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「こんぼう」から「どうのつるぎ」へ


 九月二十九日の火曜日。放課後になり、ボクシング部員達は練習の準備をしている。


 ボクシング場での準備運動が終わり、一年生達はいつものように第二体育館へ行こうとした。


「高田と白鳥はちょっと待て」


 飯島が二人を呼び止め、話を続けた。


「今からお前らに、『だっちゅうの理論』を教えるつもりだ。……ついでに『達磨落とし』の話もしちゃおうかな」


 梅田が話に加わる。


「飯島先生、あの二人に教えて貰ってもいいですか? ……この話は、私よりも先生の方が上手く話せますからね」


「構いませんよ。片桐と有馬、お前らもコッチへ来い」


 第二体育館へ行こうとしていた健太と有馬も、飯島の元に歩いて行く。



 集まった一年生達に飯島が話し出す。


「今日はお前らのパンチの威力を上げようと思ってるんだが、片桐と有馬は『だっちゅうの』って知ってるか? 高田と白鳥は知らないみたいだったんだがな」


 健太と有馬は、飯島が何を言っているのか分からず、不思議そうな顔をした。


「なんだお前らも知らんのか? ……年代が違うんだろうな」


 飯島は一瞬悲しい顔をした後話を続けた。


「この間高田と白鳥には話したんだが、『だっちゅうの』は、ある巨乳タレントが胸を強調するためにやっていたポーズなんだ」


「きょ、巨乳……ですか? 真面目な話なんですよね」


 健太が訝しげな表情になった。


「俺は大真面目なんだよ。ただ、これから教えるのは俺流にアレンジしたヤツだからな。早速『だっちゅうの』のポーズを始めるぞ! お前ら下に腕を伸ばしてみろ」


 飯島の指示に従い、四人の一年生は下に腕を伸ばす。


「四人共、腕を体の前に出して伸ばせ。……銭湯や温泉に行って服を脱いだ時、大事な所を隠す感じだ」


 四人のポーズを見た飯島は、新たに指示を出す。


「よーし、拳を握って両腕を内側に捻ろ! 両手の人差し指の付け根が触れるまで捻るんだぞ。……有馬、今肩関節はどうなってる?」


「肩関節ですか? ……両方共、前に出ている感じです」


「他の者はどうだ?」


「有馬と同じ様な感じです」


 健太が答えると、康平と白鳥も頷いた。



「よしよし、その前に出た肩関節の状態を意識して、両腕を水平になるまで上げるんだ。そして、そのままサンドバッグを歩きながら両拳で押してみろ」


 四人は飯島から言われた通り、近くにあるサンドバッグを両拳で押す。


「白鳥、どんな感じだ?」


「……腕がつっかえ棒のようです」


「高田はどうだ?」


「僕も白鳥と同じです」


 飯島は健太と有馬にも訊き、白鳥と同じ状態になっている事を確認すると、再び四人に話し始めた。


「お前ら、肩関節を前に出す感覚は分かったな?」


「はい」


「今度はやり方を変えるぞ。有馬、俺の所へ来い」


 有馬が飯島の前に出る。


「有馬、肩関節を前に出す感じでリキまずに右腕を伸ばしてみろ。……拳は握るんだぞ」


 飯島が右手で、有馬の右拳を強い力でグイグイ押す。有馬は体全体が押され、バランスを崩していた。


「今度は胸を反りながら右腕を伸ばしてみろ。いいか、腕はリキむんじゃないぞ」


 有馬は言われた通りのポーズをした。飯島は、再び有馬の右拳を強く押し返した。


 すると、さっきと違って有馬のバランスは崩れず、彼の右肘だけが後ろに押し返されていた。



「よーし、他の者もやるからな」


 飯島は、有馬に続いて健太、白鳥そして康平の順に右拳を押していく。


 三人共、有馬と同じような状態になった。


 肩関節を前に出して腕を伸ばした時は、体全体が押されてバランスを崩し、胸を反って腕を伸ばした時には右肘だけが押し返されていた。


「どうだ! 違いが分かるか?」


「……肩関節を前に出すと力が逃げないって事ですか」


「お、いいぞ白鳥! 俺がお前らの拳を押した時、肩関節を前に出した状態だと、お前らは体全体を押されてバランス崩したろ?」


「はい」


「という事はだ、拳に加えた力が体に伝わってるって事さ。逆に言えば、体全体で生み出したパワーが効率よく拳に伝わるんだよ」


「じゃあ胸を反ると駄目だって事ですよね」健太が確認する。


「そうだな。胸を反ると特に肩甲骨が動き易くなるんだよ」


「ケンコウ骨……病気に関係する骨ですか?」


「……有馬、ちょっとオイシイぞ。肩甲骨ってのは、両肩の後ろにある大きな骨だよ」



 飯島は、考える様子だったが再び話し出す。


「分かり易く教えたいから誰か必要だなぁ。……高田、Tシャツを脱いで俺の前に来い」


「え、みんなの前で脱ぐんですか?」


 康平は、自分だけが服を脱ぐ事に躊躇した。


「何尻込みしてんだよ。いつも更衣室で裸を見られてんだろ。……誰もお前の裸を見てトキメク奴はいないんだから安心しろ!」


 康平は渋々Tシャツを脱ぐ。



「高田、俺の左手に左フックを打つポーズで押してみろ! 今度は左腕に力を入れてもいいぞ」


 飯島は、そう言って左手を横に向ける。そこに康平が左拳を押し付けた。



「そこで胸を開いてみろ」


 康平は言われたように胸を開くと、飯島は康平の左拳を強い力で押し始めた。


 すると康平の拳が押し戻されていった。腕に力を入れているので、フックを打つ為に曲げた腕は変わらないのだが、胸がドンドン開いていく。



「お前ら高田の背中を見てみろ」


 健太達は康平の後ろに回った。


 飯島は、更に康平の左拳を押しながら言った。


「動いている部分が分かるか?」



「左側の肩甲骨ですよね」健太が答える。


「そうだ。胸を開いてフックを打つとこの肩甲骨が動くんだ。という事はだ、折角パンチが当たっても、その衝撃は動いた肩甲骨から逃げてしまうんだよ。理屈は分かるな?」


 飯島の話に、康平を除いた三人は納得したようだ。


 康平に飯島が訊いた。


「高田は感覚で分かったか?」


「何となく分かりますが、やっぱり目で見てみたいです」


「そうか。……じゃあ白鳥、お前脱げ」


「ぼ、僕ですか?」



 躊躇しながらも、Tシャツを脱いだ白鳥に飯島が構える。


「高田と同じポーズで左拳を押し付けろ」



 康平は白鳥の動く肩甲骨を見て、健太達と同様に理解出来たようである。



 飯島が再び口を開く。


「全員理解出来たな? お前らの頭の中を整理する為に俺から質問するぞ。……有馬、力が逃げないようなパンチを打つにはどうするんだ?」


「パンチを打つ時に肩関節を前に出す事と、胸を開かない事です」


「よーし。一番成績の悪いお前が分かるんだったら、全員理解出来たって事だ。お前らも理解出来たろ?」


 康平と健太、そして白鳥が笑うに笑えないような顔で頷いた。



 有馬が言い返した。


「ひでぇッスね。でも、うちの部はテスト休みが無いんですよ。それがあれば少しは成績が上がると思うんですけど……」



 飯島は複雑な表情で答えた。


「……テスト休みは微妙な時期なんだよな。インターハイ県予選が一学期の中間テストの約一週間後で、国体県予選が期末テストの約一週間後だ。そして新人戦の県大会も今の中間テストの約一週間後だ。練習の仕上げをしたい時期にテスト休みなんだよ。……お前ら試合に勝ちたくないか?」


「先生。そんな言い方されたら、テスト休みが欲しいって言えないじゃないですか」


 有馬に飯島が言った。


「まぁそう言うなって。今は練習中だからボクシングに集中しろ。……さっきまでは力が逃げない打ち方を教えたが、今度は効くパンチの打ち方を教えるぞ」



「力が逃げない打ち方をすれば、相手に効くんじゃないんですか?」


 健太が質問をした。



「俺から言わせるとそれだけじゃ駄目なんだよ。この間、梅田先生がパンチで倒れる仕組みを話したんだが憶えているか?」


「……瞬間的な脳震盪の話ですか?」


「何だか怖いッスよね」


 康平に続いて有馬が言った。



「そうだな。怖い事だが事実なんだから仕方がない。……だからあまり打たれるんじゃないぞ。今までお前達には、パンチを打たせる時にフォームをうるさく言ってきたな」


「はい。特に六対四(前六後ろ四)のバランスとパンチを打つ軸は、耳にタコが出来る程言われました」


 答えた健太に飯島が笑いながら言った。


「アホ! お前達はまだ不完全だからこれからも言われるんだよ。……それはともかくだ。フォームには注文してきたが、パンチの質については今まで何も言ってなかった訳だ」


「これからは、それを変えていくんですか?」白鳥が訊いた。


「そうだ。今のままだと、お前達のパンチはまだドスンパンチの状態だ」


「ドスンパンチ……ですか?」有馬が訊く。



「要は押すパンチって事さ。こういうパンチは、打ってる方からすれば強く打ったつもりでも、貰った方は案外効いていない場合が多いんだよ。特に顔面だがな」


「押すパンチだと、脳震盪が起こりにくいんですね」


「今有馬が言った通りで、押すパンチだと相手は脳震盪を起こしにくい。……そこでだ、これから効くパンチの打ち方を教えるんだが、ところでお前達、『達磨落とし』って知ってるか?」



「木槌で積み木みたいなのを叩くやつですよね」


 康平が答える。



「そうそう。その『達磨落とし』なんだが、上手くやれるコツは分かるか?」


「当たった時、すぐに引くと上手くいった気がします」


「よーし、いいぞ白鳥。これで俺も話易くなった。顔面を打つ時は引きが大事なんだ。ストレートを打つ場合は特にだ。……さっき言った『達磨落とし』なんだが、上手くいった時はすぐに引いてスコーンと抜けるような感覚なんだよ。パンチも同じように打って欲しいんだが……俺の言いたい事が分かるか?」



「…………」


 一年生達は顔を見合わせた。どうやら理解しきれていないようである。



「と、とにかくだ。強いボクサーになる為には、理屈が分からなくても練習をする素直さが大事なんだ。……効くパンチは力業ちからわざじゃないって事を今から教えるからな。お前ら鏡の前に並べ」


 飯島はそう言って、強引に一年生達を鏡の前にいかせた。


 ある意味彼の力業であった。


 鏡の前へ並んだ康平達に飯島が言った。


「鏡の前で構えてみろ。腕の力を抜けるだけ抜け。そして手を開いたまま左右のストレートを打つんだ」



 四人の一年生達は、それぞれパンチを打ち始める。それを見て飯島がアドバイスをした。


「お前らもっと力を抜くんだ。威力の事は一切考えるんじゃないぞ。……自分の手を放り出すような感じでパンチを出してみろ」



 パンチを出し続ける一年生達に、再び飯島が言った。


「手の重み感じるまで力を抜くんだぞ」



 二ラウンド続けた時、四人は何とかコツを掴んだようである。



 ラウンド終了のブザーが鳴った後、健太が飯島に質問した。


「先生。手を放り出す感覚は分かったんですが、こんなパンチで効くんですか」


「いや、効かないだろうな」


 四人は意外な表情になった。



「先生! それじゃあ、この練習は意味無いんじゃないですか?」


 言い返した有馬に飯島が答える。


「話は最後まで聞けよ。効かないのは、あくまで素手で打った場合だ」



 再び有馬が訊いた。


「グローブを付けると変わるんですか?」


「グローブはある程度重いだろ。その重みで威力が出るんだよ」



 今度は康平が疑問をぶつけた。


「アマチュアのグローブは柔らかいですよね。逆に威力が無くなりそうな気がするんですけど……」


「確かにアマチュアのグローブは柔らかいから痛みだけは半減する。……だが痛いイコール効くパンチじゃない事は分かってるよな」


「……はい。脳震盪ですよね」


「……まぁそれだけじゃないんだが、そう思っててもいいだろう。ところでだ……口で説明するのも限界があるからお前らグローブを付けろ」


 飯島はそう言って、自身もミットのある場所へ歩いていく。


 そして四人がグローブを嵌めたのを確認すると、飯島は全員に言った。


「これから、さっきみたいな感覚で打って貰うぞ。……いいか、ミットにパンチが当たる時でも拳は握るんじゃないぞ。まずは高田からだ」



 康平が構えると、飯島が再び話し出す。


「高田、まだ体に力が入ってるぞ。もっと脱力して構えろ。構えると力が入るようだったら、少しフォームを崩してもいいぞ。……言っておくが今だけだからな」


 康平は、頬骨の高さまで上げていたガードを顎の先端の高さに下ろした。彼は、腕と肩に入っていた余計な力が抜けたようである。


 それを見て飯島が言った。


「まぁこんな感じだろ。今からパンチを打つんだが、いきなりワンツーでいいぞ。それと、今日は目隠しじゃないワンツーだ。……もう一度言うが、パンチが当たる時も拳は握るんじゃないぞ」



 そして飯島は、口の前で左右のミットを並べて構える。


 康平はそこに向けてワンツーストレートを放つ。だが、ミットから快音が出ることはなかった。


 飯島は、普段とミットの受け方が明らかに違っていた。


 いつもなら、生徒のパンチが当たる瞬間にミットでグッと押さえ付ける。


 そのおかげでパンチを打った方にも当たった感触が残り、「パーン」とミット特有の乾いたような音が高く出ていた。



 だがこの時の飯島は、パンチが当たる瞬間にミットで押さえ付ける事をしなかった。


 彼が両手首に力を入れないでパンチを受けるので、ミットはパンチの方向に流されていく。



 バスバスッ!


 ミットから出る音が湿っている。



 三度同じ音を出した康平に飯島が言った。


「高田はまだ腕の力でパンチを出してるぞ。だからまだ押すパンチなんだ。威力の事は考えないで、グローブを放り出すような感じで打ってみろ」



 返事をした康平が、何度目かのワンツーストレートを打った。


 パンパン!


 ミットから乾いたような音が出た。



「おっ、いい感じだ! 高田、お前この感覚分かるか?」


「……あまり上手く言えないんですが、パチンと弾くような感じですか?」


「まぁそんな感じだ。忘れないようにもう一度やるぞ!」



 康平は、飯島に言われて再びワンツーストレートを繰り出す。



 バスバスッ! 


 湿気たミットの音が鳴り、飯島が言った。


「力むんじゃないぞ。もっと楽な気持ちで拳を投げるんだ!」



 康平がもう一度ワンツーストレートを放つ。飯島が言った事を意識したのもあってか、今度は乾いた音がミットから出た。



 飯島が全員に話す。


「高田は手こずったが、これはいい加減な気持ちでグローブを放り投げると上手くいくからな。次は片桐の番だ」



 健太が飯島の前に出てワンツーストレートを打つ。彼はサウスポーなので、右ジャブから左ストレートのコンビネーションである。


 パンパン!


 健太は最初から上手く打てたようで、ミットから高い音が出た。


 飯島が感心しながら言った。


「片桐いいぞ! お前、いい加減に打つのは上手いな」


「先生、褒められてもあまり嬉しくないんスけど……」


「何言ってるんだ。俺は素直に褒めてんだよ。いい加減に打つってのは結構難しいからな」


「先生、それやっぱり褒めてないッスよ」


 健太はそう言いながらも、嬉しそうな顔でいい加減なパンチを繰り出していた。



 その後、有馬と白鳥のミット打ちが続く。


 有馬は健太程ではないが、二度目のワンツーストレートを打ってコツを掴み、ミット打ちが早く終わった。


 白鳥は飲み込みが悪く、誰よりも多くワンツーストレートを放ち、ようやくミットから高い音が出るようになった。


 四人のミット打ちが終わり、飯島が一年生達に言った。


「今のミット打ちは、『キレる』パンチを教える為にやったんだ。どうだ、分かったか?」



 沈黙していた四人だったが、健太が口を開く。


「『キレる』ってあまりピンとこないんですけど、さっき康平が言ったようにミットを弾く感じでいいんですか?」


「そうだなぁ……『キレる』と言うのは言葉では説明しにくいんだが、そう思って貰っていいぞ」



 有馬も質問に加わった。


「でも、今のミットの打ち方のままじゃ相手に効かないですよね」


「そりゃそうさ! 今は軽く打たせたし、拳も握らせていないからな」



 有馬に答えた飯島だったが、白鳥の冴えない表情に気付いたようだ。


「……ん? 白鳥、何か言いたそうだな」



 白鳥は、さっきのミット打ちが上手く出来なかったのもあってか沈んだ声で言った。


「先生。パンチは今ミットで打ったように、弾く感じで打たなければ効くパンチにはならないんですか?」


「白鳥はアレを中々打てなかったからな。……心配すんなってぇ。うちには、全く違った打ち方をする奴もいるからな」


 飯島はそう言って、練習している二年生達の方をチラっと見る。



 健太がそれに気付いて飯島に訊いた。


「誰なんですか?」


「ん、訊きたいか?」


「はい」



 頷く健太に飯島は笑いながら言った。


「これは口で説明するより、お前達が体で理解する事だからな。もうすぐスパーリングだろ?」


「体で理解する……って事は、パンチを貰うって事ですよね」


「まぁそういうスポーツだからな。……最初はスパーリングに馴れるまで苦労するだろうから、我慢するんだな。話は変わるが、さっきのミット打ちはいつもと違ってただろ?」


「はい。先生がミットで合わせてくれないので、手応えが無かったです」


 答えた健太に飯島が再び話し出した。


「今回のミットは、軽い物を打たせるイメージでワザと受け流したんだよ」


「軽い物……ですか?」


「まぁ頭の事なんだがな。……まさか首を切る訳にはいかないから量った事は無いが、頭の重さが三十キロの人間は中々いないと思うぞ」



「頭は軽いって事ですよね?」


 確認した有馬に飯島が答える。


「俺の言い方が悪かったな。……頭は軽いと言うより、首の骨を軸にして揺れやすいんだよ。特に首に力を入れないとそうなる。そして、激しく揺れたら脳震盪を起こして倒れるって話さ」


「だったら、ずっと首に力を入れていれば揺れないんじゃないんですか?」


「有馬、そりゃ無理な話だよ。首に力を入れたままだったら、体も力んでしまって戦えないぞ」


「あ、そうですね」


 納得して頷いた有馬だったが、彼は思い出したような表情になった。


「先生。さっきの質問にまだ答えて貰っていないんですが……」


「ん、何の話だっけ?」


「ほら先生、さっきのミットで打った打ち方じゃ効かないって話ですよ」


「あぁそうだった。あの話は中途半端になってたっけな。……話を戻すが、さっきのミット打ちでは効かないって事は、みんな聞いてたんだよな」


「はい。拳も握ってなかったですしね」


「まぁ『キレる』パンチの感覚を教えたかったからな。っで、効くパンチにする為には当たる瞬間に拳を握るんだが、さっきのミット打ちでやったように、腕の力を抜いて拳を投げる感覚で打つんだよ。ストレートに関してだけどな」



 飯島の話を聞いていた四人だったが、康平が質問をした。


「先生。拳を投げる事は分かったんですが、軽く打つ感じでも効くんですか?」


 他の三人も同じ事を訊きたかったようで、小さく頷いている。



「軽く打ってたら効かないさ。だが、腕の力をは抜かなければならない。……そこでだ、ストレートで威力を出すのはここだ!」


 飯島はそう言って見本を示す。


 オーソドックススタイル(右構え)の飯島は、後ろにある右の太股から腰、そして右肩をキュっと捻る。


「この勢いで自分のグローブを弾き出すんだ。やってみろ」



 四人は飯島を真似てパンチを打ち始める。



 飯島は、それを見ながらアドバイスをした。


「ストレートは打ち始めが肝腎なんだ。太股から腰、肩の回転にもっと勢いをつけろ。そして腕の力は抜けるだけ抜くんだぞ」



 三ラウンド目、ストレートだけを打ち続ける一年生達に飯島が言った。


「腕が伸び切る瞬間に、手首を下にクイっと曲げてみろ」



 ラウンド終了のブザーが鳴り、健太が感想を漏らした。


「先生。手首をクイっと曲げると、パンチって自然に戻るんですね」



 飯島の口許がほころぶ。


「お、いい所に気が付いたな。腕の力を抜いて打ったストレートは特に戻り易いのさ。そして、自然に引いているパンチは顔面によく効く。……今日はコツだけ掴めばいいから、これから意識して身に付ける事だ」


「先生、ちょっといいですか?」


 有馬が一歩前に出た。


「ん、有馬どうしたんだ?」


「効くパンチの事は分かったんですが、どうして前から教えてくれなかったんですか? ……もっと前から教えてくれていたら、今時点で効くパンチが打てると思うんですけど……」


「……物事には順序ってもんがあるんだ。今までのお前達は、六対四のバランスを始めとしてフォームを固める事が大事だったんだよ。お前達に効くパンチを最初に教えたら、そっちばかりを練習しちゃうだろ。地味なフォームチェックをオザナリにしてな」


「そ、そうかも知れないです」有馬は渋々頷いた。


「フォーム作りは、何発パンチを打とうがディフェンスをしようが、バランスが崩れないように、最優先で身に付けなければいけない事だったんだよ。……ゲームで言えば、壊れない武器を手に入れる為さ」



「先生、ゲームやるんですか?」健太が訊いた。


「昔はよくやったよ。今は息子の相手をしてるんだが……。おっと、話が脱線しちゃうと練習が進まなくなるから本題に戻るぞ。ところで……」



「先生。今の僕達の武器ははどんなレベルなんですか?」


 康平が話に割り込む。最近はあまりやっていないが、元来彼もゲーム好きである。



「おいおい、脱線して練習が遅れてもメニューは減らさないからな。……お前達のパンチは、まだキレが無いから『こんぼう』だな。これからパンチの質を磨いて、『どうのつるぎ』を手に入れていくんだ」


「えー、まだそんなレベルなんですか?」


 健太がガッカリした表情で言った。



「そりゃそうさ。今日からキレるパンチを覚え始めたんだからな。『はがねのけん』なんかはまだ先の話さ」



 飯島の話を聞いて、有馬と健太、そして康平がニヤニヤしている。



「なんだお前ら、何ニヤついてんだ? 気持ち悪いなぁ」



「先生、あのゲームだったら『はがねのけん』じゃなくて『はがねのつるぎ』ですよ」


「それに、『はがねのつるぎ』の前には『くさりがま』もあるんですからね」


 康平に続いて有馬が言った。



「そうだっけか? 最近息子と別のゲームをやってんだが、『お父さん、いい加減武器の名前を覚えてよ!』って怒られるんだよ」


「先生、武器の名前は覚えた方がいいですよ。息子さんだって、仕方無く付き合われているのが分かったらガッカリしますからね」


「片桐の言う通り、これからは武器の名前を覚える事にするか。……ところで、お前達にも覚えて欲しいのもあるんだがな」



「『キレる』パンチですか?」有馬が言った。


「そうだ。長々と説明したが大事なポイントは三つだ。片桐、答えてみろ」


「いい加減に打つ……んじゃないですよね」


「間違ってはいないんだが残念ながら違うな。白鳥、今度はお前だ」


「腕の力を抜く事と、パンチが当たる瞬間に手首を下へ折る事……でいいんですか?」


「お、いいぞ白鳥。これで二つ答えが出たぞ! 高田、パンチの威力を出す為にはどうするんだ?」


「……足と腰、肩の回転で自分の拳を弾き出してパンチを打つ事です」


「今、白鳥と高田が言った三つのポイントを意識してこれから練習していくんだな。……これから第二体育館に行って練習開始だ」


 飯島はそう言って、第二体育館へ歩いていった。




 練習が進み、一年生達が補強運動を始めようとした時、再び飯島が口を開く。


「お前達は、これから腕立てをしなくていいぞ」


「え、マジっすか。……でも、どうしてですか?」


 メニューが減ったせいか、有馬が嬉しそうに質問した。



「おいおい、やけに嬉しそうだな。さっき梅田先生と話したんだが、今日は力が逃げない打ち方を教えたよな」


「はい。肩関節を前に出す事と胸を開かない事ですよね」


「お、いいぞ有馬。即答出来るって事は、頭では理解してるって事だ。……腕立ては、肩や腕の他に胸の筋肉も鍛えられるから今日から中止なんだ」


「胸を開かないようにする為ですか?」白鳥が訊いた。


「そうそう、胸の筋肉に力を入れてパンチを打つと、どうしても胸が開き易いからな」




 すべての練習が終わり、梅田が一年生達に言った。


「お前達は明日練習が休みだが、これからは日曜日が休みだ。土曜日も二年生と同じ時間で練習するぞ。……理由は分かるな?」


「スパーリングをする為ですよね」


 有馬が答えると、他の一年生達はジッと梅田を見ていた。



「そうだ。十月からスパーリングをするのは前から言っていた事だが、来週の月曜日から始めるからな」



 梅田に続いて、飯島が明るい感じで言った。


「心配すんなってぇ。二年生達には、ライトスパー形式で手を抜かせるからさ。……いいかぁ、一発でもいいから二年の奴らにパンチを当ててビックリさせてやるんだぞ」



 飯島をチラっと見る三人の二年生に気付いた康平達は、何と答えたらいいか分からず、

「お、お先に失礼します」

と言って練習場を出ていった。


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