― ダグルとノウト ― 1
エッダによると誕生の順序は最初が夜で、昼はその数代あとだった。
夜が明ける。
白々しく映る色なき世界は、今日もふたつめの喧騒を待っている。
― ダグルとノウト ―
「おはよう」
「おはよぉ。アンリったら、今日も髪がはねてるよぅ?」
朝五時半にセットされていたアラームが鳴ると、シェアをしている住人全員が起きてくる。
アンリ・メクリウスが、茶色く、はねやすい髪をかきむしりながら部屋を出ると、リビングにはすでに先客がいた。
ルイ・R・ディアーロ。もっとも古くからここにいる。天真爛漫な彼女の大きな黒い瞳は、何かを追っているかのようにクリクリと動いた。黒くウェーブがかかった髪は、いつも綺麗にセットされている。
「ルイは今日も元気だな」
赤と黒のゴシックな服が、一段と目につく。
アンリは欠伸をしながら、冷蔵庫を開け、自分の名前が書かれた牛乳を取る。お気に入りの取手のついたグラスに入れ、席に着く。
「あれ? 珍しいね。テイルはまだ起きてないの?」
いつもなら自分より早くここにいるはずの仲間がいない。
「……うん。あたしも気になって、部屋をノックしたんだけど、返事がないの」
「体調でも悪いのかな?」
ルイが不安そうな顔をするのは珍しい。そう思ったアンリは、テイルの部屋に行き、ドアをノックした。
「テイル? おい、大丈夫か?」
返事はない。
「開けるぞ?」
ノブを回した。鍵はかかっていない。ここの住人は、誰も鍵をかけることがない。女性のルイもそうだ。
「……テイル?」
部屋の中はきちんと整えられていた。彼のいた痕跡、家具やポスターもそのまま。けれ
ど、そこに彼はいなかった。
「ルイ! テイルがいない!」
「えっ! 嘘でしょう? 昨日の夜はいたじゃない」
二人の視線がクロスする。
「まさか……夜に」
この世界は、昼と夜がある。一日のうちにそれらがあるのは当たり前だが、住人もシス
テムも、統治者でさえ、異なるのである。
昼には昼の。夜には夜の。それぞれの世界がある。それは朝夕六時で分けられている。
昼の街の名を『ダグル』。夜の街の名を『ノウト』という。
そして、テイルは昨夜の六時以降にいて、今いない。
「出かけられるはずないもの。夜の時間帯だわ」
「夜に走ったんだ」
無言になる。
「……どうして」
呟きが虚しく、彼の部屋を満たした。
いつもと少し違う日が始まった。
それでもアンリのすべきことは変わらず、ダグルの街の安全を守らなければならない。
「おはようございます」
「おはようさん」
刑事と言うと格好いいかもしれないが、昼の街で警察があるのは唯一ここだけ。街のお巡りさんがみな刑事なのだ。
ジェフ・スタインバックは、アンリにとって一番近しい先輩だ。背が高く、禁煙地区が多すぎるとぼやく姿が、目標でもある。早く、スーツに着られることを卒業したいと思う。
「ん? どうした? 今日は元気ないな。お嬢ちゃんに怒られでもしたか? いちいち悩んでいたらキリないぞ。身長だって、伸びなくなるぞ」
「怒られていませんし、最後のは余計です」
確かにルイには、しょっちゅう怒られている。いや、怒られているというより、遊ばれているという感じがする。
「それに、お嬢ちゃんなんて言うと先輩が怒られますよ」
「だってお嬢ちゃんだろ。どっかのお金持ちの」
シェアしている部屋の最古参がルイなのは、家主が彼女だからだし、彼女が仕事をしいるのを見たことないし。けど、親の話は聞いたことない。自分も話すことはないし、別に聞かなくても、不便は無い。
「それより先輩、ゲートキーパー管理室から何か報告は上がっていませんか?」
「いや? どうした、誰か走ったか?」
「……いえ、ふと思っただけです」
何故か正直に言うことが出来なかった。
「パトロールに行ってきます」
「おう。行ってこい」
煙草を口にくわえたまま、ジェフが言う。
「先輩、禁煙ですよ」
部屋を出る瞬間に言葉を投げる。「わかってるさ」と言いながら、睨まれるからだ。
昼の街は、太陽が痛いほどの光と熱を発している。新鮮な空気は美味しい。月は窓からこっそりしか見えないけど、高く昇れば綺麗だと思う。
地下が掘れないから、大きい建物は少ないけど、マンションや商業施設などもある。緑に囲まれた公園はいつも人があふれている。鳥や動物もいる。
夜に走る意味がわからない。
噂話でしかないが、ノウトの街は、眠るまで絶えず音がするという。音楽や機械音、人の話し声、笑い声、どなり声。常に灯される照明は、朝六時になると自動的に消え、夜六時になると自動的に点くという。きっと、同時に音も流れだすのだろう。
彼の地へ行くには、ゲートを通らないといけない。街外れの立ち入り禁止区域、砂漠化した場所にある。ゲートの奥、そこは常にゲートキーパーが目を光らせている。彼らは、特殊な存在であるらしい。らしいというのは、自分が逢ったことがないから。さっきは管理室と言ったけれど、それ自体どこにあるのか行ったことはない。
一般人には関係ない場所だ。
夜へ走る者はゲートを通らないと、ノウトに行けない。テイルはどうやってその場を突破したのだろう。昼に走る者がいないから、話を聞くチャンスは一度もない。なぜか、ノウトに行った者は、一人としてダグルには帰って来ない。ノウトに生まれた者も、ダグルには来ない。生れた者がいるのかさえわかってないけれど。
魅力的、なのか?
「今日は暑いわねぇ。御苦労さま」
街を歩くと皆が声をかけてくれる。
「暑いですね」
「休憩してくださいよ」
「不便はありませんか?」
「ありがとう」
「頑張ります」
大して語彙は多くないが、一言返すようには努力している。この辺一帯の住人の顔は覚えていたいという心構えみたいなもの。
でも、会う顔が少なくなっている気がする。
街外れのゲートが見える場所まで来た。
双眼鏡で覗いてみると、砂漠化した小高い丘の上の手前に、仰々しく門が見える。辺りには一切、建物も人影もなく、それだけがある。
ゲートの向こうも、砂漠の向こうも、魅力的な何かがあるのだろうか? そんなことを考えながら、独りごち。
「向こうにある世界か」
なんの気配も感じられないその場所を後にして、署に戻る。
そして、一日の終わり、夜五時四十分帰宅。
「ギリギリよぉ?」
「ごめん。書類がたまっていて。もう少しで、署に宿泊だったよ」
「まったく。もう少し早く帰ってきなさいっ」
ルイに怒られた。
「仕方ないだろ。仕事しなきゃ食っていけないんだ。こっちは」
怒られることは日常茶飯事なのに、ムッとして言い返してしまった。
ルイはフイッと顔をそむけ、用意してあった食事を一人分だけ持って、部屋に籠ってしまった。
そうだ、テイルがいなかったのだと気付いたのは、それから少しして。ルイは心配していたのかもしれない。いつもの口調と明るい表情にだまされる。
今日は休み。貴重な午前の時間を、気がつけば、いつもルイと遊んでいる。
昨晩の気まずさは、すでにそこにはなかった。
「うわっ、嘘だろうぉ! 汚ねぇな。そこで普通、落ちる球投げるか?」
「勝負なんて、そんなものでしょ」
ゲームに熱中している二人の耳に電話の音が響く。
「はい、アンリです。え? テレビですか?」
慌てて画面を切り替えた。
「……いつからですか? はい、すぐ行きます」
「どう見ても事件ねぇ。銀行に立て籠もり? いつからだって?」
あわてて服を着替えながら答える。
「十五分くらい前。最近ホント、放送課早いよな」
三分経たないうちに支度を終える。
「ルイ、悪いな。いつ帰れるか、わかんね」
「気にしないで。アンリの負けは決まってるしぃ。気をつけてねー」
「……おう」
複雑な気持ちで答えた。
多くのカメラを押しのけながら、群衆の中へ入り込む。やっとの思いで、―KEEP OUT―のテープをくぐる。
「先輩、どうですか?」
「おう。早かったな。変りなし、だ」
昼飯を食ってからにして欲しかったぜとぼやいている。長丁場になると予想しているのだ。
「三十分前に立て籠もってから一切要求なし。俺たちは、お前の五分くらい前に知った。中には銀行員五名と客二名がいる模様。小さい支店で良かったとは喜べないがな」
「犯人は一人ですかね?」
「さぁ?」
ジェフは頭をかきながらイライラを抑えている。タバコが吸いたいのだろうとアンリは思った。
「この街に文句があるなら、夜に走ればいいのによ」
「きっと、そこまで勇気がないのよ」
「迷惑ね」
「まったくだ」
野次馬が遠巻きに苦情を並べている。
「怒るなよ。夜に走る=勇気がある、じゃないことくらい俺たちはわかっているさ。それに、ああいう人たちがいないとこの街は成り立たない」
なんだか、それはそれで歯がゆい。
「別に俺は……」
「友人が一人、走ったんだって?」
「え、報告が上がりましたか?」
「いや、噂で聞いた。狭い街だしな。ましてや、そいつが教授ともなれば、人との接点が多い」
「そうですか。報告は上がってないんですね? なら、走ったんじゃないかもしれない」
「そう思いたいのはわかるがな。ここんとこ、ゲート以外の道が開かれている場所があるんじゃないかと上の方は考えているみたいだぜ」
「ゲート以外で、ですか。ゲートキーパーは
知っているんでしょうか?」
「知らん。いや、俺が知らんだけだ。だが、情報を持っているかもしれないな」
「おい、お前ら無駄話している場合じゃないぞ」
課長がパトカーの中から叱る。
「すみません」
「こりゃ、どうも」
とりあえず謝ってみる。あまり、この人は好かれていないのだ。それに関しては、アンリも同じ気持ちでいる。
「でもなー、犯人の人数も、持っている武器も、何も分からないんじゃ、手出しできねーよな。手元にあるのは、この建物の見取り図だけ」
ジェフが、紙を一枚広げようとしたその時、「グガッシャン」と、ガラスが割れたような音がした。
全員が戦闘態勢モードに入る。ささやかな機動隊が盾を持って、慎重に進む。
「どうした? 何があった?」
課長がパトカーの中で、尋ねる。アンリたちは答えずに、機動隊の後ろにつく。
「バンッ!」
音を立ててドアが開き、建物内にいた従業員と客が出て来た。先を急ぐこともなく、普通の足取りで。
「確保!」
真っ先に我に返ったジェフの声が飛ぶ。半分が出て来た人たちを誘導し、半分がなだれ込むように銀行内に入った。
「……先輩」
すでに機動隊が建物内をくまなく捜索している時、アンリたちは中に入った。そこで見たのは、犯人らしき人物の倒れた姿だった。
「この人が犯人でしょうか?」
「恐らくな。だが、保護された人たちに話を聞いてみないとわからん」
倒れていた人物は、痩せこけ、髪も髭もボサボサで、服もひどい状態で、目を見開いて
いた。年齢も外見では判断できない。
アンリには見覚えのない顔だった。そのことに、ホッとした自分がいるのに気付き、首を振る。
「おい、コレを見ろ」
ジェフが紙を目の前に出す。
蛇がトグロを巻き、ナイフの刺さったリンゴを守る図。
「……CAIN」
『CAIN』は、最近起きた事件現場に現れては犯人を殺害している。と、言われている。誰も、その姿を見たことがないのに、奴の仕業だと判断するのは、いつもこの図が落ちているから。人質を一切傷つけないので、街の人にはヒーロー扱いされている。
ヒーローであるがゆえに、今回も、その姿を少しでも見たはずの人々は誰も口を開かないだろう。だが、警察としては認められない。昼飯が食えると喜ぶ仲間はいない。
「それじゃあ、私は帰る」
……あ、パトカーの中に一人いた。
事後処理もあるため、今日は署にお泊まりだ。ルイには連絡を入れておかないといけない。マリーが泊まりに行ってくれればいいが。