第2話「花の歌」
昼休み。
いつものように一人で弁当を食べようとしていた紅は、青弥に連れ出され、音楽準備室までやってきた。
「ここ、勝手に入って大丈夫なの?」
「勝手じゃないよ。先生に許可はもらってあるから」
そう言いながら慣れた感じで奥へ進む青弥に続き、紅も恐る恐る室内へ入るが、ズラッと並べられた楽器の圧と男子生徒と二人きりで密室に入った緊張感で、紅の体はザワザワした感覚になる。
ふと気が付くと、青弥がウェットティッシュで長机とパイプ椅子の座面を拭いている。紅は慌てて「手伝います」と傍へ行ったが、「大丈夫だよ、もう終わったから。さぁ座って。ここで食べよう」と言われてしまう。
「……ありがとうございます」
一軍男子にここまでやらせてしまい、紅は何だかいたたまれない気持ちで右端に座った。
すると青弥は二脚あったもう一つの椅子を少しだけ左端に寄せて座ると、持っていたエコバッグから炭酸グレープのペットボトルを一本取り出し、紅に向かって差し出した。
「あげる。飲んで」
「え?」
「大丈。まだ冷たいし俺の分は別にあるから」
そう言うと青弥はコーラのペットボトルを取り出して、「俺、炭酸がないと生きていけないから」とニコッとし、泡が出ないように慎重にキャップを開けると顎を少し上げ、ゴクゴクッと飲みだした。
紅はその度に動く、青弥の喉仏に視線が釘付けになる。自分と母親には無いその盛り上がりが、妙になまめかしく、新鮮に思えた。
何口か飲み終えた青弥はふぅぅっと息を吐くと、顔を紅に向け直して「さぁ食べよう」と微笑んだ。その眩しい笑顔に紅もつられ、少しだけ口角を上がる。
青弥は紅が巾着袋からおにぎりを取り出すのを見て、長机を拭いていたウェットティッシュの箱をそっと紅の方に差し出した。そこには「吹奏楽部用」と書かれていて、紅が手に取るのをためらうと、持参していた菓子パンをほおばりながら、「大丈夫だよ。少しくらいバレないから。俺はチョイチョイ使ってる」とドヤ顔になる。
(チョイチョイ?)が紅は気になったが、そこは触れずに「じゃぁ」と一枚だけ手に取ると、両手を拭いてからラップにくるまれたおにぎりを両手で持ち、口元へ運ぶ。だが味は何もしない。緊張で味覚が飛んでいってしまってたようだ。
少しすると、青弥が再び話を始めた。
「でも本当にまじでびっくりだよね。まさか坂本が拾ってたなんて。すごい偶然というか、奇跡じゃない?」
その話しぶりから青弥はまだ興奮冷めやらぬ感じだった。紅にとっては迷惑な奇跡なのに。
「……そうだね」
紅は咀嚼する口元を、左手で隠しながら相槌を打った。
「おやじに連絡したらめっちゃ安心しててさ、ちゃんとお礼するように言われた。だから改めてちゃんとお礼はさせてもらうから」
「お礼はいいです。大丈夫です」
「いやいやダメでしょ。そこはちゃんとしないと。遠慮しなくていいからね」
遠慮と言われたが、紅はそんな気持ちではない。過去のトラウマから、卒業まで交友関係は薄く過ごしたいだけだったのだ。
中学を卒業するまで、紅は今のアパートから数十キロ離れたとある片田舎で両親と三人で住んでいた。その頃から裕福では無かったが、それなりに幸せな生活を送れていたと今でも思っている。
だが十歳の時に両親が離婚すると、状況は一変した。
母親が生活のために水商売で働き始めると、しばらくして紅はクラスで孤立するようになり、またしばらくすると、紅はいじめられるようになった。
原因は母親の職業だ。そのいじめは中学生になっても続き、娘の持ち物や制服がおかしくなっていくことに流石に気付いた母親が担任に助けを求めたが、担任は問題解決に消極的だった。なぜならこの中学は昔から生徒の治安が悪く、教師は疲れ切っていたからだ。
だから紅は、自力で環境を変えるために勉強を頑張り、高校は同級生たちが誰も受験しないような遠くの県立の進学校へ進んだ。そして母親は、なんとか通学出来る距離の今のアパートへ引っ越した。
それが紅が高校で友達を作らなかった理由だ。紅は充実した青春ではなく孤独を選んだ。そうすれば、母親にまたあの悲しい想いをさせないで済むと思ったからだ。
紅はおにぎりを持っていた手を巾着袋の上に置くと、恐る恐る青弥に尋ねた。
その返事次第で、話をまとめようと思っての質問だ。
「お父さんは、スマホを落とした場所について何て言ってたの?」
「それが曖昧でさ。昨日接待で行った店まではあったみたいなんだけど、飲めない酒を飲まされて気分が悪くなったせいか、スマホが無い事に今朝気付いたらしい」
「……だから昨日電話が無かったんだね」
良かった。曖昧なら何とかなりそうだ。
紅はほんの少し、気持ちが楽になる。
「で、今日からしばらく出張が続くから、俺に探して欲しいって連絡がきたの。自分で動く時間がないんだってさ」
「じゃぁスマホが無いと困るよね。ごめんなさい」
「なんで坂本が謝るの? おやじは携帯二台持ちで、落としたのはプライベート用だから気にしなくていいよ。仕事はちゃんと出来てると思う」
「だったらいいけど」
そう言うと、紅は再びおにぎりを口に運んだ。
今度はちゃんとふりかけの味がした。
「で、どこで拾ったの?」
次に青弥は一番知りたかったことを聞いてきた。そのためにわざわざここに来たのだ。
紅は持参していた水筒の水をひと口飲んでから、恐る恐る質問の返事を口にした。
「道で拾ったの」
「道? どこの道?」
青弥が訝しむ。
「……橘街道の辺り、かな」
「街道沿いか。人通り多いじゃん」
青弥は「あっぶねー」とパイプ椅子に背を預けた。
「でも拾ったのが夜だったから、警察には明日届けようと思って。それで今日学校に持って来ました」
その言葉を聞いた青弥は、体の重心を前に移して長机に左肘を付くと、紅の方を見て「結果的に一番助かったよ。ほんとありがとう」と優しく告げた。
その笑顔は本当に眩しくて、紅は一瞬心臓がドクンと跳ね上がる。だが次にくるかもしれない質問がすぐに頭に浮び、俯いて目を反らした。
ーー「なぜそこに居たの?」「そんな時間に外出してたの?」ーー
そう聞かれたら、どう答えればいいの?
紅は言い訳を考えたが、普段ほとんど出歩かないため深夜に外出する理由がすぐに思い浮かばない。
だが青弥は、それ以上は踏み込んでこなかった。
「でもごめんね。知らない人の携帯を一晩預かるの、気持ち悪かったでしょ」
「……え?」
予想外の言葉に思わず紅は頭を上げて青弥を見る。
すると青弥は「俺もう食べちゃったから」と立ち上がると、少し離れた場所に置かれたアップライトピアノの元へ行き、掛けられてた赤紫の布カバーをもち上げながら話を続けた。
「俺がいると食べ辛いでしょ。俺はここでピアノ弾いてるからさ、気兼ねなくその美味しそうなおにぎり食べちゃって」
そしてピアノの蓋を開けてから椅子に座ると、「煩かったらごめんね」と言って両手を鍵盤に降ろした。
すると優しいピアノの音色が、音楽準備室の空間に広がる。
紅の位置からだと青弥の後ろ姿しか見えないが、その後ろ姿から繰り出されるその音色は明るくて美しく、紅の視線は青弥の背中に釘付けになる。
青弥がピアノが弾けるのは、女子生徒たちが聞かせて欲しいとねだっている姿をよく見かけたので知っていた。でもまさか自分の前で弾いてくれるなんて、紅は一ミリも想像したことが無かった。
形のいい小さな後頭部から続く細くて長いうなじと首が、戦後左右に動いている。椅子の足の隙間から見える足元も、器用にペダルを踏んでいるのが見て分かる。
(……信じられない……)
これこそが、紅にとって奇跡だった。
どこかで聴いたことがあるような、とても綺麗な曲。
聴いている内に、曲名が分からないことに紅がもどかしさを感じ始めた頃、青弥は背中に目があるのかと思うほどに、タイムリーな質問を紅にかけてきた。
「この曲知ってる?」
「……ごめんなさい。知らないの」
「だよね。ランゲの『花の歌』って曲だよ。まぁまぁ有名だから、もしかしたらどこかで聴いたことあるかもだけど」
「らんげの花の歌?」
「そう、ランゲ」
「らんげ……」
何かを察したのか、青弥は次の質問を投げかける。
「ランゲって知ってる?」
「ごめんなさい。私、植物もほとんど知らなくて」
紅がそう申し訳なさそうにそう告げると、青弥がクスクスと笑い始める。
なぜ笑い始めたのか分からない紅は、キョトンとなる。
「ごめんごめん。ランゲって作曲家の名前なんだ。ドイツの人」
「え!?」
まさか人名だと思わなかった紅は、「人の名前だったんだ」と思わず呟いた。
だが青弥は、そんな紅の呟きも聞き逃さなかった。
「そう、人の名前。エーデルワイスって曲も有名なんだけど、ってごめん。曲は難しいか」
「ううん。エーデルワイスなら知ってる。あのエーデルワイスでしょ?」
そう言うと紅は、サウンドオブミュージックに登場する、あのエーデルワイスの冒頭(Aメロ)を口ずさんだ。
そのとたん、青弥の指が止まり、顔を振りむかせて紅を見た。その顔はとても驚いた表情をしていて、紅は思わず口ずさんでしまったことが恥ずかしくなり、「ご、ごめんなさい」と顔を赤らめて俯く。
「いや、ごめんじゃなくて、今坂本が歌ったのもちゃんとエーデルワイスなんだけど」
青弥はピアノ椅子に腰かけたまま、左手を口元にもっていき「すげぇ」と呟いた。
(まさか、わざとボケたと思われた??)
そう思った紅はますます恥ずかしくなり、「そうじゃないの」と呟きながら顔をクシャクシャにしかめる。人前で歌うのは音楽の試験の時しかない。それに普段誰とも話さないくせに冗談を言う女と思われたなんて、辛過ぎる。紅は体中の細胞が後悔でザワザワとしびれ始めた。
すると再び、青弥のピアノの音色が流れ始める。その曲は、今紅が歌ったエーデルワイスの曲だ。
紅が(え?)と頭を上げると、青弥は紅を見ながら器用にピアノを弾いていた。そして視線が合うと「もう一度歌って」と紅に向かって優しく告げる。
でも紅は全力で頭を左右に振った。
青弥が「じゃぁ、ラララでもハミングでもいいから」と、もう一度紅に声を掛けても、紅は歌わなかった。自分の歌声を聞かせるなんて恐れ多いことが、二度と出来るはずがなかった。
紅が歌わないと察した青弥は、弾く曲を変えた。
その曲もかわいらいく、まるで小さな花がそよ風に揺れているようで、紅は細胞のしびれが少しだけ和らいだように感じた。
「これがランゲのエーデルワイス。エーデルワイスも花の名前なんだよ。短い曲だから良かったらそのまま聴いてて」
青弥にそう言われ、紅は黙ったままピアノの音色に耳を傾けた。
そして曲が終ると青弥は鍵盤を背にしてピアノ椅子に座り直すと、真剣な顔で紅を見て告げた。
「また、ここに来ない?」
「え?」
「坂本の歌が聴きたいんだ」




