血統は名探偵
学校帰りの路線バスで座る席は大体、決まっている。最後列の右側だ。その日もエフ君はバスに乗ると、定位置に行こうとした。その足が止まる。他の学校の生徒数人が座っていたからだ。
ヤンキータイプの女子生徒たちに「そこは僕の席です。どいて下さい」とは言えない。それでは別の席に、と車内を見回すと――はて、あれは何だろう?
・何気なく座ったバスの座席で見つけたメモの内容とは?
エフ君は何か書かれた紙の置かれた座席の隣に座った。メモを拾い上げ眺める。
「きりいご」
書かれた文字を口に出し、その意味を考える。それから周囲を眺めた。乗っている客に目立った動きはない。悪戯ではなさそうだ。あるいは……うっかりメモを落とした、おっちょこちょいサンがいたとしても分からないな、とエフ君は思った。足元に別の紙片が落ちていた。そこには「夕食プラス1」と書かれていた。二つのメモをポケットに入れ、エフ君は目を瞑る。やがてスース―と寝息を立て始めた。正確な体内時計を持つ彼は家の近くになったら自然に目覚めるのである。そんな彼を、バスから降りる際に他校のヤンキー女子たちが見て「近くで見るとイケメン」と胸をときめかせていたのだが、それは当人の知らぬことであり、この話とも深いかかわりはない。
「ただいま」
帰宅したエフ君は家の中に充満する揚げ物の匂いを吸い込んで思った。
「やっぱりか」
・なぜか母親が毎日暗号メッセージで夕飯のメニューを伝えてくるんだが……
夕食時、エフ君の母親は言った。
「今日は携帯電話を忘れて行ったね」
「うん」
「おかげで夕飯のメニューを暗号メッセージで送れなかったよ」
エフ君はバスの車内で拾ったメモを母に見せた。
「これ、お母さんが書いたメモでしょ? バスに落ちてた」
メモを見たエフ君の母親は照れ笑いをした。
「あ、やっぱり落としてた。夕飯の食材を買いに行くときはあったんだけど、帰ってきたら見えないな~と思ってたんだ」
からあげを食べながらエフ君は思った。メモするほどのことなのか、覚えろよ、と。そもそも毎日暗号メッセージで夕飯のメニューを伝える理由が分からない。母親の頭の体操に付き合ってやっている意識で続けている慣例だが、それにしたって意味不明だ。
「ねえ、どうして夕飯のメニューを暗号メッセージで伝えてくるの? 最初は面白かったけど、暗号を解読する鍵が同じだから、もう一目で分かるようになったよ」
エフ君の母親は感涙にむせんだ。
「そのレベルにまで、遂に、遂に到達したのね」
「いや、それほどのもんでもないよ」
「これで、やっと、あなたにお祖父さんのことを伝えられるわ。よく聞きなさい」
エフ君は自分の祖父のことをほとんど知らない。生まれるずっと前に死んだことだけは知っている。その程度の知識だったのが、今夜は突然そんなに興味のない祖父に関する話を教えられる事態になったのだ。夕食後にゲームするつもりだったが、そうも言ってられないようである。
「お祖父さんは名探偵だったの。そのお父さんも名探偵。そのお父さんも名探偵。つまり、あなたには名探偵の血が流れているの」
そんな実感がまったくないエフ君は首を傾げた。
「それって銀田一だったか銅田一少年の事件簿とかって話じゃないの? 詳しくは知らないけど」
「違う、これはリアルな話」
それからエフ君の母親は自慢げに言った。
「お母さんも名探偵だったの。昔はね、これでも美少女名探偵って言われてたのよ」
「美少女」
「ええ」
「それってリアルな話なの? それとも妄想?」
「これをご覧」
エフ君の母親は携帯電話のアルバムから昔の写真を開いて見せた。
「どう、凄く可愛いでしょ」
自分で言うだけあって可愛らしい。エフ君は、自分の目の前にいる太った中年女を眺め、人生の虚しさに気付いた。
「うん、凄いね。ところで、話ってこれで終わり? 終わりなら、僕は宿題を始めないといけないから、これで」
夕食を食べ終わっていたエフ君が自分の皿を台所へ運ぼうとしたら、母に呼び止められた。
「まだ話は終わっていないの。お座り。あ、待って。お皿を置いた後でいいから。食べた分を洗ってもいいよ」
皿洗いを済ませたエフ君はテーブルに戻りペットの犬のように大人しく座った。
「これから、お母さんの名推理の話をするから」
結構です、とは言い難い空気を放つ母に気圧され、エフ君は母の話に耳を傾けた。
・メッセージボトルを拾った友人が翌日急に姿を消した
「同級生の男の子が行方不明になったと聞いて、お母さんはその子の自宅へ向かったの。美少女名探偵が無料で捜索に協力してくれるというので、その子のご両親は大喜びよ。私は彼の部屋を探して、隠してあったエッチな本と一緒に見つけたの。メッセージボトルを」
ボトルの中の手紙には、こう書かれていた。
<+1、ひにろさずみほうけなえあもうはふなぬいおわ。らけずてはふげろみどみと>
暗号を解読したエフ君の母親――いや、当時はエフ君の母親ではなかったわけで、美少女探偵エフ子(仮称)と呼ぶことにしよう――美少女探偵エフ子は、行方不明になった同級生の男の子を発見した。
「それが、あなたのお父さんになる男の子。あたしたちは、それが縁で交際を始めたのよ。それまではただの同級生だったのにね、お父さん、そうでしょ?」
晩酌をしながらテレビを見ていたエフ君の父親は頷いた。
「ずいぶん昔のことだけど、昨日のことみたいに覚えているよ」
その場で口に出しはしなかったが、エフ君の父親はボトルの中の暗号を解読した時に、ピンときた。
こんな悪戯をするのは美少女名探偵を自称するエフ子しかいない、と。
自分が毎朝決まった時刻に犬の散歩で浜辺を歩くことはエフ子に話している。自分が通りかかる前にエフ子は用意していたメッセージボトルを置いておいたのだ。それを拾うのがターゲットである自分でなければ自分が拾うまで同じことを延々と繰り返すだろう、と彼は考えた。朝か夜か知らないが、暗いうちに女の子を一人で歩かせるわけにはいかない。彼はメッセージボトルを拾うと、そこに書かれた通りの行動を取った。そうしないと相手が納得しないだろうと気遣ったのだ。面倒臭い女だが、これも惚れた弱みだと覚悟を決める。
当時は、目的地に徒歩で行けた。今は環境が変わって歩いて渡れない。ほんの少し前なのに、とエフ君の父親は思った。三日分の水と食料そして寝袋その他のキャンプ用品を持って現地着。水と食料は二日分でも大丈夫だろうとは思ったが、念のためだ。そして一晩を過ごす。翌日の夕方にはエフ子が現れた。行方不明になっていたから、暗号を解読して見つけに来た! と得意げだったのが、暗号解読の手順を解説しているうちに潮が満ちて戻れなくなり、顔色が変わった。暗くなって怖くなったようで、泣きそうだ。水と食料の予備を持って来たし、キャンプの用意があるから平気だと伝え、安心してもらう。
いや、それだけでは足りないとエフ君の父親は感じた。今度は自分の番だと。
ここまでおぜん立てして貰ったのだから、告白は自分からにしようとエフ君の父親は思った。もっと早くにやれば良かった、と後悔もした。彼女の気持ちを分かっていながら気づかないふりをしていた自分が悪かったのだ。
誠心誠意、真心を込めた愛の告白をして、エフ子に受け入れてもらう。全部お前の仕込みだろ! とは言わない。帰れないので、その夜は二人で泊まることになった。親に心配を掛けたくないとエフ子は言った。こっちの親の心配は考えないのか、とエフ君の父親は腹が立ったけれど、それは今後の付き合いの中で理解してもらえたらいい、とその場は諦めた。
エフ子は嘆いた。
「だめ、圏外だわ」
エフ君の父親は、恋人の携帯電話の画面を覗き込んだ。そこには、こう表示されていた。
・「メッセージを送信できませんでした」