第7話「何者?」
「ねぇ紅ちゃん、一応確認だけど試験の日は自転車じゃないよね?」
制服から部屋着に着替え終えた紅が台所で水筒を洗っていると、前髪をピンクのマジックカーラーで巻いた母親が、そう声を掛けてきた。
「うん。バスと電車で行くよ。自転車で行きたい気持ちもあるけど流石にね。高校より全然遠いし」
水切りカゴに洗い終えた水筒を縦にして置いた紅は、タオルで手を拭きながら母親を見た。すると母親はホッとした表情で「なら良かった」と食卓テーブルの椅子に腰をかける。
「とうとう明後日ね。当日の持ち物で足りない物はない? 大丈夫?」
「大丈夫。全部チェック済みだから」
紅も母親の対面に腰を掛けた。
「お昼は? 良かったらお弁当作ろうか?」
「それも大丈夫だって。いつもみたいにおにぎりを握って持ってくから」
その言葉に母親は「それだけでいいの?」と心配顔になる。
「同じがいいの。その方がリラックス出来ると思うし」
「でも念のためにチョコとかガムとかラムネとか持ってったら? お店にあるから今日貰ってくるわ」
「なにそのラインナップ。遠足みたいじゃん」
紅は少しだけクスッと笑い、話を元に戻した。
「私は大丈夫だからお母さんは自分の支度をしてよ。まだ化粧の途中でしょ。口紅がひいてないから顔色が悪く見えて、そっちの方が心配なんだけど」
母親は指先を口元に持ってくいくと、「そうね。私もそろそろ準備しないとお迎えが来ちゃうわね」と立ち上がり、いそいそと自室へ入って行く。
紅はそんな母親の後ろ姿を見て、ふと三年前の高校受験の時を思い出した。
思い起こせば高校受験の時は、地元から離れる事も目的の一つにして志望校を決めたが、今回はここに残る為に選んでいる。4月からもこのアパートに住み続けるため、絶対に合格しなければならない。紅の受験は今回も自分のためだけではなく、母親の人生も背負っているのだ。
そんなことを考えていたら、母親が「そうだ」と言いながら扉から顔だけをひょっこり出してくる。その前髪は、カーラーの痕でクリンと丸まっている。
「岩森君と一緒に行けば安心じゃない」
「は? なに急に」
紅は困惑しながら母親を見る。
「だって紅ちゃん、滅多にバスとか電車に乗らないじゃない。だから慣れてる人が一緒だと安心だと思って」
「だからって、そんなことお願い出来ないよ。電車で来るかも分かんないし」
「だったら明日学校で聞いてみたら? 初日だけでも一緒に行ってもらえたらいいんだから」
「だから、ほんとに一人で行けるから。大丈夫だって」
母親は「そぉ?」と残念そうな顔をしたが、部屋の奥からスマホの着信音が鳴り響くと、ハッとして奥へ消えていった。この着信音は、まもなくスナックからのお迎えが到着する合図だからだ。
紅は椅子から立ち上がりながら「ほらぁ、急がないと待たせちゃうよ」と、母親の部屋に向かって声を掛けると、自分の部屋へと戻って行く。そしてハンガーラックに掛けてあった学生服のジャケットのポケットからスマホを取り出して、操作しながら勉強机の椅子に座ると、受験する大学のオフィシャルサイトを開いた。もう何十回と見た、見慣れたサイトだ。
紅は大学までのアクセスが書かれたページを開いた。
もう何度も確認しているので記載されている駅名は全て頭に入っているが、母親の言う通りで行ったことが無い駅ばかりだ。最寄り駅であるゴール地点は大学名が付いた地下鉄の駅だが、紅の家の最寄り駅はバス停なので、まずはそのバスで駅まで行き、そこからは乗り継ぎをしながらその駅に向かうことになる。
一時間前に着くように家を出れば、もし何かあっても大丈夫かな。
そんなことを考えていると、脳裏にふと青弥の顔が浮んだ。
岩森君は、どうやってここまで行くんだろう。
青弥との連絡先を交換したのは三週間前。
その時にお互い ”よろしくお願いします” みたいなスタンプを送り合いはしたが、それっきり青弥からメッセージが届くことはなく、紅から送ることはまず無いので、その開通儀式的な一往復で終わっている。
あの時、どこの学部を受験するのか聞かれなかったので、お互い受験先は知らない。試験は二日間に渡り行われるが、学部によって試験が異なる。もし同じ学部を受験するならライバルとなるのだが、合格祝いで校歌を歌う約束をさせた青弥は、気遣いで学部を聞いてこなかったと紅は理解したので、紅も青弥に聞かなかった。
母親は紅ファーストなので青弥を頼ればいいと言うが、さすがにそんなお願いは紅には出来ない。
大学受験にプレッシャーを感じない人などいないし、友達でも無い人と一緒に受験会場に行くなど迷惑な話だと思ったからだ。それにもし友達に同じ大学を受験する人がいれば、その人を既に約束をしているかもしれないし、もしくは一人で行きたいと思っているかもしれない。
紅から声を掛けてしまうと、青弥は「いいよ」と言ってくれるかもしれないが、だからこそ紅からお願いする事は絶対にしたくなかった。
紅はWEBサイトの受験生向けの情報ページを開いた。
そこには試験日の前日、つまり明日、会場の下見が出来ると案内が出ている。
「じゃぁ紅ちゃん、行ってくるわね」
背後から母親の声が聞こえ、紅は慌てて玄関に向かった。
玄関先では、ワンピースの上にコートを羽織った母親がヒールを履こうと腰をかがめている。
「あんま飲み過ぎないでね」
紅はそう母親に声を掛けた。
「分かってるって。試験前の紅ちゃんに二日酔いの介抱なんかさせられないもんね。今日お店からおやつもらってくるから、好きなだけ持ってっていいからね」
「うん、ありがと」
「じゃぁ行ってきます。戸締りお願いね」
「行ってらっしゃい」
玄関の扉がパタンと閉まると、外廊下を歩く母親のヒール音がコツコツコツと響き渡る。
紅は玄関の施錠をすると自室に戻り、勉強机の椅子に座って再びスマホを手に取った。すると先ほど見ていた情報案内のページが、もう一度ポンと液晶画面に映される。
下見、行こうかな。
紅がふとそう思った瞬間、スマホの画面に”新着メッセージあり”とピコンと通知が出た。
「あれ? まさかお母さん、忘れ物でもしたのかな」
出掛けたばかりの母親からのメッセージだと思い、紅は気軽にその通知をタップした。
だがそれは母親からではなく、青弥からのメッセージだった。
ーー明日だけどもし都合が良かったら学校帰りに大学の下見に行かない?ーー
「え!?」
驚きの余り、紅の体が硬直する。
そしてもう一度メッセージに目をやるが、そこには下見に誘われているとしか思えない文章が書かれていて、紅は心臓がドクドクし始める。
「ウソでしょ。なんで岩森君が私なんかに? え? どうしよう、どうしよう」
動揺した紅は、頭が真っ白になっていた。
するとまた青弥から、次のメッセージが届いてしまう。
ーー行かなくて大丈夫だったら断ってくれていいからーー
さらに矢継ぎ早に、キャラクターが電柱からチラッと顔を覗かせているスタンプまで届き、青弥サイドにはその全てに既読マークがついているだろう。
きっと青弥は紅からの返信を待っているに違いない。
「行きたいって返事して、いいのかな」
紅は返事に躊躇した。
自分なんかが一軍男子と一緒に外出しても、道中何を話したらいいのか分からない。
でもここで断って明日一人で下見に行けば、もしかしたらどこかで青弥に会ってしまうかもしれない。
さすがにそれは失礼にもほどがある。
紅は震える指先で、お願いしますと返信した。
そしてすぐに青弥から返信があり、待ち合わせは校門に決まった。
「この人、何者なの?」
青弥とのタイムリーなやり取りを終えた紅は、ぐったりしながらそう思った。




