健太の善戦
ラウンド開始のブザーが鳴り、健太と森谷はグローブを合わせる。
すぐに構える健太だったが、球技大会の頃からフォームが変わっている。
サウスポーの彼は右拳が前になる。だがその拳は、最初に教わった頃より随分と前に出ていた。具体的には、右拳が右肩より五十センチ程前である。
右拳の高さは入部した当時、右肩の高さと習っていた。しかし、今は鼻の高さまで上げているので少し高目だ。
そして、後ろにある左拳は顎の横ではなく、口の前に置いている。ただこれは、二人の大学生から言われて夏休みから変えている。
一方の森谷も、康平とスパーリングをした時と構えが変わっていた。
右のコメカミのピタリと付けていた右拳は、右目の少し下に置いている。
胸まで下げていた左拳も、健太のように少し高く上げながら前に出す。
開始から十秒程経つ。
どちらもパンチらしいパンチこそ打っていないが、二人の前の手はよく動いていた。
健太が右ジャブを打とうとすると森谷は左グローブで防ぎ、逆に森谷の左ジャブを健太は右グローブで遮った。
サウスポー対オーソドックスが向き合うと、両者の前の手が同じ側になる。すると、お互いの前の手が邪魔でジャブが打ちにくくなるのだ。
二人共、前の手を少し伸ばして構えているので尚更である。
お互いに牽制するような形で更に十秒経った時、先に健太が仕掛けた。
探るように伸ばした森谷の左腕に自らの右腕を絡め、それをグッと下に落としながら左ストレートを打った。
森谷は落とされた左腕を広げ、跳ぶように後ろへ下がりながら左フックを放つ。
どちらも空振りに終わったが、思い切りのいい健太の左ストレートと森谷の鋭い左フックで、練習場に緊張感が漂う。
「森谷、お前はライトスパーなんだから軽く打つんだぞ! それと、今のスパーはカウンター無しだ」
左フックを強振した森谷に梅田が叱責した。
カウンターとは、大まかに言えば相手のパンチに合わせて打つパンチの事である。
「片桐が、いいタイミングで左ストレートを打ったから思わず振ったんでしょうね」
飯島がそう言うと、彼を見た梅田は苦笑した。
梅田が再びリングを向いて声を出す。
「森谷は一年生相手でカウンターに頼るんじゃねぇぞ。……片桐はドンドン打っていいからな」
二人共頷きもしなかったが、健太がその声に反応したのか再び攻める。
左から右、そして左のストレートを打ちながら一挙に前へと出た。夏休みのスパーリングもそうだったが、健太は思い切りがいい。
踏み込みのいい健太に距離を詰められた森谷は、堪らず両手でブロックをした。
健太は間髪入れずに目隠しワンツーで追撃する。
ワンの右ジャブを相手の顔面の左上へわざと外して打ち、右前腕で相手の視界を遮る技である。
だが、森谷は体を沈めながら右後方へ大きく動いた為、健太の左ストレートは空振りに終わった。
「いいぞ片桐、練習通りだ! ……ただ顎が上がってるから気を付けろ」
梅田に言われて健太は顎を引いた。
お互いに前の手で相手のジャブを殺しながら、後ろにある利き手のストレートで攻める展開が続いた。
両者共に、顔の前へ利き手を置いて相手のストレートを阻んでいるのもあって、クリーンヒットはまだ出ていない。
全般的に、健太が先手で攻撃する割合が多いようである。
一ラウンド目終了のブザーが鳴った。
息は荒れていないが、冴えない表情の森谷に梅田が話し掛ける。
「カウンターが打てないと戦えないようじゃ、上に行けねぇぞ。……最近練習しているアレを使ってみろ」
「一年生相手にアレを使っていいんですか?」
森谷にとって梅田の指示が意外だったようで、彼は急に梅田の方へ顔を向けて言った。
「片桐にとっても参考になるし、ダメージ自体も少ないだろうから使っていいぞ。……それに、お前の階級にはサウスポーが二人いるからな。今から試すんだ」
「はい、分かりました」
森谷の表情が心なしか明るくなった。
ラウンド開始のブザーが鳴った。
二人がリング中央へ寄って対峙した時、森谷の構えが再び変わった。
変わったのは前にある左グローブの位置で、健太の右グローブよりも外側にあった。
戸惑う健太へ、外側からかぶせるように左ジャブを放つ。
健太の肩越しから右のテンプルに当たった。
一歩下がる健太へ、森谷は踏み込んで同じパンチをヒットさせる。
ジャブはストレート系のパンチで、本来の軌道は直線である。この時森谷が放ったパンチは、肘を大きく上げながら打っているせいか、少し山なりの軌道だ。
そのおかげで健太の右肩が邪魔にならず、森谷の左グローブは相手の顔面へ吸い込まれていく。
森谷の左ジャブを遮ろうと健太が右ガードを開いた瞬間、健太の顔が上へ跳ね上がった。
森谷は、外側にある左拳を健太の右ガードの下をくぐり抜けさせ、内側から突き上げるようなジャブを放ったのだ。
健太が上半身を大きく右へ倒しながら左ストレートを放つ。森谷のジャブを貰いたくないからか、無理な姿勢で打ったのであろう。踏み込みも少なかったのもあって、健太のパンチは森谷の体に届いていない。
打ち終わった健太に、森谷が左へ回りながら二発の左ジャブを放つ。山なりで外側からのジャブだ。
健太は前に出していた右グローブを、ガッチリ頭部に付けてブロックをする。
再び構え直そうと、右グローブを前に出した健太の顔に、森谷のジャブが内側からヒットした。
内側から打つ為に肩を入れた左は威力があり、健太の顔が上向きになる。
そのせいか、健太はズルズルと後退した。
「ストーップ!」
梅田の声でスパーリングは中断した。彼は続けて森谷に言った。
「森谷! 技は試すだけでいいんだ。お前やり過ぎなんだよ」
「え、ジャブも軽く打つんですか?」
「お前は片桐よりずっと重いんだからな。もっと手加減しろ」
森谷はウェルター級(六十九キロ以下)の選手で、普段は体重が七十一キロあった。健太より丁度十キロ重い。
スパーリングは再開し、二人は対峙する。
梅田から叱責されて戸惑ったのか、森谷は様子を見ていた。
そのおかげか、立て続けにジャブを食らって怯んだ健太は、冷静に相手を見れるようになった。
健太から森谷を見た時、相手の左グローブは自分の右ガードより外にあった。
右手で森谷の左を遮っていない。だがそれは、森谷の左グローブも自分の右パンチを邪魔していない事を意味する。
健太が仕掛ける。
右ジャブを二発放ちながら前に出た。相変わらず健太は踏み込みがいいようで、一挙に距離が縮まった。
健太がグッと腰を落とした時、森谷は蟹歩きでスーっと右後方へ逃げる。
反復横飛びで右一方へ動いていくような足捌きなのだが、教本でも正式な名称は無く、永山高校では「蟹歩き」と教えていた。
健太が前に出ると、森谷はフットワークで距離を取った。
手加減する事に馴れていない森谷は、まだ躊躇しているようである。
それを察した健太も遠慮勝ちになり、二人はパンチが出なくなった。
「片桐、お前は遠慮しなくていいんだ! 森谷は握らないで打て」
梅田が怒るような口調でアドバイスをした。
リングの中にいる二人は、お互い相手を見ながら小さく頷いた。
このラウンド、残り時間は三十秒を切っている。
森谷の外側からのジャブが健太の顔にヒットした。握らないで打っている為か、健太に怯む様子はない。
健太が左ストレートから右フックのコンビネーションで反撃する。森谷はスウェーバック(仰け反るような防御)で左ストレートをかわし、右フックを左へ移動しながらのウィービング(潜るような防御)で空転させた。
健太の右側に位置する森谷は、再び外側からのジャブを放つ。
健太の右頬に当たったが、ダメージが少ない事もあり、彼は臆せず前へと出る。
今度は内側から突き上げるジャブが健太の顔を捉えた。
打たれると同時に、健太は森谷の顔面へ左ストレートを放った。
これは森谷の顔の前にある右ガードへ当たった。だが不意を突かれた彼は、ガードにパンチが当たる瞬間も右腕の力を抜いていた。その為、自分の右グローブで顔面を小突いてしまっていた。
このチャンスを見逃さず、健太は腰を落として左ボディーブローを放った。
ベジッ!
森谷の右脇腹へ健太のパンチがヒットした。時折ミット打ちで快音を響かせていたストレート気味に打つアッパーのボディーブローである。
森谷の動きが止まった。リバー(肝臓)に直撃したのか、効いたようである。
健太は左ボディーブローを打つ事だけ考えていた為、構え直して右フックを放つ。
さすがに森谷は追撃を許さず、このパンチを潜り抜けて左へ位置を変え、ピンチを脱した。
ここで終了のブザーが鳴った。
「……片桐はパンチを貰いながら打ってたが、あれはワザとか?」
飯島に訊かれて健太は答える。
「はい、先輩が握らないで打ってくれてたんで、パンチを貰ってもいいと思ってました。……どうしても二ラウンド目は、あのボディーブローを打ちたかったんです」
「そう言えば、一ラウンド目はあの左ボディーは打たなかったよなぁ」
「えぇ、一ラウンド目は顔面だけを攻撃して、二ラウンド目にあの左ボディーを打とうと思ってましたんで」
健太なりの作戦だったようだ。
森谷と飯島、そして梅田は顔を見合わせたが、梅田は一瞬だけ顔を曇らせていた。




