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億万長者が隠された愛を知るとき  作者: Lucy M. Eden


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01

ニューヨーク、グリニッジ・ヴィレッジの片隅。そこだけが時の流れから取り残されたような古書店『ヘイル・アンティーク・ブックス』の店内には、常に古い紙が放つ、どこか甘く、微かに焦げたような香りが漂っていた。


エレーナは、背表紙の金文字が擦り切れた詩集を棚に戻すと、小さくため息をついた。窓の外では、マンハッタンを湿らせる冷たい秋の雨が降り始めている。


「エレーナ、奥の整理は終わったかしら?」


カウンターから、店主のグレイスが温かな声をかけた。


「ええ、グレイス。あとは19世紀の詩集のリストを作るだけです」


「無理はしないでね。あなたには、守らなきゃいけない『宝物』がいるんだから」


グレイスが視線を送った先――児童書コーナーの奥、絵本が積み上げられた小さなスペースに、その宝物はいた。


「ママ、見て。この騎士様、ドラゴンを倒してお姫様を助けるんだよ」


5歳の息子、テオが目を輝かせてこちらを向いた。エレーナは、その瞳を見るたびに、今でも一瞬だけ呼吸を忘れてしまう。吸い込まれるような、深く、底知れないほど美しい、地中海の海を思わせるサファイア・ブルー。それは、かつてエレーナがすべてを捧げて愛し、そして逃げ出した男――ガブリエル・サン・ローランと全く同じ色だった。


『テオ(神の贈り物)』


ガブリエルを失い、身一つでマンハッタンに逃げ延びた彼女に、神が授けてくれた唯一の光。彼に似たその瞳は、彼女にとっての救いであり、同時に一生消えることのない甘美な呪いでもあった。


その時だった。書店の古いドアベルが、悲鳴のような音を立てて鳴り響いた。重厚なドアが荒々しく開け放たれ、雨の湿った匂いと共に、圧倒的な『捕食者』の気配が店内に流れ込んできた。


埃の舞う静かな空間に、場違いなほど洗練された香水の香りが広がる。サンダルウッドと、雨に濡れた高級なウール、そして――人を跪かせる権力の香り。


エレーナの心臓が、跳ね上がった。聞き間違えるはずのない、重い靴音。彼女は震える手でカウンターを掴み、ゆっくりと顔を上げた。


そこに立っていたのは、漆黒のオーダーメイドスーツに身を包んだ、この世のものとは思えないほど美しい男だった。かつてより少しだけ鋭くなった頬のライン、完璧に整えられた髪、そして――彼女を射抜く、氷のように冷たいブルーの瞳。


ガブリエル・サン・ローラン。


5年前、地中海の風の中で自分を抱きしめた男が、今、ニューヨークの場末の古書店に、復讐の権化のような姿で立っていた。


「……ガブリエル」


震える声でその名を呼んだ瞬間、彼の薄い唇が冷酷に歪んだ。彼はゆっくりと、獲物を追い詰める豹のような足取りで、彼女との距離を縮めてくる。


「5年も私を待たせるとは、ずいぶんと高慢な店員になったものだな、エレーナ」


その声は、かつての甘い囁きとは程遠く、彼女の魂を凍らせるほど鋭かった。


「どうして……ここが」


「私が望んで、手に入らないものがあると思うか?」


ガブリエルはカウンターに身を乗り出し、彼女の顎を指先で強引に持ち上げた。彼から放たれる熱い体温と、冷徹な視線。その矛盾する刺激に、エレーナの膝が震える。


「金を持って逃げた不実な女を、そのまま見逃すほど私は慈悲深くはない。お前には、その代償をたっぷりと払ってもらう」


「お金なんて……私は受け取ってないわ!」


「嘘をつけ。私の母が渡した小切手を受け取り、私の前から消えた。それが事実だ」


誤解だ、と叫びたかった。しかし、5年前のあの日、彼の一族から浴びせられた罵倒と、彼自身が自分を裏切ったと思い込まされた絶望が、彼女の喉を塞いだ。


その時、書棚の影から小さな声が響いた。


「……ママ?」


ガブリエルの身体が、目に見えて硬直した。彼はエレーナから指を離し、ゆっくりと声のした方へ視線を向けた。


そこには、大好きな冒険小説を胸に抱いたテオが、不安げな表情で立っていた。テオは、突然現れた見知らぬ巨大な影に怯えながらも、母を守るように歩み寄ってくる。


「ママ、この人、だれ?」


ガブリエルの息が止まった。彼は、まるで雷に打たれたかのように立ち尽くした。目の前にいる小さな少年の、自分と生き写しの顔。そして何より、自分と全く同じ、深い青色の瞳。


店内の空気が、真空になったかのように重く、静まり返る。ガブリエルの瞳に、烈火のような怒りと、それを上回るほどの衝撃が渦巻いた。彼は震える拳を握り締め、テオから一歩も目を離さずに、地を這うような低い声で呟いた。


「……エレーナ。この子供は、一体誰だ」


エレーナは、テオを抱き寄せ、その小さな肩を必死に隠した。


「……私の息子よ」


「質問を変えよう。この子の父親は……どこのどいつだ?」


ガブリエルの瞳に宿ったのは、すべてを焼き尽くすような独占欲と、狂おしいほどの情熱だった。エレーナは悟った。この瞬間、彼女の平穏な生活は終わりを告げ、逃れられない嵐の中へと引き戻されたのだということを。

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