それぞれの課題
翌日、昼休みの時間に亜樹が康平へ言った。
「康平、中間テストの勉強はどう? 数学は大丈夫?」
康平は数学が苦手だった。いつもテスト前になると、亜樹が彼に教えていた。今回は、亜樹が弥生に独占されているのもあって、彼女なりに心配しているようである。
「……まぁ、それなりに進んでるよ」
康平は答えたが、実際に、数学以外のテスト勉強は結構進んでいた。
「携帯を買って貰えるか掛かってるもんね。……ところで今って時間あるかな?」
「ごめん。今、ボクシング部の奴と約束してて時間が無いんだ」
康平がそう言った時、有馬が教室の入口に来ていた。
教室を出た康平と有馬は、食堂の方へ向かっていく。
歩きながら有馬が言った。
「うちの学校って、水飲み場が三つあるんだよな」
「そうだな。……でも食堂の所は人が多いんじゃないか?」
「分かってるけど、一応見ておかないとさ」
有馬が言い終わった時に、二人は食堂に着いていた。
永山高校の食堂の中には売店があり、その近くに水飲み場があった。
そこには、柄の悪い三年生達が、売店で買ったパンやジュースを片手に持ちながらタムロしていた。
どうやら彼等の溜まり場のようである。
二人は、諦めて別の水飲み場へ向かった。
彼等の行動には理由があった。
康平と有馬は先週のスパーリングで、パンチを打つ時に、目をつぶる癖があることを梅田から指摘された。
癖を直す方法を彼から聞いた二人は、その日から家で洗面器に水を入れ、マバタキしないようにしながらバシャバシャ顔に水をかけていた。
前日に、次のスパーリングから先輩がカウンターを打ってくる事を聞かされた二人は、学校の中でもバシャバシャ顔に水を掛けられる場所を探していたのだ。
他の水飲み場に行っても誰かいる為、それを取り組む事が出来なかった康平と有馬は、がっかりしながら教室へ歩いていく。
「水飲み場は駄目だな。何気に人がいるもんな」
歩きながら康平が言うと、有馬が足を止めた。
「理科実験室とかも見てみようぜ。あそこは水道の蛇口とかあるしさ」
二人は理科実験室を見に行ったが、そこは二年生達の教室の近くにあり、人通りが多かった。
康平が諦め顔で言った。
「昼休みは無理なんじゃないか? ……トイレも人がいるしさ」
有馬の足が再び止まった。何か思い付いたようである。
「便所って言えば、部室が並んでいる奥の方にもあるよな。……今の時間だったら人がいないかも知れねぇからさ。行ってみようぜ」
二人がそこに行くと誰もいなかった。手洗い用の水道の蛇口が二つあった。
「始めようぜ」
有馬は水道の蛇口を上向きにして水を出した。
顔に水をかけている有馬を見て、康平も隣の水道の蛇口で同じように始めた。
すると、有馬の所の水の出が悪くなったようで、有馬は更に蛇口を開く。
二人はしばらく顔に水をかけていたが、制服に水がかからないようにしているのもあって、やりにくそうである。
「洗面器とかねぇとやりにくいな。……康平、そろそろ授業が始まるから止めようぜ」
有馬が水を止めてそう言った。すると、康平が出している所の水の勢いが増して、彼の股間に水がかかってしまった。
永山高校の制服は、紺のブレザーに灰色のズボンである。ネクタイは学年別に色が違っていて、康平達の学年は赤だ。
「……これじゃあ誤解されるな」
有馬が康平のズボンを見て言った。
康平が下を見ると、水がかかった部分は目立っていた。
「康平、洋式に入って乾かしてろよ。……俺も付き合うからさ」
康平が洋式トイレに入って、ズボンを擦りながら乾かす。
そのうちに授業開始のチャイムが鳴った。
「康平、そろそろ乾いたか?」
「ヤバイな。乾くまでもう少しかかりそうだよ」
個室の前で康平に訊いた有馬だったが、トイレに体育教師が入った。
その教師は強面で、左腕に「巡回中」の腕章を付けていた。どうやら、生活指導で見廻りをしているようである。
「お前何やってんだ? もう授業は始まってんだぞ」
「あ、いや、ちょっと……」
体育教師に詰問された有馬は、康平の事を言おうか迷っていた。
「ん、大の方にも誰か入ってるな。煙草でも吸ってんじゃないよな?」
「いえ、そんなんじゃないです」
体育教師の声に、康平は扉を開けて答える。
股間から太股にかけてまだ濡れている康平のズボンを見て、体育教師は苦笑しながら言った。
「なんだお前、ションベンでも引っ掛けたのか?」
「ち、違いますよ」
「じゃあ、何でそこが濡れてるんだ?」
「す、水道の水がかかったんです」
「水道の水? そう言えば水道の蛇口が上向きになってるな。お前らがズボンを乾かしたいからいるのは分かったんだが、一体何やってたんだ?」
体育教師に訊かれて康平は戸惑った。説明するのが長くなりそうだったからだ。
「俺達部活の為に訓練してたんですよ」
横から有馬が話す。
「部活の訓練? よく分からんなぁ。……ところでお前らは何部なんだ?」
「……ボクシング部です」有馬が答える。
「ボクシング部! もうすぐ梅田先生も来るから、お前らはここで待ってろ」
体育教師に言われて二人はその場に立っていた。
しばらくすると、梅田がトイレに入った。彼も生活指導の見廻りをしているようで、左腕に「巡回中」の腕章を付けていた。
「梅田先生、こいつら部活の訓練でズボンが濡れたようなんですが、先生はボクシング部の顧問でしたよね。何だか分かりますか?」
体育教師がそう言うと、梅田は黒ブチ眼鏡越しに康平と有馬をジロリと見た。梅田は部活の際、髪をオールバックにしてサングラスを掛けているが、普段は髪を降ろして黒ブチ眼鏡である。
「俺達、水道の蛇口でコレをやってたんです。そしたら、康平のズボンに水が掛かっちゃったんですよ」
有馬が、顔に水を掛けるゼスチャーをしながら説明した。
「……それで高田のズボンが乾くまでココにいた訳か?」
「はい、そうです」
梅田に訊かれて答えた康平だったが、彼のズボンはまだうっすらと濡れている。
梅田が言った。
「篠田先生、こいつらは私が教えた訓練をやってたようです。……有馬と高田は俺と部室に来い」
三人は、体育教師と別れてボクシング部の部室に入った。
梅田は、部室の奥から洗面器とエプロンを出して言った。
「この洗面器に水を入れてきて、エプロンを付けてやれば大丈夫だろ?」
「これなら大丈夫です。明日から取り組んでみます」
そう有馬が言うと、康平が質問した。
「先生、授業が始まって十五分位経ってるんですが、どうしたらいいですか?」
「そういうのはテメェで考えるんだよ。ボクシングは機転を利かさないと勝てないんだからな」
梅田に続いて有馬が口を開く。
「そうそう、こういう時は腹を下した事にすりゃいいんだよ。結構使えるからさ」
「有馬、お前はそうやってよくサボってるんだな?」
梅田が有馬を睨んだ。
「い、いや、たまたま授業へ遅れた時に言っただけですよ」
「たまたま? 現国の先生から訊かれたんだよ! 『有馬君は、ショッチュウお腹を下して授業に遅れるんですが、ボクシングをやっていけるんですかね』ってな」
有馬は、何も言えずに下を向いている。
部室を出ながら梅田が言った。
「お前らはサッサと授業に戻れ。……サボった時の言い訳とボクシングは、ワンパターンじゃ駄目なんだよ」
教室へ戻りながら康平が有馬に訊いた。
「先生は最後、冗談を言ったんかな?」
「真顔で言ってたから分かんねぇよ。……俺んトコの授業は現国だから、腹を下した以外の理由にしねぇとな」
六時間目の授業が終わって部活になった。
練習が終わりに近付き、康平は補強(筋トレ)に取り掛かった。
この日は第二体育館でケンケンと空気椅子をする日だったので、康平はいつも一緒に行く筈の白鳥を探した。
だが、白鳥は練習場にいない。
「白鳥だったら、もう第二体育館へ行ってるぞ」
飯島に言われて康平が第二体育館へ行くと、一人で空気椅子を行っている白鳥がいた。
だが、康平と二人で行う時と違い、彼は女子バスケ部が練習するコートを背にして取り組んでいる。
その隣で空気椅子をしようとする康平だったが、自分だけがコートに向けてするわけにはいかず、白鳥と同じくコートを背にして空気椅子のポーズをとった。
バスケットボールの大きく弾む音が気になった康平は、白鳥に言った。
「白鳥、コートが見えないと危ないんじゃないか?」
「ひ、一人でコレをやる時って、あ、あっちは向きにくいんだよ」
恥ずかしがり屋の白鳥がドモリながら言うと、女子に奥手の康平も何気に納得した。
しばらくして、康平と白鳥の間に大きくバウンドするバスケットボールが落下した。
「あんた達、危ないからコッチ見て練習しなさい!」
女子バスケ部顧問の田嶋に言われた二人は、コートの方に向き直して空気椅子を始めた。
二分程経つと康平は限界を感じ、隣の白鳥をチラッと見るとまだ続けている。
無表情に近い白鳥だが、元々赤い顔が更に赤くなっていた。顔面から汗が滴り落ちていて、彼も限界になっているようである。
だが、白鳥に終わる気配は無い。 彼の後から空気椅子を始めた康平は、先に終わるのが気まずくなり、太股に苦痛を感じながらそれを続けた。
今までなら二人揃って空気椅子を始め、限界が近付くとお互い示し合わせたように終わらせていたのだが、今回は二人共限界になりながらも続けている。
更に一分が過ぎて、二人は同時に床へへたり込んだ。
康平と白鳥は太股のストレッチをした後、前足の曲げを意識しながら、ゆっくりとシャドーボクシングを始めた。
それが終わった後に康平が訊いた。
「白鳥はケンケン終わったの?」
「……い、いや、まだだよ」
「じゃあ一緒にやろうぜ」
「……あぁ、そうだね」
ケンケンは、片足で大きく跳んで体育館を何往復もするトレーニングである。
二人は左右の足で五往復ずつのケンケンをして、その後踏み込みを意識したシャドーボクシングを行った。
終わって練習場に戻ろうとする康平だったが、白鳥は再び空気椅子を始めている。
「白鳥は空気椅子を二回やんの?」
「い、今ので三回目だよ。……俺は姿勢が高くて打たれ易いからな」
次のスパーリングまで課題を見付けて取り組んでいる白鳥を見て、康平は森谷とのスパーリングを思い出す。
スパーリングは実戦練習である。相手のパンチを貰ってしまう怖さがあり、緊張してそれを行っていた康平は、おぼろ気ながらしか覚えていない。
ただ、森谷の緩急を付けた左ジャブで突き放され、自分のパンチが届かない印象はあった。
今までまともに当たったのは、ガードの上を叩いた左ボディーブローの一発だけである。
もっと踏み込みをよくしなければと思い、康平は再びケンケンを始めた。
康平と白鳥が第二体育館から練習場へ戻った時、有馬と健太は練習場にいなかった。
飯島が言った。
「お前ら随分遅いなぁ。有馬と片桐はもう帰ったぞ」
二人は残りの補強トレーニングに取り掛かる。
二年生達は、三人共まだ残って練習に取り組んでいた。
補強トレーニング(筋トレ)を終えた康平と白鳥は、すぐにゆっくりとシャドーボクシングを始めた。
このゆっくりとするシャドーボクシングは、補強で鍛えた筋肉をパンチを打つ為の筋肉に変えさせる目的から、一年生達は左右のストレートを習った当時から欠かさず行っている。
飯島は、白鳥の動きをジッと見ている。そして彼は言った。
「白鳥、お前は二発の左ジャブを打つ時だけは、姿勢が伸び上がらないでいい感じなんだよな。……白鳥、二発の左ジャブで前進してみろ」
白鳥が、二発の左ジャブを放ちながら前進する。
「……ワンツーも打ってみろ」
白鳥がワンツーストレートを打つのを見て、飯島が再び言った。
「お前の姿勢が高くなるのは、パンチの打ち方にあるのかもな」
「二発の左ジャブを打つ時はパンチが上向きなんだが、右ストレートの角度は下向きなんだよな。お前の体勢は、左ジャブを打つ時だといいんだよ」
「二発の左ジャブは、夏休みの時に内海さんと山本さんから上向きで打つように教わりました」
「あぁ、そうだったな」
飯島は頷き、尚も話を続けた。
「お前は背が低いんだが、右ストレートは打ち下ろすような打ち方になってっから、高い姿勢になってしまうんだよ。自分よりも背が高い相手の顔面に、上からパンチを打とうとすると、伸び上がらないと当てられないからな。これからシャドーの時は、右ストレートも上向きでパンチを打つようにするんだ。……今、右ストレートだけ打ってみろ」
白鳥が右ストレートを放つ。
「白鳥、もっと上向きで打て」
「は、はい」
白鳥が上向き三十度位の角度で右ストレートを放つと、飯島は頷いた。
「シャドーでは、その位オーバーに打った方がいいかもな」
柔軟体操も終わった時、飯島が再び白鳥に話し掛ける。
「白鳥、空気椅子は二日に一回でいいんだぞ。それに、多くてもニセットまでだ」
「……はい」
白鳥は返事をしたが、大人しい彼には珍しく、何か言いたげな表情になっていた。
飯島が言った。
「今日も空気椅子を三セットやったんだろ? お前の高い姿勢を早く直したい気持ちは分かるんだがな」
「…………」
「ただ最近の白鳥は、スパーリング以外だと左膝をしっかり曲げているんだ。お前は足腰が弱いって訳じゃないんだよ」
「分かりました。……でも、空気椅子を三セットやったのは何で分かったんですか?」
「お前は昨日、第二体育館へ行ってから二十分以上経って戻って来ただろ? いつもよりずっと時間が掛かったから、女バス顧問の田嶋先生に訊いたんだよ」
飯島は話を続けた。
「それに白鳥には、また新しいパンチを教える予定だからな。第二体育館へずっといる時間が勿体無いんだよ。空気椅子を口実にして女バスを見たいってんなら、話は別だがな」
「そ、そんなんじゃないですよ。……でも、新しいパンチを教えて貰えるんですか?」
「そうだ。右アッパーなんだが、接近戦になった時はコレが結構使えるからな。教えるのは明日以降になるぞ」
飯島は、軽く右アッパーを打つポーズをしながら言った。
「僕も右アッパーを教えて貰えるんですよね?」
隣で柔軟体操をしている康平がそう訊くと、飯島は考えているような表情になった。
「……いや、今回教えるのは白鳥だけだ。高田に右アッパーを教えるのは、今まで習ったパンチを、スパーリングでもきちんと打てるようになってからだな」
「えっ?」
意外にも、驚きの声を挙げたのは白鳥だった。
「どうした白鳥? 何もお前が驚く事はないだろ」
「……そ、そうですね」
「高田はそれでいいだろ?」
「はい」
康平は少し残念な気持ちだったが、目をつぶってパンチを打ってしまう癖があるのもあってか、何も訊かずに返事をした。
練習が終わって、康平と白鳥は駅に向かって歩いていた。二人共電車通学である。
白鳥が口を開く。
「み、右アッパーは、康平も一緒に習うと思ってたんだけどな」
「俺も思ったけどさ、……まずは目をつぶる癖を直さないとな」
「そ、その癖はあっても、康平はスパーリングでもパンチのフォームが綺麗なんだよな」
「そ、そうかな」
「そうだよ。お、俺のパンチは汚いけど、こ、康平のパンチはスパーリングを見る度綺麗だって思ってるよ」
「……そんな事ないとは思うけどな」
そう答えた康平だったが、白鳥のスパーリングを見た時、左ジャブ以外のパンチはストレートとフックの中間のようなパンチが多いと思っていた。
「こ、康平は優しいから口に出さないけど、自分でも分かってるんだ。スパーリングをしている時のパンチは汚いってね。……だ、だから新しいパンチを康平だけが先に習う事はあっても、お、俺だけが先に習う事はないって思ってたんだよ」
普段は口数が少ない白鳥だったが、ドモリながらもいつになく話すので康平は意外に思った。
白鳥が続けて話す。
「……で、でも先生は何も言わないんだよな」
「……言わないのも何か理由があるんじゃないのかな? 先生達って、何かと理由付けするしさ」
「そ、そうかもしんないね。こ、康平に右アッパーを教えないのも、き、きっと理由があるんだよ」
康平は、白鳥が彼なりに自分を励ましているように思えた。
「白鳥、アンガトな。俺はまだ、新しいパンチを習うのは早いよ。シャドー(ボクシング)をやってて、気になる事もあっからさ」
「康平は有馬と違うんだな。あ、有馬は、『早く新しいパンチを習いたい』って、いつもボヤいてるよ」
「有馬は、身体能力が高そうだもんな。……アイツのボヤく姿が目に浮かぶよ」
康平がそう言うと、白鳥は笑った。笑う事に慣れていないのか、苦笑いでもするような不自然な笑いである。
二人が駅の改札口に着いた時、白鳥が再び口を開いた。
「こ、康平って他人の話をちゃんと聴いてくれるから、俺でも話し易いんだよな」
「そうかな? 自分じゃ分かんないけどな」
「そうだよ……! い、今、上りの電車が来たから先に行ってるよ。じゃ、じゃあな」
白鳥はそう言って電車に駆け込んだ。