04
その夜、地中海の穏やかな表情は一変した。昼間の紺碧はどこへやら、空は重苦しい鉛色に染まり、低気圧がヴィラの分厚いガラス窓をガタガタと震わせている。
テオは、ガブリエルが特別に用意した図鑑を抱えたまま、大きな天蓋付きのベッドですやすやと眠りについていた。その寝顔を見つめながら、エレーナは胸を締め付けられるような孤独感に襲われていた。
(テオは、この場所を気に入り始めている。……ガブリエルのことも)
息子に最高の環境を与えられるのは、母親として喜ぶべきことだ。けれど、ガブリエルがテオに注ぐ情熱的な眼差しを見るたび、エレーナの心には暗い影が落ちる。彼はテオの中に自分自身の血を見出し、愛している。では、私は?彼にとって私は、息子を産み、育てただけの「過去の女」に過ぎないのではないか。
エレーナはたまらず部屋を抜け出し、一階の図書室へと向かった。古書店を愛する彼女にとって、紙とインクの匂いだけが唯一の救いだった。
暗い図書室に、稲妻が閃光を走らせる。
「……こんな夜に、何を歩き回っている」
低い声に、エレーナは肩を跳ねさせた。部屋の隅、琥珀色のブランデーグラスを手にしたガブリエルが、背の高い革張りの椅子に深く腰掛けていた。シャツのボタンを数個外し、乱れた髪を額に垂らした姿は、昼間の冷徹な支配者とは違う、ひどく無防備で、退廃的な色気を放っている。
「テオの様子を、見てきたところよ」
「そうか。あの子は、私の幼い頃にそっくりだ。チェスの筋も、数字への執着もな」
ガブリエルはグラスを煽り、自嘲気味に笑った。
「5年だ、エレーナ。君があの手紙を書き、母がそれを隠したあの日から、俺の中の時間は止まったままだった。俺は、仕事という名の戦場に身を投じることで、君を失った空虚を埋めようとしてきた」
「ガブリエル……」
「だが、今日、テオを抱き上げた瞬間、止まっていた心臓が動き出したような気がした。あの子は、俺に欠けていた最後のピースだ」
エレーナは唇を噛んだ。その言葉が、鋭い刃となって彼女の心を切り裂く。
「そうね。テオはあなたの息子だわ。素晴らしい後継者になる。……私はもう、お役御免かしら?」
ガブリエルの動きが止まった。彼はゆっくりと立ち上がり、影のように彼女に歩み寄る。
「何が言いたい」
「テオには、あなたがいて、この素晴らしい島がある。私が古書店で必死に守らなくても、彼はもう幸せになれる。……あなたはテオが欲しかったのよね?目的は達成されたわ」
「ふざけるな!」
ガブリエルは彼女の手首を掴み、背後の書架へと押し付けた。背表紙の硬い感触が背中に伝わる。
「私がテオだけを求めているだと?5年間、憎しみの裏側で君の面影を追い続け、狂いそうになっていた俺を、そこまで侮辱するのか!」
「だって、あなたは一度も言ってくれない!私自身のことをどう思っているのか、一度も……っ」
エレーナの叫びは、重なり合った唇によって塞がれた。それは昼間の執着に満ちたキスとは違い、絶望的なまでの渇望と、隠しきれない愛情が混ざり合った、熱く湿った口づけだった。
稲妻が走り、図書室を真っ白に照らし出す。ガブリエルは彼女を壊しそうなほど強く抱きしめ、そのうなじに顔を埋めて荒い息を吐いた。
「……言わなければわからないのか、エレーナ」
ガブリエルは震える手で、書架の奥に隠されていた一冊の本を取り出した。それは、あまりにも無惨な姿をしていた。表紙は色あせ、銀の刺繍は剥げ落ち、何よりページの中ほどが力任せに引き裂かれ、泥のような汚れが付着している。
エレーナは息を呑み、その本を凝視した。
「……私たちの、詩集?」
5年前、マンハッタンの安アパートで、二人が寄り添いながら読み耽った『19世紀の失われた愛の詩集』。ガブリエルが余白に愛の言葉を書き込み、エレーナが押し花を挟んだ、二人の「聖典」だったはずのもの。
「あの日……」
エレーナの脳裏に、封印していた記憶が鮮烈に蘇った。ガブリエルの母が差し向けた黒服の男たちが、彼女の部屋を荒らしたあの日。エレーナはせめてこの本だけは持っていこうと胸に抱きしめた。けれど、執事は冷酷な笑みを浮かべてそれを奪い取ったのだ。
『こんな安物の古紙が、サン・ローランの次期当主にふさわしいとお思いか?』
男はエレーナの目の前で詩集を床に叩きつけ、高級な革靴の踵で、ガブリエルの書き込みがあるページを無慈悲に踏みにじった。エレーナが悲鳴を上げて縋り付いても、彼らはそれを笑いながら蹴り飛ばした。
「ガブリエル、聞いて。私はそれを捨ててなんていない!あなたのお母様の部下たちが、私の手から奪って、泥靴で踏みにじったのよ!」
ガブリエルの身体が、落雷に打たれたように硬直した。
「踏みにじった……だと?母は俺に、君が小切手と引き換えにこれをゴミ箱へ投げ捨てていったと言った。君の愛はこの本と同じく、最初からボロボロの偽物だったのだと……!」
「そんな……!」
エレーナは震える指で、汚れの残るページに触れた。そこには、今もかすかにガブリエルの筆跡で『MyEternalElena(私の永遠のエレーナへ)』と記されている。その文字は、踏みにじられた跡で無惨に歪んでいた。
二人は、同じ一つの「嘘」によって、5年もの間、互いを憎むように仕向けられていたのだ。ガブリエルはこのボロボロの詩集を見るたびに、裏切られた痛みに身悶え、それでも彼女を捨てきれずに、この「憎しみの象徴」を金庫に保管し続けてきた。
「俺は……俺は何という愚か者だ」
ガブリエルは呻くように言うと、詩集を抱えたままのエレーナを、今度こそ折れんばかりの力で抱きしめた。
「君がこれを捨てたのではないと……俺への愛をゴミのように扱ったのではないと知っていたら、5年前、地球の裏側まで追いかけてでも君を連れ戻したのに!」
「ガブリエル……」
「許してくれ、エレーナ。君を、そしてこの愛を信じきれなかった俺を」
彼の熱い涙がエレーナの肩に落ちる。外の嵐は最高潮に達し、稲妻が図書室を白銀に染め上げた。引き裂かれた詩集は、いま二人の手の中で重ね合わされた。5年間の空白と誤解という泥を拭い去り、失われた言葉を一つずつ紡ぎ直すように。
けれど、二人の情熱が再び燃え上がろうとしたその時、図書室の重厚な扉が音もなく開いた。
「あら、ずいぶんと騒がしい夜ですこと」
冷ややかに響くその声に、二人の身体が凍りついた。扉の影に立っていたのは、真珠のネックレスを完璧に纏い、氷のような微笑を浮かべた女性。5年前、二人の運命を無慈悲に切り裂いた張本人――ガブリエルの母、サン・ローラン夫人の姿だった。




