第五章 スレ違いは、多分運命じゃなくて習慣。少しの勇気が、景色を変える。
私は工業街口駅のスターバックスへ行く回数が増えた。
増えた、というより──減らせなくなった。
理由はもう薄くならない。
あの一言を聞いてしまったからだ。
「僕は、ゆうきって言うよ」
「君は、さえちゃん」
聴いてしまった、という言い方が一番正しい。
私が知ったのは、私の手の中に渡された名前じゃなくて、偶然零れた名前だった。
だから私は呼べない。
ゆうきさんと呼んでしまったら、私の中の何かが決定してしまいそうで怖い。
決定した瞬間に私が間違ってたことになる気もして。
それでも間違いのまま抱えているのはもっと苦しい。
そんな風に頭の中で言い訳を繰り返しているのに身体の方はもっと単純だ。
駅前の人波に彼の輪郭を探す。
「こんばんは。今日もありがとうございます」
『今日も』という単語に、心臓が一拍だけ速くなる。
常連みたいに扱われるのは嬉しい……はずなのに、同時に怖い。
ここに来る理由が透けてしまいそうだからだ。
変な人だと思われているのかも知れない。
そう思った瞬間、言葉が勝手に一番安全な形を選ぶ。
「あ……すみません」
謝る必要なんて無いのに咄嗟に謝ってしまう。
すると彼女は、しまった、という顔で慌てて両手をばたばたさせた。
その動きが軽くて、空も飛べるはずだと思った。
「あ、いえ、そういうことじゃなくて」
笑いながら言い直して彼女は少しだけ息を整える。
レジの前で謝る私に合わせて、声の高さも、速度も、ちゃんと落としてくれる。
店の空気を乱さないまま、私だけに届くボリューム。
「いつも来てくれるので、仲良くなりたいなって……」
そこまで言って彼女はふっと目を伏せた。
照れたのか迷ったのか分からない。
でも、その伏せ方が妙に優しくて、私は胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。
──仲良くなりたい。
そんな言葉を私はこの店で誰かから受け取る予定じゃなかった。
「……」
返事が直ぐに出ない。
嬉しい、が先に来る。
その次に怖い、が来る。
怖いのは、仲良くなることじゃない。
私がここに来る理由を、誰かが『ちゃんと』見つけてしまうこと。
自分でも曖昧にしておきたい場所に、指で線を引かれること。
それでも目の前の彼女は私に線を引こうとしていない。
ただ寄り添おうとしている。
そのことが余計に胸に刺さる。
「……あまねちゃん?」
私はネームプレートから盗んだ名前を口にしてしまった。
声に出した瞬間、罪悪感が遅れて膨らむ。
盗み見した名前を、まるで正当な手渡しみたいに扱ってしまった。
彼女が目を上げる。
驚いた顔。
それから少し照れた様に笑った。
「……あ、覚えてくれてたんですか」
その言い方が、責めていないのに、私の背中を軽く叩くみたいで……私はまた『すみません』を言いそうになる。
でも、そこで言ってしまったら私はまた逃げる。
逃げて、誤魔化して、仲良くなる芽を自分で潰す。
私は一度だけ息を吸って、言葉を選ぶ。
「ごめんなさい……ネームプレート、見ました」
それだけ言うと、彼女は一瞬だけ固まって、直ぐに首を横に振った。
大丈夫、の動き。
店員さんの笑顔──じゃなくて、同年代の女の子の笑顔みたいな柔らかさだった。
「全然、良いですよ……寧ろ、嬉しいです」
嬉しい。
その単語が私の胸の奥に静かに沈む。
沈むのに重くない。
温度だけが残る。
「……あの」
私が言いかけると、あまねちゃんが先に言った。
「名前、呼んでもらえると、ちょっと安心します」
安心。
その言葉に、私はまた少しだけ鼓動が速くなる。
私がここに来るのは安心したいからだ。
でも、同じ理由で彼女も安心したいのだとしたら──私はこのお店で勝手に救われているだけじゃなくて、誰かの生活の一部にも触れてしまっている。
「……じゃあ、あまねちゃん」
私は小さく頷いて言った。
あまねちゃんは、ほんの少しだけ口角を上げて、また手をばたばたさせた。
さっきより控えめな──羽ばたき。
「ありがとうございます……今日は、いつもと同じですか?」
『いつも』。
またその単語。
私は一瞬だけ目を逸らしそうになる。
でも逸らさない。
「……同じです」
それだけで、あまねちゃんは分かったみたいに頷いた。
私の『同じ』は、メニューの話だけじゃない。
ここに来る理由の話でもある。
それを彼女は深追いしないまま受け取ってくれる。
「ゆっくりしていってくださいね」
私は小さく会釈をして、逃げられる席へ座った。
ストロに口をつける。
甘さが舌に乗って、少し遅れて胸が熱くなる。
常連になったから熱いんじゃない。
名前を呼べる相手が出来たからでもない。
こういう小さなやり取りを、私は本当はずっと欲しかったのかも知れない。
誰かと距離を詰めるのが怖いクセに、距離があるままでもちゃんと繋がれる形を探していた。
それからふと思う。
もし彼が来たら。
今日来たら。
私はどんな顔をしてしまうんだろう。
キャラメルフラペチーノを飲み終えた私はグラスを置いて店を出た。
自動ドアが鳴って風と入れ違いになる。
夕方の空気は冷たくて目の奥が少しだけ澄んだ。
駅前の横断歩道へ向かう足取りが、いつもよりほんの少しだけ遅くなる。
遅いのに止まらない。
店の外──横断歩道。
信号待ちの列に、彼はいた。
白いボーラーハット。アシンメトリの黒いコート。黒いボトムス。
夜に溶けるのに目に入る。音が少ない人は、逆に見付けやすい。
その瞬間、足の裏が少し熱くなる。血がそこへ集まるみたいに。
声を掛けるべきなのに、掛けられない。
掛けられない理由を、私はいくつも知っている。知っているから余計に動けない。
青に変わり、人が一斉に動く。
私は気付かない振りで、彼の少し後ろから歩き出した。
気付かない振り──というより、気付かれていない振り。
自分の輪郭を薄くして、人の流れの一部に溶ける。
白い線が足元で一定のリズムを刻む。
冬に向かう風が頬に当たりコートの裾が揺れる。
私は歩く。声を掛ける勇気はないのに、同じ青信号の上には乗ってしまう。
対岸からも同じタイミングで人が渡ってくる。
その中に、小さなおばあさんがいた。
歩幅が小さい。腕の振りも小さい。
人の波に置いて行かれそうな身体つきで、それでも一歩ずつ同じ青の上を進んでくる。
──あの速度では渡り切れないかも知れない。
胸の奥で、何かがざわつく。
助けたい、と思った瞬間に、助けるってどういう形だろうと考えてしまう。正解が分からない。
私は先に渡り切った。靴底が縁石に触れて、やっと地面が変わる。
そこで、ふと振り返った。
点滅が始まっていた。
ぱか、ぱか、と光の間隔が短くなっていく。
その時、横断歩道の真ん中辺りで、ゆうきさんがおばあさんとスレ違う。
──どうしてゆうきさんも未だあんな所に?
スレ違った瞬間、彼は止まった。
止まる、というより、立つ。
自分だけが先に安全へ逃げることを、あっさり止めるみたいに。
ゆうきさんは横断歩道の中央で立ち、軽く振り返る。
視線の先におばあさんの背中がある。
背中が未だ横断歩道の上にある。
車用の信号が青に変わる音がする。
エンジンの唸りが増える。
なのに、どの車も踏み込んでこない。
横断歩道の白だけが、そこに残る──聖域みたいに。
ゆうきさんは大きなことをしない。
手を振らない。声を出さない。
ただ、真ん中に立っている。
立って、見ている。
見ていることが、『今は待つ』を周囲に伝えるみたいに。
私の目には、それが一番強い合図に見えた。
誰かを押さえつける合図じゃない。
あくまで揃えるための合図。
おばあさんはそんなことに気付かず、ゆっくり歩く。
点滅の残酷に追い立てられても歩幅は乱れない。
ゆうきさんは動かずに視線だけで守る。
ただただそこに立ったまま最後の一歩が上がるのをじっと待つ。
おばあさんが漸く対岸の縁石に足を乗せる。
最後の一歩が地面に届いた瞬間、ゆうきさんは左右へ小さく視線を配り、車の列に向けて軽く一礼した。
それから駆け足で残りの距離を渡り切る。
急いでいるのに、雑じゃない。
焦っているのに、乱れていない。
急ぐべきところだけ急ぐ。急がないところは急がない。
私はその光景に見惚れて動けないでいた。
横断歩道を駆けて来るゆうきさんを迎えるためじゃない。
──この感情は、『誇り』だと思った。
私は、この人に出会えて本当に良かったと魂が震えた。
彼がふとこちらに気付いた。
目が合う。
私は逃げるように視線を落とすのに、彼の方が先に距離を縮めてくる。
「電車の子」
その呼び方が私を救う。
救うのに、同時に突き落とす。
私は未だその場所に居て、名前の場所には立っていない。
「こんにちは……」
情けないくらい小さい声。
「最近、よく見るね。スタバで」
軽い。軽いのにちゃんと覚えている人の軽さ。
「……はい」
私はまた、答えが短い。
彼は困ったみたいに優しい表情を浮かべる。
「君さ、甘いの好き?」
「……好き、です」
「僕も。あ、抹茶は苦手」
さらっと言って、彼は自分の首元を軽く指で触った。
鈴の音が微かに鳴ったのが聴こえる。
私はその音で、あの日の夜を思い出してしまう。
バーの向こうの「覚えました」。
そして、名前。
言いたい。
でも言えない。
「……さっき、あのおばあさん」
言葉が途中で止まる。
止まったところに、呼べない名前が詰まっている。
「うん」
彼は短く返す。短いのにちゃんと受け取っている。
「優しいですね」
言えたのは、それだけだった。
「あぁ……見られちゃったか。バレずにやるのが僕のスタイルだったんだけれど」
「……見えて、しまってました」
言ってから、喉が痛い。
盗んだみたいな痛み。
「でも、それを見て僕が優しいって判断したなら──君はもっと優しい人だよ」
突然、私の話になり慌てる。
「どういうことですか?」
「優しさは、同じレベル同士じゃないと気付けないからさ」
ゆうきさんは事も無気に言う。
「……今日も、来るんですか」
次に出た言葉は、問いかけの形を借りた願いだった。
「うん。時間が合えば。じゃあね」
そう言って、彼は当たり前みたいな顔で歩き出す。
私はその背中に追い付けないまま、信号の反対側で立ち尽くす。
──どうにかして本人から名前を聞かなくてはいけない。
盗み聴きで知った名前は、私を守らない。
私の足元をいつか崩す。
その夜、家に帰ると柔軟剤のキャサリンが切れていた。
ボトルを傾けても空の音しかしない。
仕方無くレイラを入れる。
キャサリンと似ているはずの香り。
洗濯が終わって、洗濯機の蓋を開けるとレイラの香りが立ち上がる。
瞬間──胸の奥が勝手に熱くなり、フラッシュバックを起こす。
優しい表情。
手を振る仕草。
鈴の音。
僕。
そして、君。
この匂いは──ゆうきさんだ。
私は洗濯物を掴んだまま動けなくなった。
呼べない名前が、先に匂いになって私を捕まえる。




