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おそらく乙女ゲー世界に転生したと思うのだけど、自分の立ち位置がよく分からない

作者: 楠瑞稀





「おはようございます、お嬢様」


 天蓋を開いて起床の挨拶をする可愛いメイドさんは、見知らぬ顔だった。


「おはようございます……。えっと、どちら様でしょう? その、私も含めて」


 たぶん、転生したんだと思う。

 目が覚めた直後に強烈な違和感を覚え、飛び起きた私はそう判断した。

 クッションで溢れそうなふかふか天蓋付きベッドなんて、私は知らない。爪の先まで手入れされたスベスベの手も、肩口に掛かる手入れをされた長い巻き毛の茶髪も知らない。


 この時点でわかる周囲の様子と自分自身の姿に、とんと心当たりがないわけだから、記憶喪失でなければ、異世界転生に間違いないだろう。


 でも一方、そうやって転生判定を下した私という存在は何者なのかと言われたら、そっちも何やらピンとこない。


 こちらは確実に記憶喪失。


 いや、ホント誰なのよ。私は。

 


 そんな折、丁度良いタイミングでやって来たメイドさんにこれ幸いと尋ねた訳だが、彼女は私の言葉に目を零れ落ちんほどに見開いた。そして、悲鳴のように声を張り上げながら部屋を飛び出していく。


「た、大変ですーっ!! 奥様、旦那様ーーっ!!? お嬢様がぁーー!!」


 その言葉に、とりあえず両親は健在なんだな、と情報をひとつ入手する。

 この調子では、自分が何者か分かるまでにだいぶかかりそうだなと、私はそっとため息をこぼした。



 人間の記憶と言うのは、大まかに3つに分類できると言う。

 自身の経験の記憶であるところのエピソード記憶。そして、体の動かし方や一般常識といった手続記憶と意味記憶。

 エピソード記憶は前世今世含めて喪失しているのは確かなのだけど、一般常識であるはずの今いる世界に違和感がありまくるのが、私が異世界転生したと判ずる理由なのだ。


 そう。私はこの世界を“恋愛シュミレーション、或いはそれを模した作風のファンタジー世界”だと疑っている。

 その理由の一つがーー、


「まぁまぁ。記憶喪失なんて大変だわ」


 メイドさんの叫びに集合した、私の家族である。

 今、驚きを隠さずふらりとよろめいたのは、ほぼ間違いなく私の母親。

 そう断言する理由は、身支度の際に見た鏡に映る自分の顔とそっくりだから。これは流石に近しい血縁以外に考えられない。


 そんな母親の腰を抱くように支えた、とんでもない美丈夫も間違いなく父親だろう。

 凍れる美貌とでも言えばいいのだろうか。暖かみも親しみも感じさせない、ただひたすらに冷たく整いまくった無表情だが、母親を気遣うように身を沿わす様子は互いの愛情を確かに感じさせる。

 ……と言うか、いくらなんでも子供の前でイチャイチャしすぎじゃないだろうか。あっ、ほっぺにチューした。


 客観的に見て、私はおとなしそうで素朴感溢れる母親そっくりではあるが、父親には欠片も似てなかった。遺伝子は残念ながら仕事をしてくれなかったらしい。

 一方で、抜群に良い仕事をしているのが、私の兄弟であるらしい三人の男の子たちだ。


 うち二人は十歳前後だろうか。ビクビクとした態度で互いに手を繋ぎ寄り添いあっている双子らしき少年。そっくりな顔立ちの二人は、年齢の違いこそあれ父親の血を確かに感じさせる。


 そしてもう一人。こちらは男の子とは言っても、私よりも一つ二つは年上だろう。

 ちょっと直視ができないくらい格好良くて、薄目で見ることしかできないけど、こちらも父親に瓜二つの美少年だ。ただし、涼しげな顔立ちに浮かべる表情は父親とは違い柔和だし、そっと伏せられた瞼から伸びるまつ毛はバシバシに長い。


 と、不意に彼の視線がこちらに向き、にっこりと笑みを浮かべる。

 私は慌てて視線を外し、耳まで赤くなった顔を伏せる。記憶をなくす前の私は、実はとんでもないブラコンだったりしたのだろうか。バクバクと高鳴る心臓を抑えながら、そんなことを思った。


 ともかく、こんなとんでもないイケメン揃いの一家に転生するなんて、多分宝くじで10回連続一等を当てるレベルの幸運であり、そして私は自分に降りかかった幸運を無邪気に喜べるほど楽観的ではない。


 つまり、この状況には必ずや裏がある……!

 その裏として真っ先に思い浮かんだのが、恋愛シミュレーション風世界への転生疑惑だ。

 この恵まれた状況に無邪気に喜び、胡座をかいていたりしたら、下から乱暴に引っこ抜いたジェンガみたいにぐらりと全部ひっくり返ってもおかしくはないだろう。

 でも、対策のためになんの作品か考えようと思っても、それがまったくわからない。ガッデム記憶喪失。


 ならば、恋愛シミュレーション作品の類型パターンから推測しようと考える。

 一番あり得そうなのはただモブだが、この美系兄弟に挟まれメインストーリーに一切関わり合わずにいられるかというと、ちょっと怪しい。まあ、第一志望はこれだ。


 では烏滸がましいが、主人公はどうだろう。この地味な見た目はヒロインらしくないが、地味系女子の下剋上シンデレラストーリーはある意味鉄板だ。可能性はゼロではない。


 同様に悪役令嬢やライバルの役割はどうかと考えると、こちらも地味な令嬢が実は黒幕だったり……と言うのもなくはないだろう。


 そんな風に次から次へと、物語のパターンを思い付くんだけど、流石に前世の私はそれ系の作品を嗜みすぎじゃないですかね……!

 あらゆるパターンが想定できすぎて、なんの参考にもならんわ!


 モブでありますように、最悪、悪役令嬢の取り巻きCあたりでありますように。

 そんな事を祈りながら戦々恐々とこの世界での生活を再開した私。

 そういえば名前はアンというらしい。アンネリーゼで、愛称をアン。シンプルで良い名前である。




「まったく記憶が無いわけだから、おかしな事をしたり妙な失敗をしても、大目に見てね」

「大丈夫ですよ。お気の毒ではございますが、お嬢様は記憶を無くす前と殆ど変わりありませんから」


 私が恐縮すると、可愛らしいメイドさんはくすくすと笑って首を振る。記憶をなくした私が初めて出会った彼女である。名前はメアリーさん。私付きのメイドらしく、接してくれる態度からはこれまでの関係も良好そうだと推測できる。

 しかし前世の記憶が戻っても、私の性格は変わらないのか。いや、戻ったようで戻ってないからノーカンか?


「それにしても、学校もお休みの時期で幸いでしたね」

「そうねー」


 私はため息をつく。

 どうやら私は学生だったようなのだが、日常生活も覚束ない現在の状況では正直勉強についていけるとは到底思えない。

 休学して一般常識から学び直すか、腹を括って退学するか。

 今は次の学年に上がる前の長期休暇らしいので、新学期が始まる前にどうするか決めないといけないだろう。

 それまでに記憶が戻るのが一番なのだけれど。


 そんな事を考えていると、不意に部屋の扉がノックされる。

 メアリーさんは、すっと表情を固くして応じた。


「どなた様でいらっしゃいますか?」


 ほわほわと可愛らしいメイドのお姉さんの、思いがけない仕事モードの姿に「おおっ」などと思っていると、外から凛々しくも優しげな声がする。


「エリックだよ。アンはそこにいるかい?」


 私はぴくんと肩を震わせる。

 エリック。それは記憶喪失後の家族との顔合わせの時に知った、私の兄たる美青年の名前だったはずだ。

 私は何かしらを答えようと口を開くが、それよりも先にメアリーさんが問い返す。


「ご用件は何でございましょう」


 何となく当たりが強いような気もするけど、普段の仕事中の彼女を知らないから何とも言えない。まあ、私と話している時はそんな事ないので、もしかすると男の人が苦手なのかもしれない。

 そんな予想をしている私の耳に飛び込んできたのは、思いがけない兄の一言だった。


「アンの記憶喪失の原因が分かったんだ。アン、一緒に来てもらえるかな」





 エリックの言葉に慌てて階下の一部屋に行く。そこに居たのは、しょぼんとした泣き面で肩を寄せ合っている双子の弟だった。


「アン、ごめんね」

「僕たち、こんな事になるなんて思っていなくて……」


 泣き顔すら可愛らしい二人は、私に向かって謝罪の言葉を口にする。

 健気で幼気なその様子は、庇護欲をこれでもかと言うほど掻き立てる。

 話も碌に聞いてないのに、いいよいいよとすべてを許してあげたくなる。

 そんな私に、エリックは説明をしてくれた。


「彼らは君に記憶をよみがえらせる魔術を掛けたらしい」


 え、ここ魔法がある世界観なんですか!?


 話の内容よりもそっちの方に意識が向いてしまったけれど、どうやらこういう事らしい。


 私の双子の弟たち、レオンとカインは数年前に私とある約束を交わしたらしい。

 しかしながら、私がその約束の内容をすっかり忘れてしまっていた為、彼らは記憶をよみがえらせる魔術を使うことを提案する。

 レオンとカインは、宮廷魔術師だった祖父に似て、幼いながらもかなりの魔術の才能を持ち合わせているのだ。

 それに同意して魔術を掛けてもらった私だけれど、どうやら魔術が効きすぎたらしく、余分な記憶まで思い出させられた脳みそがキャパオーバーを起こした。そして、勢いあまって全ての記憶が吹っ飛んでしまったらしい。


(つまり、私の自意識が前世まで遡ったのは、その魔術の所為なのね)


 異世界転生したと気付いたのも、それでいて記憶喪失になっていたのも、どうやらこれが原因だったようだ。


「まったく。随分と軽はずみな真似をしたものだね」


 私に向けていた柔らかい笑みを消し、父親に良く似た冷たい眼差しを弟たちに向けるエリック。

 狼に睨まれた子兎のように、ビクビクと震える双子を私は思わず擁護する。


「そ、そんな厳しく叱らなくても良いのではないかしら……?」


 絶対零度の視線を遮るように二人の前に躍り出ると、エリックは困ったような表情でため息をつく。


「アン、君は弟に甘過ぎるよ。叱るときはしっかり叱らなきゃ」

「で、でも……」


 確かに私は彼らのことも、この国の常識もよく知らない。でも、被害者たる私が術を掛けてもらう事に同意した以上、彼らだけを叱るのはお門違いだ。


「お祖父様の見解としては、君の記憶障害は過大な情報量が一気に詰め込まれたことによる一時的なもので、しばらくして脳の混乱が落ち着けば、記憶は戻るという事だった」

「それならーー」


 私の主張を遮り、エリックは続ける。


「しかしこの国の法律では、精神に介入する魔術は、きちんと術を修め、資格を得た人間でないと使うことを許されていない。魔力抵抗値によっては、相手を廃人にしてしまうこともあり得るからだ」


 私の後ろで、双子がビクッと身をすくめる。

 うーむ、今の廃人云々の話を聞いたからには、さすがにもう無罪放免は言い出せないな。

 今回は身内だからなあなあで済ませられるけど、他人に同じことをして、万が一のことが起きたら取り返しが付かないかも知れない。

 と言うか、これに関しては私も同罪だよね、申し訳ない。


「君たちは罰として、長期休暇が終わるまで、お祖父様の元へ行くこと。魔術について、お祖父様からじっくり教えを受けなさい」

「えーっ」


 レオンとカインは思わずと言ったように不満を口にするが、エリックに睨まれてしおしおと意気消沈する。


「えっと、私は?」

「アン?」


 エリックは私の疑問に、不思議そうな顔をする。


「ほら、二人が罰を受けるなら、私も受けないと公平ではないわ。共犯みたいなものだし、あと監督不行届だし」


 いまいちピンと来ていないようだったけれど、エリックはふむと頷いた。


「つまり、アンは彼らを止められなかった責任を感じていると言うことだね」

「だってそうでしょう」

「記憶を失う前から、アンは魔術に関しては明るくなかったよ?」

「知らなかったは言い訳にならないわ」


 記憶に無いので実感も湧かないけど、私は彼らの姉であり、つまりは監督責任があるはずなのだ。

 エリックはくすっと笑った。


「まったく。アンは記憶がなくてもアンだね。少しだけ、安心したよ」


 春の花が綻ぶような笑みに、私は思わず言葉を失い、継いであわあわと視線を逸らす。

 ちょっとした立ち振る舞いや浮かべる表情、服のセンスに至るまで。どうした訳か、彼の何もかもが私の琴線に触れまくっているのだ。

 見惚れてぽーっとなってしまいかねないところを、なんとか鉄の意志で振り切るのだが、本当に記憶を失う前の自分は色々な意味で大丈夫だったのだろうかと不安になってしまう。

 なんかこう、犯罪的なことはしでかしてないよね!

 大好きな兄を誰にも取られたくなくて、主人公を苛める悪役令嬢ポジだったりしないよね!

 改めて、記憶にない自分という存在を、心底不安に感じてしまった瞬間だった。






 エリックから申し付けられた私への罰は、自宅での謹慎だった。

 これまでも自宅療養はしていた訳だし、この世界のことをろくすっぽ分からない状態で出歩くのは不安があるので、むしろ私には何の不利益のない罰である。

 私も大概かも知れないけど、この兄もこの兄で私に随分甘い気がする。

 私が調子に乗って身の程を弁えていないタイプの悪役令嬢になったら、どうしてくれるというのだ。

 一生懸命に自制を促しながら、この世界に順応しようと謹慎兼療養の日々を過ごしている中、私に来客があった。




「思ったより元気そうで、何よりだわ」


 庭に設置されたテーブルセットに、紅茶と茶菓子が置かれている。

 私の目の前には、ものすごく可愛らしい、でもしっかりとした芯を持っていそうなお嬢さんがいた。


「えっと、覚えていなくて、ごめんなさい……?」

「気にしなくていいのよ。どちらか片方が覚えている限り、友情は失われたりしないわ。なんなら両方忘れてしまったって、一からまた友達になればいいんだもの」


 そう答える彼女に凛とした強さを感じ、私は思わず眩しさに目を細める。

 彼女はユリアーナ。

 同じ学校に通う同級生であり、もっとも親しい友人であるとのこと。

 案の定、私にはちっとも覚えがないので、汗顔の至りだ。

 しかし、その存在から名前からすべてを忘れ去られたと言うのに、彼女はくさる様子も見せず、恐らくは以前と何も変わらない親しげな態度を見せてくれる。


「ありがとう……。そう言って貰えて、少しほっとしました」

「うふふ。良いのよ。こう言うことはお互い様なんだから。慣れてきたら、ぜひもっと砕けた口調でお話しして欲しいわ」


 ユリアーナ、どうやら過去の私がユリアと愛称で呼んでいた彼女は、にっこりと輝くような笑みを浮かべる。

 何だか、彼女の友達でいることに、喜びと誇らしさすら覚えるような、善なるカリスマ性を感じてしまう。すなわち圧倒的光属性だ。

 そしてそんな彼女の隣にピッタリ張り付くように座っている、見るからに闇属性の青年が1人居るのだが……。えっと、こちらは誰?


「あ、えーっと。彼の事は気にしないで……って言っても、気になっちゃうよね」


 私のもの言いたげな視線に気付いたのだろう。ユリアは困ったように頭を抱えるが、隣の青年は素知らぬ顔でユリアをガン見している。と言うか、ここに来てから彼、ユリアから一瞬たりとも目を離してないよね。しかも真顔だし。ずっと無言だし。そんな所が何となく爬虫類を思わせる。

 兄のエリックとは系統の異なる、どちらかというと退廃的な美の権化とすら呼べるほど、ヤバいくらいに整った容貌だが、正直、かなり鬱陶しくないかなと他人事ながらに心配になってしまう。


「彼はマキューシオ。一応、アンとも顔見知りだったわ。それで、その……今はわたしの、こ、恋人です……」


 顔を赤く染めて、モジモジと教えてくれるユリアは、それはもう初々しくて、同性の私でさえ守ってあげたくなるくらいに可愛らしかった。

 付き合い始めて、まだそこまで時間が経っていないことを予想させる物馴れなさ。

 彼氏が闇属性だか病み属性だかと言う雰囲気ダダ漏れなのがものすごく気になるけど、その分ユリアが光属性っぽいので釣り合いが取れているのだろう。当人同士が幸せなら、外野がとやかく言うことでもないはずだ。心の底から祝福しましょう。


「本人がどうしても付いてくるって言うからここにいるけど、マキュのことは気にしないで! いないものだと思ってくれていいから!」


 拳を握ってユリアは主張するけれど、流石にそれは無理があるかな……。


 ともかく。お茶を飲みながら、ユリアは私に色んな話をしてくれた。学校のこと、他の仲の良い友達について、女子の嗜み的な常識なんてものも。

 つまり、しばらく私の記憶が戻らなくても困らないように、近況報告や世間話にかこつけて、同年代の女子に必須の細かな知識を授けに来てくれたらしい。

 ほんと助かります。


 そうやって、思いがけず楽しくおしゃべりをしていると、ふいにユリアの声のトーンが変わった。


「ねぇ、アン。あなた、本当に記憶がないわけよね……?」

「え、うん。そうだけど……」


 私は頷きながらも、内心首を傾げる。

 それがそもそもの問題の根幹であり、仮に記憶喪失のフリをしていたとしても、あまり私にメリットはないのではないかなと思う。


「そしたら、以前に頼まれていたお願いは、一旦保留ということで良いのかしら……」

「お願い……?」


 半ば独り言のように呟かれたユリアの言葉を、私は復唱する。


「それって私の記憶がまだある時だよね。私は、ユリアに何をお願いしていたの?」


 当然の話だけど、記憶のない私にはさっぱり思い当たる節がない。

 もしかするとそのせいで、ユリアに要らぬ手間を掛けさせてしまったのでは、と恐縮しながら尋ねるが、彼女は慌てたように首を横に振る。


「今、何も問題ないようなら、別に構わないのよ。だけどね、アン。もしーー、」

「ユリア」


 聞き覚えのない美声がユリアを呼ぶ。今まで黙りこくったまま、穴が開きそうな勢いでユリアだけを見つめていたマキューシオが口を開いたのだ。

 と言うか、本当に良い声ね。ユリアが顔を真っ赤にして固まるのも分かる気がする。あんな腰が砕けそうな美声に耳元で囁かれたら、老若男女問わず顔のひとつも赤らめるわ。


「こんにちは。邪魔をするよ」


 その直後、お茶を囲んでいた私たちに声を掛けたのは、兄のエリックだった。


「ユリアも久しぶりだね。最近、顔を合わせる機会もなかなかなかったものだから、挨拶をさせてもらいに来たよ」

「ええ、エリック。お久しぶり……」


 朗らかに声を掛けるエリックであるけれど、一方のユリアはなんだか奥歯に物が挟まったような返事だった。

 仲が悪い、と言う訳でもなさそうなのにと不思議に思っていたけれど、ここでピンと天啓が降りる。

 と言うか、今までユリアだけをその目に映していたマキューシオが、剣呑な眼差しをエリックに向けているのだから、嫌でも気付かざるを得ないだろう。


(ここはユリアがヒロインの乙女ゲーム風世界の、完結後時間軸……!)


 他に何人いるかは分からないけど、恐らくエリックも攻略対象の一人だったに違いない。しかし、ユリアに選ばれたのはマキューシオだった。

 それならば、マキューシオが今日無理にでも着いてきたの納得がいく。

 鞘当ての期間は終わったとは言え、恋敵の元に行こうとするのだ。警戒のひとつもしようものである。


 そして、私は同時に全力で安堵する。

 ユリアがヒロイン、そして兄のエリックが攻略対象と言うことは、私の役割は『ヒロインの友達で、攻略への足掛かり』だ。


(つまり、私は悪役令嬢じゃない……! 断罪も没落も追放もない、はず……っ)


 記憶を失ってこのかた、ずっと私を苛んでいた不安のひとつが解消される。

 もちろん、記憶が無いことは依然悩みの種だけれど、それでも身に覚えのない罪や、原作への矯正力で破滅する可能性はかなり減ったと思う。

 私はほっとため息をついた。


 これ以上図々しく、女の子同士の集まりに首を突っ込むのも、どうかと思うからね。

 そう言うと、エリックは前言の通り、ほぼ挨拶だけであっさりと退散を告げる。


「お前も、あまり邪魔をするなよ、マキューシオ」


 ただし、恋敵に釘を刺すのも忘れない。春めいた優しげな眼差しがすっと細まり、温度が下がる。それは女子会ちゃっかり混じっているマキューシオに対して、苦言を呈しているようにも見えるし、想い人を奪っていった憎い男を揶揄しているようにも聞こえる。


「それでは、ね。ふたりとも」


 エリックは私に向かって、にっこりと微笑んだあと、ユリアに視線を向ける。笑ってはいるけれど、なんだかその視線には愛想や挨拶なんかとは、違う意味が含まれている気がする。ピャッっとユリアが椅子の上で飛び上がった。


(この人は、まだユリアのことを想っているのかな……)


 なんだか胸にモヤモヤとした感情が過ぎり、私はぶんぶんと首を振って、それを振り払う。

 私はエリックの妹で、彼の恋愛事情には何の関わり合いも持たない。彼が誰を好きであろうと、誰と結婚しようと口を挟む権利はないのだ。


 胸を重くするその感情から意識を逸らし、ユリアに視線を戻す。これでユリアに的外れな嫉妬でも向けようものなら、本当に悪役令嬢にでもなってしまうかも知れない。が、どうやら私はユリアへの悪感情は抱かずに済んでいるようだ。

 と言うか、親鳥が雛を守るように、マキューシオをユリアにぎゅうぎゅうと抱きついているのが目に飛び込んできたので、それどころかなかったとも言える。


「ちよっ、マキュ! 大丈夫だからもう離してってば!」


 ユリアが顔を赤くしながら、モゾモゾと身を捩って抵抗している。なんか私の父親然り、この世界の男性はパートナーに対してこんな風に熱烈なのが標準なんだろうか。あ、ほっぺにチューした。


 そんなこんなで良い時間となり、お茶会はお開きとなる。

 私もユリアもなんだかどっと疲れを覚えてしまい、互いに目を見合わせてへろりと笑う。もちろん、マキューシオはあいも変わらずユリアの腰を抱き、ユリアだけを見つめている。


「アン。繰り返しになっちゃうけど、困ったことがあったら、遠慮なくわたしを頼って欲しいの」


 気を取り直したユリアは、私の両手を掴むと、まっすぐに視線を向けてくる。


「わたしはアンが助けを呼べば、どんな手を使っても飛んでくるわ。それにマキュは魔おぅ……ぅえっと〜、ものすごく力の強い魔術師だから、きっと大抵のことになら手を貸せると思うわ」


 一部しどろもどろになりながらもユリアはそう断言するが、聞き間違いでなければ、ちょっと最後にとんでもないことをカミングアウトしかけませんでしたかね……。

 ここ、剣と魔法の世界だったりします? ラスボス系男子がいるとか、全力で聞かなかったことにしたい所存。どこまでおおやけになっている話か知らないけど。


 ……でも、その気持ちだけは、本当に有り難く受け取らせていただきます。

 私は女同士の友情に、深く感謝したのだった。








 窓ガラス代わりの板戸に、大粒の雨が当たる音がする。時折強い風によってガタガタッと激しく揺れもするので、慣れない私はその度にビクッと身構えてしまう。

 隙間風でも入るのか、燭台の火もいつもより揺らいでいた。

 薄暗く締め切った部屋に漂う重苦しさは湿気によるものだろうけど、激しい雨風のせいで余計に陰鬱な空気で満ちているようにも思う。


 転生前の自分ならベタなホラー展開と言うかも知れないけど、魔法があってもインフラが弱いこの世界では、普通に怖いシチュエーションだと骨身に染みる。


(こういう日に、メアリーさんがいてくれたら心強かったんだけど……)


 仕方がないとため息を落とす。

 メアリーは昨日からお休みを取って貰っている。

 この屋敷で雇用している勤め人には、月に数日の休養日を与えられているのだけれど、メアリーは私が記憶を失ってから一度もその休みをとっていなかったらしい。


 慌てて休むよう伝えても、お嬢様が心配で……と、固辞されてしまっていた。

 けれど、さすがに私も記憶喪失歴が一ヶ月を超え、この世界の常識にもだいぶ馴染んできた。

 何もできない赤ん坊ではないのだから、1日や2日くらい大丈夫と説得し、ようやくお休みを取って貰えたのである。


(でも、こんな悪天候に重なっちゃって、逆に申し訳なかったかも)


 日中はまだ小雨だったが、夕方ごろからかなりの豪雨に変わっていった。遠くでゴロゴロ雷の鳴る音まで聞こえる。

 実家に顔を見せると言っていたメアリーだったけれど、その所在によっては明日、こちらに帰ってくるのにだいぶ難儀させてしまうかも知れない。


(夜になったらきちんと戸締りをして、部屋に誰も入れてはいけませんからね)


 メアリーさんは、七匹の子ヤギのお母さんのような注意をして、心配そうに屋敷を離れた。なので、私は日が暮れる前にきちんと屋敷中の窓や戸を確認しておいた。とは言っても、この屋敷の優秀な使用人の皆さんは私がいちいち確認するまでもなく、きっちり仕事をこなしてくれていたけれど。

 仮に狼がお母さんの振りをしてやって来ても、うかうかと家に上がり込ませることはないはずだ。


(と言うか、お母様とお父様はちゃんと帰ってこられるのかしら……?)


 子ヤギのお母さんならぬ私の母と父は、王立劇場の芝居を見に行くと言っていた。今日は1日デートらしい。

 何やら、母が興味を持っていた舞台のチケットが急遽手に入ったので、そのまま観劇とディナーを一緒にしてくるとのこと。本当に仲の良い二人だ。

 美貌の父と素朴な母。あの二人の馴れ初めなんかもちょっと興味があるのだけれど、記憶が戻ればそうしたエピソードも思い出せるのだろうか。


 そんな事を考えていると、どうやら何処かで雷が落ちたようで、響き渡る轟音に私はギャッと飛び上がる。

 屋内にいるのだから何も心配することはないと分かっているけれど、反射的にびっくりしてしまうのだ。

 今夜はさっさと毛布を被って寝てしまおうか。

 気持ちを落ち着かせるように二の腕をさすっていると、ふいに扉からノックの音がした。


「アン、すごい雷だったけど、大丈夫かい?」

「お兄様……!」


 さすがに雷を怖がるような年ではないけれど、その気持ちが嬉しくて私は急いで扉を開ける。

 そこには、燭台を片手に水差しを持ったエリックがこちらを気遣う表情で立っていた。

 燭台の灯りに照らされたその顔は、まるで静謐な宗教画のようであり、それでいて不思議と色気のある緑の目に見つめられた私の心臓は高鳴る。


(だから、エリックは私のお兄様で、不埒なことを考えちゃダメなんだって……!)


 ドギマギする気持ちを押し殺すように、私はぎゅっと胸を押さえるが、そんな妹の気持ちを知る由もない彼は心配そうに小首を傾げる。


「今日はメアリーがそばについていないだろう? 心細いんじゃないかと思ってね」

「ありがとう、お兄様」


 ふいに彼の目が室内に向かう。その視線に押されたように私は無意識に一歩下がったので、そのままエリックを部屋に招き入れる形となる。彼は一瞬まばたきをした後、ひっそりと目を細めて笑うと部屋に足を踏み入れた。


「父上たちは、今日は帰ってこないと使いの者から連絡があったよ。この天候に加えて、馬車の調子も悪いらしく、近場に宿を取るらしい」


 エリックは寝台脇の袖机に水差しを置くと、傍らのスツールに腰をおろした。

 私も、ちょこちょことその後を追いかけて、向かい合うように寝台の上に腰掛ける。


「……不用心だね」

「え?」


 ボソリと呟かれた言葉を私は聞き返すが、彼は首を振って口元を緩める。


「いや、父上たちもこの大雨の中、無理に帰るよりは一泊して帰った方が安心だね」

「私もそう思うわ」


 母も父も、むしろたまのお泊まりデートなら、子供のことを気にせずイチャイチャできて嬉しいかも知れない。……いや、あの二人はいつも人目を気にせずイチャイチャしてるな。


「そう言えば、そろそろ学校が始まるね。記憶の方はどうかな?」


 柔らかな表情の中に気遣いを含ませ、エリックは穏やかに尋ねる。もっとも私はその質問に視線を落とすと、ぎゅっと眉根を寄せてしまった。


 記憶は相変わらず戻らない。

 母やメアリー、ユリアやエリックたち兄弟のお陰で、日常生活にはかなり慣れて、ほとんど不自由なく暮らせるようになった。

 ちなみにここに父の名がないのは、あの人は母を通してしか子供達に関わろうとしないからだ。人見知りか。


 しかし、根幹となる知識がないせいで、なんとはなしの不安感は常に付きまとうし、学業についていけるかと言えば、恐らくは無理だろう。

 前回のお茶会より頻繁に手紙をくれるようになったユリアは、自分がサポートするからと復学することを勧めてくれる。

 しかしそうしたとして、学校では常にユリアにおんぶ抱っこになってしまうだろう。彼女に過度な負担をかけることは避けたいと思う。


 何より、常にユリアにくっついていたら、マキュの目が怖い。

 彼が学校でもユリアに引っ付いているのかは知らないけれど、あまり彼女を独占してしまうのはまずい気がする。

 父なんかも、お茶会やら何やらで母を独占していると、だんだん目が怖くなってくるんだよね……。我、娘ぞ?


「不安があるのなら、無理はしない方がいいよ。遠からず、記憶は戻ると僕は思っているけれど、仮に戻らなくったって」


 エリックは、幾重にも重なる薄絹、あるいは木芙蓉の花のように、鮮やかに、艶やかに、微笑みを浮かべる。


「何も心配しなくていい」


 ヒュッと思わず息を呑む。

 心臓がバクバクと音を立てているのは、彼の笑みがあまりに妖しく美しいせいだろうか。それとも、失った記憶の向こうに何か理由が隠れているのだろうか。


「アンの記憶が戻らないのなら、このままずっとこの家に、僕のそばにいればいいじゃないか」

「ぴゃっ!?」


 エリックは流れるような自然な動作で、私の真横に腰をおろす。ぴったり貼り付くと言っていい距離だ。

 私は半ば飛び上がるが、有無を言わさぬ圧力に立ち上がるタイミングを逸する。このまま走って逃げ出したいような、無意味に奇声をあげたいような、落ち着かない思いで私はそわそわと視線をさまよわせた。


「そ、そんな訳にもいかないわ。今は良くても、いずれは身の振り方を考えなくてはいけないもの」


 ずっとこのままでいいと言われても、学校にも行かず、定職にも就かず、嫁にも行かずにのうのうと実家に居座るようになったら、とんだ無駄飯食いの穀潰しだ。

 いずれは、エリックも奥さんを貰ってこの家を継ぐことになる。それなのに、いつまでも兄にべったりな小姑が家に居続けたら、せっかくの高スペックな彼が地雷物件と呼ばれるようになってしまうだろう。


(それは、……それは無理だわ……)


 胸のうちに強い忌避感が浮かぶ。

 でも、それは自分が無能な厄介者に成り下がるのが嫌なだけではない。


 そう。私はエリックが結婚して、誰か他の女性を愛する姿を見たくはーー、


「そんな必要はない、と言っているんだ」


 エリックの手が私の腕を掴む。

 そして、もう片方の手が私の頬に添えられる。

 燭台の灯りが遮られ、紗を被せられたように視界が薄暗くなる。

 エリックの長い睫毛が。陶器のように白い首すじが。薄く形の良い唇が近付いてくる。

 このままでは吐息すら混じり合ってしまう。あと少しでそんな距離になるという、次の瞬間。

 再び、轟音と共に近いどこかに雷が落ちた。その音の大きさに、私の頭の中は真っ白になる。

 ーーそして、




「……何をしやがんのよこのクソ兄貴ーーっ!!」




 私はすべてを思い出した。




 振り上げた手のひらは、しかし相手の頬を打つ前にあっさりと避けられる。


「おや、残念。もう記憶が戻ってしまったんだね」


 素早くベッドから立ち上がり適度な距離を取ったエリックは、くすくすとさして残念そうでもなしに笑いながら肩をすくめる。

 間一髪だった私は、ぜいぜいと息を荒くしながらエリックをきつく睨みつけた。


「ひ、ひとの記憶がないのをいいことに、堂々と部屋にまで上がり込んで……!」

「ふふっ。まっさらなアンはウブで可愛かったけど、やっぱり僕はいつものアンの方が好きかな」

「誰もそんな事を言っていない!」


 記憶を失うまで、私は全力でエリックを避けていた。

 執拗なまでに私に執着するこの兄から、逃げるためである。

 メアリーもユリアも、そんな私に協力してくれていた。

 でも記憶を失ってからは、随分とヤキモキさせてしまった事だろう。何しろ、あれだけ逃げたがっていた相手に、無警戒にも程がある態度だったもの。


「でも良かったな」

「何が……っ!?」

「アンが僕を避ける理由が、生理的に無理とかじゃなくって。アン、僕の外見がすごく好きだろう?」


 いけしゃあしゃあと言い放たれるが、その自意識過剰な言葉に図星を突かれ、私はウググっと言葉を飲む。


 だって仕方ないじゃないか!

 この男、私の反応をつぶさに観察しては、ファッションや表情、喋り方から身振りの一つに至るまで、ピンポイントで私に刺さるよう調整してきやがるのだ!

 何年も掛けてほぼ自分専用にカスタマイズされた美青年に、いったい誰が抗えるというのさ!

 いつもであれば不屈の精神で気のない振る舞いも出来るけれど、記憶のない私にそれを求めるのはさすがに無理だった。


「でも、それならどうして、アンは僕を拒むんだい? 兄妹だから? だけど僕とアンはーー、」

「血の繋がりがないから。理由はそれよ」


 心底理解できないと言うように首を傾げるエリックに、私はきっぱりと告げる。

 私が父にちっとも似ていないのは当然だ。

 私は、母の連れ子なのだ。


 私の実父は、有体に言えば酷い男だった。

 家柄だけを目当てに、まるで買い叩かれるように嫁いだ母に対する扱いは、最低の一言。

 新婚早々に別邸とは名ばかりのボロ屋に押しやられ、使用人も付けてもらえず、日々の食事にすら困る日々。父は愛人ばかり可愛がり、生まれた私には見向きもしない。

 その上、母は両親と折り合いが悪く、実家に相談することも頼ることもできなかった。

 

 母と私がそんな粗末な荒屋すら追い出されたのは、私が5歳の時だった。

 

 婚姻を前提に誼を結んでいた母の生家と決裂したのか、あるいは他に何か理由があったのか。

 どれほどぞんざいな扱いを受けていても、朗らかさを失わなかった母であったけれど、さすがに着の身着のままに放り出されては、途方に暮れるしかなかった。


 そんな折、母と私を保護してくれたのが、義父だ。

 とは言っても、当時は二年間という期限付きの保護であり、それまでに身の振り方を考えることになっていたらしい。

 その頃には、まだエリックたちの実母たる奥方様が義父にはいた。


 しかし約束の二年が経った時、何故だか義父は離婚しており、母と再婚することになっていた。

 その後、何も分からぬまま母に連れられて足を踏み入れたこの家で、私は初めてエリックと出会ったのだ。


「お母様がこの家に迎え入れられたことは、誰に恥いるものではないわ」


 義父の離婚の経緯は円満なものであったらしく、国外へ出た元奥方様からは、今でも季節の便りが届く。

 しかし、世間から見れば、母は奥様を追い出して後釜に座った悪女とされている。

 それなのに、私までエリックと一緒になったら、この家の当主は二代続けて同じ親娘に誑かされたと言われてしまうだろう。


 そう訴える私の言葉に、エリックはあっさりと答える。


「別にその通りなんだから、良いんじゃないかな?」

「良いわけないでしょう! この家がどれほどの名家だと思っているのよ。そんな悪評を立てられるなんて、許される訳ないじゃない」

「そうかい? 他人の言うことなんて、気にする必要ないじゃないか。あと、父も確実に気にしないよ。あの人はさっさと僕に家督を継がせて隠居し、義母上と二人っきりになりたがってるし」


 他のことは心底どうでも良いらしいよ、とエリックは肩をすくめる。

 だからと言って、私が無頓着で良いという理由にはならないだろうに、彼はあえてそれを無視する。


「僕はアンが稀代の悪女と呼ばれていても構わないし、記憶喪失になっても、廃人になっても、手放す気はないよ」


 不遜なのか殊勝なのか判断付け難い物言いで、彼は艶然と微笑み再びこちらに歩み寄る。


「アン、僕のアン。アンネリーゼ。幼い頃から、ずっと、君だけが欲しかった」


 彼の手がすっと私の頬に触れる。

 熱に潤んだその瞳が、真っ直ぐに私を捕らえにかかる。

 引き結んだ唇。届いた指の僅かな震え。

 誠実そうに見える表情と視線に宿る熱量に、頑なになっていた私の気持ちはぐらぐらと揺らぐ。


 ーーしかし、私はふと引っかかりを覚える。


「記憶喪失になっても、廃人になっても……?」

「おや、失言」


 その言葉のチョイスはおかしくないか、という私の違和感をエリックは悪びれず肯定する。


「やっぱりぃぃっ! レオンとカインを唆して、記憶を蘇らせる魔術を使わせたのは貴方ね!」

「ははは、そんな訳ないじゃないか。魔力量は平凡でも魔力抵抗値が高いから、アンが廃人になる可能性はほとんどないとしても、幼い頃に双子と交わしたお嫁さんになってくれるなんて約束を律儀に思い出させてあげようなんて、そんな心優しい提案を僕がするはずがないじゃないか」

「口数が多すぎるーっ!!」


 べらべらと良く回る口は、なんだかんだ言いつつも、本気で己の企みを誤魔化すつもりもないようだった。

 あと、魔術の効果ではっきり思い出したけど、子供の頃も、飽くまで大人になったら検討すると言っただけで、結婚するとはひと言も口にしてなかったからね。


「アン、いい加減に観念しなよ。君がどう足掻こうと、僕が君を逃すはずがないじゃないか」


 苦笑しながらも、堂々巡りの問答に疲れたかのように、エリックはかすかに眉根を寄せて、そう断言する。


「どうかしら。何でもかんでも、あなたの思う通りになると思ったら、大間違いよ」

「僕はアンの、そういった強情なところも好きだけどね」


 エリックは片手を自分の頬に当て、小首を傾げる。

 そう言う歯痛のポーズも正直めちゃくちゃグッときてしまうのだけど、コテコテの自分の性癖を見せ付けられているようでシンドイから、勘弁して欲しい。


「ちなみにユリアーナに頼っても、無駄だよ。どれだけマキューシオの魔力が常識外れだったとしても、人が人として生きていける場所は限られているからね」


 彼の目から愉悦にも似た余裕の色が、一瞬消える。冥い星のように瞬く瞳を見て、私はふいにすべてに気がついた。


(……そう言うことだったのね)


 かちりとピースがハマる感覚に、私は不敵な笑みを浮かべてエリックに言葉を返す。


「それは、どうかしらね」


 私は躊躇いなく、切り札を出すことにする。


「助けて……っ、ユリア!」


 ぎょっと顔色を変えるエリックの背後で、窓ガラス代わりの板戸が音を立てて開く。


「アンっ、こっち……!」


 反射的に振り返ったエリックの脇を擦り抜けるように、窓に向けて駆け出すと、外から差し出された最愛の友人の手を掴む。


 そして、私は窓から外に躍り出た。


「アンっ、行くな……っ!」


 手を伸ばしたエリックの指は、私の背中を僅かに掠めたけれど、あと一歩で届かない。


 そしてユリアに抱き付くような勢いでドラゴンの背に着地した私は、そのまま嵐の過ぎ去った後の夜空に舞い上がったのだった。





 雨雲が去った後に残るのは、無数の星が瞬く美しい夜空だった。何か魔法的な力が作用しているのか、風を切る音はするけれど、強風にあおられる事はない。

 それでもちょっとおっかなかったので、私とユリアは、互いを支えるようにドラゴンの背に座っている。


 頻繁にユリアと手紙を交わしていた私は、ようやく受けてくれたメアリーの休暇についても、世間話の体で彼女に伝えていた。

 記憶のない私に強い危機感を抱いてくれていたユリアは、エリックが何かしでかすなら侍女のいないそのタイミングに違いないと、私が呼べばすぐに駆けつけられるよう召喚契約に似た魔術を私と交わしてくれていたのだった。

 記憶がない時は、なんだか大袈裟なと思っていたけれど、素晴らしい先読みだったと感謝せずにはいられない。

 お陰で、私は無事にエリックから逃げることができたのだ。


「ユリア、本当に助かったわ。ありがとう。それと、マキューシオも」


 私はユリアと、足の下のドラゴンーーマキューシオにお礼を言う。

 しかし、記憶を失う前も彼の正体については呆気に取られていたけど、前世の感覚を持ったままだと尚更に度肝を抜かれるわね。

 むしろここは、ユリアの胆力を称賛すべきか。


「それでこれからどうするの、アン? このままどこか遠くに逃げちゃう?」

「ううん。今夜は悪いけど、ユリアの家に泊まらせてちょうだい。そして、明日には家に帰るわ」

「あら、いいの?」


 キョトンと目を瞬かせるユリアに、私は頷く。


「どうせ予定していた逃亡先には、全部エリックの手が回っているでしょうし。一から計画の練り直しよ」


 どうして私が記憶を失ったのか。否、何故エリックが私の記憶を奪ったのか。

 その理由は、実に合理的なものだった。


 記憶を失くす前、私はユリアに国外逃亡の手助けを頼んでいた。

 どんどん執着を強くするエリックから逃げるためには、いっそ国外に逃げるのが手っ取り早いと、私はそう判断したからだ。

 そしてその計画は、ユリアが人間離れした魔力を持つ恋人を得たことで現実味を増し、加速度的に進んでいった。

 だが、そのことを察知して、焦燥感を抱いたのだろう。エリックは私の計画を妨害する為に準備期間を必要とした。

 それゆえの、私の記憶喪失である。


 彼にしては、随分と乱暴なやり方だったと思う。それだけ余裕が無かったと言うことだろうか。

 あと、隙があれば記憶のないうちに既成事実でも作ろうとか考えていたに違いない。私の知るあの男は、そう言うところも抜け目ない。


「アンがそれで構わないなら、わたしも問題ないわ。そのうちエリックには、一度ぎゃふんと言わせてやりたいけど」


 ユリアはその聖女じみた顔に、悪どい笑みを浮かべる。

 ユリアとエリックは、昔から反りがあわなかった。権謀術数に長けたエリックと、正面突破を旨とするユリアでは、そもそも気の合いようもない。犬猿の仲なのだ。


「だいたい、エリックはわたしがアンと一緒にいると、いつも邪魔そうな顔をするのよ。わたしはアンの親友だって言うのに……!」


 ぷりぷりとユリアが怒っているので、最近はおたくのマキューシオも私のことを邪魔くさそうに見てるよ、とは言わないでおく。

 多分、この国の男性は皆、執着心とか独占欲とかが強い傾向にあるのだろう。そう言う文化圏なのかも知れない。


「でもきっと、今頃エリックは肝を冷やしているところでしょうね」


 ザマアミロと笑うユリアに私もうなずく。


「ええ。今回のことで、その気になれば無理矢理逃げ出すことも可能だって分かっただろうから、しばらくは無茶な真似もしないと思うわ」


 エリックは頭が良いのに、こと私に関しては、脇目をふらないと言うか、むやみに策謀を巡らせたがると言うか、どうにも剣呑な手段を取りたがるのだ。

 それが、私が彼の手を素直に取れない理由の一つでもあるのに、何度言っても改めようとはしてはくれない。


(裏から手を回して絡め取ろうとするのではなく、真正面から愛しているとでも言ってくれれば、私も考えないでもないのにな)


 私はひっそりとため息をこぼす。

 二代目悪女候補で、ヒロインの友人、そして元攻略対象の妹。

 そんな私の最終的な立ち位置が決まるまで、まだしばらくかかりそうだった。








  了


おまけの人物紹介ネタバレ


ユリア(ユリアーナ)

清楚で可愛らしい見た目に反して、胆力が凄まじい姉御肌。

アンの事は友人として大好きで、なんやかんやで魔王的な恋人を得るに至った。

エリックの事は地味に怖いが、アンの為なら戦う気満々。


マキュ(マキューシオ)

人外彼氏。乙女ゲーなら、攻略対象外か隠しキャラ。

ユリアのことが大好きと言うか、ユリアしか見てない。

エリックの事は、ユリアをいじめるから嫌い。


エリック

名家嫡男。権謀術数はお家芸。

子供の頃にアンに一目惚れして以来、彼女を手に入れようと色々と頑張っている。

アンを確実に逃さない為には、ユリアとマキュをくっつけさせてはいけなかったのだが、残念ながら手遅れ。


アン(アンネリーゼ)

名家の当主と再婚した母の連れ子。

今回の件で、異世界転生していたことが判明したが、それで何かを成すわけでもないし、多分何も変わらない。

ちなみに前世はどこにでもいるような一般人女性。


義父

名家当主。主人公母のことが大好き過ぎて、他はどうでもいい。実は主人公実父に劣らぬ人でなし。

初婚でない理由は、当主の義務として某家との間に子供をもうける魔術的制約を、物心着く前から掛けられていたため。

学生時代に惚れた主人公母には、5年待っていて欲しいと伝えたが、何一つ伝わってなかった。


主人公母。平凡な容姿だが、朗らかで我慢強い。

学生時代に、モテまくっていた先輩から5年待てと言われたが、それまでに接点がなさ過ぎて何のことやらでスルーしてた。

義父に保護された際の、二年で進退を決める約束は彼女から言い出した。当然、義父はその間で落とす気満々だった。


前妻

元奥様。某家の血筋だが、国外に冒険に出る事を強く望んでいた変わり者。

子供は欲しいが冒険には連れて行けないしで悩んでいた所、とある名家の当主に打診された冒険費用捻出と養育はしなくていいと言う条件に飛びついた。

子供には割りかし最低な事をしている自覚はあるので、折にふれ土産を送っているが、センスがないのでほぼいやげものになっている。




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男が皆クソか気持ち悪いのばかりで、お話自体は面白いんだけどちょっと好みが分かれそう…妻を独占されたと娘に嫌な目向ける義父も、囲い込むと言えばまだ聞こえはいいけど最悪廃人になるような事やらかすとか…羽を…
男がどいつもこいつもキモい執着野郎なのはどういうわけなんだか
つまり、義兄はやり方が悪かったという事ですね。 理解しなさそうだなー。
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