第三章 ぎこちない沈黙は、悪意じゃない。ギュッと握った言葉が、解けないだけ。
あの座席を私の指定席みたいに思い込んでいたのは、私だけだった。
各駅停車に指定席なんて無いのに……。
だから今朝は座る前から落ち着かない。
それでも、私はいつもの後ろから二両目の席に座って居る。
電車が駅に滑り込む時、目線は無意識に人の流れの中を探してしまう。
探すつもりなんてないのに……。
電車が時針の様にホームに停まる。
ドアが開き、風が音を連れて来る。
人の匂いが混ざる。
その中に、彼は居た。
彼はいつも通り急いだ様子も無く乗って来る。
スーツ姿で肩の力だけが抜けている。
昨日スタバで見たばかりなのに、朝の電車の中では別の人みたいに見える。
場所が変わるだけで同じ人が違う輪郭になるのが不思議だった。
『どちらが本当の彼なんだろう?』
そんなことを考える。
次の駅で乗り降りがあって、偶然私の近くに彼が移動してきた。
距離が近い。近過ぎる。
ぐっと押されているのか、彼の上半身が折られ、座っている私に覆い被さる様に彼の身体が目の前にある。
息の置き場所が分からなくなる。
彼がふと、こちらを見た。
昨日と同じ目。
私を見ている──というより、私の困り方を見付ける目。
「昨日、いたよね。工業街口のスタバ」
声が思っていたより柔らかかった。
朝の車内の硬さを少しだけ削ってくる。
「……はい」
私の返事は情けないくらい短い。
けれど彼は気にしないみたいに続けた。
「朝の電車、いつも同じくらいだね」
私は頷く。
頷いただけで胸が一回だけ跳ねる。
「スタバでいつも何を頼むの?」
「……えっと。キャラメルフラペチーノ……です」
「キャラメルフラペチーノか……他には?」
私は一瞬、詰まる。
初めてと言って良いのか分からない。
でも、彼の声は『言っても大丈夫』の方に寄っていた。
「……初めて、行きました」
「そうなんだ。憧れって言ってたし、昨日が初スタバなんだね」
私は小さく頷いた。
「じゃあ、Youは何しに工業街口駅に?」
いきなり英語が混ざって頭の中が一瞬だけ忙しくなる。
唐突なTV番組の名前に笑って良いのか、真面目に答えるべきなのか分からない。
多分、両方で良い。
「……スタバに行ってみたくて」
「正直だね」
彼がほんの少しだけ笑った。
笑うというより、口元が解ける。
その解け方を見上げる私の胸が変な音で囃し立てる。
電車が揺れる。吊り革の金具が小さく鳴る。
私の鼓動がそれに混ざりそうで怖い。
次の駅で、どっと人が降りて行った。
不自然な人の増減よりも、彼が離れてくれたことに安堵する気持ちの方が大きかった。
私の左隣の席が空き、彼はそこに自然に滑り込む。
網棚の上に置いてあった紙袋が、パラシュートを開いたみたいに彼の膝にゆっくりと不時着する。
中に入っているのは、多分飲み物。
紙が擦れる音がして、昨日の店内の音を思い出す。
「それ、コーヒーですか?」
「ううん。ホットティー。今朝はこれ、持ってきたんだ」
紙袋の口から覗く白い蓋を、彼が指で軽く叩く。
「こういうのって、何て言う?」
「……紙コップ、ですか?」
「だよね。紙コップって言うよね」
彼が少しだけ首を傾げた。
「でもさ、コップとカップって、何が違うんだろうね」
「……え?」
私は意味が分からなくて眉を寄せてしまう。
「分かんない?」
「……分かんないです」
言いながら、少し恥ずかしい。置いて行かれる感じがする。
彼は笑わないで、でも少しだけ楽しそうに言った。
「じゃあさ、明日、答え合わせしよーよ」
「……明日?」
「うん。明日、この電車で」
言い方が軽いのに、約束みたいだった。
約束って、こんな風に置かれるんだ。
重くない顔で、ちゃんと残るものとして。
私は頷いた。
頷いたのに胸の奥が追い付かなくて、もう一回だけ頷きそうになる。
電車が彼の降りる駅に着く。
人の波が動いて、彼も立ち上がり、出口に向かう。
彼が振り返る。
「じゃ、また明日。答え、考えといてね」
「……はい」
たったそれだけなのに妙に嬉しかった。
その日の帰り道、杜ノ宮駅前のドラッグストアに寄った。
いつもの柔軟剤──キャサリンが、そろそろ切れそうだった。
同じ棚へ向かって私は自然に足を運ぶ。
──無い。
棚が空っぽ、というより、棚そのものが別の商品に置き換わっている。
『ソフラン アロマリッチ キャサリン廃盤』
小さな紙が貼られていた。
『廃盤』のたった二文字が思ったより冷たく見えた。
私は暫くそこに立ってしまった。
キャサリンは私の匂いだった。
一人暮らしを始めて一番最初に決めたモノが柔軟剤だった。
世界の理不尽に心が落ち着かない。
代わりに並んでいたのは、レイラ。
同じメーカー。似た系統の匂い。
似ているはず、という期待だけが頼り。
私はレイラを手に取って、レジへ向かった。
買い物袋の中でボトルがカタンと鳴る。
翌朝。
工業街口駅の人の波の中に流されて彼が居る。
彼は私を見つけると、昨日と同じ軽い顔で近付いて来た。
「おはよう。答え、出た?」
胸が一回だけ跳ねる。
でも今日は、ちゃんと言う。
ちゃんと答える。
「昨日言ってた、コップとカップの違いって……取っ手があるか、無いか──ですか?」
昨日の夜、一所懸命考えた答えだった。
言い切った瞬間、彼の目が一瞬だけ大きくなる。
驚いた顔。
でも、それは受け取った驚きだった。
「胸にストンと落ちたよ。ちょっと感動した」
私はそれだけで嬉しくなる。
「……え? 違う意見でした?」
「僕はさ、ロボットになれるかどうか──かなって思ってた」
「……え?」
「カップはロボットになれないけれど、コップはロボットになれる」
理解が追いつかなくて固まる私に、彼は困ったみたいに笑う。
「ロボコップ、知らない?昔の洋画でさ」
漸く繋がる。
「あ。ジェネレーション・ギャップってやつかも、です」
「あ」
短く息を吐くみたいな声。
少しだけ照れている。
気恥ずかしい沈黙が私たちの間に落ちる。
だけどそれは悪意じゃない。
ギュッと握った言葉が解けないだけ。
私は笑って良いのか分からなくて、笑いそうになる。
彼も笑いそうで笑わない。
電車が揺れて、吊り革が鳴る。
その音が沈黙に調度良い蓋をしてくれた。
言葉にはしない。
未だ、言葉にすると逃げてしまいそうだから。
そして、私は工業街口駅のスタバを行き着けにすることに決めた。
──彼に会うために。




