P.8
廊下からは物音一つしない。細心の注意を払ってそっと扉を開けてみる。
それでも僅かに扉に付いた金具が鳴ったが、そっと踵から一歩目を踏み出した。
忍び足は得意な方だ。夜食を頂戴しに冷蔵庫へ向かう際は、一度も最中にバレた事は無い。
なるべく体重を掛けないように注意を払いながら、がらりとした廊下、そして今は用の無い台所へ繋がる廊下を抜ける。
途中で軋む木の床でさえ、ロイスにとっては致命的だ。
やけに遠く感じる玄関扉まで辿り着くと、一度家の中を振り返った。
静まり返って暗い室内。皆、寝入っているのだろう。
多分、今一番大きい音はロイスの心臓だ。
これが漏れ出す内に出なくては。
ロイスは、音が鳴らないように鉄の塊を押すが如く、非常にゆっくりと木製の玄関扉を開けた。
途端、冷たい風が体を包み込む。
開けた時と同じ速度で扉を閉めたロイスは、まず辺りを見回した。
普段とは違う夜の光景。いつもなら自室の窓からしか見ないような、星に照らされた独特な夜の町並みが目の前に広がる。
外に人影は見えない。かと言って馬鹿正直に町中を闊歩しても目撃して下さいと言っているようなものだろう。
自宅の裏に密集している木々なら、姿を隠すにはうってつけかもしれない。
早速、道の無い裏側に歩を進める。
実は多少遠回りになるが、こちらの方が周囲の視界が届きにくいので動きやすい。
そう、夜中だからといって人っ子一人居なくなる訳では無い。
途中、街の出入口である門の近くを通る事になる。
草木に混じってそちらに目をやると、やはりそこには門番が立っていた。
一日中、交代制でずっとだ。
前に何度か門番の気を逸らして外へ、と考えた事も有る。
だが、あそこに立つ門番が多少の事で動じないのもロイスは知っている。
やるとすればここで大騒ぎするか、魔物の大群にでも攻めて来て貰うしかなさそうだ。現実的じゃない。
隙を見計らってというのは、どう足掻いても出来そうになかった。
木陰に沿って他の家の窓際を避けながら暫く進んで行くと、一般的な家屋とやや離れた位置に大きな建物が見えた。
外見こそ立派に見えるが外壁などは長年の劣化でボロボロだ。
雨風を凌ぐくらいなら使えそうだが、住むとなれば月単位で掃除をしなければならないだろう。
これがヴェンも言っていた例の家だ。
どうやら当の本人はまだ来てないらしい。ロイスは、例の家の玄関脇に生えていた木と木の間に潜んで様子を見ることにした。
そうやって十分は経っただろうか。
いい加減に風で木の葉が身体をくすぐってくるのにウンザリしていた頃、ようやく向かいの草木からボサボサの赤毛の髪がその隙間に姿を現した。
それはまるで一か所だけ草が燃えているようで、寝ぼけた誰かに水を掛けられていたとしても、ロイスはちっとも驚かない自信が有った。
彼の姿が見えたので、ロイスも服に付いた葉を払いながら木から出てくる。
向こうもロイスに気付いたようで、筋骨逞しい身体が草木を掻き分けてあっけらかんとした声を出した。
「早かったなあ」
「ヴェンが遅いんだよ……何やってたのさ」
よく見ると、ヴェンの両手には保護用の手袋が装着されている。
岩や大きな石を運んだり、大工作業をする際に手を傷付けないようにする物だ。
それに右手には、手首に着けている腕輪の他に、何処で取って来たのか木刀を携えていた。