先輩の忠告
球技大会は九月二十五日の金曜日に行われるが、その前日の昼休み、麗奈が康平の席に歩いていく。
「康平は、結局練習に参加出来なかったね。……まぁ部活だから仕方ないんだけど、……致命的な珍プレーだけはマジ勘弁だよ」
「俺だって迷惑かけないように頑張るけど、……もし不安なら少し出して引っ込めればいいじゃん」
「そんな事言っていいの? 亜樹が練習に付き合ってくれたんでしょ」
「え、何で知ってんの?」
「ゴメンね! 事情があって麗奈には教えちゃったのよ」
前の席にいる亜樹も、振り向いて話に参加してきた。
麗奈が事情を説明する。
「日曜日にさぁ、最後の練習をした後に話し合ったんだ。……で結局、全員半分ずつの時間を出ようという事になっちゃったのよ。……もちろん私は賛成しなかったよ! 亜樹と長瀬と私は、フルタイムで試合に出るつもりだったんだからね」
「へぇー」
ノンビリ聞いている康平に、麗奈が突っ込む。
「何他人事みたいに聞いてんのよ! 私が反対したのは康平が原因なんだからさ」
「えっ、俺?」
「ゴメン、ちょっと言い過ぎたかな。……でも中学の時みたいに珍プレーを連発してたらマズイでしょ!」
麗奈は少し後悔したような顔になった。
「麗奈は、康平がヒンシュクを買わないようにって心配してたのよね。だから私が、練習してた事を麗奈だけに教えたのよ」
「フォローアリガトね! でも全員が半分ずつ出ようって言い出したのは、亜樹と長瀬だったのよ。……全員が主役になれるようにってさぁ」
「みんな、ケーキバイキングが懸かってんのに賛成したんだ」
康平は意外そうな顔をした。
「不思議でしょ! みんなに『それでいいの?』って訊いたら、練習が楽しかったからって変に満足しちゃって、ケーキバイキングはどうでもよくなったみたいなんだ」
「まぁ亜樹のお陰で、俺なりに週一回だけど練習したんだしさぁ。……少し足を引っ張るかも知んないけど、頑張るからよ」
休み時間が終わりのチャイムが鳴った時、麗奈はポツリと言った。
「うちのメンバーさぁ、練習の後にファーストフードへ行ったりして、みんな千円位遣っちゃっているんだよねぇ。……元を取ろうって思わないのかな」
亜樹と康平は、「きっと試合になったらみんな頑張るよ」等と交互に言ってなだめていた。
放課後になり、ボクシング部の練習も終わった者から順に着替えていた。
永山高校ボクシング部は、全員揃って練習を始めるわけではない。ボクシング場に来た者から、個々に練習を始める方式になっている。
特に二・三年生は、選手各々の課題と練習メニューが異なる理由もあって、そのような形にしている。
四人の一年生は着替えを終え、先生や先輩達に挨拶してから帰ろうとした時、三年生の石山と兵藤が梅田達と話をしていた。
そこに康平達が挨拶をすると、石山が呼び止めた。
「お前らもうすぐスパーするんだってな。最初は辛いかも知らねぇけど辞めんじゃないぞ!」
「おいおい、一年生が不安がる事は言うなよ」
飯島が苦笑しながら口を挟む。
「先生! こいつらに現実を教えて腹を決めさせた方がいいですよ。……実際にスパーリングやって辞める奴も少なくないんですから」
兵藤も石山に同調した。
「ボクシングはスポーツだが、実際は殴り合いの危険な競技だ! 俺は辞めたい奴を止める気もないからな。……二年にはライトスパー形式で相手をさせるから、まぁ何とかなるだろう」
「ライトスパーって何ですか?」
梅田の話に健太が質問をした。
「文字通り軽めのスパーリングさ! 六分目位のパンチで打つし、クリーンヒット(直撃)しても追撃をしないルールでやるんだよ」
梅田の代わりに石山が説明した。
「六分目のパンチと言っても食らうと痛えぞぉ。……それに二年の奴らにも感情があるからさぁ。あいつらにパンチが当たったら、六分目じゃなくて八分目以上の仕返しがくるだろうな。気を付けろよ!」
兵藤は人の悪い笑顔になっていた。
有馬が話題を変えて質問する。
「先輩方と一緒に黒木も国体に出るんですか?」
「黒木? ……あぁ、あのライトフライ級(四十九キロ以下)の奴だろ! 確かお前らと同じ一年だったよな。あいつも国体に出るんですよね」
石山は飯島に確認した。黒木は一年で県予選を勝ち抜き、インターハイに出場している。
「今回もライトフライ級で出るハズだ。減量は無いみたいだしな」
国体の全国大会は、ミニ国体と呼ばれる地方の予選で、成績上位の県が出場できる。だが、その県の全ての選手が出れる訳ではない。全八階級の内、県で推薦された五階級の選手だけが出場できる。
「黒木はインターハイでどこまで勝ち残ったんですか?」
白鳥が飯島に訊いた。有馬と同様体重が近い事もあり、黒木の事が気になっているようだ。
「三回戦で負けた。チャンピオンになった奴と当たったんだが、二ラウンドまでは互角だったよ。三ラウンド目、打ち合った直後に左フックを貰って倒されたんだ。それでストップされたんだよな」
「俺もあの試合は見ました。判定までいったら黒木が勝ってもおかしく無い試合でしたよ。……負けたのが余程悔しかったんでしょうね。控え室で一時間位すすり泣きしてましたよ」
兵藤に続き、梅田も話す。
「小さい頃から親父さんに教わっていたらしいからな」
「俺は階級が近いので、県の合宿中に奴と話す機会があったんですが、大崎とは二度と試合したくないって言ってましたよ。確か、県予選で判定までいったのは大崎だけだったよな」
「ひどいッスね! 負けたのは俺ッスよ。僅差の判定で負けたのは悔しいけど、俺だってあんな強いのとは二度とやりたくないッスよ」
石山に話を振られた二年の大崎は、柔軟体操をしながら答えた。黒木から敬遠されているのを聞いた為か、どこかホッとしている表情である。
「黒木は協和高校ですよね。あそこは部員も奴しかいないようですが、どうやって練習しているんですか?」
大崎と柔軟体操をしている二年の森谷が質問した。
「あの学校の近くには、アマチュアのボクシングジムがあるんだよ。そこで黒木は練習してるんだ。……それと黒木本人から聞いたんだが、奴の一つ下で沼津というのが強いらしいんだ。確かライト級(六十キロ以下)だって言ってたな」
「えーっ、マジッスか! 俺と同じ階級じゃないですか」
説明している飯島の後ろから、着替えを終えた相沢が悲鳴に近い声を挙げた。彼も二年生だ。
石山は笑いながらフォローした。
「安心しろ。俺も黒木から聞いていたんだが、沼津は強いがアホな奴らしいぞ」
「石山、そりゃ安心出来ねぇだろ。アホ対決じゃ相沢も負けてねぇと思うぜ」
「兵藤先輩ひでぇッスね! 俺が人間的にアホになったのは、スパーリングで三人の先輩に殴られたせいッスよ」
相沢は笑いをとっていたが、四人の一年生達は笑っていいのか迷っていた。
ひとしきりの笑いが終わった頃、梅田が口を開く。
「一・二年生が全員揃っているから丁度いいな! 三年生も国体で引退だし、新たなキャプテンを発表する」
突然の話だったが、二・三年生は誰がキャプテンだか知っているらしく、ニヤニヤしながら相沢を見ていた。
梅田が全員に話す。
「新キャプテンは相沢義則だ! まぁ基本的にボクシングは個人競技だから大した問題は無いと思うが、何かあったら相沢に相談しろ」
「おい相沢! 何か話せよ」
前キャプテンの石山が、茶化すような口調で言った。
「えー……俺はボクシング部の悪しき伝統に則って新キャプテンを押し付けられた相沢義則です。俺はそんなに才能も無いけど、誰かがインターハイ優勝出来るように、一緒に頑張れればいいと思ってます」
「何カシコマってんだよ」
「才能ねぇのは皆同じなんだよ」
相沢は他の部員に野次られ、恥ずかしそうに頭を掻いていた。
「キャプテン! 気になる事があったんですけど、『悪しき伝統』って何ですか?」
健太が早速、相沢新キャプテンに質問した。
「……梅田先生の前では言いにくいんだが、一番先生に怒られた奴がキャプテンをやらされるんだよ」
「えっ! それじゃあ今のままだと来年は僕がなってしまいますね。先生、これ以上怒られないようにするにはどうしたらいいんですか?」
「そんなのはテメェで考えろ」
うろたえて話す健太に、梅田は苦笑しながら答えた。
「ハハハ、先生が困ってるじゃねぇか。ただなぁ相沢もそうだけど、石山に比べたら怒られ度合いがまだまだ甘いんだよ。俺達が一年の今頃、石山は悲惨な位怒られてたんだよな」
笑いながら兵藤が話した。振られた石山は、気まずそうに口を開く。
「俺、今だから話しますけど……一年でスパーリングを始めた頃、あんまり怒られるんで毎日胃腸薬を持ち歩いていたんですよ」
「殴られるよりは怒られた方がよっぽどマシだろ」
梅田は困ったような顔をして言い返すが、飯島がフォローをした。
「そりゃ石山が悪いんだよ! あん時のお前は、打つ事しか考えていなくて防御がオザナリだったからな。あのままスパーを続けてたら、お前は二年になるまで壊されてたよ」
飯島の『壊されて』という言葉を聞いた為か、ボクシング場が一瞬沈黙した。
「……先生はマズイ事言っちゃったかなぁ」
飯島は苦笑いしながら呟いた。
「飯島先生。この際現実を、一年生達に教えてやった方がいいかも知れないですね」
梅田は一呼吸をした後、腹の底から出すような声で全員に語り掛ける。
「ボクシングは人の顔面を殴るろくでもないスポーツだ。顔面を殴られる事は頭部に衝撃がある事だ。……それは、取りも直さず脳に影響がある事なんだよ」
全員黙って話を聞いていた。梅田はゆっくりと話を続ける。
「一年生はまだ経験ないかも知れんが、顔面を打たれて倒されるのは主に瞬間的な脳震盪が原因だ。……つまり、一瞬だが普通に立っていられない位、脳にダメージを負う事なんだよ」
梅田が次に何を言おうか言葉を選んでいた時、健太が質問した。
「壊される、というのはパンチドランカーになるって事ですか?」
「……パンチドランカーは、生活に支障をきたす程の脳障害を受けた者を言うんだが、高校ボクシングは試合を止めるのも早いし、その心配はないと思う! 俺が言ったのは、あくまでボクサーとして壊される意味を言ったんだよ」
梅田に代わって飯島が答えた。
「……それはどういう意味なんですか?」
今度は康平が質問した。
「あまり打たれると倒れ易くなるんだよ。特に一度激しい倒れ方をすると、すぐにコロコロ倒される場合が多い」
飯島の話を特に一年生は黙って聞いていた。続いて梅田が話す。
「ボクシングはさっきも話した通り、脳に衝撃がある危険なスポーツだ。お前ら一年生はもうすぐスパーリングを始めるんだが、打ちにくくてもアゴを引いてガードを上げろ。それと打ち終わったら必ず動け! 分かったな」
一年生達は各々返事をした。重い空気を察したのか、石山が故意に話題を変えた。
「そう言えば明日は球技大会なんだが、お前ら何に出るんだ?」
康平と健太がバスケと答えたが、有馬と白鳥もバスケに出ると言った。
「なんだ全員バスケか。……じゃあ何も言う必要は無いな」
「えっ、何かあったんですか?」
石山に有馬が質問した。
「ソフトボールに出る奴がいたら忠告しておこうと思ったんだよ」
今度は健太が訊いた。
「ソフトボールに出ると何か問題あるんですか?」
「男はソフトボールの時、利き腕と反対でするルールだろ! 去年俺はそれに出たんだが、新人戦前なのに筋肉痛に襲われて苦労したんだよ。普段全く使わない筋肉を使ったからな」
「石山はそれだけの理由じゃねぇだろ! ……これ以上俺の口からは言えないがな」
「まぁボクシングをやると、球技が苦手になる奴っているんだよ。……俺も含めてだけどな」
笑いながら突っ込む兵藤に、石山は言葉を濁していた。