月に跳ねるウサギたちへ
•ミラ(本名:未設定)
母を軽蔑しながらも、気づけば同じ夜の世界に生きてしまった若いバニーガール。
「私は違う」と言い聞かせてきた過去と、「結局同じだった」という現実の間で葛藤する。
逃げたいと願いながら、最後には夜から抜け出せなくなる。
•千佳
ミラの同僚で、20代後半のバニー。
現実を達観しており、「嘘だから安心できる」と夜の世界を肯定する。
突然店から姿を消し、ミラに「夜の逃げ場のなさ」を突きつける存在となる。
•大城
ミラの常連客で、金払いの良い中年男性。
笑顔で優しく接するが、その関係はあくまで金と欲望の上に成り立っている。
彼とのやり取りを通じて、ミラは「誰も自分を見ていない」と痛感する。
•美沙
店のチーママ。
作り笑顔で店を回し続けるベテラン。
彼女の「笑顔」は夜の世界の残酷さを象徴している。
•ミラの母
故人。水商売で生計を立て、娘に「私みたいになるな」と繰り返し言っていた。
ミラは母を軽蔑し続けたが、気づけば同じ場所に立っていた。
遺影の笑顔は、ミラの中で逃れられない呪縛として残る。
母を軽蔑し、「私だけは違う」と信じて育った少女――ミラ。
母子家庭で育ち、母が水商売で夜を生きていた姿を何よりも嫌っていた。
しかし現実に追い詰められ、彼女自身もバニーガールとしてネオンの世界へ足を踏み入れる。
「これは一時的なこと。すぐ抜け出せる」
そう言い聞かせながら過ごす日々。
同僚の千佳は、嘘の笑顔に救いを見出して生き延びている。
常連客の大城は優しげに接するが、彼女の中身には一切興味がない。
そして、母の遺影は無言のまま「結局お前も同じだ」と語りかけてくる。
やがて千佳が突然店を去り、逃げ場のなさを突きつけられるミラ。
彼女も昼の世界に戻ろうとするが、社会の冷たさに打ち砕かれる。
気づけば、夜の檻は彼女を深く飲み込み、二度と離さなくなっていた。
「私はミラ。ここから出たくないんじゃない。出られないの」
最後に見せた笑顔は、誰に向けられるでもない、空っぽの笑顔だっ
『月に跳ねるウサギたちへ』
――私が笑えば、男たちは笑う。
私が涙を流しても、それは見せものにしかならない。
煌びやかな照明が降り注ぐステージの上、レースのカフスがついた手袋の指先でグラスを掲げる。黒いラメの詰まったコルセット、深紅のルージュ、高すぎるヒール。
それが、私という「キャラクター」を形作っている。
名前は「ミラ」。
けれどそれは、ここで与えられた舞台用の仮面にすぎない。
本当の私は、あの日、田舎の図書館で静かに本を読んでいた少女。
誰にも見られず、誰も見ようとしなかった、無色透明の存在だった。
バニーガールクラブ《うさぎちゃんのひみつ》。
東京の片隅、ネオンの裏にひっそりと佇むこの場所で、私は毎晩“誰かの夢”を演じている。
男たちの酔いと欲望の中で、私は笑う。
モブ「今夜もきれいだね、ミラ」
モブ「君がいるだけで、救われるよ」
そのたびに、心が少しずつ削られていく。
私がきれいなのは、誰かに望まれたいからじゃない。
自分が空っぽであることを隠すため――その“外側”を塗り固めるしかなかったから。
けれどある夜、見知らぬ客が言った。
大城「君は、まるで檻の中のウサギみたいだね」
その言葉が、胸に小さな火を灯した。
私は、何を求めてここにいるのだろう。
私は、“誰かの理想”として生きるために生まれたのだろうか。
――それとも、本当の私を見つけるために?
鏡の前で耳を外す。
ふわふわのしっぽが虚しく揺れた。
ヒールの音が、コンクリートを叩いて消えていく。
夜の渋谷。ネオンはどこまでも派手で、どこまでも冷たい。
タクシーの窓に映る自分の姿が、見知らぬ女のように思えた。胸元の開いたラメドレス、派手すぎるアイライン、ピンと立った黒い耳。
「バニーガール」なんて、冗談みたいな役名。
それでも私はそれを着て、ステージに立つ。笑う。媚びる。金をもらう。
母親も、こうして夜の街を歩いていたのだろうか。
あの女は、昼間はいつも寝ていて、夜になると化粧をして出かけていた。小さな私を布団に押し込めて、テレビの音を大きくしたまま。
男と帰ってきた夜は、さらにうるさくて、さらに冷たかった。
母「私みたいにはなるなよ」
酔った母親がよく言った。
そのたびに、心の中で吐き捨てた。
なりたくてなるかよ、そんなもん。
けれど今、私はなるべくしてなったのかもしれない。
大学を辞め、借金を抱え、バイトだけでは食えなくなった。紹介された店で一度着たこの衣装を、脱ぐタイミングを失ったまま、もう二年が経つ。
私は、ミラ。
ここではそう名乗っている。
でも、本当は――誰なのか、もう思い出せない。
美沙「ミラちゃん、出番ね」
控室のドアがノックもなく開いて、チーママの美沙が顔を出した。目元にはバッチリとラメ。口元は笑っているのに、目は笑っていない。
この世界の“笑顔”って、どこまでも作り物だ。
それでも私は、作り笑いひとつ浮かべて、ドレッサーの前から立ち上がる。
ミラ「はーい、今行きます」
胸を押し上げ、腰を揺らし、あえて音を立てるようにヒールを鳴らす。
この世界では、“女”であることを演じる力がそのまま金になる。
それをよく知っているからこそ、私は「ミラ」を殺さない。
――いや、きっと私の中で「ミラ」だけが生きていて、本当の私はとっくに死んだのかもしれない。
ステージのカーテンが開き、照明が私を照らす。
客たちの視線が、私に刺さる。
でも、私が感じるのは痛みではない。
安心だ。
見られている限り、自分の価値が証明される気がする。
「かわいい」「最高」「エロい」
そんな言葉たちが、空っぽの心にパッチを貼っていく。
ただの応急処置。でも、それでもないよりはマシだ。
大城「ミラちゃーん! 今日も飛ばしてるねぇ!」
酔った声が飛んできて、私は笑って応える。
その客は常連。名前も覚えていない。でもシャンパンを頼んでくれる人。
「今日も頑張ってるね」って、簡単な言葉ひとつで、私の居場所がここにあることが証明される。
でも。
本当は全部ウソだ。
誰も私の中身なんて見ていない。
「ミラちゃん」という商品を消費しているだけ。
でもそれでいい。
中身なんて、とっくに空っぽなんだから。
終電を逃したわけじゃない。
始発を待つ気力もなかっただけ。
店を出たのは午前3時過ぎ。繁華街の喧騒はとうに冷め、ゴミのように散らばるビラとタバコの吸い殻が、誰にも拾われないまま風に転がっていた。
私は、バニーガールだ。
なのに今、タクシーに乗る金さえない。
だから深夜の路地を歩く。手にヒールを持って、素足でアスファルトを踏みながら。
ワンルームの寮に帰ってシャワーを浴び、ベッドに崩れ落ちる。
壁には母の遺影がある。葬式の時に適当に選んだ古い写真――笑ってるけど、なんだかやつれてる。
ミラ「……ふふ、やっぱ似てきたね、私も」
バスタオルで濡れた髪を拭きながら、そうつぶやいた。
昔はこの顔が嫌いだった。
小学生のとき、家庭訪問に来た先生が母を見て目をそらしたとき。
中学で、「あんたの母ちゃんスナックのママだろ?」と笑われたとき。
高校で、進学の希望を出すと担任に言われた。
先生「家のこともあるし、現実的に考えた方がいいぞ」
つまり、「あんたの家じゃ無理」ってことだ。
それでも私は、逃げたかった。
母を軽蔑することで、自分の輪郭を保っていた。
私は、あんなふうにはならない。
その言葉を何度、自分に繰り返しただろう。
でも今。
私は母と同じ場所に立っている。
ネオンの下、男の目線に値段をつけられる場所で、笑顔を売って生きている。
母「……あんた、ずるいよね」
写真の中の母が、ふと笑った気がした。
私はタバコを一本取り出し、ライターを手に取る。
火を点ける前に手が止まった。
――母の匂いが蘇ったからだ。
甘ったるい香水と、煙草と、深夜の脂の匂い。
それは私が今、まさにまとう匂いと同じだった。
ミラ「……結局、私もこうなるしかなかったんだね」
遺影に語りかけると、返事は当然ない。
でもどこかで、母に「ようこそ」と言われた気がして、涙が止まらなかった。
翌日。
昼過ぎに起きると、部屋はまるで誰かの“抜け殻”みたいに静かだった。
ベッドの上に放り投げたドレスは、まるで私の皮膚の残骸のようで、少し吐き気がした。
インスタを開けば、今日も後輩の“ユリナ”が朝からキラキラしたストーリーを上げている。
《#朝シャン命 #昼から寿司ランチ #昼職より稼げるってば》
その画面を見ながら、ふとため息が出た。
午後五時半。
また店に向かう時間。
着替えて、化粧をして、仮面をつける。
ミラになる。
ちか「おつかれー」
ロッカールームで、同僚の“千佳”が缶チューハイを開けながら言った。
20代後半、妙に落ち着いてて、指先だけが派手なネイルで飾られている。
彼女は男を“カネ”としか呼ばない。
それが清々しいくらいで、私は少しだけ彼女と話すのが好きだった。
ちか「昨日、常連の大城さん来てたでしょ。あんた指名取ったんだ?」
ミラ「うん。まあ……来てって言われたから」
ちか「偉いじゃん。あの人太いし、週末に来たら逃がさないようにしなよ」
私は曖昧に笑って、ロッカーに口紅を戻す。
ミラ「でも……なんか虚しくならない?」
ぽつりと言ったその言葉に、千佳はチューハイを一口飲んでから、少しだけ視線を落とした。
ちか「……なるよ。毎日ね。
でもさ、虚しいからって昼の仕事に戻れる?
私は無理。時給1000円じゃ、生活できないし。
それに……昼の世界のほうがずっと冷たいよ。バニーは嘘でも『きれい』って言ってくれるもん」
ミラ「……嘘なのに?」
ちか「うん。嘘だから安心するの。
本当のこと言われたら、生きてけないでしょ?」
笑いながら言うその声が、どこか壊れそうで。
でも、それは私自身の声にも似ていた。
ああ、そうか。
この世界は、“ほんとう”なんかなくてよかったんだ。
嘘を信じられる強さが、生き残る唯一の条件。
でも
千佳は、突然いなくなった。
店に来てもいない。LINEも既読がつかない。
チーママは「実家に帰ったらしいよ」と笑って言ったけど、その笑顔はいつもより作り物だった。
店の空気は変わらなかった。
変わらないことが、この場所の正体だった。
誰が辞めても、誰が病んでも、誰が消えても、ネオンは光り続ける。
まるで、私たちのことなんて最初から存在していなかったみたいに。
店長「ねえ、ミラちゃん。今度、地方の箱でヘルプ頼めない?」
ある日、店長から声がかかった。
店長「交通費と日当出すし、田舎の店だから大丈夫だよ。ちょっときついけど、あんたならやれる」
その言い方が、引っかかった。
でも断れなかった。金がなかったから。
大城との関係も、もううんざりだった。
⸻
地方のラウンジは、“店”というより“檻”だった。
女の子たちはほとんどが借金持ち。
私よりも若いのに、目が死んでいた。
「ここって……どのくらいで辞められるの?」と訊くと、
一人が笑った。
女の子「辞めた子、見たことないよ」
⸻
いつ東京に戻ったのかも、よく覚えていない。
ただ、何かが壊れていた。
体も、心も、何かがもう“元に戻らない”感覚だけが残っていた。
帰ってきた東京の店で、大城が言った。
大城「久しぶりだねぇ。何してたの? 連絡くらいくれればよかったのに」
笑って、ウィンクして、太い財布を見せつけてくる。
私はもう、何も感じなかった。
ミラ「大城さん、シャンパン入れます?」
口が勝手に笑っていた。
しばらくたつと
朝の空気は、少し冷たかった。
タバコをくゆらせながら、私は小さなスナックの前に立っていた。
そこは、かつて母が働いていた場所。
もう営業はしていない。看板は色あせ、窓は割れていた。
ミラ「……同じ場所だね、私も」
母が、なぜ夜を辞められなかったのか。
いまなら、少しだけわかる気がする。
夢を見ようとしただけで、すべてが笑われる。
真面目に生きようとしても、社会は冷たい。
だからせめて、自分を偽ってでも、笑顔を売ってでも、「必要とされたい」と思ってしまう。
その弱さが、私のすべてだった。
スマホが震える。店からのメッセージ。
美沙「今日、早めに来れたらお願いね」
私は返信を打つ。
ミラ「大丈夫です。行きます」
ネオンはまだ灯っていない。
でも私は、もう光を探さない。
“ミラ”として生きていくことが、私の唯一の生存方法だ。
私にはもう、夜しか残ってない。
最後にもう一度、笑ってみせた。
誰に見せるでもない、空っぽの笑顔だった。