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背中の痛みに呻きながら、ロイスはヨロヨロと立ち上がる。
「三百二十五戦、私の三百二十五勝。まだまだだな、ロイス」
ネフィは木刀を手に、真剣で言う刃の部分を肩に乗せて楽しげな様子で告げた。
ロイスは毎日、こうして稽古と称し、勝負を挑んでいた。
発端は約半年前、ロイスの一言である。
「外の世界が見たい」
これまでロイスは、一度も町の外に出る事を許されなかった。
その理由をロイスは知らなかったが、それは自分を魔物等から遠ざけるためなのだろう、と思っている。
それは決して珍しい話ではなく、町に住む他の子供だって外に出る事は固く禁止されている。
人の住む町の外には魔物が蔓延る。
大体が人間に対して攻撃的で凶暴な獣なのに対し、子供だけではあまりに危険過ぎるのだ。
だが十八にもなるロイスにとって、この町だけの生活というのは良い加減窮屈過ぎた。
港町と言う人々の外来が多い生活というのが、余計にロイスの好奇心を刺激させたのかもしれない。
あるいは、自分より年下の子供でさえ親と一緒なら町の外に行っているのを見て、何か嫉妬心のようなものが芽生えたのかもしれない。
ロイスは、誰と一緒であろうとこのマグレブの町から出して貰える事は無かった。
とにかく、その胸の内をネフィに伝えると……。
「ならば、私に勝ってみせろ」
それが返答であった。
それ以来ロイスには、ネフィと戦うことが日課になっている。
毎日毎日、時には日に二回以上の試合をする事もあるが、勝ちはおろか未だに剣先でも当てられる気がしない。
始めた頃に比べれば上達はしている……と思う。
剣の振り方、姿勢、呼吸。
一通りの基本的な剣の事は、父ネフィから指導を受けた。
だが、あくまでも初歩の初歩という段階だ。
それまで剣を触りすらしなかったロイスが、始めて半年程でネフィを倒せるとは思っていない。
そんな父親は今、木刀を担いで夕日を堪能している。
父親が剣の達人だとかいう話は誰からも、父自身からも聞いた事は無い。
しかし自分の父親が剣術を教えられる程には精通している、というのはロイスの小さな誇りであった。
「ロイス」
訓練所の脇から自分を呼ぶ声が聞こえて、ロイスはそちらを振り向いた。
「どうだった?」
灰色の髪、整った顔立ち、腰には長剣を装備している。
年は二十台半ば、といったところだろうか。
ロイスよりも背は高く、向けられた笑顔が爽やかである。
「ゼア! どうしてここに?」
ロイスが下へ続く階段の側にいるゼアに駆け寄る。
「ネフィ殿に用が有ってね。試合の調子は?」
「まだまだ……かな」
「そうか……そうだろうな」
聞いた話では、彼は何処かの国の騎士らしい。
ロイスが物心付いた時には既に度々ネフィと会っていた気がするが、何故この町に来たのか、何故ネフィと親交が有るのかは、未だロイスにも謎であったし訊こうとすらした事は無い。
ただ、騎士という割には想像するような甲冑なんかは身に着けておらず、いつも地味な布地の服に籠手と胸当てなど簡素な装備しかしていないので、ロイスは騎士より警護団に勤める気さくな兄のような印象を受けていた。
ネフィの息子という事でロイスも良くして貰っているのだが、ロイスが一度も木刀を当てられないネフィが、用事の有る時はゼアに訓練相手を頼むくらいには剣の腕を持っている。
勿論の事だが、ロイスはゼアにも勝てた試しが無い。
ゼアと呼ばれた男は、残念そうな、しかしどこか安心した様な顔をして、ネフィに向き直った。
「ネフィ殿、少し宜しいですか?」
「どうした」
それから、二人は二言三言と言葉を交した後、揃って考え込んでいた。
顎に手を当てたままの父親が唐突に自分へ視線を向けたので、ロイスは彼の顔を見返す。
「先に、下に行ってなさい」
自分には難しい話みたいだ、とロイスはネフィの言葉に、素直に従う事にした。
二、三歩後退って身体を反転させると、使い古された訓練場の所々がひび割れた石畳を進む。
目の前の直線上に下がっている階段の半ばに差し掛かった所で、階段下にまた見慣れた人物が立っている事に気付いた。
「よお、終わったのか?」
体つきはいかにも力仕事が出来そうで、見えている部分の筋肉が逞しい。燃える様に赤く、ボサボサした髪は、後ろを束ねて垂らしている。
いつも右の手首に着けている大きな腕輪は彼の瞳と同じ緑色で、シンプルなデザインなのに宝石のような存在感が有った。
「うん、ヴェンも来てたのか」
「ああ、暇だったからよ。ゼアは?」
ヴェンは一回、階段の先を見上げた。
「父さんと話してる。先に下に行ってろって言われた」
そっか、とだけヴェンは言った。
行こうぜ、とロイスを促す。
ロイスは軽く頷き、その場を後にした。
「ここもやることねーよなー」
頭の後ろで両手を組みながら、ヴェンがぼやいた。
彼はマグレブに住んでいる訳ではなく、隣町の住人だ。
父親がこの町へ向かうと言うので、それについてきたらしい。