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最終章 束ねるのは、約束じゃなくて記憶。束の間の温度を、逃さないために。

 髪を切りに行こう、と思った。

 この長い髪は、優樹さんと出会ってから今までの苦しい時を見ている。

 それがどうしようもなく嫌だった。

──汚い。もう忘れたい。

 痛かった出来事は髪の毛と一緒に身体から切り離したい。

 不意に、そう感じた。

 それに、優樹さんに出会うほんの少し前に髪を切っていたから、ヘアサロンに行くのは三カ月振りだった。


 表参道駅の地上に出ると冬の光がやけに白い。

 白い光は街の輪郭をくっきりさせる。

 人の顔も、建物の角も、ガラスの縁も、全部が少しだけ硬く見える。

 私はコートの襟を上げて、細い道を曲がった。

 駅の熱が背中から離れると空気の粒が急に固くなる。

 冬は息を吸うだけで輪郭が出来る。

 看板の文字も、歩く人の睫毛も、全部が『ここにある』と主張している。


 私はなるべく音の少ない方へ流れた。

 大通りの真っ直ぐな眩しさじゃなく、一本入った道の影が少しだけ混じる方へ。

 歩幅を小さくして足音を揃える。

 自分の中のざわつきが靴底に伝わらないように。

 ガラスとコンクリートと木。

 都会の素材が順番に並び替わりながら、同じ速度で通り過ぎて行く。

 その間を縫うみたいに歩くと心だけが少し置いて行かれる。


 信号を一つ渡って角を曲がる。

 途端に風が細くなる。

 ビルの隙間で風が折れて、頬に当たる冷たさが面じゃなく線になる。

 線の冷たさは刺す。

 刺すのに目が冴える。


 少し歩くと目的の建物が見えた。

 下はコンビニで、生活の明るさがガラス越しに滲んでいる。

──なのに、二階へ上がる階段だけが不思議なくらい静かだった。

 脇に音の薄いエレベータがある。

 LONESS 表参道は二階だ。

 私はエレベータに乗り、ボタンを押す。

 扉が閉まると外の冷たさが一旦遮られて耳の奥が静かになる。

 短い浮遊の後、階数表示が切り替わった。


 扉が開き、左を向くとカウンタにスタッフさんが居た。

「いらっしゃいませ」

 私は予約の名前を告げるだけで良かった。

 余計な説明を求められない空気がそこにはもう出来ている。


「朱憂さん、こんにちは」

 聴き慣れた声に耳が反応する。

 そちらを向くと、木の床が見える。

 茶色い椅子が並んでいて、鏡の下には植物の緑が走っている。

 白と木と緑。

 整い過ぎているのに冷たくない。

 冬の外気がここで一旦止まるみたいに見えた。


──莉歩リホさん。

 白い空間を歩くのが似合う人だ。

 白が多い場所で輪郭がはっきりしている人は強い。

 強い人はこちらの弱さを急がせない。

 だから、私はゆっくり息ができる。

 今日も綺麗な白い服を着ている。

 白は汚れる色なのに、汚れるのを怖がって縮こまる感じがしない。

 その感じが莉歩さんの背筋の伸びた輪郭を作っているんだと思った。

 段差に差しかかると莉歩さんは一度だけ振り返る。

「足元、気をつけてくださいね」

 言葉は短い。

 でも、手を繋がれたみたいに心が転ばない。


「今日は、どうしますか?」

 私は椅子に座ってクロスをかけられる。

 クロスは軽い。不思議と心の散らかりまで少しだけ整う。

「……バッサリ、切りたいです」

 莉歩さんと鏡越しに目が合う。

 覗き込む目じゃない。

 置き場所を作る目だ。

 言葉の置き場所──私の泣きそうな顔の置き場所。

「どれくらい?」

 私は指で自分の頬の下辺りを示した。


 莉歩さんは驚いたように一瞬だけ目を見開く。

 驚きは一瞬で、直ぐに『賛成』の形に変わる。

「それ、良いですね。顔も小顔なので、きっと似合うと思います」

 褒め言葉が技術の説明みたいに正確だった。

 嬉しいのに、照れるより先に安心が来る。


 莉歩さんは櫛を入れる。

 髪が引かれる感覚が思ったより優しい。

 優しい手付きは痛いところに触れないまま、ちゃんとそこを分かってくれる。

「最近、乾燥凄いですよね」

 雑談みたいに言われて私は小さく笑った。

 笑えることがここでも救いになる。

 『普通の話』をしても良い場所だ、って身体が思い出す。


 鋏が光る。

 鋏を持つ手が、左右のどちらかに迷わず移る。

 莉歩さんは左利きだ。

 前に、ぽつりと言っていた。

『世界は右で出来てるじゃないですか──だから左利きの私は、早く死ぬんですよ』

 冗談みたいに言うのに笑いを取りに来ない声だった。

 言葉は乾いているのに、なぜか優しい。

 だから私は急がなくて良いんだと思える。

 私が変わる速度を私のままにしてくれる。


 最初の一束が落ちたとき、私は息を止めた。

 落ちる髪は音が無い。

 音も無く世界が少し私の前に広がる。

 髪が少しずつ短くなる。

 短くなるほど首筋が寒い。

 代わりに頬の辺りが温かい。

 鏡の中で、見慣れた顔が見慣れない角度を持ち始める。


「朱憂さん、前髪、ここだけ少し軽くしますね」

「はい」

 返事の音が思ったより素直に出る。

 喉の奥にフラペチーノが引っ掛かっていたはずなのに、ここでは少し落ちていく。

 落ちる、というより、溶ける。

 髪を切る手は止まらないのに、会話だけが急に静かになる瞬間がある。

 莉歩さんはその静けさを壊さない。

 無理に笑わせない。

 空白を『失敗』にしない。

 それが救いだった。


 ふと、私は思い出す。

 前に莉歩さんが言っていたこと。

──桃を毎日食べる、と。

 その言い方が変に誇らし気でも無く、生活の事実みたいで。

 私はそれを覚えていた。

「そういえば、莉歩さん。前に……桃、好きって言ってましたよね?」

 莉歩さんが鏡越しに一瞬だけ私を見る。

 覚えていた、という事実の置き場所を作る目だ。

「覚えててくれたんですか?毎朝食べますよ」

 声が少しだけ柔らかくなる。

 柔らかいのに甘え過ぎない。

 忙しい人の短い素直さ。

「スタバって行きますか?」

「結構行きますよ」

 莉歩さんは笑いながらも手は止まらない。

 止めないのに、雑じゃない。

 忙しさを乱れにしない人。

「マンゴーパッションティーフラペチーノって、分かりますか?」

「分かりますよ」

「アレを……ティー抜きにして、ホワイトモカシロップを追加するんです」

「……はい」

 莉歩さんは覚えようとしてくれてるみたいに、一瞬だけ手を止めて考える。

 考える時の目が真っ直ぐだ。

「そうすると、桃の味になるんです」

「えーーーっ!!今度、絶対やってみます」

 声が弾む。

 でも、弾ませ過ぎないから私の中の何かがびっくりしない。

 それが『安心』なんだと気付いた。


 最後にドライヤーの風が当たる。

 風は強い。

 強い風は髪の向きも心の向きも、一旦全部真っ白にする。

 Dysonの風だ、と思った。

 店も自宅もDysonだって、莉歩さんは前に言っていた。

 同じ道具を同じ強さで使う人。

 生活も仕事も、同じ温度で続けている人。


「完成です」

 鏡の中の、私の首元が良く見える。

──少しだけ、優樹さんの髪の長さに近付いたと思った。

 その『少し』が嬉しい。

 それに照れる。

 前みたいに「僕と同じだね」って言われたら、今度は「同じにしました」と素直に伝えよう。

 もう、怖くない。


「ありがとうございます」

「こちらこそ。凄く似合ってます」

 私は褒め言葉を受け取る練習をする。

 下手でも、練習なら大丈夫な気がした。

 莉歩さんの言葉は持ち帰れる形をしている。

 帰り道で崩れない形。


 会計を済ませ、外に出ると冬の空気が刺さる。

 刺さるのに頭が軽い。

 軽い頭で歩くと、街が少しだけ広い。

 さっきまで襟の中に隠れていた首が外に出ている。

 髪が短いだけで寒さが当たる場所が変わる。

 風が首元の皮膚に直接触れる。

 細い針みたいに、そこだけを刺してくる。

 私は歩きながら無意識に首を竦める。

 竦めても空気は入り込む。

 入り込んだ冷たさが体温と混ざってコートの中が変な温度になる。

 私は歩いて角を曲がる。


 ガラスの大きな箱みたいな建物が見えてくる。

 二階まで透明で、中の明るさがそのまま外へ漏れている。

 夜じゃなくても、あそこだけ『店頭が点灯している』みたいに見える。

 外壁の内側に縦の格子がある。

 木みたいに見える赤い線が、店の呼吸を整えている。

 その赤は温度の色だった。

 寒さの中で、あそこだけ火種みたいだ。

 ガラスの向こうに、カウンタがある。

 店の空気とカフェの空気が同じ床の上に並んでいて、どちらも軽くないのにどちらも冷たくない。

 ショーウィンドウの奥に淡い青緑の壁が見える。

 時計の丸い白が浮いていて、時間だけがそこに貼られているみたいだった。

 白いロゴ。

 王冠みたいで、惑星みたいなマーク。


 私はそこでやっと気付く。

 首元にマフラが欲しい。

 優樹さんと同じVivienne Westwoodの白いマフラが──。


 翌日、一月十五日。

 その日も私は工業街口駅前のスターバックスに居た。


 今日は待つ理由がはっきりしている。

 待つ、という言葉の中にはいつも少しだけ不安が混ざる。

 でも、それは嫌な不安じゃない。

 胸の奥が勝手に先に温度を作ってしまう種類の不安だ。

 私は席に座って、自分の髪を指で触った。

 短い。

 短いだけで世界が新しい気がする。

 鏡の中で見た首元の線が、未だ自分のものじゃないみたいで触って確かめたくなる。

 確かめる度毎に、決心が少しずつ固くなる。

 見せる。

 ちゃんと、見せる。

 髪をバッサリ切ったこと。

──あなたに、見せる。


 もし、優樹さんが前みたいに笑って──「僕と同じ髪型だね」って言ってくれたら。

 今度は逃げない。

 冗談にしない。

 誤魔化さない。

「同じにしちゃいました」

 口の中で小さく練習する。

 声にしない練習なのに、喉の奥が少し熱くなる。

 熱くなるのは、怖さじゃなくて──自分の中でやっと歩き出したい何かのせいだった。


 それから、もう一つ。

 紙袋の取っ手が膝の横で軽く揺れる。

 中にあるのは白いマフラだ。

 Vivienne Westwood。

 あの白。あの手触り。

 同じものを買った。

 同じ、と言うと図々しい気がして……でも、同じが欲しかった。

 もし言えたら言う。

 髪のことを言えたら、その勢いで言う。

 勢いじゃなくて、決めて言う。

 あなたと同じものを、私も選びたかったんだって。

 そして──私の首に巻いてほしいって。


 店内はいつも通りだった。

 カップの取っ手が机に触れる音。

 氷が砕ける乾いた音。

 オーダー番号を呼ぶ声。

 世界が平気な顔で回っている音。

 私だけが回り方が違う。

 私はドリンクを受け取るカウンタの近くの席に座った。

 受け取り口の辺りの気配が近い。

 番号を呼ぶ声が言葉より先に振動で届く距離。

 その少し先に自動ドアも視界の端に入る。

 見るための席じゃない。

 見えるのに、見ないための席だ。

 その矛盾が今の私には必要だった。

 私は白いダウンのフードを軽く被った。

 切った髪がいきなり優樹さんの視線に触れないように。

 深く隠すためじゃない。

 ただ、輪郭だけを曖昧にするため。

 生地一枚で世界との距離が少しだけ変わる。


 閉店が近づくと、店の呼吸が遅くなる。

 その遅さに合わせて、私の心臓まで遅くなれば良いのにと思う。

 思うのに、心臓は全然言うことを聞かない。

 来る。

 きっと来るはずだ。

 時間が合えば、と言っていた。

 今日は合ってほしい。

 合えるように、私はここにいる。

 言うんだ。

 今日は言う。

 言える。

 言えるはずだ。


 閉店ギリギリに、自動ドアが開く音がした。

 冷たい外気が一瞬だけ店に混ざる。

 その隙間を縫うみたいに──優樹さんが入って来る。

 見えた瞬間、身体の奥の温度が上がる。

 なのに、動けない。

 立ち上がって呼ぶだけなのに、ソファが腰を掴むみたいだ。

 優樹さんは迷い無くレジへ向かった。

 その歩き方がいつも通りで、いつも通りだからこそ──私は安心してしまう。

 安心した瞬間に覚悟がふっと緩む。

 緩むから、また握り直す。

 しおりさんがレジにいる。

 優樹さんは何かを頼んでいる。

 聴こえない距離なのに、口元の形で「お願い」と言っているのが分かる。

 分かってしまうくらい、私は見ている。


──少し、胸騒ぎがした。


 胸騒ぎは嫌な予感の形をしているのに、理由が無い振りをしてしまう。

 理由が無い振りをしたいくらい、私は今日を壊したくなかった。

 しおりさんが一旦裏に入る。

 代わりにカウンタの奥から別の人が出て来る。

 心臓を掴まれているみたいに目を離せない。


──さえさん。


 涙の準備が既に出来ているみたいな顔。

 その顔を見た瞬間、胸騒ぎが『理由』に変わった。


──なんで?


 喉のミキサする四角い大きな……言葉が上手く出て来ない。

 私は紙袋の取っ手を握り直した。

 優樹さんの声が聴こえる。


「僕、彩愛サエちゃんにレジしてもらいたい。そんで、彩愛ちゃんにドリンク作ってもらいたい」


 頭が真っ白になる。

 白いのは店内の照明だけじゃない。

 私の中身まで白くなる。

 白くなると言葉が見つからない。

 見つからない言葉は喉の奥で固まる。

 固まったら、息が詰まってしまう。


「僕、彩愛ちゃんの最後のお客さんになりたい」


 優樹さんのその言葉で、世界が止まったみたいに全ての音が消えた。

 二人だけの空間と時間がそこにある。

 少しの間があった。

 そして、さえさんが泣きそうな声で──


「こんばんは」


 その一言が私の胸の中の温度をいきなり別の形に変える。

 変える、というより──手を離される。

 今まで自分で握っていたはずの温度が突然どこかへ落ちる。

 落ちて床に割れる。

 割れた破片が胸の内側を静かに滅多刺す。


 私はここに居ることが惨めな気持ちになる。

 私が勝手に優樹さんを待っていただけだ。

 優樹さんは初めからさえさんのことが好きだったんだ。

 初めから私は知っていたはずだ。

 無言で手を振り合っていたじゃないか。

 優樹さんのドリンクをさえさんは覚えていたじゃないか。

──私より先に、名前を手渡していたじゃないか。


 見せるはずだった髪が、急に恥ずかしくなる。

 見せるはずだった白が、急に場違いになる。

 同じにしたかったモノが、同じじゃないことを証明してしまうみたいで──私は、息の仕方を忘れる。

 ここに居ることを、優樹さんに見られたくない。

 あなたを待っていましたなんて、優樹さんに伝える訳にはいかない。

 二人の大事な想い出に、私が水を挿してはいけない。

 私はフードを深く被り直す。

 顔が見えないように。

 髪が見えないように。

──この涙だけは外には出さない。


 フードの暗闇の中で必死に紙袋の取っ手を足元へ寄せる。

 白が見えないように、テーブルの陰へ押し込む。

 隠す。

 隠す、という動作だけが、今の私に出来る唯一の意思だった。


──さえさん。

 泣きそうな顔のまま、泣かない振りをして、でも──間に合っていない顔。

 睫毛の先に丸い光がぶら下がっている。

 落ちる寸前のそれが店内の熱を含んで揺れている。

 温かい涙。私の頬を伝う冷たい涙とは違う。

 温かい涙の音が聴こえる。冷たい涙は音がしない。

 音がするだけで、それは『ここで起きている』出来事になる。音がしないだけで、私は世界に混ざれない。


 裏からしおりさんが出て来る。

 一人一人のお客さんに「二十二時に閉店です」と伝えて回っている。

 閉店が世界の終わりみたいに聴こえる。

 終わり、というより、救いかも知れない。

 早く終わってほしいのに、終わってほしくない。

 終わったら、私は何も言えなかったままになる。


 しおりさんが私の元へ来る。

「そろそろ閉店──」

 声が途中で止まる。

 しおりさんが、私の顔を見たからだ。


 フードの奥に隠したはずなのに、いつの間にか幕が上がっていた。

 見ないつもりだったのに……。

 フードの縁が、ほんの少しだけ上がっていた。

 泣き方だけじゃない。

 顔の輪郭ごと、外に漏れてしまったらしい。

 しおりさんの目が、驚きの形になる。


 しおりさんは一度、振り返る。

 優樹さんと、さえさんを見る。

 それから、また私の方を見る。


 私の胸が跳ねる。

 跳ねた瞬間、また痛む。

 自意識が鋭くなる。

 ここに居ること自体が罪みたいに感じる。


 しおりさんは私のフードの端を優しく摘んで、ぐっと深く被せ直してくれる。

 視界までそっと暗くするみたいに。


──もう、何も見なくて良いよ。


 そう言ってくれている様に感じた。

 それから、ほんの少しだけ声を落として言う。

「今日は、あなただけ──二十二時十分で閉店です」

 そして、頭をポンポンと大切に叩いてくれた。


 その優しさは、目の前に見えるはずの優樹さんと同じ匂いがした──

※物語の都合上──1時間後(同日 22:00)にエピローグを公開します。

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