勇ましく逃げろ?
放課後、亜樹が康平に言った。
「今週の日曜日は、康平も練習が休みなんでしょ?」
「いや、日曜日は午後イチで練習だよ。明日だったら休みかな」
「そう……だったら明日市民体育館に行かない? 少しはバスケを教えられるからさぁ。……でも折角の休みなんだし無理にとは言わないよ」
「こっちからお願いするよ。体育でもバスケをする日があるからさ。それに麗奈は怒ると怖いからね」
二人が麗奈に視線を向けると、彼女は熱心にクラスメイトを勧誘していた。
康平が部活に行くと、飯島が一年生達に話し掛けた。
「今日は俺も第二体育館へ行くからな!」
(先輩達の練習は?)
疑問に思った四人の表情に気付いたのか、飯島は話を付け加えた。
「あいつらは昨日スパーリングだったからな。今日はマスボクシングとサンドバッグがメインの練習だから、俺がいなくても大丈夫なんだよ」
マスボクシングはスパーリングに近い実戦練習の事だが、寸止めで行うのでダメージの心配はない。
先輩達がマスボクシングをする様子を度々見ていた一年生達だが、素朴な疑問が湧いていた。
(なぜ、自分達はしないのだろう?)
「先生、マスボクシングは実戦に近い練習なんですが、一年生はまだやらないんですか? 少しは実戦の感覚を身に付ける事ができると思うんですけど……」
健太が堪らず質問をした。
こういう時に先頭きって質問するのは健太である。そのタイミングが悪くてミットで叩かれる時もあるが、他の三人の気持ちを代弁している時が多いので、康平達はかなり助かっていた。
飯島が言った。
「話せば長くなるから結論だけ言うが、うちはスパーリングに慣れてきてからやらせるつもりだ。……それより女バスの前では俺からミットで頭を叩かれんなよ。……今日、同じ体育の田嶋先生から苦情を言われたんだよ。あまりうちの部員達を笑わせないでくれってな!」
すかさず有馬が突っ込む。
「先生、だったら頭を叩かなければいいんじゃないんですか? 簡単な事ですよぉ」
「それは難しい問題だな。なんたってお前らは叩き易い顔をしてるからなぁ。……無駄に喋ってる時間はねぇから急いで着替えろよ」
飯島は笑いながら康平達を急かした。
飯島は梅田と対称的な性格で、練習中も冗談が多くテンションは非常に高い。
二人の先生から指導を受ける事はそれだけ練習がハードになる事を意味するのだが、ソフトな性格の飯島が練習に加わるので、一年生達は昨日よりリラックスした気持ちで練習の準備を始めていた。
第二体育館に集まった一年生達だが、飯島がタイマーを持ってきた。
「知り合いのボクシングジムの会長から貰ったんだよ! これで全員練習に集中できるぞ」
各々が準備できた事を確認した飯島は、床に置かれたタイマーのボタンを押しながら言った。
「まずはシャドー六ラウンドから始めるぞ!」
ブザーの音と同時にシャドーボクシングを始めた四人だが、梅田と飯島は折り畳み式の椅子に座り、一年生達の様子を見ながら時折話し合っていた。
六ラウンドのシャドーボクシングが終わり、康平と白鳥は飯島に呼ばれた。
「今日から暫くの間、白鳥と高田は俺が見るからな。まずはグローブを付けろ!」
「今日は二ラウンド交替でミット打ちとシャドーをするんだが、まずはミット打ちのルールを教えるぞ! 高田、構えてろよ」
言われた通りに構えた康平だったが、ミットを嵌めた飯島は、突然康平に左右の早い連打をしてきた。
飯島が軽く打っているので、康平自身は痛みを感じなかったが、不意を突かれた彼はブロックをしながら固まってしまった。
「ハハハ、その状態だとスタンディングダウンと言って、立ったままカウントを取られるぞ! こういう時はなぁ、右後方へ一目散に逃げるんだよ。反復横飛びで右側だけにずーっと行く感じだ。うちの高校ではカニ歩きと言っているがな」
飯島は話しながら見本を見せる。
「そして充分な距離がとれたら構え直せ! 途中で反撃しようなんて考えるなよ。とにかく離れて体勢を整えるんだ!」
「次は白鳥だ、いくぞ!」
白鳥は飯島のラッシュを浴びながら、オボツカナイ足取りで右後方に逃げた。
「不恰好だっていいんだぞ! 目的は不利な状態から逃げる事なんだからな。……ただもう少し小刻みな感じでカニ歩きをしろ! それから横に逃げる場合はガードの幅を広げるんだ」
飯島の話に康平が質問をした。
「先生、理由を教えて貰えませんか?」
「小刻みな足運びは足が揃わないようにする為だ! 両足が『気を付け』の姿勢みたいに揃ってると、軽いパンチでも倒されるからな。ガードを広げるのはフックを防ぐ為なんだよ! 横に動いた時に怖いのは、横殴りのフックだからな。分かったか? ……いや、これは分からなくても言われたようにしろ」
二人にカニ歩きを数回繰り返させた後、更に飯島が話し始める。
「いいか、俺がさっきみたいにラッシュしてきた時はカニ歩きで逃げるんだぞ! まずは高田からミット打ちだ」
次のラウンドからミット打ちが始まった。
連日と殆ど変わらないミット打ちだが、康平が打ち終わった直後を狙って、飯島がラッシュを仕掛けてきた。
ただ、他の返し技を打たせる為のパンチとは明らかに違い、パタパタと上から頭を叩くような感じで打っていた。
「ホラホラどうした? 早く逃げないと試合を止められるぞぉ」
打たれたまま固まってしまう康平に、飯島はお構い無しにミットでパタパタ叩いた。
ようやくカニ歩きをした康平だったが、飯島は歩いて追っかけた。
「勢いよく逃げないとドンドン打たれるからな」
康平が速いカニ歩きを意識し、二メートル半程離れて構え直したところで飯島の追っかけも終わっていた。
「この位離れるまで急いで逃げろよ。相手は今、ラッシュで疲れてんだからホラ反撃だぞ!」
飯島は話しながらもミットで構えた。
飯島は、優しい口調でミットを受けるのだが、彼がラッシュをした時だけは声のトーンが高くなった。
「打たれたくなかったらトットと逃げるんだよ!」
康平との二ラウンドのミット打ちが終わり、白鳥の番になった。
時折飯島のラッシュが彼を襲った。
康平と同様に固まってしまった白鳥へ、飯島は声を張り上げた。
「そこは勇ましく逃げるんだよ!」
変な日本語になっているが、飯島はノリで話している為か、全く気にしていない様子だ。
一方の白鳥も、彼の言いたい事は分かっているようで、速いカニ歩きで距離をとる。
こうして康平と白鳥は二ラウンドずつミット打ちを繰り返していった。飯島は、さっきの言い方が気に入ったらしく、ラッシュする度に大声を出していた。
「逃げる時は勇ましくだぞ!」