序章
パセリ。何となく身近な野菜の一つのように思えるパセリ。
でもパセリとは如何なる存在か?それを語ることはそんなにないよね、と思いつつこの作品を書きます。
目が覚めた。見知らぬ天井。元は白かったであろうに全体的に茶色い染みが飛び散ってもはやベージュ色になっている天井。自分の部屋ではない、天井。
周りの様子を確かめるために仰向けのまま右を見ようとする。しかし首が動かない。
次に左を見ようとするが、またしても首が動かない。何かがおかしい。
――せめて上体を起こすくらいはできるだろう、――
そう思ったものの、まるで何かで固定されているかのように私の身体は意のままに動かすことができず、視線は薄茶色の天井を眺めるばかりだった。やはり何かが、何かがいつもと違う。
違和感の正体を探ろう。動かない身体を諦めた私は昨日の記憶を掘り起こすことに決めた。
*******
2020年8月12日
ある地方都市で唯一のショッピングモール。そこで私はインフォメーション業務をしていた。
――炊飯器を買いたいんだけど、家電コーナーはどこかしら?――
――それでしたら別館3階に家電量販店がございます。――
――「こども服のコトブキヤ」に行きたいんだけど~――
――コトブキヤはそちらのエスカレーターを上がっていただいて右手側です。――
――八欣駅へ戻りたいんですが、店内で迷ってしまいました。――
――こちらのクジラ通りをまっすぐ進んだ先の出口が駅直結となっております。――
お盆の時期というだけあり、数多くの来客があるこのショッピングモールで私は一つ一つの業務を多忙ながらも丁寧にこなしていた。
私にとっては毎日の仕事でしかなくても、お客様にとっては幸せな、特別な一日かもしれないのだ。その素敵な思い出の一瞬を少しでも汚すことのないよう心がけつつ笑顔を作っていた。
*******
――おい!落とすんじゃねぇぞ!!――
成人男性が半ば怒鳴るような声が聞こえた。それに続いて少年の声。
――……うん……――
とっさに声がした方を見ようとしたものの、そうだった、今の私はなぜか身体を動かすことがままならないのだ。
――声から察するに成人男性は50歳ほど、少年は15歳ほどか。彼らがいるということはここは私の部屋ではないんだな。――
自分でも可笑しいほどに冷静に分析していると、自ら動かせる状態ではないはずの身体がぐらっとする感覚。視界が揺らいだ。
*******
――電話の着信音?――
同僚が内線電話の相手と何やら深刻そうな表情で話し込んでいる。でもここは、お盆の連休真っ只中の、ショッピングモールだ。数多の来客の往来から流れてくる喧噪にかき消され、同僚が話している内容が断片的にしか聞き取れない。
――…りょうひ……?女性……い、わ……ました……。――
――食料品コーナーでパセリの鮮度について苦情をおっしゃっている女性客がいらっしゃるそうよ。猛烈な勢いらしいけど、今日の警備員は男性しかいないし、レジ業務も混雑で遅滞しているって。――
受話器をなかば叩きつけるように置きながら、彼女が言った。
――パセリ?鮮度?はあ……――
状況を飲み込めず、素っ頓狂な声(きっと顔も素っ頓狂だったものに違いない)を発することしかできない私に、彼女は、
――規則上、こういう際に私が対応しておかないと後々厄介なことになりかねないから、私が食料品コーナーへ行って対応してくるわ。申し訳ないのだけど、貴方はしばらく一人でインフォのお客様対応をお願いね。――
同僚が早口で説明してくれたおかげで状況がようやく理解できた。
ショッピングモールのような施設でトラブルが起きた場合は、対象者と同性の係員が立ち会っておかないといけないのだ。仮に今回のように対象者が女性のときは、女性係員がその場で立ち会う。
対象者に対するのが異性だけだった場合、その対象者がごくまれに後日「対応中に性的な接触があった」――これは私の経験上7割がたは虚偽なのだけど――と別の苦情を申し立ててくるからだ。だからそういった事態にならないように、予防線として……これ以上は言わないでおこう。
*******
私は天井以外のものを視られるようになった。
自分の意志で身体を動かしたわけではなかったので、その視点がどこに変わったのかはわからなかったけれど。
それでも先ほどまで見ていた薄茶色よりも濃い茶色が私の視界を覆っている。さらにわずかながら手前にピントが合い。
――あれは木の板……――
木の板と私たちがふだん認識するものは、いわゆる”面”という部分だろう。
私が見ていたのはその”面”ではなく”側”、趣味のホームセンター巡りで知った表現を借りれば”木端”と呼ばれる部分だった。その木端がこんなに間近で見られるなんて!しかも視界にいっぱいのフルハイビジョンで!!
想像していなかった事態に驚嘆の声が出そうになったのだが、どうしてなのか、声も出ない。そんな経験は初めてなので、適切な表現ができない。何度か発声を試みたものの、声帯が震える代わりにヒュッと身体が縮むような気がした。
――おとうさん、玉ねぎの下拵えは終わったから。そっちの鶏肉さっさと終わらせておくれな。――
年のころは40半ばと思われる女性が喋っている。
先ほどの男性を”おとうさん”と呼んでいるらしい。どうやらこの二人は夫婦のようだ。
――アサヒは卵を溶いておいてちょうだいね。――
続いてアサヒと呼ばれる少年の声。
――何個くらい?――
おそらくアサヒ君は夫婦の息子なのだろう。
*******
同僚が食料品コーナーへ行ってから一時間。
ちょうど昼過ぎのショッピングモールには午前中よりさらにお客様も増し、私は一人で様々な問い合わせに対応していた。その合間に空になったままの隣の椅子を眺めながら、
――早く戻ってきてくれないかなあ、せめて私の休憩時間が来る頃には終わっていると良いな。――
そんなことばかり考えていた。お腹がぎゅうっと鳴る。
――と言うかパセリの鮮度って何?小松菜やトマトが新鮮じゃないなら苦情を言いたくなるのもわかるけど、パセリなんて……――
食べ物の恨みは恐ろしい、なんて言うけれど私はこの時、自分が休憩中にしっかりご飯を食べられるだろうかという不安で、現状を作り出した女性客と(なんならパセリも)恨んでいた。
身体が重力に負けて傾いだ。薄暗くなっていく視界。そして寝落ちをしてしまうときの様に朦朧としていく意識。
――スタッフが倒れたぞ!――
――誰か彼女を医務室へ!あと救急車を呼べ!!――
私に近づいてくるはずの足音がだんだんと遠くなって、私は完全に意識を失った。
*******
板と私の間に何かが置かれて、木端ハイビジョンが遮られてしまった。慌てて目の前に置かれたものに焦点を合わせた。
――銀色の物体。そしてそこに写っているものは…――
少しくすんではいるものの、その銀色がかろうじて映しているものは。
――あれはパセリ?――
そう、私が見ているものは確かにパセリである。
千歳緑のフリルドレスを身にまとった貴婦人のごとく、美しいパセリが端然と横たわっていた。
その状況に疑問を抱くよりも先に、
――こんな新鮮なパセリならきっと苦情もなかっただろうな。――
と思うと同時に、私が倒れる直前の記憶が脳内に一気に雪崩れこんできた。
――私、あの時はパセリのことを考えていたっけ。――
――でもこれは一体?どうして目の前に拡大されたパセリが見えているのかしら?――
今までの情報を整理してみる。視えたもの、聞こえたこと、感覚……などなど。常識に考えてみると導き出される結論は、ただ一つ。
――私自身がパセリ!?――
次回:パセリに転生した主人公はどうなるのか!?




