先輩達の通った道
翌日の昼休み。康平と有馬は部室に行き、洗面器に水を汲んでバシャバシャと顔に水を掛けていた。
二人は交替で水を掛けるのだが、水を掛ける時はエプロンをして、制服に水が掛からないようにしている。
共に三セットずつ終わり、教室へ戻る途中で有馬が話し出す。
「こんなヘタレな癖は早く直してぇよ」
「来週からは、先輩達もカウンターを打ってくるからな」
康平が答えた時、有馬は真面目な顔になっていた。
「……俺さぁ、プロボクサーになりたいんだよな」
「え、マジで?」
驚く康平に有馬が言った。
「俺のダチって一度ゲーセンで会ったよな?」
「あぁ、あの五人だろ?」
康平は、奇妙なゲームセンターで会った有馬の友達を思い出す。
有馬の友達は、金髪のサングラスだったり、腕にタトゥーが入っていたりとかなり柄が悪い。ただ康平と健太が有馬の知り合いだったせいか、気さくな印象が康平にはあった。
有馬が再び口を開く。
「そうそう、あの五人のダチなんだけど、その中の一人の兄貴にプロボクサーがいるんだよ」
「……俺、今までプロボクサーなんて会った事無いな」
「俺が中三ん時に初めて会ったんだけど、無口で大人しい感じの人だったから、プロボクサーには全然見えなかったよ。服着てっと着痩せしてるしさ」
「へぇ〜」
「でも何回か試合を見たんだけど、戦ってる時は全然違うんだよな」
「どんな風に違うんだよ?」
「かなり勇敢だぜ。一発当たれば倒れるようなパンチを平然と交換すんだよな。それにプロの試合用グローブってかなり小さくてさ、あれは直撃したらヤバイね。ホント効きそうだったよ。……服を脱ぐと体もマッチョだしな」
「……あまりよく分からないけど、とに角凄いんだね」
康平は首を傾げながら言った。
「まぁ、俺の話だけだと分かんねぇだろうからな。……ただ、ここの高校に勉強を頑張って入学したのは、その人に薦められたからなんだ。『プロでやりたいんだったら、アマチュアで経験積んだ方がいいぞ』ってね。んで、県の中じゃボクシングが強い高校は、うちと青葉台じゃん?」
「……そうだね」
「でも、青葉台はうちより偏差値高いから永山に決めたんだけどさ、俺なりにかなり勉強頑張ったんだぜ。頭が悪いなりにな」
「でも、有馬は何でプロボクサーになりたいって思ったんだよ?」
「……俺ってさぁ、カッコだけなんだよな。目付きが悪いからヤンチャに見えるけど、結構ビビりだしさ」
「…………」
「さっき話したプロボクサーの人は長尾さんて言うんだけどさ、ああいうハートのある人に憧れるし、……と、とに角試合を見てカッコイイって思ったんだよ」
「……そ、そうなんだ」
「康平もプロの試合を生で見ると分かるよ。テレビで見るのと全然違うからさ。……俺がプロになりたいって話は誰にも言うなよ。まだ、まともなスパーリングも出来ねえんだからな」
「そうだな。まず目をつぶる癖を直さないとな」
康平がそう言った時、五時間目の始まるチャイムが鳴り、二人は急いで教室へ戻っていった。
放課後、日直だった康平が普段より遅れて練習場に入ると、三年生も練習に加わっていた。
三年生は石山と兵藤、そして清水の三人である。
彼らは二年生達と共に、各々リング上や鏡の前で、ユックリとシャドーボクシングを行っていた。
飯島が康平に言った。
「高田、今日の一年生達は見学だ。お前らは、先輩達のスパーリングを見る時があまり無かったからな。そこの長椅子へ並んで座ってろ」
康平は他の三人と一緒に長椅子へ座った。
一年生達が先輩達の練習をじっくりと見るのは、練習初日以来二度目である。
その後一年生達は、場所を変えて第二体育館での練習になったり、先輩達と練習時間をずらしたりした為、なかなか先輩達の練習を見る事が出来ずにいた。
先輩達を見ると、全員が緊張した面持ちでシャドーボクシングを行っている。
飯島が一年生達に言った。
「今日はガチスパーだからな。見応えあるぞ」
「ガチスパーって何ですか?」有馬が訊く。
「本気のスパーリングって事さ。倒されるかも知んねえから、みんな気合いが入ってんだよ」
「お前らスパーリング前のシャドーは四つ(四ラウンド)でいいか?」
「先生、俺はブランクがあるんで、せめて八つはさせて下さいよ」
梅田が確認すると清水が答えた。
「そうだな。ところでお前、インターハイ予選の時に骨折した右拳は大丈夫なんだろうな?」
「ええ、ほぼ完治してるんで、後輩を可愛がる程度のパンチは出せますよ」
清水がそう言った時、石山と兵藤はクスリと笑った。
二年生達は誰も笑わずに、黙ってシャドーボクシングに取り組んでいる。
どうやら二年生達の方が緊張しているようである。
先輩達がシャドーボクシングを始めたばかりだったので、スパーリングを始めるのはかなり後になる。
「飯島先生、スパーリングまで俺もシャドーをしたいんですがいいですか?」
有馬が訊くと、飯島はシャドーボクシングをしている二・三年生をチラッと見た。
「……いや、今日は最初から最後まで見学するんだ。スパーリングを見るだけが参考になる訳じゃないからな」
「……分かりました」
渋々返事をした有馬だったが、先輩達のシャドーボクシングを見た時、興味深げな表情になっていた。
それぞれが、全く違った動きをしていたからだ。
他の一年生達もそれに気付いているようで、先輩達の動きをジッと見ている。
前キャプテンの石山は、オーソドックススタイル(右構え)であるが、左フックと左アッパーが恐ろしく強い。
彼は最初のラウンド、左のフックとアッパーだけのパンチをずっと繰り返している。かなりユックリと打っているので、フォーム確認のようである。
だが石山は、次のラウンドも同じ動作を繰り返している。
三ラウンド目は動きを少し早め、左フック及び左アッパーにダッキング(屈むような防御)や右のパンチが加わった。
ラウンドが進むにつれて、石山は得意の左パンチに肉付けするような形で動作を増やしていく。
ただ彼は、シャドーボクシングの最中一切鏡を見ていない。
長身の三年生、兵藤の利き腕は右である。今までずっと剣道をやってきた彼は、剣道のように右足を前に出す方が戦い易いという理由から、右利きであるにもかかわらずサウスポー構えになっていた。
当然彼の利き腕を振るう右フックは強く、試合でもそのパンチで相手を倒すシーンが多い。
だが最初の二ラウンドは、鏡を見ながら左ストレートだけを反復していた。
それもパンチと呼べるような代物ではなく、ユックリと左を伸ばす。伸びきった所で手の動きを止め、左足から腰そして肩を右へ何度も捻った。
まるで、ストレッチでも行っているようである。
次のラウンドからはリングへ入り、位置を変えながら、拳を握らずに軽くパンチを打っていた。
他の先輩達も、各々違ったシャドーボクシングでラウンドを消化していく。
飯島は、一年生達が座っている長椅子の隣に立っていた。彼は一年生達に質問した。
「お前ら、二・三年のシャドーを見て気にならないか?」
「お、大崎先輩のシャドーは、パンチが凄く小さいんですよね。あ、あれじゃ、相手に届かないと思うんですが……」
「そうだな白鳥。でもお前は、大崎のパンチをかなり貰ったから不思議に思うだろ?」
「は、はい」
「あいつが今やってるシャドーボクシングは、相手をイメージして動いてるんだよ。シャドーボクシングをする本来の目的はソレなんだ。……まあ大崎の場合は、イメージしながらシャドーをする時だと、あんな感じで小さく打ってしまうんだがな」
「他の先輩達も、パンチをユックリ打ったり軽く打ったりしてるのは、イメージしながらシャドーをしてるって事なんですか?」
白鳥の隣に座っている有馬が質問した。
「それだけじゃないんだが……。ただ今までのお前達のシャドーは、習ったパンチや技を反復するだけだったんだよ」
黙って聞いている一年生達を見て、飯島は付け加えた。
「何もお前達のやってきたシャドーボクシングが間違ってた訳じゃないんだよ。習ったものの反復練習は大事だし、お前達は身体で覚えなきゃならない事が多かったからな」
頷く一年生達に飯島が続けて話す。
「最近お前達はスパーリングをするようになったろ? 今更ながら言うが、ボクシングは相手がいて初めて出来る競技なんだからな。シャドーボクシングやサンドバッグ打ちの時は、少しでもいいから相手をイメージして練習して欲しいんだよ」
「でも相手をイメージするって言っても、そんなにハッキリとイメージ出来るもんなんですか?」
有馬がそう訊いた時、飯島はニヤリとして答えた。
「それはこれからの訓練次第さ。例えばシャドーをする時なんかに、誰かと向かい合って行えばイメージし易くなるしな」
飯島が言い終わった時、八ラウンドのシャドーボクシングが終わってスパーリングになった。
最初は石山と大崎である。
二人はヘッドギアとノーファウルカップを付け、そしてスパーリング用のグローブを嵌めてリングへと入った。
康平が石山の嵌めたグローブに気付いたらしく、飯島に質問した。
「先生、石山先輩のグローブは十四オンスじゃないんですか?」
「スパーリングをする時、うちはバンタム級(五十六キロ以下)まで十二オンスのグローブを嵌めるんだがな。石山はフライ級(五十二キロ以下)だが、奴には十四オンスのを使わせてるんだよ」
「石山先輩はパンチがあるからですか?」
「まぁな。大崎は石山から左ボディーブローを食らって、一度肋骨にヒビを入れられてるんだ。他にも犠牲者は二人いるんだがな」
「他の二人って誰ですか?」
今度は有馬が訊いた。
「その二人はもう辞めたんだ。今の二年生は入部した時に六人いたんだが、三人辞めてるんだよ」
「その人達が辞める時は引き止めなかったんですか?」
「俺と梅田先生は、部員が辞めたいと言った時は説得しない事にしてるんだよ。どんなにそいつが強くてもな」
「どうしてですか? 勿体無い気がすんですけど……」
「ボクシングが危険なスポーツだからさ。嫌々練習して大きな怪我でもされたら、俺達も嫌だし、何より本人が後悔するからな」
「大崎先輩は根性ありますね」
「大崎のガッツは半端じゃないぞ。肋骨にヒビが入った次の週から、ボディープロテクターを付けてスパーリングを続けたしな」
ブザーが鳴ってスパーリングが始まった。
身長が百六十五センチの大崎と百六十二センチの石山は、共に背が高い方ではなく、ファイタータイプのボクサーで前に出て戦う。
石山はリズムを取らず、ユックリと頭を振りながら、歩くようにして少しずつ前へと進んでいく。
一方の大崎は、膝で早いリズムを取る為、体全体が上下にブレる。そして、膝のリズムに合わせて頭の位置を小気味良く振り、前へ出ていった。
二人の距離が近付き、左ジャブの応酬になった。
共に前へと出るタイプの為、ジャブの突き合いは長く続かず、接近戦での打ち合いへと移っていく。
接近戦になると相手の体に自分のグローブが極端に近くなり、またお互いのガードが邪魔になって、いきなり強いパンチは打ちにくい。
二人は、反則にならない程度に相手を押したり、軽いパンチを打ったりしながら相手の隙と強打を打つ空間を作ろうとチャンスを伺っている。
接近戦での駆け引きは、キャリアのある石山に一日の長があるようだ。
いち早く体勢を作った石山の強い左フックが、大崎の右ガードへ当たった。
バァン!
一際大きな音が練習場に響く。
大崎は急いでブロックした為か、その際にバランスを崩した。
すかさず石山が追撃する。
上から被せるように右パンチを顔面に放ち、左のボディーブローを打ってから同じ手で顔面にフックを放つ。左のダブルパンチである。
大崎は右パンチこそ浅く貰ったものの、左ボディーブローは右肘の辺りでブロックし、顔面への左フックを右へ位置を変えながらウィービング(潜るような防御)で空転させた。
石山の左側へ位置をずらした大崎は、そこから左フックをボディーから顔面へとダブルで放つ。
大崎がこの位置から放った左フックは、正面から襲ってきた為、不意を突かれた石山はガードを固めてディフェンスに専念した。
大崎は、その場所からすぐに右ストレートから左フックと追撃する。
大崎が左フックを打った時、同時に放った石山の左フックが彼の顔面を捕えた。
大崎の顔が一瞬横向きになり、大きくバランスを崩す。
「ストーーォップ!」
飯島が声を張り上げる。彼は続けて大崎に言った。
「大崎、単純な二度攻めが通用するのは県レベルまでだぞ。もっと上で勝ちたかったら、頻繁に位置を変えるんだよ」
普段はユックリと話す飯島だが、この時は真剣にアドバイスをしているせいか、いつもより口調が早い。
大崎は、飯島を横目で見ながら素早く二度頷いた。
一年生達は、飯島が言った「二度攻め」の事を訊きたくなった。
しかし、彼が大崎の指導に集中しているのもあって、一年生達は質問せずに黙っていた。
リング上の二人は階級こそ一階級違うが、減量無しでバンタム級(五十六キロ以下)の試合に出場する大崎と、フライ級(五十二キロ以下)だったが引退して減量もしていない石山は、現在同じ位の体重である。
強力な左パンチを軸にして戦う石山に対して、大崎は回転の速いコンビネーションブローで対抗するが、石山のパンチングパワーが圧倒している場面が多い。
三ラウンド終了間際、接近戦から大崎が大きくバックステップをした。
石山が、すぐに前へ突き出すような左フックで飛び込んでいく。このパンチは大崎の顔面に直撃し、彼は大きく仰け反った。
ダウンを宣告しようとした飯島だったが、同時に終了のブザーが鳴った。
「大崎、いくら位置を変えるっても、接近戦から真っ直ぐ下がっちゃ駄目なんだよ。相手は踏み込んで打つだけでいいんだからな」
飯島の話に頷きながら返事をした大崎は、急いでグローブと保護具を外してタオルで拭いていた。
保護具をさっと片付けた大崎は、マウスピースを口に嵌めたままグローブを付け、すぐにサンドバッグを打ち出した。
スパーリングを終えたばかりで呼吸が荒い状態だったが、パンチの数はかなり多い。
大崎の足元には、汗がポトポトと落ちていく。
「大崎、追い込みをかける時も雑になるんじゃないぞ。横への動きをもっと加えるんだ」
飯島に言われた大崎は、自らへ気合いを入れるように大声で返事をした。
一方の石山は、一年生達の傍へいる飯島の近くにいた。
引退した彼は、練習を続ける気が無いようで、バンテージを外しながらスパーリングを見ている。
大崎のサンドバッグ打ちを見て康平が言った。
「飯島先生、先輩はスパーリングが終わったばかりなのに、サンドバッグ打ちは激しいんですね」
「高田、スパーリングって疲れるだろ?」
「はい、グローブも重いですからね」
「相手がパンチを打ってくるプレッシャーもあるからな。激しいスパーリングの後ってのは息が上がり易いんだが、その疲れた時にサンドバッグをガンガン打てばスタミナも付くって訳さ」
飯島が言い終わると、続いて有馬が質問をした。
「ところで先生、スパーの時に大崎先輩へ『二度攻め』って言ってましたけど、それは何ですか?」
「言葉通り二度攻めるって事なんだが、ただ単純に二回攻めるんじゃないぞ。一度コンビネーションを打った後、すぐにもう一回コンビネーションを打つんだよ」
「それだけで効果あるんですか?」
「最初のコンビネーションを打った時、打ち合いになってれば効果的面だぞ。相手のパンチは誰でも怖いからな。一度打ち合った直後ってのは、一瞬ホッとして気を抜く奴が多いんだ。その時に二度目の攻撃をするとヒットし易くなるんだよ」
「……簡単では無さそうですね」
「まぁな。大崎のように、打たれてもへこたれないガッツと手数が必要なんだ。お前達はスパーリングでも気を抜く時が多いから、まだまだなんだがな」
「清水の奴、スパーを楽しみにしてた割に苦戦してますね」
スパーリングを見ていた石山がそう言うと、一年生達と飯島の視線はリング上へと移った。
清水は、選手時代ライト級(六十キロ以下)で戦っていたが、身長は百七十五センチと高い方である。
右ガードを口のやや右側に置き、左ガードは肩の高さで少し前にあった。
前足をベタ足にして、後ろ足は踵をグッと上げている。
学校の中での清水はガラが悪く、ガニ股にして肩で風を切るように歩くのだが、この時の両足全体はやや内股である。
リズムは取らず、時折クイッと頭の位置を小さく変えて相手の隙を伺っている。
向かい合っている相沢は同じライト級なのだが、身長が百七十センチと清水よりやや低い。
両腕のガードの幅を狭くしてピタッと体に付け、左右のグローブは口の前にあった。
大崎のように膝でリズムを取るが、彼程早いリズムではなく、ユッタリとした間隔で頭が上下にブレる。
相沢が仕掛けた。
顔面への右ストレートで飛び込んでから左フックを返し、体を沈めながらボディーに右ストレートを放つ。
最初の二発は空振りしたものの、最後の右ストレートはボディーへヒットした。
清水がバックステップをして遠い距離になったせいか、当たりは浅い。
離れた距離で戦おうとする清水に、相沢は速く短い左ジャブの三連打で距離を詰め、右ボディーストレートから顔面への左フックを繰り出す。
ロープ際にいた清水は、全てブロックした後、カニ歩きでリング中央へとポジションを戻した。
仕切り直そうとする清水の顔面に、一度体を沈めてから打った相沢の右ストレートがクリーンヒットした。
ゴッという鈍い音が鳴った。固く痛そうなパンチである。
「そうだ相沢! 今みたいにコンビネーションを組み立てるんだ」
梅田の声が響く。
「清水は約五ヶ月ぶりのスパーだから、まだ勘が戻ってないんだろうな」
飯島が呟く。
「いや、相沢の奴も結構巧くなってますね。何発かボディーへ打って、伏線張ってからあの右ですよね。フェイントも絶妙だし、俺でも引っ掛かってますよ」
石山が言い終わった時、ラウンド終了のブザーが鳴った。
有馬が飯島に訊いた。
「相沢先輩の構えって、ピーカブースタイルなんですか?」
「口の前に両グローブがあるからな。相沢に言わせると違うらしいぞ」
「マイク・タイソンを真似た構えじゃないんですか?」
「俺も思ったんだがな。相沢本人は、ドナルド・カリーと具志堅を併せたスタイルだって言ってるよ」
「具志堅は分かりますが、ドナルド・カリーって誰なんですか? 聞いたことないんですが……」
「具志堅もそうだが、カリーもお前らが生まれる前に戦っていた選手だよ。プロでは二階級制覇してるんだが、アマチュアでの戦績はとんでもないぞ」
「何勝何敗なんですか?」
「聞いて驚くなよ。四百勝五敗だ」
「四百勝四敗ですよ先生」
飯島が答えた時、青コーナー側で立ったまま休んでいる相沢が訂正した。
「相沢、テメェはコンビネーションの組み立てに集中すんだよ」
梅田が、ヘッドギアを被っている相沢の頭を平手で軽く叩いた。
石山が苦笑した。
「相沢はボクシングオタクだからな。……ところで先生、四百勝四敗って凄いですね。オリンピックで金メダルは取ったんですよね?」
「確かオリンピックに出ていない筈だ。カリーはアメリカの選手で、その当時はアメリカとソ連が冷戦状態だったんだよ。そして開催地がソ連の首都のモスクワで、アメリカは出場をボイコットしたんだ」
「先生、授業で習ったんですがソ連て今のロシアですよね?」
白鳥に訊かれた飯島は複雑な表情になった。
「……そうか、お前達が生まれる前に変わったからな。授業で聞かなければ分からないもんな」
二ラウンド目が始まった。
前のラウンドは相沢が優勢だった為か、清水の動きが変わった。
反復横飛びをするような足捌きで左右に体を移動させ、リングを大きく使っている。
やや背の低い相沢が前に出ようとしたところに、清水は左右のストレートを単発で繰り出す。腰が入っていないような軽いパンチだ。
相沢先輩は全てブロックで防ぐが、清水はその隙に左右へ大きく位置を変えて容易に近付かせない。
相沢が二発の左ジャブを打ちながら前へと出る。
彼が二発目の左ジャブを打った時、同時に放った清水の左ジャブがクリーンヒットした。
上半身を左斜め前へスライドさせながら、相手のパンチをかわして打ったようだ。
肩の捻りが効いてウェートの乗ったジャブは威力があり、相沢の顔の向きが右へ変わった。
一瞬動きの止まった相手に、清水は右から左、そして右のストレートで追撃した。
相沢は、急いでガードを上げながら後ろに下がり、辛うじて後続のパンチを防いだ。
このラウンド、横への動きが多かった清水が前へと出始める。
頭の位置を左下へ沈めながら左ジャブを突き上げ、次は頭を右に傾けて上から叩くような左ジャブが伸びていく。
角度を変えて左ジャブを放つ清水に対し、相沢は頭の位置を変えて横に動き、的を絞らせないように努めている。
スパーン!
清水の左ジャブがヒットし、相沢の動きが一瞬止まった。
清水は、すかさずワンツーストレートから左のボディーブローで攻撃する。
ワンツーストレートはブロックされたが、左ボディーブローは相沢の右脇腹に直撃した。
相沢が左フックで反撃するものの、清水は両手を前に出しながら後ろに下がり、これを空転させた。
石山が呟く。
「清水のジャブって、打つタイミングをずらしてくるから厄介なんだよな」
「今のジャブは普通に見えましたけど……」
有馬が言うと康平も頷いた。
相沢にクリーンヒットした左ジャブは、角度を変えたりフェイントを加えた訳でもなく、何の変哲のない普通のジャブに見えたからだ。
「あれは端から見ると分からないんだけどな、手合わせすると分かるんだよ」
石山が話すと飯島がそれに続いた。
「清水はマメにタイミングを変えてくるからな。……まぁ、奴がマメなのはボクシング限ってだけどな」
二人は顔を見合わせて苦笑した。
三ラウンド目になっても、清水がペースを握っている。
距離を詰めてコンビネーションで攻撃しようとする相沢だったが、出鼻にジャブを合わされ、容易に近付く事が出来ずにいた。
ラウンド中盤に差し掛かった頃、相沢は右を放ちながら踏み込んだ。オーバーハンドライトといい、これはストレートとフックの中間のパンチで上から被せるように打つ。
清水が丁度左ジャブを放ったところだった。
彼は肩越しから襲ってくるこのパンチを、右グローブでブロックして直撃を防ぐ。
珍しく二人の距離が縮まると、相沢は左フックを顔面からボディー、また顔面と三連打で攻めた。
落ち着いて全てブロックした清水に、相沢は一瞬間を置いて、もう一度左フックを顔面に放つ。
再びブロックしようと右ガードを横に置いた清水に対し、相沢は左フックを途中で止めて内側から右ストレートを打った。
このパンチは、清水のガードの間から彼の顔面へ綺麗に当たった。
相沢は追撃する為に前へと出る。
彼が右ストレートを放った時、清水はこれをすり抜けるように左へ動いて窮地を脱した。
三ラウンド目が終わり、相沢は大崎の隣ですぐにサンドバッグを叩き始める。
梅田が相沢に言った。
「相沢、お前は頭を振るのと攻撃を連動させないから手数が少ないんだ。二ラウンド以降は清水のペースだったんだからな」
「ウヒャ〜、現役は大変だね」
激しくサンドバッグを叩く後輩達を尻目に、清水はタオルで汗を拭きながら一年生達が座っている長椅子の方へ歩いていく。
「お前、ジャブ以外は当たらなかったな」
「何言ってんですか? 左ボディーも当たりましたよ。……一発だけでしたけど」
からかう口調の飯島に清水が言い返した。
石山も話に加わった。
「清水は今日のスパーを一番楽しみにしてたんだよな?」
「当然じゃねぇか! 何たってココは、人をぶん殴って褒められる場所だからな」
清水がシカメッ面で話すと、飯島と石山、そして四人の一年生達は小さく吹き出した。
「そうか? その割に、お前が褒められる場面はあまり無かった気がすんだがな」
飯島が笑いながら突っ込みを入れると、清水は真顔になった。
「今日は、相沢のいいパンチを二発も貰っちゃいましたからね。……あそこで左フックのフェイントから右ストレートは、俺じゃなくても食らってますよ」
「俺も国体予選前に、相沢からあのパターンで貰ったんだよな」
「その前って、相沢は誰かに倒されたっけか?」
「たしか一週間位前に石山から倒されてんだよ」
清水が石山に訊くと、飯島が隣から答えた。
飯島は一年生達に向けて言った。
「相沢はなぁ、体重が六十ちょっとだったから、三年生全員とスパーする機会が多かったんだ」
「スパーで倒される回数も多くてな。俺と石山と兵藤から二回ずつ倒されてんだよ」
「ただ相沢は、倒される度にバージョンアップしてくるんだよ。次の日から、シャドーボクシングを十ラウンド以上もずっと繰り返してな」
清水に続いて石山がそう言った時、兵藤と森谷のスパーリングが始まった。
清水が話を続けた。
「ただでは起きないって言うのは、相沢のような奴を言うんだろうな。……今日のスパーでも、パンチの打ち出しが一層分かりにくくなってたよ」
「アイツのパンチは特殊だからな。普段は面白い奴だが、相沢は二年で一番の努力家だから練習する姿勢は見習った方がいいぞ」
前キャプテン、石山の話に一年生全員が返事をした。
リング上ではスパーリングが続いている。
サウスポー構えの兵藤は、前に出している手で放つ右フックが強力である。いつこのパンチを出そうか隙を伺っている様子だ。
対する森谷は、時折相手を誘うような軽いパンチを放ちながら、得意のカウンターを狙っている。
共に百八十センチ近い長身で間合いが同じようである。
二人は大きく足を使わずに、一歩踏み込めばストレートが届きそうな距離で駆け引きを行っているせいか、緊迫した空気が漂う。
兵藤が先に仕掛ける。
チョンチョンと右ジャブで牽制した後、踏み込んでもう一度右ジャブを顔面に打った。
利き腕で打ち抜くように放ったこのパンチは、ジャブというよりストレートの威力がある。
森谷の左ガードに当たったにもかかわらず、それを突き抜けて彼の顔面に浅く当たった。
兵藤がボディーへの左ストレートから顔面を狙う右フックで追撃する。
左ストレートを右肘でブロックした森谷は、体を沈めながら左へ回って右フックを空振りさせ、すぐに左フックで反撃した。
右フックを放った兵藤は、その後すぐに頭の位置を変えていた為、森谷の左フックは空を切った。
空振りするのが当然だったように、二人はすぐに構え直す。
飯島が健太に視線を向けた。
「片桐もサウスポーなんだから、兵藤の戦い方をよく見ておくんだぞ」
「はい」
健太はすぐに返事をした。
健太と長い付き合いの康平は、彼の返事を聞いて違和感を感じていた。
僅かにトーンの下がった声は、やる気のない時の声に似ていたからだ。
「森谷の奴、面白いジャブを打ち始めたな」
清水の声に、康平もリング上へ目を向けた。
森谷は、外側から山なりの左ジャブを打ち始めている。
健太とのスパーリングの際に打っていたジャブだ。
森谷が二発続けてそれを打つと、兵藤は左後方へ下がりながら空を切らせた。
森谷が前に出て、今度は内側から突き上げるジャブを放つ。
兵藤は同時に左ストレートを打っていた。
森谷の左ジャブが先に当たり、少しバランスを崩しながら打っている兵藤の左ストレートは、軌道がずれて空振りになった。
ここで、一ラウンド終了のブザーが鳴った。
二ラウンド目になっても、二人は、一ラウンド目と同様に、お互いのパンチが届くか届かないかの間合いでパンチの交換を行っている。
この間合いは中間距離で、強いパンチが打ち易い。その為、二ラウンド目も緊張感があった。
だが、カウンターを狙う森谷と、パンチを打った後すぐに頭の位置を変える兵藤は、共にクリーンヒットが少ない。
石山が言った。
「引退したのに兵藤もよくやるよ。森谷にパンチが無いと言っても、ずっと中間距離でやってんだからな」
「え? 森谷先輩ってパンチが無いんですか?」
思わず康平が訊いた。
「……俺の言い方が悪かったな。ウェルター級(六十九キロ以下)じゃ、そんなにある方じゃないっていう意味だったんだよ」
言い直す石山に続いて、飯島が付け加えた。
「森谷はかなり膝を柔らかくして戦ってるだろ? 膝を柔らかくするのは大事なんだが、柔らか過ぎるとパンチを打つ時に力が逃げるんだよ」
「本人は知ってるんですか?」
「知っててわざとやってんだよ」
「どうしてですか?」
飯島へ康平が更に質問した。
「膝をかなり柔らかくすると、パンチ力が落ちる代わりに別のメリットがあるんだよ」
「それは何ですか?」有馬も質問に加わった。
「いつでもパンチを出せる状態でいられるんだ。それも、頭や足の位置をずらしながらな。……と言う事はだ、森谷の奴は得意のアレを出し易いって事さ」
「……カウンターですね」
「そうだ。アイツは自分の目(動体視力)がいい事を分かってるからな。だからパンチ力よりもカウンターを打ち易いスタイルを選んだんだよ」
「森谷は確かに目がいいけど、パンチをあまり貰わなくなったきっかけは、兵藤の右フックだと思いますよ」
六人が清水の方を向いた。彼は話を続けた。
「去年の十二月頃、森谷は兵藤の右フックで二週続けて倒されたんで、俺の所へ相談しにきたんですよ。『あの右フックだけは貰いたくないんで、どうしたらいいですか?』ってね」
「兵藤の右フックはヤバいからな。……ところで清水は何て答えたんだよ」
飯島に訊かれて清水が答える。
「左ガードを下げない事と、頭の位置を変えるようにってしか言えなかったですよ。……あと、シャドーや(サンド)バッグでも常に意識しろって事ですかね」
清水は、頭を掻きながら話を続けた。
「実のところ、俺の方こそ教えて欲しい心境だったんですよ。その頃、俺も兵藤の右フックで一度倒されてましたからね」
「ただ森谷はアレ以降、兵藤の右フックを滅多に貰わなくなったんだよな。お前のアドバイスが効いたんじゃないかぁ?」
飯島は、言い終わった後にニヤニヤしている。
「や、やめてくださいよ。森谷の奴は自分だけ勝手に避けれるようになったんですから。……自分だけね」
清水は、一年生達を見ながら続けて話す。
「お前らもタイプは違うかも知れないが、森谷のディフェンス技術は参考になるから、よ〜く見ておくんだぞ。特に右フックは絶対貰わない筈だからな」
一年生達が返事をした時、リング上でバスッとパンチの当たる音がした。
「清水、森谷は右フックを貰っちまったぞ」
石山がニヤッと笑った。
二ラウンド目終了のブザーが鳴った時、清水はリングに向かって叫んだ。
「森谷、右フックだけは貰うんじゃねぇぞ」
「……あっ、はい」
森谷は、目をパチクリさせて返事をした。
飯島が笑いながら言った。
「せっかく清水が褒めたんだけどな。……ただ、今の兵藤の右フックは、いきなり飛び込みながら打ってたぞ」
「マジッスか? サウスポーからそれを打つって怖いですよね。……石山もよく左フックで飛び込んでたけど、サウスポーには打たなかったよな?」
「打たなかったと言うより打てなかったよ。左フックで飛び込んだ時、相手が左ストレートを出せば、ダイレクトでカウンターになるからさ」
石山は頷きながら言った。
三ラウンド目が始まると、兵藤の動きに変化があった。
彼は積極的に前へ出るようになった。そして前に出ながら左ストレートを打った。
これは空振りに終わったが、兵藤は続けて同じパンチを放つ。
森谷は、右グローブでブロックしながら左フックを返す。体を沈める兵藤の頭上をかすめた。
だが兵藤は、再び前に出て左ストレートで攻める。
森谷は、強引とも思える相手の攻撃にプレッシャーを感じたのか、大きく右へ回って距離をとった。
そして、外側から放つ山なりの左ジャブと、内側から突き上げる左ジャブを打ち分けながらポジションを変えている。
やや下がり気味に左ジャブを繰り出す森谷に、兵藤は、更に前へ出ながら左ストレートで攻めていく。
兵藤は、相手の左ジャブを気にせずに左ストレートを打っているようである。
三ラウンド目が始まって一分経つが、彼は左ストレートしか打っていない。
森谷の左ジャブがヒットするが、兵藤は構わず前進する。
相手が再び左ジャブを打った時、兵藤は右下へ頭を沈めながら左ストレートを放った。
このパンチは、左ジャブを外された森谷の顔面に直撃した。
兵藤は、すぐに左ストレートから右フックで追い打ちをかけるが、忙しく頭の位置を変える森谷は、辛うじて追撃をかわした。
空振りに終わった兵藤の右フックだが、思い切り振り抜いているせいか迫力がある。
兵藤が左ストレートで主導権を握るような展開のまま、時間が進んでいく。
ラウンド終了間際になった。
兵藤が前へ飛び込みながら右フックを放つ。
反応が遅れた森谷のテンプル(こめかみ)にヒットし、ロープ際まで後退した。
兵藤がガードの上から数発打ち込んだところでブザーが鳴った。
リングから出る森谷に梅田が言った。
「森谷、左ジャブで相手が止まらないんだったら右も出すんだ。サウスポー相手には特にだぞ」
森谷は返事をして、すぐにサンドバッグ打ちの準備に取り掛かる。
兵藤は一年生達のいる方へ歩いていった。
清水が話し掛ける。
「お前、いつになく強引だったな?」
「森谷は右を出す気配が無かったからさ。……あいつの悪い癖なんだよな。極端にミスブロー(かわされるパンチ)を嫌って手数がまだ少ないんだよ」
「だから飛び込んで右フックを打ったんだな?」
「まぁな。……それはそうと俺はホッとしたよ。二ラウンド目までは互角だったからな。俺だけ後輩にやられたんじゃ格好付かないからさ」
飯島が三人に言った。
「お前ら、喋る余裕あんだったら可愛い後輩達にアドバイスしてやれよ。お前らを呼んだのは、その為でもあるんだからな」
三年生達は、各々自分がスパーリングをした相手に歩いていった。
兵藤と清水は、後輩達の打っているサンドバッグを手で抑えながらアドバイスをしている。
石山はサンドバッグ打ちを終えた大崎へ、接近戦で押し合いのポーズをしながら教えていた。
「三年生は強いんですが、二年生達も凄いですね?」
有馬が訊くと飯島が答えた。
「二年生達がスパーリングをやり始めた頃は、今のお前達みたいに手加減されてもまるで歯が立たなかったんだよ。大崎なんかは負けず嫌いだったから、隠れて悔し涙を流していたしな」
「……そうなんですか?」
「最初はみんなそうさ。でも、少しずつだが先輩達に一泡吹かせるようになっていったんだ。……結局強くなるのは、諦めないで練習を続ける事が出来る奴だって事さ」
一年生達は黙って先輩達の練習を見ていた。