03
地中海に浮かぶガブリエルの個人所有島は、楽園そのものだった。断崖の上に建つ白亜のヴィラからは、見渡す限りの紺碧の海が広がり、風はジャスミンの香りを運んでくる。
だが、エレーナにとってそこは、金銀で飾られた檻に他ならなかった。
「……信じられない」
テラスに佇むエレーナは、目の前の光景に呆然と呟いた。広大なリビングのソファに、世界を動かす冷徹な億万長者と、5歳の少年が並んで座っている。二人の間には、アンティークのチェスボードが置かれていた。
「いいか、テオ。騎士は常に予測不能な動きをする。だが、盤面全体を支配するのは王ではなく、戦略を描く者の意志だ」
ガブリエルは、かつてエレーナに向けた冷酷な眼差しとは別人のような、静かで熱い光を瞳に宿していた。
「……こう?」
テオが小さな指で黒い駒を動かす。
「ほう……。守りを固めると見せかけて、私のビショップを誘い出したか。筋がいい」
ガブリエルは満足げに口角を上げた。それは、エレーナさえ一度も見せてもらったことのない、誇らしげで、どこか少年のような純粋さを湛えた笑みだった。
「テオ、そろそろお昼寝の時間よ」
エレーナがたまらず声をかけると、テオは顔を上げ、少しだけ困ったように微笑んだ。
「ママ、あと少しだけ。ガブリエルさんは、僕が今まで読んだ本よりもずっと面白いことを教えてくれるんだ。数字の魔法や、星の見方まで」
エレーナの胸に、ちくりとした痛みが走る。テオは賢すぎるほどに賢い子だ。だからこそ、自分に欠けている「父親」という存在が、どれほど強大で魅力的な知識の泉であるかを、瞬時に理解してしまった。
ガブリエルはテオの頭を乱暴ながらも愛おしそうに撫でると、エレーナに勝ち誇ったような視線を向けた。
「この子は宝石だ、エレーナ。君が埃っぽい古書店で腐らせるには、あまりにも惜しい才能を持っている。彼は私の帝王学を驚くべき速さで吸収しているよ」
「……彼を、私から奪わないで」
「奪う?心外だな。私は彼に『ふさわしい居場所』を与えているだけだ」
ガブリエルはテオに、執事と共に庭へ行くよう促した。テオが素直に従い、部屋から姿を消した瞬間、室内の空気は一変した。ガブリエルが立ち上がり、エレーナとの距離を詰める。
「君はテオを立派に育てた。そこだけは認めてやろう。……だが、許せないことが一つある」
彼はポケットから、古びた、角が少しだけ折れ曲がった封筒を取り出した。エレーナの心臓が激しく脈打つ。それは、彼女が5年前に出したはずの、あの手紙……?
「……それを、読んでくれたの?」
「ああ、読んだとも。昨日、実家の書庫の奥に隠されているのを私の部下が見つけてきた。母が死ぬまで隠し通そうとしていた、呪われた真実だ」
ガブリエルの声が、微かに震えていた。怒りではない。それは、深い後悔と、やり場のない激情。
「君は手紙に書いていた。『あなたを愛しているけれど、これ以上あなたの足枷にはなれない。お腹の子と一緒に、遠くからあなたの幸せを祈ります』と。……なぜだ、エレーナ!なぜ俺に直接言わなかった!」
エレーナの視界が涙で滲む。
「言おうとしたわ!でも、あなたのお母様に……あなたはもう別の高貴な女性と婚約する予定で、私の存在はあなたのキャリアを破壊するスキャンダルでしかないと言われたの!預けられた手紙の返事も来なかった……」
「返事など、書けるはずがないだろう!俺の手元に届いていなかったんだから!」
ガブリエルはエレーナの肩を掴み、引き寄せた。
「俺は5年間、君が俺を捨て、金を持って男と逃げたと信じ込まされていた。……俺たちの時間は、偽りの言葉によって奪われたんだ」
二人の間に流れる、重く苦しい沈黙。ガブリエルの指先に力がこもる。彼は今にも彼女を押し倒し、失われた5年間を力ずくで埋め合わせたいという衝動を必死に抑えていた。
「……ガブリエル」
「黙れ。許さない。君を、そして君を信じきれなかった自分を。……だが、テオがこの島にいる限り、君もここから出すつもりはない」
彼は彼女の唇に、噛み付くような激しいキスを落とした。それは愛の告白というにはあまりに荒々しく、だが、どんな甘い言葉よりも切実に、彼女を求めていた。
外では、テオが庭師から地中海の植物の名前を教わっている明るい声が聞こえる。エレーナは、ガブリエルの胸の中で悟った。誤解は解け始めた。けれど、一度壊れた時間が元に戻るには、あまりにも多くの情熱と、そして「家族」としての絆の再生が必要なのだと。




