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今やる事に集中しろ


 午後二時過ぎ、康平と健太は部活に向かう為、勉強道具をしまい始めた。


 亜樹が二人を見て言った。


「あれ、二人共部活は三時からじゃないの? ずいぶん早いのね」


「……遅刻すっと怒られっからな」


「うちの兄貴かなぁ。……あの人私には優しいけど、気が短いからすぐに手が出るんだよね。……大丈夫だった?」


 心配そうな顔をしている綾香に健太が答える。


「俺はビンタを食らったけどな。……あ、でも悪いのは俺だったから気にすんなよ」


「そうそう、悪いのは健太だぜ。それに、練習が終わると気さくな感じだしさ」


「そう、……二人が納得してるんだったら気にしないよ。それと、日曜日は午前十時にこっちの駅で待ち合わせでもいいかな?」


「あぁ俺達は大丈夫だぜ。健太も問題ないよな?」


「あぁ、楽しみにしてるよ」


 康平と健太は、そう言って図書館を出ていった。



 日曜日に何を着て行こうかと、話をしながらボクシング場に着いた二人だったが、有馬と白鳥は既に着替えまで終わっていた。



 二年生達はまだ練習を続けていた。


 森谷はミット打ちの最中である。


 ミットを受けている内海が怒鳴った。

「テメェは先手で打たねぇからいつも凡戦なんだよ。もっとミットに反応しろ」


 サンドバッグを打っている相沢にも、

「勘が悪いんだったらもっと動けや!」

と、山本の檄が飛んでいた。


 大崎は何か覚えたい技があるようで、一年生達には見向きもせず、インターバルの時間もずっと技の反復していた。


 自分達以上に罵声を浴びながら練習している先輩達を見て、康平と健太は日曜日の事など頭から消えていった。


 会話をしながら準備をできる空気ではなかったので、一年生達は先輩達の練習を見ながら黙ってバンテージを巻き、柔軟体操を始めた。



 ようやく先輩達の練習は終わったが、康平達は昨日より緊張していた。


 二年生に指導している時と違い、山本が笑顔で一年生達に話す。


「お前ら気合いは入っているようだが、硬くなんなよ」



 内海もリラックスした表情で言った。


「そうそう、今オメェらがしなきゃならねぇのは、フォームを固める事だからな。そして梅ッチが戻ってきたら俺達とスパーすんだが、その時にキチンと打てるかが当面の目標だからよ。……最初は昨日と同じで、鏡の前で三ラウンドのシャドーだ。康平、今日はオメェも他の奴らと一緒だ」



「いいか! これから練習を始めるんだが、何に気を付けて練習をするか頭に叩き込んどけよ。じゃあ、ブザーが鳴ったらシャドー開始だ」


 山本はそう言ってタイマーのスイッチを押し、一年生の練習は始まった。


 一年生達は、鏡の前でフォームを意識しながら三ラウンド。鏡を見ずにリングの中で四ラウンドのシャドーボクシングを行った。


 それが終わると山本が康平達に言った。


「リングの中でのシャドーは四ラウンドで終わりだ。次はサンドバッグ打ちを四ラウンドするが、その前に踏み込んでのフックを教えるからな」



 内海が自ら見本を見せながら説明する。

「全員サンドバッグから少し離れて構えてみろ。前の手のフックで踏み込む時はだな、溜めを作りながら前足の踵から着地させるんだ。そして、つま先を着地させながらフックを振る。……意外と簡単だから、オメェらもやってみろ」


 一年生達は、四人共スムーズにパンチを打っていた。


 それを見て山本が言った。

「ようし。次はサンドバッグ打ちだが、フックは力いっぱい打てよ。サンドバッグをぶっ壊しても構わねえんだからな」


 続いて内海も言った。

「二ラウンドはフックだけ思いっきり打てよ。残りの二ラウンドは、ストレートも入れて打つんだ」



 こうして練習は進んでいったが、筋トレの前に内海が口を開く。


「昨日健太が質問してた左ガードの位置の事だが、他の三人もサウスポーと戦う時もあるから、みんな聞いておけ。健太、俺と戦うつもりで構えてみろ」



 健太は言われた通り、内海と対峙した。


 サウスポーの健太が右半身を前に出して構えるのに対し、オーソドックススタイル(右構え)の内海は左半身を前に出している。


 内海が言った。

「健太、オメェ習ってねぇかも知んねぇけど俺に左のフックが打てるか?」


「……いいえ、怖くて打てないです」


「何で怖いんだ?」


「……内側から右ストレートを打たれそうな気がするんですけど……」

 自信無さげに健太は答えた。



「不安な顔すんなって。俺だって怖くて、オメェに右フックは打てねぇんだからよ」



 山本は、健太以外の三人に向かって話す。

「オメェら分かったか? サウスポーの相手は、怖くて利き腕のフックは打てねぇんだよ。……サウスポーの左パンチで打つ確率が高いのはストレートだ。……まぁ、ボディーブローもあっけどな」


 内海も再び話す。

「だから右ガードを口の前においておけば、左ストレートを食らう確率は減るわけだ」


「あくまで、一般論に近いが知って損のない知識だからな。結構ボクシングは理詰めだからよ。……ただ試合では、相手も捨て身でフックを打つ奴がたまにいるから気を付けろよ」



 山本が言い終わると、健太が恐る恐る訊いた。

「あの……、僕は左ガードを口の前において、右ストレートを警戒すればいいんですね」


 内海が答える。

「当たり前だろ。オメェはサウスポーなんだからよ……! そうか、オメェに説明する為の実演だったんだよな。まぁ許せや。……それと返しの右フックは明日説明すっからよ。オメェらも、こう暑いんじゃ頭も働かねぇだろ!」


 内海は、返しの右フックの説明を勝手に放棄してしまったが、逆らう者は誰もいなかった。




 内海と山本が指導する練習は連日続いた。


 それというのも、石山と兵藤がインターハイ全国大会で勝ち進んでいるので、二人の先生が部活に来れないからだ。


 この日の準々決勝も二人は勝ち残ったようで、ボクシング部員達もその話題で盛り上がっていた。



 練習の終わった一年生達に、内海が話し掛ける。


「これで石山と兵藤は三位以上が確定か。……あいつらは、俺達が高校三年の時に入学してきたんだよ」


 健太が内海に訊いた。

「二人共……、いや清水先輩も含めて全員強くなりそうな感じだったんですか?」


「いや、兵藤はセンスありそうな感じだったが、清水と石山はオメェらより酷かったぜ」


 山本も口を開く。

「そうだよな。あの二人は、毎日梅ッチに悲惨な程怒鳴られてたんだよ」


「俺は兵藤以外、部員がいなくなると思ってたよ。清水と石山が初めてスパーリングしたのを見た時は爆笑だったぜ」


「どんなスパーリングだったんですか?」


 有馬に訊かれて、内海が笑いながら説明した。

「石山は背が低いだろ! パンチが届かねぇもんだから、何を思ったか、両手を伸ばしたまま相手に突っ込んで行ったんだよ。それも下を向いたままな」


「俺も、アイツは何のスポーツをやってんだろう……って一瞬思ったぜ」


「梅ッチも、怒鳴るのを忘れて唖然としてたんだよな」


「清水も傑作だったよなぁ。ビビって目を瞑ったままパンチを出してんだよ」


「そうそう、相手が右側に逃げてんのに、目を瞑ったまま五発位そのままパンチを出してたんだよな」


「それも力が入ってガチガチだったから、壊れたオモチャみたいだったぜ」


 内海と山本は過去を懐かしむように、自分達だけで盛り上がっていた。


 健太が強引に会話へ入った。

「信じられないですね。清水先輩も、右手の骨折がなければ県大会は優勝しそうだったんですけどね」


 山本が言った。

「清水にもいい思いをして欲しかったな。アイツ、見てくれはああだけどよぉ、ボクシングだけは真面目だったんだよな」


「そうそう、そういえば清水の歩き方ってこんな感じだったんだよな」


 内海は清水を真似て、がに股で肩で風を切るような歩き方をした。


 清水にそっくりな歩き方だったが、一年生達は笑うに笑えず困っていた。


 山本自身は笑いながらも内海を諫めた。

「俊也やめとけ、一年生が困ってんぞ」


「そうだな。オメェらは心の中で笑っとけ」


 山本が康平達に話し掛ける。

「それとお前ら勘違いすんなよ。兵藤がセンスいいって言ったけどよ、アイツも苦労してんだからな。アイツは前に剣道やっててよ。右利きなんだが足の位置が同じだからって、サウスポーになったんだよ。……知ってたか?」


「ハイ、先輩達に聞きました」有馬が答えた。


「だったら話は早いな。左手のリストは強かったんだが、左ストレートがある程度強く打てるまで、かなり時間が掛かったんじゃねぇか?」


「俺らが国体で引退する秋までは、ペラッペラな左だったぜ。……ただ剣道やってたせいか、足捌きは良かったけどな」


「この前、兵藤の練習見てたらオッカねぇ左を打ってたよな。それもノーモーションからな」


「あの左があるから、得意の右フックがよく当たるんだろうな」



「あっ!」

 健太は大きな声をあげた。


「どうした健太?」

 内海が心配そうな顔で訊いた。


「二日前に返しの右フックの事を質問したんですけど、……今教えて頂けますか?」


「バカヤロー! 人が心配してやってんのに変な事を思い出すんじゃねえよ」


「す、すいません」

 健太は心の中で理不尽と思いつつも素直に謝った。


 その様子を見た山本が笑いながら言った。

「たぶん俊也は、言葉で表現するのが面倒なんだぜ。……感覚で覚えているのを言葉にするって、結構難しいからよ。まだ俺達は明日も来るんだから宿題にしろよ。但し、この件を説明すんのは俊也だからな」


「あっ、ズリーぞてめぇ。そもそも言い出しっぺは賢治の方だったじゃねぇか? ……まぁいいや。明日……じゃなくて、ここにいる間に説明すっから覚悟しとけよ」



(覚悟じゃなくて期待では……)


 一年生達は全員そう思ったが、勇気を持って口に出す者は誰もいなかった。



 二日後の土曜日、昨日も勝ち残っていた石山と兵藤の試合結果が練習前に伝えられた。


 二人共、惜しくも判定負けで準優勝になった。


 内海が言った。

「残念な結果だが国体もあっからな。まぁ、オメェらに言ってもしょうがねぇんだけどよ。……健太、チョット来い」


 呼ばれた健太は内海の前に出た。


「健太、俺にゆっくり左ストレートを打ってみろ。オメェらも見てろよ」


 内海は健太が左ストレート打った時、後ろ足(右足)だけ大きく右側にズラす。


 後ろ足が右にズレた分だけ顔も右側にスライドし、パンチをかわした形になっていた。


 そして内海はズラした後ろ足を、すぐに前に蹴りながら右ストレートを打つ。寸止めで打ったので健太の顔面に当たる事は無かったが、内海の右拳は確実に健太の顎を捉えていた。


 健太の左ストレートをかわして打つ、右ストレートのカウンターである。


 内海が一年生達に言った。

「これは一つの例だが、オーソドックス(右構え)対サウスポーの対戦は、こんな感じのパンチのやり取りが多いんだよ。……健太、もう一回左ストレートを打て! その後右フックをすぐに返してみろ。あ、それと右フックは寸止めだぞ」


 健太は言われたように左ストレートを打った後、すぐに右フックを返す。


 すると、さっきのように左ストレートをかわして右ストレートを打とうとした内海に、健太の右フックが当たりそうになった。


「これで分かったか? オーソドックス対サウスポーの戦いで、健太みてぇにフックを返すとこれがあるんだよ」


「内海さんのカウンターも怖かったです」健太が言った。


「バカヤロ! 俺が言いてぇのはオメェの返しのフックがあっと、カウンターを狙う方はもっと怖ぇんだよ。……下手したら、それで倒されて終わりになるからよ」


 有馬も話に加わった。

「返しのフックの効果は理解出来たんですが……。内海さんが今打ったカウンターも習いたいです」


 内海の声が大きくなった。

「今の段階でカウンターを教えると、ロクなことになんねぇから駄目だ。今のオメェらに必要なのは、先手で攻める感覚と技を覚える事なんだよ」


 健太と有馬は、納得しない表情だ。


 山本が諭すように言った。

「先手で攻撃出来ないカウンターパンチャーなんて怖くネェんだよ。……二年の森谷がいるだろ。アイツは二年生の中じゃ一番勘がいいしパンチも見えている方だ。アイツはカウンターを狙い過ぎるところがあって、なかなか自分から攻めねぇ。全体的に待ちのボクシングなんだよな。だから、下手な相手にもペースを合わせてしまって凡戦が多いんだよ。……まぁ、この話は梅ッチから聞いた事なんだがな」


 内海も声を和らげて話す。

「森谷の奴もそれを自覚してっから、今は先手で打つ技のバリエーションを増やしているところさ。アイツが先手で攻めながらカウンターを打てるようになると、レベルが数段上がるだろうよ」


「そうそう、待ってれば攻められるし逆に攻撃すればカウンターが飛んでくる。相手にしたらタマッタもんじゃねぇんだよ。……ただレベルが上がってくると、そういう戦いをする奴がゴロゴロいるから嫌んなるけどな」


 内海が健太と有馬に訊いた。

「ところでオメェら何でカウンターを打ちたいんだ?」


 健太と有馬は顔を見合わせたが、二人は話すのを躊躇していた。


「何だよ、笑わねぇから言ってみろ」


 内海に言われて有馬が答える。

「……DVDでプロの試合のKO集があって、それを見たらカッコ良かったからです」


 続いて健太も言った。

「有馬に借りたそのDVDと、家にあるマンガを見てカウンターを打ちたかったんです」


 内海と山本は不思議と笑わない。そして山本が言った。


「動機なんてそんなもんだし、上手い奴の試合を見んのはいい事なんだがな」


「そうそう、DVDを見るのは上達の近道なんだが一つだけ気を付けろ」


「それは何ですか?」健太が訊いた。


「打たれながら戦うボクサーを何度も見ないようにしろ」


「それはどういう事ですか?」


 内海に有馬が質問した。


「打たれながら頑張るボクサーは観客から感動され易い。根性が表面に出るからな。……確かにガッツは必要だし、戦うハートの強さもボクシングでは重要な事の一つだ。だが俺らは戦う側の人間だ」


 内海の話に不思議そうな顔をした一年生達へ、山本が言った。


「つまり、大変な思いをするのは俺達なんだよ。パンチがある奴のを食らうと痛いなんてもんじゃねぇぞ。頭にガーンと衝撃がくるからな。……お前らそんな思いはしたくねぇだろ?」


「はい」四人は素直に返事をした。



「でも、見るだけだったらいいような気がするんですけど……」

 健太は、二人の大学生に怒られるのを覚悟で反論した。


 内海は怒らずに言った。

「意外となぁ、画像に影響され易いんだよ。試合のDVDを見てから練習に行くと、微妙にその試合へ出ていた選手に影響されてるんだよ。……たぶん無意識のうちに体がイメージしちゃってるんだろうな」


 続いて山本が口を開く。

「打たれながらも戦うボクサーは、悪い言い方をすれば下手クソなんだよ。今まで防御の練習を疎かにしたツケが試合に出ちゃってんのさ」


 再び内海が言った。

「そういうボクサーは試合の後、顔がボッコボコになってんぞ。……オメェら、そんな選手になりたくねぇだろ?」


「はい」


「ところでタケ達が見たDVDは、カウンターで綺麗に倒すシーンが三試合あるやつだろ?」


「ハイそうです」

 山本に訊かれて有馬が答えた。


「あれは俺も見たけど凄かったな。あのシーンは何度見てもいいと思うんだが、今はカウンターを教えるつもりはねぇぞ。……理由はさっき言ったよな?」


「……はい」

 健太と有馬は力無く返事をした。



 内海が二人に言った。

「今日、オメェらは何を目標に練習するんだ」


「次のスパーリングまで、習ったパンチを打てるようになる事です」


 健太が答えると山本が言った。


「だったらそれに集中する事だな。これから嫌って程技を習うんだからよ」



 内海がホッとした表情で話す。

「俺の説明も終わったし、今から練習開始だ。あさってから梅ッチ達が練習に来るから、俺達が教える練習は今日が最後だ」


「残念ですね」健太が言った。


「まぁ直接教えるのが最後なだけで、明後日までは来るからな。今日はシャドーとミットがメインの練習だからよ。まず、最初にシャドーを七ラウンド。鏡の前でのフォームチェックが三ラウンドと、リングの中で四ラウンドだ。さぁ始めるぞ」


 山本はそう言って練習開始のブザーを鳴らした。


 一年生達は鏡の前でシャドーボクシングを始めた。



 シャドーボクシングが終わり、山本が次の指示を出す。


「これからミットと形式練習をやるからな。……ここは狭いから、サンドバッグを全部外して脇に寄せるぞ」


 六人全員でサンドバッグを脇に寄せると、狭い練習場も広く使えるようになった。


 内海が言った。


「最初は俺が翔のミットを受ける。タケは賢治とミットだ」


「康平と健太は形式練習だから、保護具とマッピは付けておけ」


 山本に続いて内海が言った。


「康平は覗き見スタイルを崩すなよ。感覚的には、両方のグローブの間から常に相手を見る感じだぞ」



 練習が再開された。


「タケ、腕の力でジャブのスピードを出そうとすんな。肩の回転でスピードを出すんだよ」


「翔は二発目のジャブを打った時、右ガードが下がってんぞ」


 康平と健太が形式練習をしているの間、内海達の声が練習場に響く。有馬と白鳥は、それぞれの課題をやっているようである。


 インターバルになった時、山本が康平達にアドバイスをした。


「ブロックした時は、前の手でフックを打ち返すイメージだぞ。すると、いいバランスでブロック出来るからよ」


 次のラウンド、康平は左フックを打ち返すイメージでブロックをしてみる。


 腰が引けず、勝手に六対四のバランスが保たれているようだった。


 何気無い言葉の一つで案外コツを掴んだりするものである。


 健太もハマったらしく、フットワークを使わずにブロックだけを使って康平のパンチを防ぐ。



 次のインターバルでは、内海が笑いながら言った。


「おいおい、少しはフットワークで避けろよ。……まぁ、今日はブロックのコツを掴んだようだから大目に見てやるがな」



 五ラウンド終わった時、康平は内海、健太は山本とミット打ちをする事になった。有馬と白鳥は形式練習の準備を始めた。


 内海が言った。

「康平、さっき俺が言った事忘れんなよ。常にグローブの間から相手を見ろ」


 康平は覗き見ガードで初めてのミットである。


 内海が右手を上げた。


 片手を上げた時、ジャブを打つサインなのは梅田と同じである。


 すかさず康平は左ジャブを出す。


 今までのように左手を前に出す構えではなく、左肘を体に付けているスタイルである。左腕の遊びが使えない分だけジャブにスピードが乗らない感じである。


 康平は、サンドバッグ打ちや形式練習でも少し違和感を感じていたが、ミットを打った時、ハッキリと打ちにくさを実感した。



「このガードだとジャブは打ちにくいだろ?」


「はい」


 内海に訊かれて康平は頷いた。



「覗き見ガードを固める為に、肘を体に密着しているから仕方ねぇんだよ。左ジャブは、押すパンチでもいいからしっかり肩を回して打てよ。……それと、左腕の裏側の筋肉を使う事を意識してパンチを出してみろ」



 康平がもう一度ジャブを打つと、前より重みが増したような感触が左拳に残った。


 何度か左ジャブを繰り返した後、内海が両手を重ねて構える。


 これは右ストレートを打つサインなので、康平はそれを打つ。左ジャブよりはスムーズに打てるようだ。


 ワンツーストレートも何度か打った後、内海が康平に指示を出す。


「次は、ワンツーを打ったら体の捻りを戻さないで腕だけ戻せよ。……要は左フックを打つ準備をしていろ」



 内海の指示通り康平はワンツーを打った後、右腕だけ戻して左フックを打つ体勢を作った。


 ミットを持つ内海の左手が横向きに上がった。


 康平はそこに左フックを打つ。アッパー気味のフックなので、突き上げると言った方が適切かも知れない。



「次はワンツーからの左フックをそのまま続けて打て」


 康平は指示通りに打ったつもりだが、最後の左フックが上手く打てない。何度か続けたが左フックを打つのが遅くパンチも弱い。


 内海も首をかしげていたが、そのうちラウンド終了のブザーが鳴った。



 内海はインターバル中考えていたが、ラウンド開始のブザーが鳴ると康平に言った。


「康平、お前ストレート系のパンチを少し上向きに打ってみろ」


 康平がワンツーストレートを少し上向きに打つと、不思議にも左フックがスムーズに打てていた。


 内海は、パンチを少し上向きに打つことで下半身が下に押し付けられて安定し易い事を康平に話す。


 康平は左フックがスムーズに打てるようになった。



「いい感じじゃねぇか。ただ左フックを打つ時に、胸を開くなよ。……いや、背中を広げる感じで打ってみろ」


 ズバーン!


 ボクシング場にミットの音が響く。


「お前パンチあんな。左フックは、打てば打つ程強く打てっからドンドン打てよ」


 その後、左アッパーや左ボディーブローを交えたコンビネーションを繰り返す。


 五ラウンドのミット打ちが終わると内海が言った。


「コンビネーションを打つ時、康平は左のパンチを強く打つのを意識した方がいいな。その方が連打しても、バランスが安定しそうだからよ」



 練習が終わり、帰ろうとした康平と健太に内海が呼び止める。


「お前ら綾香と亜樹ちゃんの四人で映画を見に行くんだってな」


「はい……知ってたんですか?」健太が答える。


「まぁな。綾香の奴は結構俺に喋るからな。でも、アイツが俺に男の事を話すのは初めてだったんだぜ。名前を訊けばお前らじゃねえか」


「すいません」康平が頭を下げる。


「ハハハ、謝る事ねぇさ。オメェらは女に縁がなさそうだし、逆に応援してやる気になってるから心配すんな」


 山本が横から真顔で話した。

「だが気を付けろよ。男女の関係はボクシングなんかより難しいぞ」


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