図書館勉強の再開
翌朝、学校へ行こうと玄関で靴を履く康平に、母親が言った。
「康平、最近勉強はしてるの? 成績が二十番以上上がらなかったら携帯電話の話は無しなんだからね」
夏休みの時、成績が二十番以上上がったら携帯電話を買って貰う約束をしていた。康平はそれを思い出す。
「わ、分かってるさ。今週から日曜日が練習休みだし、こ、これから始めるつもりだったんだよ」
「そう、それならいいんだけど。……でもボクシング部はヒドイわねぇ。練習日と時間がコロコロ変わるでしょ」
「俺達一年生を考えての事だからさ。……成績は上げる予定だから携帯を買う用意はしててね」
「はいはい、分かったわよ。……この話は真緒に内緒だからね。あの子もせがんじゃうから」
学校の教室へ入った康平に亜樹が話し掛ける。
「今日は練習休みだよね。学校終わったら図書館行こっか。……ずっと球技大会の練習で、康平も勉強出来なかったでしょ?」
「俺もそれ言おうと思ってたんだ。早く授業終わらねぇかな」
「ちょっとそれ違うんじゃないの? 授業をちゃんと理解するのが優先でしょ!」
亜樹は笑いながら突っ込みを入れた。
学校が終わり、図書館で勉強を始めた二人は一時間程経ってロビーで休憩していた。
亜樹は水筒を口にした後言った。
「久しぶりの勉強だけど、君は大変だよね。日曜日は部活なんでしょ? まとめて勉強しにくいもんね」
自動販売機のジュースを手にした康平が答える。
「あ、今度日曜日が休みになったんだ。今週はここに来るからさ。また宜しく頼むよ」
「そう、でもココって第一日曜日が休みなんだよね。……もしよかったら、康平んちの近くにある図書館へ行こうよ」
「あそこは第三日曜日が休みだから大丈夫だよ。……でも悪いなぁ。亜樹は定期も持って無いのにさ」
「べ、別に康平の為に行くんじゃないわよ。ほ、ほら、最近球技大会の練習で勉強出来なかったのよ。……でも、それはそれで楽しかったけどね」
慌て気味に話す亜樹に康平が言った。
「そ、そうだよな。……それはそうと、次の中間テストで二十番以上順位が上がると、携帯電話を買って貰う約束をしてるんだよ。今回は特に頑張らないとな」
「それは張り切らないとね。携帯があればメールも出来るし、何かと便利だからさ。土曜日はケーキバイキングに行くから勉強出来ないにしても、日曜日はビシビシいくわよ。……今日は閉館まで、君の苦手な数学をやっちゃおうか?」
「お、お手柔らかに頼むよ」
教える気満々の亜樹に矛盾を感じつつ、康平はそう言ってジュースを一気に飲み干した。
土曜日になり、部活を終えた康平と健太は、駅前のケーキバイキングへ参加した。
その帰り道、康平と健太、そして麗奈が電車に乗っていた。三人共、同じ中学を卒業しているので降りる駅は一緒である。
一人分の席が空いていた。康平と健太は苦しそうな表情の麗奈に座らせる。
麗奈が辛そうに話す。
「もうこれ以上食べられないわ。座っているのもシンドイんだもん」
「麗奈は食い過ぎなんだよ。いくら食べ放題たって、最後は無理して食ってたじゃん」
健太が吊り輪につかまりながら言った。
「うるさいわね! 全部の種類を食べたかったのよ。店に払った千二百円の倍以上は食べないとね。マジで苦しいから、今はそっとしておいてくれる」
麗奈はそう言って無言になった。
降りる駅まであと少しのところで、麗奈が再び口を開く。
「あんた達、明日図書館で勉強するの? 亜樹と話しているのが聞こえちゃったんだ」
「俺達テスト休みが無いからさぁ、今からやっておかないとヤバいんだよ。健太、そうだよな?」
「ん……あ、まぁな」健太が曖昧に答える。
「綾香も行くって言ってたけど、ホント尊敬出来るよ。彼女も何気に成績いいしね」
「麗奈も来ればいいじゃん」
康平が言うと、麗奈は右手を小さく振った。
「無理無理、私ってテスト休み以外家で勉強しない人だからさ」
駅から出た三人だが、康平と健太は、ここで反対方向に家がある麗奈と別れた。
歩きながら健太がボソっと言った。
「……俺さぁ、明日図書館へは行かないからさ」
「え? 明日は綾香も来るんだぜ」
「ちょっと思うところがあってな。……明日は行かないって決めたからさ。まぁ、あの二人にはお前から言っといてくれよ。じゃあな」
健太は左手を上げて康平と別れた。
翌朝の九時、康平は家の近くの図書館にいた。
図書館は朝九時に開館で、亜樹と綾香は十時にここへ来る予定だ。康平は彼女達の席を確保する為、早目に出ていたのだ。
康平は数学の授業で解らない箇所があり、今日は亜樹にそれを教えて貰おうと思っていた。
六人が勉強できる大きなテーブルに、数学の教科書とノートをバッグから出す。
理解出来ていない所をチェックしようとノートを見ていた康平だったが、隣の椅子に女の子が座った。
「康平ちゃん、今日は図書館に来てたんだ」
栗原弥生である。彼女は康平の一つ年下の中学三年生だ。
「まぁな、いつも行ってる図書館が休みなんだよ」
「へぇー、よく図書館へ行ってるんだ。勉強家だね」
「最近は全然行けてなかったけどな」
「今、数学やってるんだ。私、数学苦手でさぁ。ちょうどいいから教えてよ。勉強教えてくれる約束でしょ」
弥生はそう言って、数学の問題集をテーブルに出した。
「ねぇ、この問題解いてみてよ。私、サッパリ分かんなくてさ」
弥生が開いたのは因数分解の頁だった。
康平も、数学の中で因数分解は特に苦手である。彼は、見栄を張らずに正直に言った。
「ワリィな。俺も数学は苦手だから教えらんねぇよ」
「そう言えば、康平ちゃんは算数苦手だったもんね。……ところで今日は一人で勉強?」
「いや、友達が後で来るよ。今は電車に乗ってる頃かな」
「この前言ってた女の子?」
「まぁね。今日は二人来るよ」
弥生が肘で突っつく。
「二人も来るんだ。電車賃まで使わせてぇ」
「い、いつも行く図書館が休みなんだよ」
弥生はシャーペンを回しながら訊いた。
「……ねぇ、ボクシングって痩せるの?」
「痩せるかは分かんないけど、汗が出て一回の練習で二キロ位は落ちるよ。……でも、最近は筋肉がついて体重が一キロ増えたんだよな」
「康平ちゃんはあまり太っていないからね。ボクシングって、痩せ易いってよく聞くじゃん。……ホラ私って、見方によっちゃデブに見えちゃうんだよねぇ」
「…………」
返答に困った康平に、弥生がすかさず突っ込む。
「今一瞬固まったよね。空手で体負けしないように、今まで思いっ切り食べてたんだけど康平ちゃんも私をそう思ったんだ」
「そ、そんなことないよ。……それより、数学以外で勉強しないのか?」
暴力少女の前で下手な事を言えないと思った康平は、無理に話題を変えようとした。
「話題を逸らそうとすんのがミエミエなのよ」
弥生は康平にヘッドロックをかます。
「おいヤメロよ! みんな見てるじゃないか」
康平は顔を赤くしながら言ったが、弥生は男子と組み手もやっているせいか、ボディーコンタクトには無頓着なようである。
亜樹と綾香が図書館の入り口にいた。その姿が康平の視界に入る。
「離せよ。今友達が来るからさ」
「あら康平ちゃん、言葉遣いがなってないよ。……でも誤解されると悪いからといてあげるね」
弥生はヘッドロックをやめた。
康平に気付いた亜樹と綾香は、二人に近付いていく。
「おはよう康平。……この人誰?」
綾香が怪訝な表情で言った。
「く、栗原弥生って言うんだけど、近所の中学生だよ。……今日はたまたま一緒だったんだけどさ」
「康平ちゃん! ここへ来たら、勉強を教えてくれる約束じゃなかったっけ?」
亜樹は、机の上にある数学の問題集を見て言った。
「へぇー、そうなんだ。……でも康平って数学を教えれるの?」
「康平ちゃんて昔っから算数苦手でさぁ、訊いた途端に拒否られちゃったんだ。……ちょっとぉ、友達って二人共美人じゃん! 私に紹介してよー」
弥生はそう言って、康平の左腕に肘打ちをした。
「イテェぞ弥生。少しは加減しろよ」
迷惑そうな顔をした康平が亜樹と綾香を紹介した。
すると、弥生が神妙な顔をして話す。
「先輩! ……無理を承知でお願いするんですけど、今日だけでいいんで勉強教えて貰えませんか?」
いきなりの申し出に、亜樹と綾香は顔を見合わせた。
「弥生さんは、どこか行きたい高校でもあるの?」
「はい! 永山高校に行きたいんです」
亜樹に訊かれて弥生が答える。
「……何か理由でもあるのかな?」
今度は、チラっと康平を見た綾香が訊いた。
「アハハ! 理由は単純で、ボクシングをやってみたいからなんです。康平ちゃんから聞いたんですが、永山高校はボクシング強いらしいじゃないですか」
「えぇ、確かにうちの高校は強いけど、女子は誰もいないわよね」
綾香の話を聞いた弥生は、康平を見て睨んでいた。
「ちょっと康平ちゃん! まさか女子は入部禁止って事はないでしょうね」
「……マネージャーを入れない事は言ってたけどな」
「じゃあ部員としてなら入れるのね?」
「……たぶんな。最初の頃、先生が言ってた気がするけど……」
「ちゃんと訊いといてよ。ボクシング部に入れないんじゃ、永山に行く意味が無いからさ」
康平と弥生の話を聞いていた亜樹が質問した。
「弥生さんは、どうしてそんなにボクシングをしたいの?」
「私、小さい頃から空手をやってんだけど、高校卒業したらキックとか他の格闘技をやってみたいんだ」
「ボクシングって、パンチだけのスポーツだぜ。蹴りが無いけどいいんかよ?」
「康平ちゃんは、私に入部して欲しくないみたいだね」
「そ、そんな事言ってねぇだろ……!」
慌てて言い返した康平に、弥生は再びヘッドロックをかます。
二人の様子を、亜樹と綾香は呆然と見ていた。
「おい、二人が呆れてるぞ」
弥生は亜樹達を見てヘッドロックを外した。
「あ、ごめんなさい。つい康平ちゃんを見るとイジメたくなっちゃってね。……グローブを付けてのパンチを覚えるんだったら、ボクシングがいいかもって兄貴が言ってたからさ」
「お前の兄貴は元キックボクサーだもんな」
「アハハ、今はセクシーなビールっ腹だけどね」
勉強を始めそうにない雰囲気だったので、亜樹が口を開く。
「……ねえ、そろそろ勉強始めよっか」
「ホント、康平ちゃんがいると勉強ならないよ。……山口さんでいいんですよね? 勉強教えて貰いたいんで、私達はあっちの机に行きましょうよ」
弥生は頷きながら、亜樹を強引に少し離れた机へ引っ張っていった。
苦笑しながら席を立つ亜樹を見て綾香が言った。
「強引なコね。……康平の幼馴染みなの?」
「ただ家が近いだけだし、中学ん時は殆んど話さなかったけどな」
「へぇー、そうなんだ。私達も勉強しようか。……言っておくけど、亜樹みたいに勉強は教えられないからね」
康平は、亜樹から教えて貰う予定だった数学を諦め、別の教科を机に出した。
昼時になると、弥生は空手の練習に行くと言って図書館を出ていった。
亜樹と綾香は持参した弁当をロビーで食べ、康平は昼食を摂りに一旦家へ戻った。
彼が図書館へ戻ると、二人の他に鳴海那奈が一緒に勉強していた。彼女は青葉台高校ボクシング部のマネージャーで、坂田裕也と付き合っている。
椅子に座った康平に那奈が言った。
「康平、久し振りだね。うちのボクシング部は、今日の午前中まで合宿だったんだ」
「あれ、裕也は一緒じゃないの?」
「裕也は、まだ学校で自主練してるよ。キャプテンと二人だけなんだけどね」
康平に訊かれて、那奈はノートに書きながら答える。
他の二人も黙々と勉強しているのを見て、康平も椅子に座った。
綾香と那奈の前では、数学を亜樹から教えて貰えそうになかったので、康平は別の教科を机に出した。
午後三時まで勉強をした三人は、ロビーで休憩をしていた。
図書館に入った裕也が、そこに歩いていく。
「裕也遅いよ。ここは五時で閉館だから、あと二時間しか勉強出来ないわね」
「ごめんな。キャプテンが練習に付き合ってくれてたからさ」
那奈に言われて裕也は頭を掻いた。
閉館になって四人が図書館を出た時、裕也が康平に話し掛けた。
「うちのキャプテンは、スゲェいい人でさ。減量がキツイんだけど、俺の為にライト級(六十キロ以下)まで落とすんだぜ」
「裕也の為にライト級?」
康平は首を傾げる。
「ほら、お前んところには相沢さんがいるだろ? 三年が抜けたライト級じゃ優勝候補だからさ。国体予選じゃ、決勝までいったしな。俺はライトウェルター級(六十四キロ以下)で出るんだけど、あそこは飛び抜けて強い奴はいないからさ」
「そうか。……けど、それだったら後輩の裕也が減量するんじゃねぇの?」
「本当はな。今回は事情があってそうなったけど、……まぁ、新人戦が終わったら話すよ」
裕也は、そう言って康平達と別れた。
彼について行こうとした那奈だったが、別れ際に三人へ言った。
「裕也は、最近ボクシングの事ばかり話すのよねぇ。好きなのは分かるんだけど……。機会があったらまた一緒に勉強しようね」
那奈は、小さく手を振りながら裕也の後を追い掛けていった。
康平達もそれぞれ家へ帰っていく。
夜の十時頃、康平の家で電話が鳴っていた。
気付いた康平が受話器を取ると、亜樹の声だった。
【今日はお疲れ様! 数学教えられなかったね】
【いいよ別に。お願いした訳でもないしさ】
【あらぁ、最初机に数学を出してたのは、私に教わる為だったんじゃないの?】
【ま、まぁな】
【頑張ってよ! 君の成績アップは私も期待してんだからね】
【携帯は欲しいから言われなくても頑張るけど、何で亜樹が期待すんの?】
康平が訊くと、亜樹は間をあけて言った。
【早く君に携帯を持って欲しいのよ。康平んちに電話するのは、私だって緊張すんだからね】
【あぁ、そうだよな。……ところで用事ってそれだけ?】
【え、えっとねぇ……弥生ちゃんは本気でボクシングをやりたがっていたけど、先生にちゃんと訊いといてあげてね】
【勿論明日訊くさ。あいつは暴力娘だからな。訊いてなかったら、何されるか後が怖いよ】
【……ついでに訊くけど、弥生ちゃんとは幼馴染みなの?】
【それ綾香にも訊かれたけど、ただ家が近いだけさ。最近偶然に会ったんだよ】
【そうなんだ。彼女は今まで勉強していないだけで、頭の回転はいいみたいね】
【じゃあ、うちの高校に入学出来そうなの?】
【たぶんね。彼女、一旦勉強を始めたら、凄く集中してるしさ】
【そうなんだ】
【合格したら面倒みてあげるのよ。康平センパイ!】
亜樹は、クスリと笑って電話を切った。