第3話「知られたくないこと」
放課後。
紅はいつものように学校の図書室で勉強をしていた。
アパートに帰れば家事や内職などやることが多く、ましてや学習塾などに通える金銭的な余裕もない紅は、日課のようにここで閉館時間まで勉強をしてから下校していた。
十六時五十分。静かな室内に閉館十分前を知らせるクラシック音楽が流れ始めると、室内にいた生徒達は一斉に帰り支度を始め、皆足早に出口へ向かって行く。
もちろん紅も他の生徒に遅れをとらないよう、机に出していた参考書や文房具などを片付けていたが、ふと手が止まった。
(……ピアノ?)
何百回もこの曲を聴いていたのに、”閉館の合図”という認識でしかなかった紅は、初めて曲がバイオリンとピアノで演奏されていたことに気付いた。これは昼間に青弥のピアノを聴いたことで、その余韻が全身に残っていてピアノの音色に敏感になっていたからだった。
紅はふと、音楽準備室で交わした青弥との会話を思い出した。
『またここに来ない? 坂本の歌が聴きたいんだ』
『……歌?』
『そう、歌。なんでもいいから歌ってもらえないかな』
『それはちょっと、……ごめんなさい』
『ダメ? ほんのちょっと、アカペラでいいんだけど。何なら今でもいいし。俺が知ってる曲なら伴奏するから』
『ごめんなさい、私、そういうの無理です。それに時間もあんまり無くて、もう教室に戻っていいですか』
紅は青弥に歌を聴きたい理由も聞かず、食べきれなかったおにぎりや飲み物を胸に抱えると、急いで音楽準備室を出て教室に戻った。そして青弥からもらったペットボトルは机の中に隠すように入れ、残りのおにぎりを素早く食べ終えると、残った時間は勉強に充てた。
青弥は昼休みが終る直前に一人で教室に戻ってきたが、その瞬間クラスメイトに囲まれた。普段の青弥の日常だ。青弥の周りにはいつも人が集まる。
だからそれ以降、青弥は紅に話し掛けてくることは無く、今日の授業が全て終わった。
帰り支度の手を止め曲を聴いていた紅に、見回りに来た図書委員の生徒が「お帰りの準備をお願いします」と声を掛けてきた。
紅は「あ、すいません」と謝ると急いで片づけをし、椅子の背もたれに掛けてあったダウンジャケットとマフラーを持ち、出口へ向かった。紅が最後の退室者だった。
「ただいまぁ」
鼻を赤くした紅がアパートの扉を開けると、濃い目の化粧をした母親が出迎えてくれた。
「お帰りなさい。寒い中ご苦労様。ほら早く、こっちで温まりなさい」
母親は台所に置かれていた小さなヒーターの前に紅を誘うと、背中にあったリュックに「わぁ冷たーい」と言いながら手を掛けた。紅はそんな母親にリュックを預けながら、話を始めた。
「スマホだけど、持ち主が分かったから返したからね」
「え!? 返した!? って、どういうこと??」
リュックを手に持ったまま、母親が驚きの声を上げる。
「昨日のお客さん、同じクラスの子のお父さんだったの。その人の名前を聞いてなかったけど、岩森って名前だよね?」
「そうよ、岩森さん。だけどまさかそんな偶然ある? どうやって分かったの?」
「スマホの追跡機能だって。岩森君はそれでスマホが学校にあるって分かったから電話を掛けてみたら、私が出たって感じ。私たちも衝撃だったわ」
「追跡機能……? 最近のスマホはそんな機能があるの?」と、母親は驚きながら二人用の食卓テーブルの椅子に腰を掛けると、不安そうな顔で紅を見て話を続けた。
「じゃぁ、色々と知られちゃったのかしら」
「それは、多分大丈夫だと思う。お父さんすごく酔ってたみたいで、どこでスマホを失くしたか分からなかったんだって。だから私は道で拾ったことにしてお店のことは何も言わなかったし、拾ったお礼をしたいって言われたけど、それも断っちゃった。いいよね? それで」
「もちろん。紅ちゃんがしたいようにしてくれればいいわ。……でも、……ごめんなさいね」
母親は、自分が離婚したせいで紅がいじめにあってしまったことを、いまだに深く悲しみトラウマになっている。だから都度あるごとに謝るのがクセになっていて、出勤前にそんな話になった時は往々にして深酒になってしまう。紅はそれがいつも心配だった。
「もう、なんでお母さんが謝るのよ。何もバレてないんだよ。岩森君のお父さんも記憶が無いんだし、大丈夫だって」
「それはそうかもしれないけど」
母親はそう言いかけて、急に訝しみだした。
「息子さん。紅ちゃんの同級生ってことは十八歳なのよね」
「え? 多分そうだと思うけど」
「じゃぁ、歳が離れた妹さんが出来ちゃったのね」
「妹? あ、再婚相手の」
紅はすっかり抜け落ちていたが、今朝母親から聞いた話を思い出した。
「そう、連れ子ちゃん。スマホで写真を見せてもらったけど、今六歳って言ってたわよ」
「六歳!?」
「奥さんも十歳下って言ってたし、息子さんも若いお母さんと妹が出来ちゃったのねぇ」
その口ぶりが青弥を気の毒がっているかのように聞こえた紅は、今日の音楽準備室の青弥の様子を思い出した。
(もしかしたら岩森君も人に知られたくないことがあって、だから他人にも深く入り込まないのかしら)
紅は青弥の家庭事情を勝手に知ってしまったことに、なんだかとてっも申し訳ない気持ちになった。
するとその時、食卓テーブルの上に置かれていた母親のラインにメッセージが届く。スナックのママの御主人からだった。
「お迎えが来たわ」
母親はママの御主人にアパートとスナック間の送迎をしてもらっていた。その条件があったお陰で今のお店で働き出したと言っても過言ではない。
メッセージを確認した母親はパタパタと自室へ戻ると、すぐにコートを羽織り、バッグを持って玄関に立った。
「じゃぁ行ってきます。戸締り気をつけてね」
「うん。お母さんもあまり飲み過ぎないでね。行ってらっしゃい」
いつもと同じ挨拶で母を送り出すと、今度は紅がこの静かな部屋で一人を過ごす時間が始まる。
「さてと」
紅は学校に持っていた水筒を洗うため、母親がテーブルの足元に置いてくれたリュックの蓋を開けた。すると青弥がくれた炭酸プレープのペットボトルが目に入る。
「あ、そうだ。これ貰ってたんだ」
紅はペットボトルを取り出すと、冷蔵庫へ入れる。
するとその白い扉がピアノの白鍵と重なり、ふとピアノを弾く青弥の後ろ姿が脳裏に浮かんだ。
(そう言えば、なんで私なんかの歌を聴きたいと思ったんだろう)
紅はふと疑問に思ったが、すぐに「まぁ、気にするほどのことでも無いわよね」と思い直し、リュックから水筒を取り出して台所の水道で洗い始めた。
翌朝。
いつものように教室に着いた紅は、机の中に自分の物ではない透明なクリアファイルが置かれていることに気付いた。手に取ると、中には少し大き目の付箋が貼られ、そこには短めのURLと一緒に、ーー音に注意、岩森よりーーと手書きのメッセージがの書かれていた。
(岩森君!?)
驚いた紅は顔を上げ、窓際の席で友達に囲まれていた青弥の姿を見た。だが紅と視線が合うはずが無い。
(これって、このURLを読めってことだよね。音に注意ってことは、動画か何かかしら?)
紅は訝しみながらも、スマホでそのURLを読んだ。するとその先に圧縮されたファイルが現れ、ファイル名には『トロイメライ』と書かれている。
(トロイメライ?)
紅は、スマホのボリューム音を確認してからそのファイルを開いた。
すると現れたのは、横にズラッと並んだ何本もの短い縦棒で、それがかすかに聞こえる音とともに横に流れていく。
紅はスマホのスピーカー部分を耳に当ててみたが、教室の生徒たちのざわめきが邪魔をして、その音が聞き取れない。
(もう少しだけ大きくしてみようかな)
紅はスマホの音のボリュームを調整すると、改めてスピーカー部分を耳に当てた。
すると今度は小さいなりにもはっきりと聞こえ、それはピアノの優しい音色で、紅も良く知る曲だった。
(この曲、図書室の……!)
紅はスマホを耳に当てたまま、もう一度青弥の方に視線をやった。
すると青弥は相変わらず友達に囲まれてはいたが、その顔は紅を見ていた。まるで紅がスマホの音を聞けたかどうか確認してるかのように。
窓際の席の青弥と廊下側の席の紅。
両端の席に座る二人の間には何人ものクラスメイトが居たが、二人の視線はしっかりとぶつかった。




