第74話 彼女は知らない、恋が“数値化”されていることを
朝、机の上のカレンダーをぼんやりと見つめていた。
七月二十七日――夏休み、二週目。
窓の外では、蝉の声がせわしなく鳴いている。
(……佐久間くん、今日は“誰か”と出かけてるのかな)
思わずそんなことを考えて、我に返った。
……なにを考えてるの、私。
教科書を閉じて、深呼吸をひとつ。
頭ではわかっている。
私にとって、“勉強”こそがすべて。
誰かを想うなんて、意味がない。無駄だ。
――そのはず、なのに。
机の隅に置かれたスマホの画面が、ふっと光った。
トレンド欄に――“星野瑠奈・夏の海ショット”の文字。
「先週の撮影オフショット」という記事タイトルが目に入る。
写真の中。
海辺で笑う瑠奈の後ろに、小さく映る男子の背中。
どこか、佐久間くんに似ていた。
(……まさか、ね)
でも、胸の奥がざわついた。
指先で画面を閉じようとしたのに――できなかった。
心臓の音が、静かな部屋の中にやけに響いている。
「……なんで、こんな気持ちになるんだろ」
誰に聞かせるでもなく、こぼれた声。
返すように、蝉の鳴き声がさらに大きくなった。
―
「凛、朝ごはんできてるわよー」
母の声に、私はノートを閉じて部屋を出た。
ダイニングのテーブルには、トーストとサラダ、そして冷たい牛乳。
父の席だけが、今日も空っぽ。
(……また、いないのね)
父はこの地域でも有名な外科医で、病院を経営している。
けれど、私が物心ついた頃から、家にいる姿をほとんど見たことがない。
年に数回、食卓で顔を合わせても、決まって言うのは――
「テストの結果は?」
その一言だけ。
私が満点を取っても、褒められた記憶はない。
返ってくるのはいつも「当然だ」の一言だった。
だから私は、勉強することでしか自分を保てなかった。
父に認めてもらうために。
“価値のある自分”でいるために。
でも最近――その“当たり前”が、少しずつ揺らいでいる。
―
きっかけは、去年の期末テスト。
学年順位の掲示板に、“佐久間陽斗”という名前があった。
しかも――8位。
(……あの、佐久間くん?)
彼は、目立つタイプではなかった。
休み時間に騒ぐこともなく、いつも静かで落ち着いた印象。
学年上位50人の掲示板に、彼の名前を見たことは一度もない。
一年の頃はクラスが違って、話したこともなかった。
でも、体育の時間にグラウンドの隅で走る姿を何度か見かけた。
息を切らしながらも、最後まで走り切っていたのを覚えている。
だからこそ――その名前を見た瞬間、頭が真っ白になった。
でもその日、掲示板の前に立っていた彼の背中は、
私の記憶よりもずっと大きくて、姿勢がまっすぐだった。
少し日焼けした肌。
前より短くなった髪。
そして、誰よりも“真剣な目”。
その瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。
(……努力、したんだ)
ただ、それだけの感想だった。
けれど、その“ただ”が――何日も頭から離れなかった。
―
それから、少しずつ話す機会が増えた。
昼休み、図書室で偶然出会ったとき。
参考書を手に取りながら、彼が言った。
「俺は――一ノ瀬に勝つためにやってる」
思わず顔を上げた。
その目は真っすぐで、迷いがなかった。
……初めてだった。
私を“高嶺の花”でも“天才”でもなく、
一人の“ライバル”として見てくれた人。
その瞬間、胸の奥に灯がともった。
「負けたくない」
けれど、それ以上に――
「同じ場所に立っていたい」って、心のどこかで願っていた。
―
佐久間くんと初めて話してから、数ヶ月。
彼は、また一段と変わっていた。
見た目も、成績も――そして、雰囲気までも。
気づけば、彼の周りにはいつのまにか人が集まっていた。
水城遥。星野瑠奈。
あの二人まで関わっている。
(どうして、こんなに……)
ただ眺めているだけで、胸の奥がざわつく。
それが“焦り”だと気づくまでに、少し時間がかかった。
(……私、何してるんだろ)
机に向かい、問題集を開く。
でも、文字が目の前で溶けていくみたいに、頭に入ってこない。
公式も、答えも、全部どこか遠くに流れていった。
目を閉じても――浮かぶのは、彼の顔だった。
―
夜。
母が寝静まったあと、ベッドの上でスマホを手に取る。
連絡帳の「佐久間陽斗」の名前。
開いて、閉じて、また開く。
(……あのとき、なんで“いいよ”なんて返しちゃったんだろ)
送ったのは、数日前。
それなのに、まだ胸の奥がざわついている。
“デート”なんて言葉、そもそも私の辞書にはなかった。
でも、もう“断る理由”もなかった。
(ちゃんとしたデート、か……どうしてこんなに緊張してるんだろ)
自分で自分に呆れて、小さく息を吐く。
「……馬鹿みたい」
そう呟いて、布団を被った。
スマホの光が消えても、頬の熱はなかなか引かなかった。
―
翌朝。
鏡の前で、髪を整える。
白いブラウスに、淡いベージュのスカート。
派手すぎず、でも清楚すぎない――そんな服を選んだ。
普段なら、服なんて“どうでもいい”と思っていたのに。
今日だけは、鏡の前で少し迷っていた。
時計の針が10時を指す。
家を出る前、ふと机の上のボールペンに目が止まった。
――あのとき、彼がくれたペンだ。
「俺も負けないぞ」
その言葉が、今も心の奥に残っている。
初めて、誰かに“並んで見てもらえた”気がした。
私は小さく微笑んで、ペンをポーチにしまった。
(今日、ちゃんと確かめよう。
私がどうして“焦ってる”のか。
どうして、彼を目で追ってしまうのか。)
駅へ向かう道。
陽射しが眩しくて、蝉の声が――まるで背中を押すように響いていた。
―
ふと、胸の奥に“文字”が浮かんだ気がした。
――【クエスト発生:静かな焦り】
――内容:“自分の本音を認めろ”
まるで、誰かにそう囁かれたようだった。
(……私の努力は、誰のため?)
思わず小さく笑って、立ち上がる。
きっと――今日、答えが出る気がした。
―
【一ノ瀬凛 好感度:75→79】
【システム通知】
クエスト「本に刻む想い」解放。
―
もちろん、そんな“通知”の存在を、彼女は知らない。
――気づけば、彼の変化を、
“誰よりも近くで見たい”と思っていた。
一ノ瀬視点の回でした。少しずつ、彼女の中で何かが変わっていきます。次回も読んでもらえたら嬉しいです。




