― ジュタニア ― 2
「よろしく、お願いしま……」
自分の声が喉に詰まる。息が苦しい。なんだ?
ハッとして目を開いた。いや、閉じていたことすら覚えていない。
「夢、ね」
ふーっと大きくため息を吐く。
「先輩、元気かな。……夏は来たかなぁ」
それにしても。
「感覚付きで見せなくても」
大きく足を延ばして、窓の外を見る。空気を吸い込んで頭が冴えてくる。
「そうだ。あいつがいたんだ」
夕べの悔しさを思い出した。
ルイは、確かにあの店に来た。可愛い子が来るとマイトが浮かれていた。後ろに控えながらもそっと盗み見した時、はっきり見えた。スーツでイメージは変わっているが、幼さの残るあの顔。そして、
「俺を見た時の、あの表情」
握りこぶしをつくった。
笑った。あの唇が妖しい笑みを浮かべた。あの時のように。
すぐに捕まえようとしたが、マイトがどうしても駄目だと言った。
迷惑をかけることは望んでいない。だが、連れが一国の元首というのは、あきらかに分が悪い。仕方なくこぶしは収めたが、感情は高ぶっていた。
そんな中で眠りに落ち、呑気に夢まで見るとは。
「秘書になって取り入ったのか。何をする気だ」
ドアをノックする音が聞こえた。コ~ンコンというような軽やかなリズムの。
「アンリ起きているか?」
「マイトさん。はい。おはようございます」
ドアを開けると、髪まできっちりセットしたマイトが片手をあげて立っていた。
「昨日の話、もう考えてくれるんですか?」
「まあ、おいおいな。それより前にちょいと付き合ってくれ」
「朝からですか?」
「うん。ちょっと、殺人現場にね」
「は?」
「朝飯食いながらでも話しようや」
テイクアウトで、野菜たっぷり挟まれたパンとコーヒーを買ってアルカディアのマイトの部屋に落ち着く。
「今朝早くにタイジが泣きついてきてな。あいつ一番早く店に来るために少々暗い時間から街に出るんだが、ああ、ちゃんと夜は帰しているぞ。で、いつも通る道で死体を見つけたらしくてな。まあ、一般的にはそういうことに出会うこともないから、当然パニックになってさ。俺んとこに全速力で来たってことなんだが」
「死体、ですか? この街はそういう事件が多いんですか?」
「いや、滅多にないね。些細な犯罪はあるが。この街で言う『女性に手を挙げた』ような犯罪な」
「あれは!」
「わかってるって。例えだ例え。それだけでこの街では生きていけなくなるんだよ。男はな」
コーヒーが苦く感じる。
「タイジくんは、犯罪に巻き込まれるのを恐れているんですね」
「ああ。そういうことだ」
「じゃあ今タイジくんは?」
「俺の部屋」
「そのご遺体は女性ですか? 男性ですか? タイジくんは、逃げていく人を見たとか言っていませんでしたか?」
「厄介なことに女性だ。タイジは誰もいなかったと言っていたが、そこにいなかっただけで、逃げて行った奴や隠れていたかもしれない奴なんて、見えてないだろうな。遅からずタイジがその場所を通ったっていうのはわかるだろうから、これから現場に行って周りの状況だけでも見ておこうと思ってさ。ラッキーが一つあるとすれば、アンリが刑事だったことだな」
「すでにこの街の警察が調べているんじゃないですか? 俺にできることってあまりないような気がします」
「現場を見た後、知り合いの警官に詳しい話を聞く予定。その時、アンリがいたら細かいことに気づくかもだろう?」
「もちろん俺でわかることなら協力しますが。あまり期待しないでくださいね」
先の街で大した成果を上げることのできなかった悔しさがこみ上げる。パンとコーヒーで流し込んだ。
「ちなみにマイトさん」
「なんだ?」
「昨日は何日で、今日は何日ですか?」
「はあ? なんかの謎か?」
「普通に聞いているんですけど」
「昨日は八日。今日は九日。当たり前だろ」
ちゃんと日付は進んでいる。ただそれだけのことにホッとした。
現場は大通りから一本外れた道の角。
この街にも―KEEP OUT―があるんだなぁなどと、現場周辺に巻かれたテープを見て思った。世界共通なのだろうか。
マイトが言っていた通り、珍しい出来事のようで、怖いもの見たさからか人だかりができていて近づくことができなかった。そもそも女性ばかりが集まっている中に入っていく勇気はなかったし。
「お嬢様方。少々俺に見せてくれないかな?」
「マイト。おはよう」
「おはよ。大変な事件があったんだって?」
「そうなの。女性が殺されたんですって。怖いわね。だから男なんていらないのに」
「俺も男だから、そう言われると困るけど。殺されたってのは怖いね」
アンリは、ちょっとムッとした。男が犯人と決まったわけじゃないのに。お嬢様方とやらは、皆が口をそろえて言う。
「その女性って知っている人?」
「ええ。有名だったもの。ほら、アンジェラの秘書。前はよく見たけど、最近は見ることもなかったわね。皆、道を開けちょうだい。
マイトが見たいって」
ルイが絡んでいるのか? 確か、今秘書しているって。アンリがそう考えていると、マイトがお嬢様方に礼を言ってアンリの腕をつかんだまま前に進む。
すでに遺体はなかったが、血だまりが事件のあったことを知らせていた。
警備の警官数人が事件現場の維持に勤めていた。近所の店長だろうか。通行止めにされると困ると訴えている。苦情が来るのを見越してだろう。警官も女性だったのは。
遺体があったと思われる場所。つまり血だまりが出来ている場所だが、道の角にはささやかな植え込みがあった。低木のL字型。
さすがに、ここに隠れるのは無理か。
女性にとって平和な街で死んだ。やっぱり犯人は男だろうか。決めつけはよくないと思う。しかし、この街の問題は大きすぎる。一方的な思考が犯罪を促すことはあり得るように思えた。
憎んだ殺人。得する殺人。隠すための殺人。あるいは。
「……マイトさん。首相の秘書の人ってこの街の人ですか?」
「じゃないのか? 特に訛りもないし、首相の秘書を務めるくらいだ。じゃあ警察署行くぞ。気になるんなら、その時聞けばいい」
警察署は、これまた立派な建物だった。まるで高級ブティックのよう。
その店先にいたマイトの知り合いは、アンリを見て一応の挨拶をした。が、
「こちらの部屋をお使いください。僕は知らないことにしますので、見つからないよう十分注意を払って作業のほどお願いします。パソコンはどこかに繋いだりしないでください。管理室から借りてきているので。退出される場合は、僕だけに見えるように終わったことをお知らせください。そちらを向いて座っているのは僕だけなんで。では、失礼します」
と、関わりたくない気を前面に出したまま、出て行った。
「ずいぶん、あっさりしているんですね。マイトさんのご友人」
「ご友人じゃないよ。知り合いだ」
「でも、ちゃんと資料とパソコンを置いて行ってくれて、助かりました」
パソコンをマイトに渡し、事件の概要、真偽の選別をしてもらう。資料を手に取ったアンリは、ざっと読み流す。
引っかかる場所はない。
マイトが画面に関連記事を数枚ピックアップし、パソコンごとアンリに渡した。手にしていた資料をマイトに渡す。
「マイトさん。そういえば、この街って夜中に出歩けたりします?」
「はあ?」
「できるんじゃないのか?」
「ないのかって、知らないんですか?」
「仕事から帰ったら、ぐっすりだからな。夜中にわざわざ外に出ねえって。でも、タイジが早く出勤するといっても朝の九時ごろだし、街が動き出すのは十時頃かな。街が動いてないと暗いんだよ、建物で囲まれたこの辺は。変なことばかり聞くんだな。刑事ってのは」
「矛盾があればなんでも聞きますよ。資料には、その女性はこの街の出身となっていますが、パソコンのデータでは不明となっています。なぜでしょう?」
「入力ミスとか?」
「どちらかというと、資料のほうがミスしているんじゃないかと思います」
「なんでだ? 資料ってものは、パソコンで作ったのを印刷とかして作っているんじゃないのか? だったら、先にあるのはデータだ」
「データは後で書き換えられるんですよ」
「まどろっこしいな。結局どういうことだ?」
「その女性の出身地をこの街にしておきたい誰かが、データを書き換えたっていうことです。データをそのままにしていても問題はなかったでしょうが、念のためというとこでしょう。資料とパソコンの管理は違う部署の方が担当しているみたいですから。つまり、その女性は、この街の出身じゃなく、どこから来たのかわからない。そして、名前も学歴も全て嘘の確率が高いです」
「なんでそんなにわかる?」
「同じような事件に過去出会ったことがあるので……」
アンリは言葉を止めた。
「マイトさん! 鑑識の集めた証拠品の中に紙はありましたか?」
「紙? んーっと、特に書いてないな」
「現場に戻ります」
「あ、おい!」
マイトさんの知り合いという人に軽く頭を下げて、急いで街中へ戻る。
L字の低木。
植え込みの中を見る。もちろん人はいないが、目的のものはあった。
「CAIN」
ナイフの刺さったリンゴを蛇が守っている絵。
「……ルイ」
手元を覗くマイトに、すまなそうに言う。
「あの女性は、やっぱり所在不明のようです。そして、タイジくんの無罪を証明するのは厳しそうです」
「じゃあ、タイジはどうなる?」
「犯人として疑われているわけではないので、その点に関しては大丈夫だと思います。『CAIN』の犯罪は、犯人がいなかったのが普通でしたので。この街でその条件が整うかどうかは微妙ですが。ただ、タイジくんの記憶や気持ちがどう残るか」
当日から三日間、タイジは休ませたらしい。一番の下っ端であるアンリの仕事がものすごく増えていたから。
「タイジくんに戻ってきてもらわないと、俺死ぬ」
「手伝ってやるから、あの件を片付けてくれ。
タイジも参っている。明日には行きますと言っていたが」
マイトが手を動かしながら、アンリの耳元に呟く。
「片づけたいですよ。今すぐ。ですが、さすが首相秘書。全く近づく隙がありません。ここに来るまでに何回もチャレンジしてみたんですけどね。前に立っている女性警護人ですか? あの方たちに触ったらアウトと思うと」
「おいおい。そんなんで大丈夫かよ。すでに負けている気がするな」
「言わないでください」
「チャンスが来るぞ。首相ご一行様が明後日だ。いつも車で来て、首相と警護人は建物にすぐ入るが、秘書様は運転手と何らかの話し合いをしてから入る。この数分でどうだ?」
「行ってみます」