臆する者と開き直る者
翌日の放課後。練習場へ入った一年生達に、梅田が話し始めた。
「お前達は今日からスパーリングを始める。前にも言っているが、二年生にはライトスパー形式でやらせるからな」
「お前達は思い切り打っていいんだぞ」
飯島も横から口を挟んだ。
一年生達は緊張からか、それぞれ無言で準備運動を始めた。
四ラウンドのシャドーボクシングが終わり、最初は有馬と大崎がリングの中へ入る。
開始のブザーが鳴った。
両グローブを合わせた二人だったが、お互いに様子を見ていた。
「何ニラメッコしてんだ! 有馬、ドンドン左ジャブを出せ」
梅田の怒鳴り声で、有馬が左ジャブを出す。
だが、同時に放っていた大崎の左ジャブが有馬の顔面にヒットした。
怯んだ有馬が少し後ろに下がった。
「ビビるんじゃねぇぞ! 構わずジャブを出すんだよ」
再び梅田が怒鳴った。
その声に反応した有馬は、再びジャブを繰り出す。
だが、そのパンチは大崎が頭の位置を変えた為、虚しく空を切った。
身長が百六十五センチの大崎に対して、六センチ程高い有馬は盛んに左ジャブを打ったが、全て外された。
逆に大崎の左ジャブが、度々有馬の顔面にヒットしていった。
夏休みに大学生の山本とスパーリングをした有馬だったが、その時は相手が明らかに手を抜いていた。
山本は、有馬のブロックの上をわざと打っていたのだが、大崎は有馬の顔面を狙ってパンチを放っていく。
相手が打ってくるプレッシャーのせいか、有馬はガチガチに力んだ状態になっていた。
左ジャブの突き合いで分が悪い有馬は、堪らず右の大きなパンチから入っていく。
だが、それは大崎が難なくかわした。
「そんなパンチはいらねぇんだよ! 練習通りに左ジャブを出せ」
梅田の声で、有馬は再び左ジャブを放つ。
一ラウンド目が終わった時、出したパンチが少ないにも拘わらず、有馬は肩で息をしていた。
コーナーへ戻る有馬へ、梅田がアドバイスを出した。
「いいか、深呼吸しながら聴け! お前はとにかく左ジャブだ。左を突いて当たったら右左右だ。分かったか?」
「……返し技は狙わなくてもいいんですか?」
「それはまだ考えるな。打たれながらでも、左ジャブを突き続けるんだ! いいな」
呼吸を整えた有馬が質問すると、梅田が即座に答えた。
ずっと返し技の練習をしていたので、言い返そうとした有馬だったが、梅田は間髪入れずに話を続ける。
「理由は後で全員に話すが、返し技は絶対に狙うんじゃねぇぞ。今のお前は、大崎のパンチを食らっても左ジャブを打ち続けろ」
梅田はそう言って、立ったまま休憩している有馬の尻を叩いた。
二ラウンド目に入って、有馬は根気強く左ジャブを放つ。
だが、ことごとく避けられ、逆に大崎からパンチを食らう有馬に、梅田からアドバイスがあった。
「左ジャブが伸びないぞ。ミットの時みたいに溜めを作るんだよ」
その声を聞いた有馬は、右グローブを口から二十センチ程前に出し、左の肩と肘をグッと引いた構えになった。
そして、右グローブを引く反動で左ジャブを放つ。
これまでと違い、有馬の左ジャブが勢いよく伸びていた。
だが、そのパンチも空を切り、大崎の軽く打った右ストレートが有馬の顔面を直撃した。
「構わずジャブを出すんだよ!」
一際大きな梅田の怒鳴り声で、有馬は顎を上げながらもジャブを放つ。しかし、このパンチもかわされていた。
「いいんだ有馬。その調子で打ち続けろ」
梅田に褒められて気をよくしたのか、有馬はすぐにジャブを打った。
ラウンド終了まで左ジャブを出し続けた有馬だったが、全て空振りに終わった。
一発もパンチを当てられなかった有馬は、悔しそうな顔をしながらヘッドギアを外す。
「次は高田と森谷がリングへ入れ」
梅田の声で、二人はリングに入った。
ラウンド開始のブザーが鳴り、お互いにグローブを合わせる。
有馬と同様に、康平も相手のプレッシャーを感じて固まっていた。
オーソドックススタイル(右構え)の森谷は、左グローブを胸の高さで前へ出し、緩急をつけて不規則に動かす。
利き手の右グローブは、右のコメカミにピタリと付けて全く動かさない。
但し、その右グローブは対峙している康平に向けられている。
康平は、常に右パンチを狙われているような気になり、パンチを出そうにも出せない状態になったのだ。
開始から二十秒程経った時、様子を見ていた飯島が言った。
「森谷、お前から先に打ってやれ」
森谷の左ジャブが伸びる。
スピードの無いパンチだったので、康平は右グローブでブロックをした。
森谷は、戻した左グローブを大きく動かした後、再び左ジャブを放つ。
今度は速いパンチだった為、康平のブロックが遅れて顔面にヒットした。
顎が跳ね上がった康平だったが、森谷はライトスパーだった為か、追撃はしないで距離をとって様子を見ていた。
森谷は再びゆっくりと左ジャブを伸ばす。
それをブロックした康平は、忙しく動く先輩の左グローブに気を取られていた。
その時、康平の左コメカミに衝撃が走る。
テンプルに、いきなりの右オーバーハンドを貰ったのだ。それは、フックとストレートの中間のようなパンチである。
たじろぐ康平に、飯島が口を開く。
「高田、お前自分から打っていかないとサンドバッグで終わるぞ。……誰も助けてくれないんだからな」
声を荒げていないが突き放すような飯島の口調に、康平は、打たなければ打たれるという現実を実感した。
彼は打たれるのを覚悟で、距離を詰める二発の左ジャブや目隠しワンツー等、習ったパンチを繰り出していく。
しかし、それらは尽く空を切る。そして、その直後に森谷のパンチが康平の顔面にヒットした。
但し、森谷はパンチを打ち抜かずに当てるだけだったので、康平にダメージは無かった。
康平が先手で打つと、空振りした後に森谷が軽いパンチを当てた。康平が待てば待ったで、森谷は好きなようにパンチを当てた。
康平も有馬と同様に、一発もパンチを当てる事なく二ラウンドが終わった。
有馬もそうだったが、出したパンチが少ないにも拘わらず、僅か二ラウンドのスパーリングを終えた康平は肩で息をしていた。
次は白鳥と大崎のスパーリングなのだが、一ラウンド休憩をすることになった。
飯島が有馬と康平に話し掛ける。
「どうだ、スパーは疲れるだろ?」
「はい! たった二ラウンドなのに疲れます」
有馬が答えると、ヘッドギアを脱いだばかりの康平も頷いた。
「実戦になると相手も打ってくるからな。サンドバッグやミット打ちより数段疲れるんだよ。……ところで高田と有馬は、開始から二十秒程黙っていたが、何をしようとしてたんだ?」
「あ、相手の様子を見ようと思ってました」
飯島に訊かれて康平が答えた。
「有馬もか?」
「……はい」
「ボクシングはぶっちゃけ殴り合う競技だ。自分が殴らなきゃ殴られるんだ」
飯島に続いて、梅田も二人に言った。
「スパーリングや試合で相手を殴る気が無かったら、その時点で負けなんだよ。分かったか?」
「はい」
有馬と康平は返事をしたものの、先輩と実力が大きく違っていた事もあって、複雑な心境になっていた。
休憩が終わる頃、白鳥と大崎がリングへ入った。
開始のブザーが鳴る前、白鳥は両肘を上げて左右の肩を交互に回す。両肩の筋肉をほぐしているようだが、その仕草は不思議と違和感が無い。
開始のブザーが鳴ってグローブを合わせた後、白鳥は前に出始める。
白鳥は身長が百六十センチで、大崎よりも五センチ低い。
距離を詰めようとする白鳥の額に、大崎の左ジャブが当たった。
だが白鳥は臆する事無く、二発の左ジャブを放ちながら更に前へと出る。
一発目の左ジャブは届かず二発目が大崎の顔面を襲う。大崎はそれを右手でブロックしながら、スーっと右後方へ蟹歩きで位置を変えた。
向きを変えて追う白鳥に、大崎は急に左へ回りながら速い二発の左ジャブを放った。
白鳥は両手を上げてガードをしたが、不意を突かれた為、彼の動きが一瞬止まった。
パァーン!
がら空きになった白鳥のボディーに、大崎の右ストレートが入る。当たった時の音が練習場に響いた。
「大崎、ボディーは強く打ってもいいぞ!」
飯島に言われて大崎が小さく頷いた。
「今のパンチも軽く打ってたんですか? 音が大きかったんですけど」
「まぁな。あれだけいい音がするって事は、ダメージがいかないように握らないで打ってたんだろうな」
有馬に訊かれて飯島は答えた。
「ボディーだったら強く打っても大丈夫なんですか?」
「そうだな。ボディーだったら、余程の事でもなければ深刻なダメージにはならないからさ」
飯島が話す間もスパーリングは続いている。
白鳥が前に出て、大崎が足を使いながらいなす展開のまま、一ラウンド目が終わった。
インターバルの最中、飯島はリングに上がって大崎に小声で話す。
「え、いいんスか先生?」
「まぁ、残り三十秒だったらいいだろう。だが、倒しにはいくなよ」
「先生、どんな指示を出したんですか?」
リングから下りた飯島に康平が質問した。
「大崎は、元々好戦的で打ち合うタイプなんだよ。二年の中じゃ一番負けん気も強いしな。だからラスト三十秒から打ち合ってもいいって言ったのさ」
「白鳥は大丈夫なんですか?」
「まぁ大丈夫じゃないか。……足はついていってないが、あいつは何気にお前達よりやる気満々だからな」
飯島が答えた後、二ラウンド目開始のブザーが鳴った。
一ラウンド目と同様に、大崎が軽いパンチを出しながら、フットワーク使って白鳥を翻弄していた。
追い足が悪い白鳥のパンチが届かない距離で、大崎がポンポンとパンチを当てる。
それでも前に出てパンチを出す白鳥だったが、大崎のバックステップやサイドステップで簡単にかわされていた。
残り一分を切ったところで、大崎がフェイントを入れて左ジャブを突いた。
このパンチも貰った白鳥が根気強くワンツーストレートを返す。
今までのようにバックステップでかわす大崎だったが、途中でロープにぶつかった。
白鳥が追い掛けざまに右を放つ。ツンのめるように打った為か、後ろにある筈の右足が前に出ていた。
だが、白鳥は足の位置を直す事無く、右足が前のまま左フックを強振した。
このパンチは大崎の右ガードに当たった。彼のバランスの悪い時に当たったのもあって、左へ大きく吹っ飛んだ。
すると大崎は足を使わずに、前に出てパンチを打ち始めた。白鳥のガードに、右ストレート・左フック・右ストレートが強く当たった。
吹っ飛ばされたのが勘に触ったのか、負けず嫌いの大崎にスイッチが入ったようである。
白鳥もすぐに打ち返す。決して綺麗なフォームではないが、躊躇なくパンチを放つ。
残り三十秒を待たずして打ち合いになった。
大崎の連打をブロックした白鳥が、右のパンチを打った時、大崎はそれを右手でブロックをして左フックを返す。
だが、白鳥が突っ込みながら打った為、大崎の放った左フックは白鳥の頭を抱えるような形になり、体が密着して膠着状態になった。
「ブレイク! 二人共離れろ」
梅田の声が練習場に響き、両者は距離をとった。
「白鳥、フォームは気にしなくていいから、今みたいにドンドン打っていけ。……大崎もそのまま打ち合っていいぞ」
リングの中にいる二人は、飯島をチラッと見て小さく頷いた。
スパーリングが再開される。
共に前に出てパンチを打つ為、すぐに接近戦へと移る。すると、両者の実力差が顕著になった。
高校ボクシングで一学年の差は大きい。白鳥が僅か半年のキャリアなのだが、大崎は一年半だ。まして彼には試合経験もある。
腰高で単発のパンチを打つ白鳥に対し、大崎は小気味よく二発から三発のコンビネーションを放つ。
白鳥は、堅いガードで何とか防いでいた。
大崎が、顔面への軽い右ショートアッパーから強い左ボディーブローを放つ。
ベジッ!
一ラウンド目に当たったボディーブローの音と違って、鈍い音が白鳥の右脇腹から発せられた。
思わずガードが下がった白鳥の顔面に、大崎のショートストレートが二発当たる。白鳥の顎が二度跳ね上がった。
「ストーップ!」
梅田が声を張り上げると、大崎はクルリと向きを変えてニュートラルコーナーへと歩いていく。
「ワン、ツー、スリー、……」
梅田がカウントを数えている時、飯島が白鳥に言った。
「白鳥、スパーを続けられるんだったらガードを上げろ」
白鳥は、何ら躊躇する事なくガードを上げている。
「梅田先生、続けていいですか?」
飯島がそう言うと、梅田は頷いてスパーリングを再開させた。
白鳥はためらいもなく前へと出る。
少し驚いた大崎だったが、彼も前進した為、すぐに二人の距離が縮まった。
コンビネーションで攻める大崎に対して、ガードを堅くした白鳥が単発で返す展開が続いた。
大崎が軽く右ストレートを放った時、白鳥は左へダッキングして左ボディーブローを打とうとした。
だが慣れていない白鳥は、大きく避けすぎてパンチの打ち出しが遅くなっていた。
大崎の放った返しの左フックが、先に白鳥の顔面を捉える。
「ストーップ!」
仰け反った格好になった白鳥を見て、梅田が声を張り上げ、そしてカウントを数える。
すぐにガードを上げた白鳥だったが、カウントセブンを数えたところで終了のブザーが鳴った。
「二人共リングから出ろ! ……白鳥、頭は痛くないか?」
「え、あ、はい大丈夫です」
梅田に訊かれて白鳥は即答した。
「白鳥、お前は実戦の経験があんのか?」
リングから出た白鳥に飯島が質問した。
「……ええっと、あるって言えばある事になります」
「ある! まさか喧嘩じゃないよなぁ」
「そ、そんなんじゃないですよ」
ニヤニヤしながら訊く飯島に、白鳥は肩で息をしながら否定した。
「飯島先生、何で白鳥が経験者って思うんですか?」
横から有馬が割り込む。
「スパーリングを終えたばかりなのに、白鳥は興奮もしていないだろう。それで実戦馴れしてるんじゃないかって思ったのさ。……まぁ、どこで実戦したかは訊かないでおくけどな」
「……でも今日の白鳥のフォームはバラバラでしたよ」
言い返す有馬に、飯島は笑いながら言った。
「ハハハ、確かにそうかも知れないが、白鳥はお前達よりも開き直っていたぞ。おっかなびっくりパンチを打つお前達よりはな」
「次は森谷と片桐の番だ!」
梅田に言われた二人はリングへ入っていく。
一年生達は、健太の相手をするのは相沢だと思っていたので意外な表情をした。相沢は、まだ誰ともスパーリングをしていない。
二年生達は相沢も含めて、何の疑問も無いような顔をしている。
健太はリングへ入ってからも、ゆっくりながらシャドーボクシングを続けていた。