表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

月に跳ねるウサギたちへ

作者: 神田 遊

•ミラ(本名:未設定)

 母を軽蔑しながらも、気づけば同じ夜の世界に生きてしまった若いバニーガール。

 「私は違う」と言い聞かせてきた過去と、「結局同じだった」という現実の間で葛藤する。

 逃げたいと願いながら、最後には夜から抜け出せなくなる。

千佳ちか

 ミラの同僚で、20代後半のバニー。

 現実を達観しており、「嘘だから安心できる」と夜の世界を肯定する。

 突然店から姿を消し、ミラに「夜の逃げ場のなさ」を突きつける存在となる。

大城おおしろ

 ミラの常連客で、金払いの良い中年男性。

 笑顔で優しく接するが、その関係はあくまで金と欲望の上に成り立っている。

 彼とのやり取りを通じて、ミラは「誰も自分を見ていない」と痛感する。

美沙みさ

 店のチーママ。

 作り笑顔で店を回し続けるベテラン。

 彼女の「笑顔」は夜の世界の残酷さを象徴している。

•ミラの母

 故人。水商売で生計を立て、娘に「私みたいになるな」と繰り返し言っていた。

 ミラは母を軽蔑し続けたが、気づけば同じ場所に立っていた。

 遺影の笑顔は、ミラの中で逃れられない呪縛として残る。


母を軽蔑し、「私だけは違う」と信じて育った少女――ミラ。

母子家庭で育ち、母が水商売で夜を生きていた姿を何よりも嫌っていた。

しかし現実に追い詰められ、彼女自身もバニーガールとしてネオンの世界へ足を踏み入れる。


「これは一時的なこと。すぐ抜け出せる」

そう言い聞かせながら過ごす日々。

同僚の千佳は、嘘の笑顔に救いを見出して生き延びている。

常連客の大城は優しげに接するが、彼女の中身には一切興味がない。

そして、母の遺影は無言のまま「結局お前も同じだ」と語りかけてくる。


やがて千佳が突然店を去り、逃げ場のなさを突きつけられるミラ。

彼女も昼の世界に戻ろうとするが、社会の冷たさに打ち砕かれる。

気づけば、夜の檻は彼女を深く飲み込み、二度と離さなくなっていた。


「私はミラ。ここから出たくないんじゃない。出られないの」

最後に見せた笑顔は、誰に向けられるでもない、空っぽの笑顔だっ

『月に跳ねるウサギたちへ』


 ――私が笑えば、男たちは笑う。

 私が涙を流しても、それは見せものにしかならない。


 煌びやかな照明が降り注ぐステージの上、レースのカフスがついた手袋の指先でグラスを掲げる。黒いラメの詰まったコルセット、深紅のルージュ、高すぎるヒール。

 それが、私という「キャラクター」を形作っている。

 名前は「ミラ」。

 けれどそれは、ここで与えられた舞台用の仮面にすぎない。

 本当の私は、あの日、田舎の図書館で静かに本を読んでいた少女。

 誰にも見られず、誰も見ようとしなかった、無色透明の存在だった。


 バニーガールクラブ《うさぎちゃんのひみつ》。

 東京の片隅、ネオンの裏にひっそりと佇むこの場所で、私は毎晩“誰かの夢”を演じている。

 男たちの酔いと欲望の中で、私は笑う。

 モブ「今夜もきれいだね、ミラ」

モブ「君がいるだけで、救われるよ」

 そのたびに、心が少しずつ削られていく。


 私がきれいなのは、誰かに望まれたいからじゃない。

 自分が空っぽであることを隠すため――その“外側”を塗り固めるしかなかったから。


 けれどある夜、見知らぬ客が言った。 

大城「君は、まるで檻の中のウサギみたいだね」

 その言葉が、胸に小さな火を灯した。


 私は、何を求めてここにいるのだろう。

 私は、“誰かの理想”として生きるために生まれたのだろうか。

 ――それとも、本当の私を見つけるために?


 鏡の前で耳を外す。

 ふわふわのしっぽが虚しく揺れた。


 ヒールの音が、コンクリートを叩いて消えていく。

 夜の渋谷。ネオンはどこまでも派手で、どこまでも冷たい。

 タクシーの窓に映る自分の姿が、見知らぬ女のように思えた。胸元の開いたラメドレス、派手すぎるアイライン、ピンと立った黒い耳。

 「バニーガール」なんて、冗談みたいな役名。

 それでも私はそれを着て、ステージに立つ。笑う。媚びる。金をもらう。


 母親も、こうして夜の街を歩いていたのだろうか。

 あの女は、昼間はいつも寝ていて、夜になると化粧をして出かけていた。小さな私を布団に押し込めて、テレビの音を大きくしたまま。

 男と帰ってきた夜は、さらにうるさくて、さらに冷たかった。


 母「私みたいにはなるなよ」

 酔った母親がよく言った。

 そのたびに、心の中で吐き捨てた。

 なりたくてなるかよ、そんなもん。


 けれど今、私はなるべくしてなったのかもしれない。

 大学を辞め、借金を抱え、バイトだけでは食えなくなった。紹介された店で一度着たこの衣装を、脱ぐタイミングを失ったまま、もう二年が経つ。


 私は、ミラ。

 ここではそう名乗っている。

 でも、本当は――誰なのか、もう思い出せない。


 美沙「ミラちゃん、出番ね」


 控室のドアがノックもなく開いて、チーママの美沙が顔を出した。目元にはバッチリとラメ。口元は笑っているのに、目は笑っていない。

 この世界の“笑顔”って、どこまでも作り物だ。

 それでも私は、作り笑いひとつ浮かべて、ドレッサーの前から立ち上がる。


 ミラ「はーい、今行きます」


 胸を押し上げ、腰を揺らし、あえて音を立てるようにヒールを鳴らす。

 この世界では、“女”であることを演じる力がそのまま金になる。

 それをよく知っているからこそ、私は「ミラ」を殺さない。

 ――いや、きっと私の中で「ミラ」だけが生きていて、本当の私はとっくに死んだのかもしれない。


 ステージのカーテンが開き、照明が私を照らす。

 客たちの視線が、私に刺さる。

 でも、私が感じるのは痛みではない。

 安心だ。


 見られている限り、自分の価値が証明される気がする。

 「かわいい」「最高」「エロい」

 そんな言葉たちが、空っぽの心にパッチを貼っていく。

 ただの応急処置。でも、それでもないよりはマシだ。


 大城「ミラちゃーん! 今日も飛ばしてるねぇ!」


 酔った声が飛んできて、私は笑って応える。

 その客は常連。名前も覚えていない。でもシャンパンを頼んでくれる人。

 「今日も頑張ってるね」って、簡単な言葉ひとつで、私の居場所がここにあることが証明される。


 でも。


 本当は全部ウソだ。

 誰も私の中身なんて見ていない。

 「ミラちゃん」という商品を消費しているだけ。

 でもそれでいい。

 中身なんて、とっくに空っぽなんだから。

 終電を逃したわけじゃない。

 始発を待つ気力もなかっただけ。

 店を出たのは午前3時過ぎ。繁華街の喧騒はとうに冷め、ゴミのように散らばるビラとタバコの吸い殻が、誰にも拾われないまま風に転がっていた。


 私は、バニーガールだ。

 なのに今、タクシーに乗る金さえない。

 だから深夜の路地を歩く。手にヒールを持って、素足でアスファルトを踏みながら。


 ワンルームの寮に帰ってシャワーを浴び、ベッドに崩れ落ちる。

 壁には母の遺影がある。葬式の時に適当に選んだ古い写真――笑ってるけど、なんだかやつれてる。


 ミラ「……ふふ、やっぱ似てきたね、私も」


 バスタオルで濡れた髪を拭きながら、そうつぶやいた。

 昔はこの顔が嫌いだった。

 小学生のとき、家庭訪問に来た先生が母を見て目をそらしたとき。

 中学で、「あんたの母ちゃんスナックのママだろ?」と笑われたとき。

 高校で、進学の希望を出すと担任に言われた。


 先生「家のこともあるし、現実的に考えた方がいいぞ」


 つまり、「あんたの家じゃ無理」ってことだ。


 それでも私は、逃げたかった。

 母を軽蔑することで、自分の輪郭を保っていた。

 私は、あんなふうにはならない。

 その言葉を何度、自分に繰り返しただろう。


 でも今。

 私は母と同じ場所に立っている。

 ネオンの下、男の目線に値段をつけられる場所で、笑顔を売って生きている。


 母「……あんた、ずるいよね」


 写真の中の母が、ふと笑った気がした。

 私はタバコを一本取り出し、ライターを手に取る。

 火を点ける前に手が止まった。

 ――母の匂いが蘇ったからだ。


 甘ったるい香水と、煙草と、深夜の脂の匂い。

 それは私が今、まさにまとう匂いと同じだった。


 ミラ「……結局、私もこうなるしかなかったんだね」


 遺影に語りかけると、返事は当然ない。

 でもどこかで、母に「ようこそ」と言われた気がして、涙が止まらなかった。


 翌日。

 昼過ぎに起きると、部屋はまるで誰かの“抜け殻”みたいに静かだった。

 ベッドの上に放り投げたドレスは、まるで私の皮膚の残骸のようで、少し吐き気がした。

 インスタを開けば、今日も後輩の“ユリナ”が朝からキラキラしたストーリーを上げている。


 《#朝シャン命 #昼から寿司ランチ #昼職より稼げるってば》


 その画面を見ながら、ふとため息が出た。


 午後五時半。

 また店に向かう時間。

 着替えて、化粧をして、仮面をつける。

 ミラになる。


 ちか「おつかれー」


 ロッカールームで、同僚の“千佳ちか”が缶チューハイを開けながら言った。

 20代後半、妙に落ち着いてて、指先だけが派手なネイルで飾られている。

 彼女は男を“カネ”としか呼ばない。

 それが清々しいくらいで、私は少しだけ彼女と話すのが好きだった。


 ちか「昨日、常連の大城さん来てたでしょ。あんた指名取ったんだ?」


 ミラ「うん。まあ……来てって言われたから」


 ちか「偉いじゃん。あの人太いし、週末に来たら逃がさないようにしなよ」


 私は曖昧に笑って、ロッカーに口紅を戻す。


 ミラ「でも……なんか虚しくならない?」


 ぽつりと言ったその言葉に、千佳はチューハイを一口飲んでから、少しだけ視線を落とした。


 ちか「……なるよ。毎日ね。

 でもさ、虚しいからって昼の仕事に戻れる? 

 私は無理。時給1000円じゃ、生活できないし。

 それに……昼の世界のほうがずっと冷たいよ。バニーは嘘でも『きれい』って言ってくれるもん」


 ミラ「……嘘なのに?」


 ちか「うん。嘘だから安心するの。

 本当のこと言われたら、生きてけないでしょ?」


 笑いながら言うその声が、どこか壊れそうで。

 でも、それは私自身の声にも似ていた。


 ああ、そうか。

 この世界は、“ほんとう”なんかなくてよかったんだ。

 嘘を信じられる強さが、生き残る唯一の条件。

でも

 千佳は、突然いなくなった。

 店に来てもいない。LINEも既読がつかない。

 チーママは「実家に帰ったらしいよ」と笑って言ったけど、その笑顔はいつもより作り物だった。


 店の空気は変わらなかった。

 変わらないことが、この場所の正体だった。

 誰が辞めても、誰が病んでも、誰が消えても、ネオンは光り続ける。

 まるで、私たちのことなんて最初から存在していなかったみたいに。


 店長「ねえ、ミラちゃん。今度、地方の箱でヘルプ頼めない?」


 ある日、店長から声がかかった。

 店長「交通費と日当出すし、田舎の店だから大丈夫だよ。ちょっときついけど、あんたならやれる」

 その言い方が、引っかかった。

 でも断れなかった。金がなかったから。

 大城との関係も、もううんざりだった。



 地方のラウンジは、“店”というより“檻”だった。

 女の子たちはほとんどが借金持ち。

 私よりも若いのに、目が死んでいた。


 「ここって……どのくらいで辞められるの?」と訊くと、

 一人が笑った。


 女の子「辞めた子、見たことないよ」



 いつ東京に戻ったのかも、よく覚えていない。

 ただ、何かが壊れていた。

 体も、心も、何かがもう“元に戻らない”感覚だけが残っていた。


 帰ってきた東京の店で、大城が言った。


 大城「久しぶりだねぇ。何してたの? 連絡くらいくれればよかったのに」


 笑って、ウィンクして、太い財布を見せつけてくる。

 私はもう、何も感じなかった。

 ミラ「大城さん、シャンパン入れます?」

 口が勝手に笑っていた。

しばらくたつと

朝の空気は、少し冷たかった。

 タバコをくゆらせながら、私は小さなスナックの前に立っていた。

 そこは、かつて母が働いていた場所。

 もう営業はしていない。看板は色あせ、窓は割れていた。


 ミラ「……同じ場所だね、私も」


 母が、なぜ夜を辞められなかったのか。

 いまなら、少しだけわかる気がする。

 夢を見ようとしただけで、すべてが笑われる。

 真面目に生きようとしても、社会は冷たい。

 だからせめて、自分を偽ってでも、笑顔を売ってでも、「必要とされたい」と思ってしまう。

 その弱さが、私のすべてだった。


 スマホが震える。店からのメッセージ。

 美沙「今日、早めに来れたらお願いね」


 私は返信を打つ。

 ミラ「大丈夫です。行きます」


 ネオンはまだ灯っていない。

 でも私は、もう光を探さない。

 “ミラ”として生きていくことが、私の唯一の生存方法だ。


 私にはもう、夜しか残ってない。


 最後にもう一度、笑ってみせた。

 誰に見せるでもない、空っぽの笑顔だった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ