅田先生は頼んでないぞ。梅田先生と森谷のミット打ちを見た時に、石山が言い出したんだ」
「……この体重差で、梅田先生はよくスパーを許可しましたね」
「さすがにそれは条件付きさ。石山はガチだが、森谷は六分目で打つライトスパー形式でやらせてるんだよ」
リング上ではスパーリングが続いていた。
森谷が軽く打った右ストレートを、左へ小さくダッキングして避けた石山は、左ボディーブローを打ちながら飛び込んだ。
同時に、森谷は左ショートフックのカウンターを放っていた。
石山のパンチは相手の右ガードに当たり、森谷の左フックは空を切った。
振り抜いている森谷の左フックを見て、兵藤は首を傾げた。
それに気付いて清水が言った。
「やばいよな。森谷は振り抜いてるよ」
「そうだな」
飯島も頷いた時、スパーリングはそのまま接近戦になっていた。
石山が放つ数発のパンチをブロックで防いだ森谷は、小さくバックステップをして距離を作った。
再び距離を詰めようと、石山が左フックを打ちながら飛び込んでいった時、森谷の左ショートフックのカウンターが石山の顔面にヒットした。
石山は動きが一瞬止まったものの、すぐに体を沈めながら、左前方へ踏み込んで右フックをボディーに叩き込んだ。
そして、接近戦のままコンビネーションブローで追撃をした。
カウンターを当てられた方の石山が攻め込んでいるのを見て、一年生達は不思議そうな顔をしていた。
ラウンドの終盤、お互いに密着して強いパンチを打てない状態になった。
接近戦に慣れている石山は、体全体で圧力をかけながら軽いパンチを打って相手を崩しに掛かる。
森谷の右側に体を寄せた石山が、すぐに左ボディーブローをガードの上から強く叩いた。
森谷が動きを止めた瞬間、石山は右後方へ小さく下がった。
強いパンチを打てる空間を作ると同時に、石山は上半身を右に捻って左強打を打つ体勢になっていた。
森谷は迎え打とうと、左ショートフックのカウンターを放つが、石山はパンチを打っていなかった。
石山が右に上半身を捻ったまま体を沈めた為、森谷のパンチは空を切った。
相手が振り抜いたところに、石山は伸び上がりながら左フックを振った。
森谷の顔面へまともに当たり、彼はバランスを崩した。
飯島がダウンを宣告しようとした時に、ラウンド終了のブザーが鳴った。
飯島は、青コーナー側へ戻る森谷に言った。
「森谷、パンチを振り抜いちゃ駄目だろ」
「……分かってるんですが、今度は気を付けます」
清水も頷きながら話す。
「そうそう、石山の顔は叩き易い顔をしてるんだが、振り抜いちゃいかんよ。なんせ相手はフライ級だからな」
「あ……はい」
曖昧に返事をする森谷へ、兵藤もアドバイスに加わった。
「近距離で打つカウンターは、振り抜くと効かないからな」
「え、そうなのか?」
清水は、驚いた表情で兵藤の方へ顔を向けた。
兵藤が話し始めた。
「まぁな。接近戦だと、自分のグローブから相手の顔まで距離が近いだろ?」
「……そうだな」
「だからパンチにスピードが乗る前で、相手に当たっちまうんだよ」
「すると、振り抜くパンチはドスンパンチ(押すパンチ)になってしまうって訳か?」
「そうそう、当たった時に意図的に引けば、キレるパンチを作れるからさ」
「そう言えば、お前も練習試合の時、ショートフックのカウンターで倒してたからな」
清水が言い終わった時、飯島は彼の顔を見て言った。
「清水、お前何ふてくされた顔してんだよ」
「だってそうじゃないですか? 俺が引退する前に、先生がそれを教えてくれてたら、もっと強くなってた筈ですよ」
「お前と兵藤は俺が見てたからな。だが、ショートフックのカウンターを兵藤に教えたのは梅田先生なんだよ」
「……梅田先生ですか? だったら難しいかも知れないですね」
飯島が苦笑しながら言った。
「お前は生活指導で、梅田先生に散々怒られてたからな。……ただなぁ、先生はお前に教える気満々だったんだよ」
「そうなんですか? でもあまり教わった記憶が無いんですよね」
「それはお前が、梅田先生を避けてたからだろ。梅田先生はなぁ、部活の時はボクシング以外で怒らないようにしてんだよ」
「……いつも怒られてたから、苦手だったんですよね」
頭を掻いて話す清水に、飯島は静かな口調で言った。
「お前、就職決まったんだろ? 社会人になったら、嫌いな奴にもきちんと挨拶しなきゃなんねぇし、苦手な人にも仕事を訊かなくちゃいけない時もあるんだからな」
「……そうですね」
声が小さくなる清水を見て、飯島は小さく笑った。
「最後は説教臭くなってしまったが、素行の悪いお前がちゃんと就職出来て、梅田先生は本当に喜んでたんだぞ。……勿論俺もだがな」
清水は照れ臭くなったのか、リングに向かって声を張り上げた。
「森谷、カウンターもいいがジャブとフットワークを忘れんな。相手が中へ入れなかったら、それにこした事はないんだからな」
二ラウンド目は、森谷の左ショートフックのカウンターが鋭くなったものの、クリーンヒットには至らなかった。
一ラウンド目と同様に、接近戦で石山がパンチを当てるシーンが多い。
終了のブザーが鳴った後、石山は考えているような顔をしていた。
そして彼は口を開いた。
「飯島先生、最後のラウンドは森谷にもガチでスパーをやらせたいんですが……」
飯島は、いつになく真剣な表情になった。
「お前、体重差は分かってんだろうな?」
「ええ。……ただライトスパー形式だと、森谷は遠慮して形振り(なりふり)構わず出来ないんですよ」
思案する飯島に、石山は続けて話す。
「森谷は、自分のボクシングが出来ずに負けたんですよね?」
「……接近戦でガチャガチャこられて、得意のカウンターを打てなかったからな」
「自分のボクシングが出来ないで負けるのは、打ち合って倒されるより悔しいと思うんですよね。……それに、ちょっと気になる事があるんですよ」
石山が話し終わると、飯島は顎に手を当てて考えていた。そして、開始直前にようやく口を開いた。
「このラウンドだけだぞ。……危なくなったら、すぐに止めるからな」
開始のブザーが鳴った後に、兵藤が言った。
「石山は国体三位でしたが、最後の試合は余程悔しかったんでしょうね」
「俺もビデオで見たんだが、クリンチワークの上手い奴に、徹底して左強打を殺されて判定負けだからな。自分のボクシングを出来なかった森谷の悔しさが、痛いほど分かるんだろうな」
清水も話に加わった。
「だから先生は、その気持ちに応えてガチスパーを許可したんですか?」
「違うよ。俺も気になる事があったからさ。……ただ、石山に怪我でもされたら、俺の監督不行き届きで責任問題になるんだよなぁ」
話の最後になると、飯島はボヤき気味になっていた。
リング上では、森谷が緩急を付けた左ジャブを繰り出していた。
六分目で打っていた前のラウンドと違い、早いジャブを放った時には鋭さがある。
石山は、離れた間合いから、頭の位置を変えてこれをかわした。
石山はパンチこそ少ないが、いつでも飛び込めるように膝を柔らかくしていた。
彼は、左へダッキング(屈むような防御)をしたままピタリと止まった。上半身を左へ捻っているので、左強打の溜めが出来ている状態だ。
森谷は、相手が左フックで飛び込んで来ると思ったのか、左ショートフックのカウンターで迎撃する仕草を見せる。
だが石山は、左ではなく、右ストレートを伸ばしながら距離を詰める。
左強打がくると思っていた森谷は、不意を突かれて顔面に貰ってしまっていた。
右を打ちにくい体勢からのパンチだったので、威力は小さかったが、森谷のバランスが一瞬崩れた。
石山はその隙を見逃さず、スーッと距離を詰めて左フックを強打した。
森谷は辛うじて右ガードでブロックしたものの、そのまま接近戦になった。
この距離になると、手数の少なかった石山がまとめてパンチを打ち出した。
ガードを固める森谷に、兵藤が叫んだ。
「森谷、相手は四階級も下なんだから、ダウンを取られたら恥だぞ」
「おいおい、あまりけしかけんなよ」
飯島が苦笑しながらたしなめると、清水も話に加わった。
「森谷は、あーでも言わないと闘志が表に出ないんですよ。……それに、石山の命より森谷の新人戦優勝の方が大事ですからね」
「アホ、縁起でも無い事言うな」
飯島は、清水の頭を軽くペチンと叩いた。
兵藤の声に反応したのか、森谷も反撃し始める。
すると、飯島もリング上に向かって声を出した。
「森谷、ショートパンチは引きが大事なんだぞ! フライ級に打ち負けたら、新人戦辞退させるからな」
それを見た清水が言い返した。
「先生ヒデェなぁ。自分だってけしかけてんじゃないですか?」
引きを意識した森谷のショートパンチは鋭くなり、体重差もあって、打ち合いは互角以上になった。
飯島は、リング上から目をそらさずに答えた。
「森谷は、お前や兵藤とスパーする時が多かったから、ガチで打ち合う場面は少なかったんだよ。いざという時に打ち合えないボクサーは、ここ一番で勝負に出られないからな」
「俺もそうですが、兵藤もファイターじゃないですからね。……先生が気になってたとこって、その事なんですか?」
「それもあるが、もっと気になってるのもあるんだよ」
飯島がそう言った時、石山は一旦バックステップをして飛び込む姿勢になっていた。
石山がピクッと動くと、森谷は左ショートフックを振っている。
だが、石山は飛び込んではいなかった。
フェイントで空振りさせた石山が、今度は本当に飛び込んで左フックを放った。
目のいい森谷は右ガードを上げて反応したものの、石山のパンチは右グローブをかすめて顔面にヒットした。
飯島が再び口を開く。
「俺が気になってたのはコレなんだよ」
「どういう事ですか?」清水が訊いた。
「森谷は、カウンターを打った後に動きが止まるんだよ」
「そう言えば一ラウンド目も、森谷がカウンターを打った後を、逆に石山から狙われてましたもんね」
「相手のレベルが上がれば、フェイントもあって、カウンターも当たりにくくなるからな」
飯島はそう言うと、リングに向かって声を張り上げた。
「森谷、カウンターを打った後も頭の位置を変えろ! 上手い奴には当たらない時が多いんだからな」
接近戦で打ち合っている森谷は、頷く余裕が無いようである。
ショートレンジでの打ち合いは、ラウンド終盤になっても続いている。
森谷の放つ左ショートフックが、時折バチンと音を立てて石山のガードに当たった。
飯島はニヤリと笑った。
「梅田先生とした左ショートカウンターの練習が、思わぬ形で生きてきたな」
「あのショートフックは、ウェルター級でも効きますよ」
兵藤が頷いて言った時、森谷の左ショートフックが石山の顔面にヒットした。
よろける石山を見て、飯島はすぐにストップと叫んだ。
そして、残り十七秒のタイマーを見て言った。
「石山、もう終わりだ。さすがのお前も効いたみたいだからな」
「そうですね。……それに、無茶はしない事にしてましたから」
三ラウンド目の打ち合いは激しかったにもかかわらず、石山は淡々として答えた。
「ウェルター級とガチで打ち合う事自体が無茶なんだよ」
「石山は温厚だし、三人の中じゃ一番勉強は出来るんだが、戦い方はクレイジーなんだよな」
清水が呆れた口調で言うと、兵藤もそれに続いた。
飯島はダメージを考えて、石山を椅子に座らせていた。
しばらくすると、飯島は石山に質問した。
「石山、スパーの時お前は気になる事があるって言ってたが、それは何なんだよ?」
石山は椅子に座ったまま答えた。
「森谷は、カウンターにこだわり過ぎていると思ったんです」
「もともとこのスパーは、森谷の左ショートカウンターの練習だったんだからな」
「それは分かっているんですけど、俺が言いたいのは別の事なんですよ」
「ん、どういう事だ?」
「あまり上手く言えないんですけど、このスパー以外でも、アイツはカウンターを当てる事自体が目的になっているような気がしたんですよ」
「……試合でもか?」
「そうですね。森谷は自分のパンチが当たってチャンスの時でも、追撃をしないで、カウンターを狙って待っている時があったんですよ。見ていて勿体無かったんですよね」
「奴が勝った試合は全部判定だからな。森谷が先手で打たない事や、カウンターを打ったら動きが止まるって事も、カウンターを打つのを目的にして戦ってるんだったら、そうなる訳だ」
飯島はそう言うと、腕を組んで考えていた。
しばらくして飯島が再び口を開いた。
「この事は森谷に言うなよ。試合まで時間が無いからな。……来週の月曜日は最後のスパーをするんだが、また森谷とガチでやれるか?」
「何とかやってみます。……ただ、あの左ショートフックには気を付けますよ。あれはカウンターじゃなくても効きますからね」
「あのパンチは、インハイの予選で負けた時から、インファイターを仕止めるつもりで練習してきたからな」
「森谷も何気にいいモノ持ってますからね。……ちょっと大崎を見てきます。アイツに右クロスの改良した技を教えたいんで」
石山は、そう言って後輩に歩いていった。
この日、三年生達の指導は夜遅くまで続けられた。