第89話 “またやってみる”を記録する日
8月15日。蝉の声が少しだけ弱まっていた。
窓から入り込む風が、ノートのページをぱらぱらとめくる。
机の上には、昨日までのTRY-LOGノートが10冊。
「……三日目で、最初の“脱落”か」
相川の声が、わずかに沈んだ。
その言葉が、夏の空気の中で静かに溶けていく。
相川がページを閉じた。
そこには小さな文字で――“今日、書けなかった”とだけ書かれている。
佐藤が目を伏せた。
「陸だ。昨日まで“がんばった”って書いてたのに。
気分の欄も空白。“むずい”とか“疲れた”さえない。……たぶん、やる気ごと消えてる」
「陸……まだ小学生だったよな?」
「ああ。四年生。思った通りにいかないと、すぐ“もういいや”ってなる年頃だ。
それも、ちゃんと成長してる証拠なんだけどな」
俺は唇を噛んだ。
“継続テスト”の最初の壁。
どんな仕組みを作っても、人の心が止まる瞬間はある。
けれど、それを“失敗”で終わらせたら、この実験の意味がなくなる。
「相川先輩、俺――行ってきます」
「行くって、どこに?」
「陸ん家です。……直接話してみます」
立ち上がった俺を、佐藤がすぐに見た。
「おいおい、放っておけるわけねぇだろ。俺も行く」
「助かる」
相川がコーヒーを置いた。
「まったく、面倒見のいい社長だな。……頼んだぞ」
「はい」
―
【クエスト発生】
内容:努力の止まった心を再起動せよ
報酬:行動指数(筋力)+1/SP+5
―
住宅街の一角。
白いフェンスの向こうで、小さな影がしゃがみこんでいた。
手に持った麦茶のペットボトルが、汗をかいている。
滴る水が指をすべって、地面に落ちた。
「……陸」
振り向いた顔には、どこか影があった。
「……あ、大輝兄ちゃんと、陽斗兄ちゃん。」
その声は、夏の風にかき消されるほど小さい。
俺は無意識にしゃがみ込み、目線を合わせた。
笑っている。けれど、それは“笑顔”じゃなかった。
唇の端は上がっているのに、目の奥が少しだけ沈んでいる。
その微妙な揺れに、胸の奥がざらりとした。
(……頑張ってる顔、だな)
理由はわからない。
でも、見えた気がした。
“うまくいかないのに、笑おうとしてる”――あの頃の自分の顔と同じだ。
胸の奥がじんわり熱くなる。
言葉を探したけれど、どれも軽すぎて、口にできなかった。
そんな俺の沈黙を、佐藤が柔らかく破った。
「陸、どうした? ちょっと元気ねぇな」
陸は膝を抱えたまま、ぽつりと呟いた。
「昨日、走っても全然速くならなくてさ。
“頑張ったのに結果が出ない”って思ったら、もういいやって……」
佐藤が軽く笑って、陸の頭をぽんと叩いた。
「なーに落ち込んでんだ。
“昨日の自分に負けたくない”って思えてる時点で、もう頑張ってんじゃん」
陸が少しだけ顔を上げる。
その表情に、ようやくほんのわずかな“光”が戻った気がした。
昔の俺なら、“続けろ”って言っていた。
でも、今は違う。
TRY-LOGの目的は、“無理に続かせる”ことじゃない。
“やめたい”って気持ちも、努力の一部なんだ。
「なぁ、陸」
ゆっくりと目線を合わせる。
意識して、少しだけ笑った。
自然と口角が上がると、陸の表情もわずかにゆるんでいく。
「TRY-LOGってさ」
陸の目線が、少しだけこちらに戻ったのを見て、俺はゆっくり続けた。
「努力を“評価する”ノートじゃないんだ」
「……え?」
「“できた”じゃなくて、“やろうとした”を書くだけでいい。
結果が出なくても、止まっても、それも努力のうちなんだ」
陸が小さく首を振る。
「でも、“サボった”って書いたら、かっこ悪くない?」
少しの間、沈黙。
風の音だけが、白いフェンスの向こうで揺れていた。
「かっこ悪くない!」
佐藤が、不意に口を開いた。
「むしろそれを書けるやつが一番すげぇ。
“休む勇気”ってやつだ。大人でもなかなかできねぇんだぞ」
陸の目が、ほんの少しだけ動いた。
その光の変化を見逃さないように、俺は小さくうなずいた。
陸はしばらく黙っていたが、やがてペンを取り、ノートを開いた。
迷いながらも、一行書く。
【今日の気分】やる気が出なかった。
【一言】でも、大輝兄ちゃんと陽斗兄ちゃんが来てくれたから、ちょっとやってみる。
ペン先が止まった瞬間、胸の奥があたたかくなった。
それは“希望”でも“成功”でもない。
ただ――もう一度立ち上がろうとする、小さな“光”だった。
(……これだ。止まりかけた努力が、もう一度、息をした)
―
【クエスト達成】
内容:努力の止まった心を再起動せよ
報酬:行動指数(筋力)+1/SP+5
―
夕方。
駅前のカフェ。
溶けかけた氷が、グラスの中で小さく音を立てた。
その向こうで、相川と佐藤の顔がゆらめいている。
相川がノートを指で軽く叩いた。
「“サボり”も記録したほうがいいな。」
「え、サボり?」佐藤が目を丸くする。
「“できなかった日”も、“続けてるうち”に入れるってことだ。
アプリにも、“今日は休む日”ってボタンをつけよう。
押したら、自動で“休みも努力”って記録されるようにするんだ」
佐藤が少し考えて、笑った。
「なるほど。“続けられなかった日”も、“また始められる日”にするってことですね」
「うん。TRY-LOGの本質は、“努力の強制”じゃなく、“努力の共感”だから」
俺はつぶやいた。
「頑張れなかった日を、ちゃんと残せるようにしたい」
(“休む”を失敗にしない。
“またやろう”って思える形にするんだ)
「“戻れる努力”。それを見えるようにします」
「なるほどな」佐藤が笑った。
「“努力のログ”じゃなくて、“リスタートログ”だな」
その言葉に、心の奥が少し熱くなった。
(――そうだ。それだ。)
人はずっと走り続けられない。
でも、“戻ってこれる”場所があれば、また前を向ける。
画面の中に、小さな“帰ってこられるボタン”があるだけで――
それだけで、誰かの明日が救われるかもしれない。
―
帰宅後。
部屋の明かりが、ノートの白いページを照らしていた。
陸の文字を、もう一度見つめる。
【やる気が出なかった】
【でも、ちょっとやってみる】
たった二行。
けれどそれは、“生きたログ”だった。
書いた本人の迷いも、勇気も、全部そこに詰まっていた。
パソコンを開き、TRY-LOGの編集画面を立ち上げる。
画面の光が、手元を柔らかく照らす。
(……疲れたら、止まってもいい。
でも、また戻ってこられるように――)
新しい項目を入力した。
新項目:「今日は休む日」
説明文:
「疲れたら、書かなくてもいい。
でも、戻ってくるときは“おかえり”って言うから」
Enterキーを押す。
カーソルが小さく点滅して、保存完了の音が鳴った。
まるで画面の向こうから、「ありがとう」と返された気がした。
―
三日後。
子どもたちのノートが再び届いた。
“今日は休む日”にシールを貼った子が3人。
“またやる”に丸をつけた子が5人。
“疲れたけど楽しかった”が2人。
誰一人として、白紙のページはなかった。
「……相川先輩、これが“心が折れにくい形”です。」
相川がページを閉じて、静かに頷く。
「そうか。……じゃあ、次は“動く形”にしていく段階だな」
佐藤が笑った。
「つまり、試作スタートってことっすね! ついにスマホで動くTRY-LOGが見られるのか〜!」
相川がポケットから10円ガムを三つ取り出す。
「ご褒美。陸くんにも届けとけ。
“休む勇気”を見せたやつには、これくらいのボーナスが必要だろ」
「ははっ、了解っす!」
佐藤が笑いながら俺の肩を軽く叩く。
「なあ佐久間、相川先輩ってツンデレだよな」
「たしかに……そうかもな」
相川がため息をついた。
「うるせぇ、聞こえてんぞ」
その一言で、三人とも笑った。
扇風機が回る音の中、
TRY-LOGの“次のフェーズ”が、静かに動き出した。
―
【Project Re:Try:試して、確かめる/第一段階レポート】
※【 】内は今回上昇分
◆日時:8月18日
◆目標:10人テスト完遂(2週間)
◆進行状況:実施中(Phase.01)
◆目的:
「続けやすい“努力記録”の原型を見つける」
“努力のデータ化”ではなく、“努力の共感化”を目指す。
◆メンバー構成:
・佐久間 陽斗(CEO/代表・企画)
行動指数(筋力):33.5【+1】
継続性(耐久力):34.0
構想力(知力) :34.2
共感力(魅力) :45.2
SP:25【+5】/スキル保持数:31
・佐藤 大輝(COO/現場統括)/信頼度:78
・相川 蓮(CTO/開発・解析)/信頼度:53
◆対象者:中学生5名・小学生5名(協力者)
◆試験内容:「手書き努力ログ」による2週間の継続テスト
◆試験報酬:クオカード500円+アイス1本
◆残資産:1,530,000円
◆観察結果(中間報告):
・陸(協力者)のケースにより、“戻れる努力”という概念を発見。
→ それを受け、新機能「休む日ログ」を設計・追加。
◆次段階予定:
Phase.02「手書きログのデジタル化」
→ TRY-LOGをベースにAI解析を導入。“続く言葉”の抽出と分類を開始予定。
――これは報告書でもあり、俺たちの“航海日誌”でもある。
(記録者:佐久間陽斗)
読んでくださってありがとうございます。
休むことも、前に進むための大切な時間だと思います。
次回もぜひ、読みに来ていただけたら嬉しいです。




