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朝の出来事

 康平の六月上旬から始まった朝のランニングは、九月下旬になった今でも続いている。


 夏休みは深いワケがあって四時から走る羽目になってしまったが、普段は朝の五時に起き、七キロの距離を四十分程時間をかけ、ユックリ走る。


 七月下旬までは、雨が降っていると喜んでランニングを休む康平だった。だが、今は走らないと体がスッキリしないようで、雨の日でもカッパを着て走っている。



 二週間程前、彼は絶好のシャドーボクシングスポットを見付けていた。母親に頼まれた用事で、歩いている最中に偶然見付けた場所である。


 それは、自宅から歩いて五分程離れた場所にある散髪屋だ。四台程入る駐車場の奥に「BarBarくりはら」という名前の店舗があり、前面がマジックミラーになっている。


 康平の体が疼く。


 部活の際、鏡の前でシャドーボクシングをする機会が多い康平は、自分を鏡で見るとパンチを打ちたい衝動にかられるようである。


 その翌日から康平は、ランニングの後にこの場所へ来て、シャドーボクシングをする事が日課になっていた。


 今日も康平は、ランニングを終えてその場所に向かった。



 康平は駐車場へ入り、「BarBarくりはら」の中に誰もいない事を確認すると、マジックミラーを見ながらシャドーボクシングを始めた。


 左ジャブから始まり、ダッキングや数日前に教わった左のダブルパンチ等、習った技を確認していく。


 そこは住宅街で元々静かな場所ではあったが、朝六時前のこの時間は特に静かで、小鳥の鳴く声だけが聞こえてくる。




 タ、タ、タ、タ……。


 誰かの走る音が康平に聞こえた。


 恥ずかしさもあって、人前でシャドーボクシングをしたくない康平は、マジックミラーの前で行っている行為を屈伸運動に切り替える。


 中年の女性が、Tシャツと短パン姿で「BarBarくりはら」の前の道路を走り抜けていく。どうやらジョギングのようである。


 しばらく康平は、シャドーボクシングを続けていた。



 カッ……、カッ……。


 今度は杖を突くような音が康平に聞こえた。再び彼は屈伸運動を始める。


 マジックミラー越しに康平は後ろの様子を見た。


 八十歳を越えているようなお爺さんが、腰を九十度に曲げ、杖を突きながら散歩していた。


 その老人は、康平をじっと見ながらユックリと歩く。


 康平は、マジックミラーを通してお爺さんと目が合ってしまった。黙っているのも気まずいと思い、後ろを振り返って挨拶をする。


「お、おはようございます」


 だがその老人は耳が遠いのか、何の反応も無く、康平をジーッと見ながら小さな歩幅で歩いている。


 康平は挨拶が空振りに終わり気恥ずかしくなった。もう一度会釈をしてから店の方を向き、屈伸運動を再開する。


 お爺さんが通り過ぎるまで、二十七回も屈伸運動をしてしまった康平は、再びシャドーボクシングを始めた。



 しばらく続けていたが、最後はフォームチェックに入った。これは部活でも行っているもので、構えからフットワーク、個々のパンチやディフェンス等、一つ一つの動作を確認していく。



 康平は左フックを振り抜いたポーズをした。左肩で左顎を隠すようにし、右腕は窮屈な程絞って右顎とボディーをガードする。


 プロのKOパンチの中でも、七割近くがこのパンチだと先生に教えられているので、入念にフォームチェックをしていた。


 その時康平が見ているマジックミラーに女の子がフッと映った。


 康平は咄嗟に振り抜いた左腕を右腕で抱えるようにして、あたかも左肩の筋肉を伸ばすストレッチングをしているフリをする。


 女の子は「BarBarくりはら」の前を通り過ぎずに路上で立ち止まり、康平の方をジッと見ていた。



「あれ、アンタ康平ちゃんじゃない?」


 上下がピンクのジャージで黒髪ショートカットの女の子は、そう言って康平に近付いていく。


 康平は誰だか分からず悩んでいた。


「康平ちゃん私だよ。昔はよくアンタを苛めてたじゃん」


 やや吊り上がった眉にタレ目気味の顔を見て康平は思い出す。


「お前弥生やよいか? 髪型変わったから分かんなかったよ」


「私を忘れるなんていい度胸ね」


 女の子はツカツカと康平に近寄り、右のローキックをかます。


「イテ! 何すんだよ」


 康平と話をしている女の子は栗原弥生くりはらやよいといい、康平の一つ年下の中学三年生である。小さい頃から空手を習っていたのでローキックには威力があり、康平は本気で痛がっていた。


 気が短い彼女は喧嘩っ早く、幼稚園と小学校二年の時に康平は二回ずつ泣かされている。


 登下校が同じ班だったので小学生の時は一緒に遊ぶ時もあった。


 中学生になると、彼女はガラの悪いグループとつるむようになり、茶髪のロングヘアーにした弥生は率先して問題を起こしていた。


 中学時代の康平はやや真面目な方だったので、彼女と話す機会は殆ど無く、これが四年ぶりの会話となる。


 久しぶりに話すのが懐かしいのか、弥生は笑顔で話す。


「うちのひい祖父ちゃんから『変な少年が営業妨害してるから、とっちめてくれ』って頼まれたんだけど、康平ちゃんだったんだね」


「この時間に営業妨害って、ありえなくね?」


「まぁね。うちのひい祖父ちゃんはモウロクしてっからさ。……ところで康平ちゃんは、こんな所で何やってたのよ」


「み、見りゃ分かるだろ! ストレッチだよ」


 康平は右に伸ばした左腕を右腕で抱えるような仕草をした。


「ふーん、……ストレッチをする為に、わざわざうちの店の前まで来たんだ」


「わ、悪いかよ。……でも弥生ンチってアッチじゃなかったっけ」


 康平は、北東の方角を指差して言った。それは、彼の家の方でもあった。弥生の家は、康平の家から歩いて百メートル程離れている。


「ここは年の離れた兄貴の店なんだ。ネーミングは超ダサだけどね。……ところで本当にストレッチの為だけでここにいるのかな? 隠すと為にならないよ」


 弥生は再びローキックを放つ構えをした。



「ま、待て! い、今正直に言うからその構えを止めろ」


「よーし、白状する気になったのね」


 両手を前に出しながら後ずさりして話す康平に、弥生はニヤリとして構えを解いた。



「こ、高校でボクシング部に入ってて、今シャドーボクシングをしてたんだよ」


「……ふーん」


 弥生は笑う様子もなく、真面目な顔で聞いている。


「あれ、笑わねぇのかよ? お前から見たら、ヘタレの俺がボクシングやってんだぜ」


「……私も空手やってるけどさぁ、こればっかりは分かんないんだよねぇ。おっとりしてるコが案外勇敢だったりするしね」


「あ、それ分かるよ。先輩にもそういう人がいるしな」


「……康平ちゃん高校どこだっけ?」


「永山だよ」


「そこのボクシング部って強いの?」


「弱くはないと思うぜ。今年は全国二位が二人もいるしな」


 康平は照れ臭かったのか、鼻の下を指で擦りながら話す。


「何も康平ちゃんが強いって訳じゃないでしょ! 何勝ち誇ってんのよ」



 ドゴ!


 弥生の中段突きが康平のみぞおちに入った。


「ゲホゲホ……、お前会話の最中に暴力を混ぜるのは勘弁してくれよ」


「ゴメンゴメン。……でもボクシングやってんなら避けなさいよ。それに、もっと腹は鍛えておかないと駄目なんじゃない?」


 弥生は尚も話を続ける。


「私今、フルコンタクト空手やってるんだけど、顔面パンチ禁止で少し物足んないだよねぇ。……ボクシングは顔を殴れるし、チョット興味あるんだ。私も永山高校に行こうかなぁ」


「相変わらず野蛮だな。それはそうと、弥生は公立高校入れんのかよ? 俺が中学にいた時も、何かと問題起こして職員室に呼ばれていたしさ」


「康平ちゃんが卒業してからは、私更正したんだよ。髪も黒くしてバッサリ切ったからね。どう……似合う?」


 弥生はショートカットの黒髪を掻き上げた。


「そ、それはどうでもいいとして……ゲホ」


 弥生の前蹴りが康平のボディーに入る。


「ゲホ……勉強の方はどうなんだよ? 授業は結構サボってたんじゃねぇの?」


「問題はそこなのよねぇ。……康平ちゃん、次の日曜日にでも図書館で勉強教えてよ」


「俺が教える! ……む、無理だよ。俺も友達に教えて貰ってんだからさ」


「康平ちゃんには頭のいい友達いるんだね。彼はイケメン?」


「……女の子だよ」


「え、マジ? それって彼女?」


「い、いや、そういうんじゃないと思うけど、……友達かな」


「なぁに気取っちゃってんのよ! 土日は図書館で勉強してるから、来た時は教えてよ。……その代わり、ここでシャドーボクシングをするのは私が許可するからさ」


 弥生はそう言って家に帰っていった。


 康平も、今度は本当にストレッチングをして家に帰った。


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