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第十章 のどの奥で揺れる『君の名前』が、伸びをして音になる日を待ってる。

 臨海国立大学の講義室は、午前の光を薄く反射して白かった。

 蛍光灯の白。机の白。ノートの余白の白。

 白が多い場所は、輪郭のないものまで浮かび上がらせる。

 黒板の前で、教授がチョークを持ち替える。指先に付いた粉を擦ると、パチンと小さく鳴った。


「今日のテーマは、背理法です。否定を仮定し、矛盾で退けて、元を確定する証明です」

 私はノートを開いている。

 開いているだけで、字は進まない。

 ペン先は紙の上で止まったまま手の中だけが乾いていく。

 昨日の改札の光が未だ瞼の裏に残っている。

 俺の人の影。

 「好きだ」と言う前の息。言った後の息。

 真面目だった。だから逃げ道が少なかった。

 返事、という荷物だけが置いていかれた。

 受け取るか、置き直すか。

 どちらにしても、触った瞬間に形になる。

「示したい命題を P とします。先ず ¬P を仮定する。そこから進め、矛盾へ至る」

──彼と付き合う。

 その言葉を頭の中に置いた瞬間、世界が急に具体になる。

 待ち合わせ。

 時間。

 場所。

 ここに来て。

 断り方を考えるより先に、断れない空気が出来る。

 出来てしまう、が一番厄介だ。

 誰も悪くない顔をして、いつの間にか当たり前になる。

 心配した。

 送る。

 危ない。

 ちゃんと。

 言葉は守る振りをする。

 守る振りのまま、私の周りに柵を立てる。

 柵は一気に完成しない。

 一日に一本ずつ、音も立てずに増える。

 気付いた頃には、出入口だけが細くなっている。

「矛盾 ⊥ とは、同じ前提から A と ¬A が同時に出る状況です。矛盾が出た時点で、誤りは仮定の側にある」

 彼と歩く。

 彼の歩幅で。

 手を繋ぐ。

 最初は、嫌だと思う。

 でも思っただけで終わる。

 終わる、という終わり方で、嫌が薄くなる。

 大丈夫。

 慣れる。

 普通。

 普通、という言葉は網目を細かくする。

 抜け道を、抜け道に見えない形で塞ぐ。

 塞がれたことに気付くのが遅れるほど、塞がれ方は上手い。

 キスをする。

 想像した瞬間、喉の奥がきゅっと縮む。

 縮んだまま、笑う練習をしてしまう。

 練習が上手くなるほど、私の顔だけが先に出来上がる。

 イルミネーション。

 真っ直ぐな目。

 「好き」と言う口。

 その正しさを、受け取る自分が見えない。

 見えないのに、見える振りだけが上手くなる。

 上手くなるほど、私は薄くなる。

「背理法は、好ましい結論に誘導する話法ではありません。整合性の確認です。整合するか、しないか、それだけ」

 好ましい、は簡単だ。

 優しい。

 連絡をくれる。

 待つ。

 送る。

 心配する。

 好ましさは包装紙みたいに綺麗で、綺麗なほど安心する。

 包装紙は、開ける前が一番優しい。

 中身を出した瞬間、戻し方が分からなくなる。

 戻し方が分からなくなるのが怖い。

 怖いのに、私はいつも「はい」と言ってしまう。

 「はい」と言った自分を後から守るために、理由を探す。

 理由を探す癖は、もう癖になっている。

 癖は、檻の鍵の位置を毎回少しだけ変える。

 出たいと思ったとき、手が迷うように。

 迷っている間に、外の風の匂いを忘れるように。

「例を挙げます。P:この教室には黒板がある。¬P:黒板がない、と仮定する。だが私たちは見ている。矛盾です」

 教室の空気は整っている。

 誰かの咳。

 椅子の軋み。

 ページを捲る音。

 世界がいつも通り流れている音だけが、一定の速度で進む。

 教授の声も、そこに混ざっているだけだ。

 意味としては入って来ない。

 入って来ないのに、喉の奥にだけ、昨日の言葉が残っている。


──好きだ。

 私は、今日会う。

 短いメッセージが来ていた。

『今日、話せる?』

 短い。短いのに、網目が一段細かくなる音がした。

 私は『うん』と返した。

 返した瞬間、選択肢が一本減る。

 減る音は静かで、だから決定的だ。


 講義が終わるベルが鳴る。

 椅子が鳴る。人が動く。

 私も立つ。立てる。歩ける。

 歩けることが少し怖い。

 怖いのに、世界はいつも通りに次へ行く。

 大学を出る。

 昼の光は白いまま、風だけ冷たい。

 息が白くなる前の冷たさ。

 胸の奥にだけ冷えが入って来る。

 駅の近く、歩道橋の下。

 彼は待っていた。

 待っている姿は正しい。

 正しい姿勢で、正しい場所にいる。

 正しさは私の肩を固くする。


「来た」

 第一声がそれで、私は少しだけ救われる。

 長い言葉の前に短い言葉があると、世界の速度が元に戻る。

「……うん」

「寒くない?」

 誰にでも言える、誰も責めない正しさ。

 私は首を振る。

 振っただけで、もう『守られている側』に入ってしまう。

「昨日さ」

「……うん」

「帰り、ちゃんと寝れた?」

 正しさが、もう一つ増える。

 心配という名の正しさ。

 私は「大丈夫」と言いたいのに、言い方が分からない。

 大丈夫の形が、私の中で崩れている。

「俺、朝もさ。お前の顔、ずっと浮かんでた」

 ここで初めて、生活の正しさに体温が混ざる。

 体温が混ざると、網目が小さくなる。

 小さくなった分だけ、逃げ道は『逃げ』に見える。

「昨日の続き、ちゃんと話そう」

 ちゃんと。

 その単語は、優しさみたいな顔で檻になる。

 隠れさせないための檻。

 曖昧に逃がさないための檻。

 彼は私の顔を覗き込む。

 覗き込む癖がある。

 距離を詰めるのが上手い。

 それが、時々怖い。

「で、返事。考えた?」

 私は息を吸う。

 吸った息がどこにも落ち着かない。

 喉の奥が少しだけ乾く。


──もし、受けたら。

 待ち合わせ。手。キス。

 その順番が、最初から決まっているみたいに見える。

 瞬間。胸の奥だけがすっと遠退く。

 戻って来ない。

「……ごめん。無理」

 言葉が思ったより早く出た。

 早く出たことに、私自身が一番驚く。

 彼の目が一瞬だけ止まる。

 瞬きが遅れる。

 口を開きかけて、閉じる。

 喉が動いて、言葉の置き場だけが迷う。

「……は?」

 短い。

 だから強い。

 この一音で、網目がまた一段細かくなる。

「なんで。昨日、考えさせてって——」

「考えた」

 私は言い切った。

 言い切った瞬間、喉の奥が痛む。

 痛むのに戻せない。

 彼は笑おうとする。

 笑いになり切らない笑い。

 傷付いた場所を隠すみたいな笑い。

 でも隠し切れなくて、次の言葉が少し遅れる。

「……理由は?」

 理由。

 理由を言葉にした瞬間、私の輪郭が濃くなる。

 そうなったら、もう戻せない。

 でも、戻せないものが最近増え過ぎていて、今さら一つ増えても同じだと、心のどこかが言い訳をする。

「……好きな人がいる」

 言ってしまった。

 胸の奥がひやりとする。

 次の瞬間、そこだけ熱くなる。

 彼は責めない顔で息を吐く。

 責めないのに、逃がさない。

 優しさが、出口の前に立つ。


「どんな奴?」

 私は答えられない。

 どんな、と言えるほど知らない。

 知っているのは、呼び方の温度と、距離の測らなさと、匂いみたいに残るものだけだ。

 それは『どんな?』の答えにならない。

「……分からない」

 情け無さが遅れて来る。

 分からないのに好き、は弱い。

 だから、攻撃しやすい。

 私は自分で自分を攻撃してしまう。

「分からないって、何──」

「会ってない」

 被せる様に言うと、彼の眉が少しだけ動く。

 動いて、止まる。

 そこに沈黙が落ちる。

 落ちた沈黙が、私の足元を固くする。

「……会ってないのに?」

 声が少しだけ低い。

 責めてない。

 でも、受け取れないモノを前にした人の声だ。

「じゃあさ……」

 彼が一歩だけ近付く。

 乱暴じゃない。

 正しい一歩だ。

 正しいから、避けると私が『変』になる。


「俺と付き合えば?」

 合理的で、優しい。

 世界の教科書みたいな提案。

 私の身体が拒否する。

 拒否する理由を、私は言葉に出来ない。

 言葉に出来ない拒否は、私を悪者にする。

 悪者にされる前に、私は小さく首を振る。

 首を振った瞬間、足元の地面が少しだけ遠くなる。

 今まで踏めていた場所が踏めない場所になる。

「……俺さ、お前のこと大事にする」

 追い詰めているつもりがない顔。

 寧ろ、ちゃんとしようとしている顔。

 ちゃんと、がここでも檻になる。

「無理させない。嫌なことしない。ちゃんと話し合う」

 正しさが列挙されるほど、逃げ道が塞がる。

「それでも?」

 私は、どれにも反論できない。

 反論できないまま、『違う』だけが残る。

「俺、好きなんだよ。ずっと」

 真面目で、だから逃げ道が少ない言葉。

 胸の奥が痛い。

 痛いのに、そこが動かない。

 動かない場所が、動かないまま残る。


 私は息を吸って、吐く。

 吐いた息が震える。

 震えは怖さの形だ。

「……呼び方が、違う」

 やっと出た言葉が、それだった。

「呼び方?」

 私は頷く。

 頷くしかない。

 こんな理由、幼い。

 でも、それは確かに──幼さじゃない場所に刺さっている。

「僕、って言う人が……」

 言いかけて止まる。

 止まったところに、名前が詰まっている。

 名前を言えば距離が決まる。距離が決まるのが怖い。

 怖いのに、もう距離は勝手に決まり始めている。


 彼が、短く笑う。

 笑いが、少しだけ掠れる。

 掠れたまま、口の端が引きつる。

「何それ。そんなので?」

──そんなので。

 胸の奥が痛くなる。

 そんなので、私の朝は祈りになる。

 そんなので、胸いっぱいに匂いが刺さる。

 そんなので、私はここまで来てしまった。

「……そんなの、じゃない」

 否定じゃない。

 説明が出来ないだけの言葉。

 説明が出来ない場所にあるモノほど、もう出て行けない。


 彼が、何か言いかける。

 言いかけて、飲み込む。

 飲み込んだ分だけ、目が少しだけ赤い気がする。

 気がする、としか言えない距離のまま、私はそれを見てしまう。

「……じゃあ、帰るね」

「待てって」

 呼び止める声が背中に当たる。

 背中に当たった声は、身体の中までは入って来ない。


 私は一歩、歩く。

 歩いた瞬間、また選択肢が減る音がする。

 減る音は静かで、だからこそ決定的だ。

 改札へ向かう階段の途中で、私は手摺りに指を置く。

 冷たい。冷たいのに、指先だけが熱い。

 私は、今……断った。

 断ったことで、戻り方が分からない場所が増えた。

 断らなければ、未だ『揺れている振り』が出来た。

 断ったから、揺れている振りが出来なくなる。

──誰を待っているのか。

 その問いが遅れて追い付いてくる。

 追い付いてきた問いは鋭い。

 鋭いから、答えは言葉じゃなく形になる。

 喉の奥が、きゅっと鳴る。

 鳴るというより、伸びをする。

 音になりたがっている。

 でも私は、未だ言わない。

 直ぐに言葉にすると、逃げてしまいそうだから。

 それでも現実は現実の速度で進む。

 電車は走る。改札は光る。アナウンスは次の駅名を呼ぶ。

 誰の名前も呼ばない世界が、いつも通りに流れていく。


 家に着いて、靴を脱いで、灯りを点ける。

 いつもと同じ動作。いつもと同じ順番。

 同じはずなのに、今日は全部が少し遅い。

 スマホは静かだ。

 静かだから、余計に胸が五月蝿い。


 私はベッドに腰を下ろして、暫く動けなかった。

 断ったことが、私の中で形になってしまったからだ。

 形になったものは、触れないのに重い。

──もし、断らなかったら。

 その仮定は一瞬だけ甘い。

 甘いのに、胸の奥がすっと遠のく。

 遠のいたまま、戻ってこない。

 知らなければ、揺れていられた。

 知ってしまったから、揺れている振りができない。

 私は枕を抱えて、顔を埋める。

 息を吸う。

 吐く。

 吸う。

 呼吸だけが、私の身体に『ここに居る』を証明させる。

 会ってない。

 分からない。

 それでも、喉の奥だけが、一つの形を覚えている。

 選んだんじゃない、と言えば責任が薄まる。

 薄めたくなること自体が、私の狡さだ。

 狡いのに、形は消えない。

 だから、網目がまた細かくなる。


 夢でも良いから、ゆうきさんに会えたら──

 私は玄関の鍵の、内側のチェーンをそっと外した。

 夢だと分からなければ、夢の中に居られる様な気がした。

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― 新着の感想 ―
読んでて、辛いです。 自分から幸せに向かっていかない感じが、リアル過ぎるというか。 主人公、大丈夫かな?と心配になりながらも、分かると思う自分もいて、いつになったらこの苦しさから抜け出せるんだろうと感…
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