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道化 十二夜  作者: まきの・えり
4/5

道化 十二夜 4

「いいか、努。お前には、肖像権がある。堂々としていろ。犯罪を犯した訳でもないんだから」と夫。

「はい」と努。

「じゃ、私と健は、仕事に戻る。由紀江、今日は、早く帰るから」

「はい」

 何となく、夫にそんなことを言われると、頬が熱くなる。

 夫は、私にとっては、永遠の『お殿様』だ。

 夫と健が姿を消すと、「私は、出掛ける用がありますから、由紀江さんから、よく事情を聞いておいてください。努さん、あなた、当分の間、自宅謹慎です」とお義母様が言った。

「はい。ご心配とご迷惑をおかけしました」

「じゃ、由紀江さん、お願いしましたよ」

「はい」

 私と努は、どこにしようかと迷ったあげく、努の部屋に落ち着いた。

「さっき、ワイドショウを見て、びっくりしたわ。青年実業家とあったから、てっきり健だと思った」

「兄さんは、仕事と家庭の両立で、とても、そんな時間はありません」

 そう言われれば、そうだった。

 健の恋愛も奇妙なもので、見投げしようとしているのを助けた女性と結婚したのだった。

 その女性を救うために『いないいない教』などという架空の宗教をでっちあげ、一時、日本中でかなりのブームになった。

 その宗教の創始者が、我が息子だと知った時には、空いた口が塞がらなかったものだ。

 あれも、健が努の歳の出来事。努も、そういう歳になったのか。

「さっき、お祖母様やお父様とも話していたんですが、あの純子という女性は、この家に住むために、お祖母様やお父様だけでなく、お母様にまで、お願いしたんですよね」

「そうよ。とんびちゃんが、明と会えないのが可哀相だからって」

「とんびさんが、お願いした訳ではないんですよね」

「そう言えば、そうやね」ととんびの名前が出たとたんに、大阪弁になってしまった。

「お願いとご相談が多い女性ですね」

「うん。そう言えば」

「お父様の会社にも、何度も電話があったようなんですが、大抵留守だったので、僕のマンションに、頻繁に電話がかかってくるようになったのです」

「それで、ご相談のお相手をしたというわけ?」

「だって、お母様、僕は、とんびさん同様、田代純子ちゃんのファンだったんですよ。

 エアコンの動かし方がわからないとか、メイドが毎朝起こしに来るので、プライバシーが無いとか、掃除や洗濯をさせられるとか、そんな詰まらないことを相談されるのって、結構、嬉しかったりするんです」

「あ、そう」男は、やっぱりアホなんか。

「そうですよ。可愛い女の子に相談されると、嬉しいものですよ。しかも、それが、前から憧れていたテレビタレントなら尚更です。

 で、段々と、電話では、やっぱり相談できないこともあるから、直接会って、ご相談したいって、言われたんです」

「で、嬉しかったわけ?」

「そうですね。複雑な気持ちですね。

 だって、もう、とんびさんの奥さんだし、電話ならともかく、直接会うとなると不味いんじゃないか、と思って、お祖母様に相談したんですよ。

 やめておきなさい、と言われたら、やめようと思って」

「そしたら?」

「そうしたら、『なるべく、人目の少ない喫茶店で会うこと』『聞かれたら、とんびさんとお母さんのことは、どれだけ仲が良かったか、詳しく話してあげること』というのと、『お会いなさい。ただし、スーツとネクタイを着用すること』というのが、条件だったんです」

「ええ! お義母様が勧めたの?」

 何考えてるんだ、あの方は。

「僕は、これは、お祖母様の『嫁いびり大作戦』の一環だと理解しました」

 なるほど。

「ところが、話はもっと深刻で、純子さんが言うには、とんびさんとは、仕事では一緒だけれど、擦れ違いが続いていて、どうしていいのかわからない、とのことだったんですよ。

 それと、やっぱり、とんびさんとお母様の話題も出て、あの二人は、今でも続いているのか、と心配して泣きそうな顔になっていたので、もう、慰めるしかなくて」

「喫茶店で、慰めてたわけね」

「人気スターって、もっと忙しいと思っていたんですが、案外、時間はあるものなんですね。

 電話は毎日かかってくるし、ご相談したいから会いたい、というのも、割合頻繁にあって。

 それから、あの過去の恋愛問題が発覚して、もうダメ、もう死んでしまいたい、みたいな電話で、夜中に呼び出されたり、僕も、自分が何しているのか、訳のわからない状態になってしまったんです」

「あの、まさか……」

 一線を越えたのでは……

「何を考えているんですか。それは、大丈夫でした。

 ホテル街で、気分が悪いから休みたい、と言われた時は、僕も男ですから、一瞬、フラフラーッとなりましたが、運良く、タクシーで客が降りたので、タクシーで、ここまで送り届けました。

 ここに帰ってくると、お祖母様の目が光っているので、安心ですからね」

 ふー、と安堵の溜め息をついた。

 ここで、息子までが、一線を越えてしまうと、話にも何にもなりはしない。

「あの写真は、どこで撮られたの?」

「あれは、ホテルのラウンジで、お茶を飲んだ帰りですね。まだ、最初の頃ですよ。どこで、写真を撮られていても、おかしくありませんでした、今から思えば」

「で、努の気持ちは、どうなの」

「僕の気持ちですか? そうですね。憧れてた女性だけど、女の子というのが、こんなに大変なものだとは思ってませんでしたし、疲れ切った、というのが本音です」

「好きとか、結婚したい、という気持ちは?」

「何言ってるんですか。相手は、とんびさんの奥さんですよ。

 僕は、ファンの一人として、相談に乗っただけです。

 最初、嬉しい気もしましたけど、ファンとして、ウンザリもしたし、ガッカリもしました」

「どういうこと?」

「あの人は、綺麗で可愛くて、相談上手、甘え上手で、魅力もありますけど、最終的に、幸せをつかむことのできないタイプです」

「それ、どういう意味?」

 また、こ難しいことを……

「自分のことしか考えられない人だからです。

 最初は、誰でも、虜にできるかもしれませんが、そんな人間と信頼関係を結ぶことはできないし、最終的に、人は離れていってしまいます」

「ふーん」私よりも、観察眼が鋭いかもしれない。

「たとえば、お母様なら、別れても、とんびさんの幸せを願いますよね」

「う、うん、多分」何と、ストレートな質問。

「とんびさんも、そういう人ですよね」

「うん」それは、確実に。

「けれど、彼女は、自分の過去の恋愛が発覚した時、過去の恋人とか、今の夫のとんびさんの気持ちなんか、一瞬も思いやらず、ただただ、自分の心配をしているのです」

「ふーん」そういう女やったんか。とんびちゃんも可哀相に。

「お母様、一度、とんびさんと話し合ってみた方が、よくはないですか?」

「それは、できへんわ」

「そうですか。覆水盆に返らず、ということですか」

「あ、頭が痛くなる。難しいことば、使わんとって」

「僕は、中学の時から、お母様ととんびさんの恋愛を見てきていますから、何となく、タレントとの恋愛に憧れたところもあるかもしれません」

 と言っている時に、努の携帯電話の着メロが鳴った。

「噂をすれば、彼女です」

「はい。そうですか。それは、大変でしたね。いいえ。身に覚えのないことで、責任は取れません。 いえ。僕にも社会的立場というものがありますので、これ以後、そういったご相談には乗れません。電話? それも、やめておきましょう。ええ、僕も、松本の一員ですので」

 こ、これは、お義母様に似た冷たい声。我が息子にも、その血は受け継がれているのね。

『バカー!』という金切り声は、受話器を通して聞こえてきた。

「お母様にも、ご心配をおかけしましたが、これで、一件落着です」と努が言った。

「何を言ってきたの?」

「とんびさんとの仲がダメになったのは、僕のせいだから、責任を取って結婚しろという話でした」

「えー!」

「こういう非常識なことを平気で考える人なんです。

 僕と結婚したら、松本の家に入って、贅沢ざんまいな暮らしができると思っている。

 とんびさんとの結婚では、ダメでしたからね。お祖母様に、スッカリ見抜かれてしまった」

 そうか、そこまで見抜いての『嫁いびり』だったのか。

「毎朝七時に起きて、掃除と洗濯を、とんびさん、ここに戻っている間は、ずっとやってたみたいですよ。

 メイドの記録にありますが、『見ていて気の毒になりました』という感想が多いです。

 純子の方は、朝帰り、昼帰り。それから、ほとんど帰って来なくて、僕がタクシーで送った翌日に仕事に出たまま、帰っていません」

 川上達也も、この家から仕事に通っている。

 純子は、どこに泊まっていたのだろう。

「多分、とんびさんが借りたままになっているマンションに泊まっていたんじゃないでしょうか。それとも……ま、いいか」

「何か、気分がスッキリしないんやけど」と私は言った。

「それは、お母様が、今でも、とんびさんを大切に思ってるからですよ」

「そうでもないと思うけど」そうなのか?

「でも、良かったじゃないですか。これで、とんびさん、お祖母様の地獄の掟やしきたりから自由になって」

「うん」

「けど、お母様、とんびさんは、ああいう人だから、お母様から一言、この家にいるように言ってあげないと、遠慮して出て行くような気がしますよ」

 そうかもしれないけど、私が追い出した手前、また戻って来て欲しいとは、口が裂けても言えない気がした。

「でも、それは、とんびちゃんの自由で、私の口出すことと違うし」

「お母様も、素直じゃないですからね」と努は、大人びた笑い声をあげた。

 その夜は、約束通りに早く帰宅した夫とゆっくした時間が持てた。

「努も大人になったということか」

「本当に、いつまでも、子供だと思ってたのに」


 マスコミから、『謎の青年実業家』ということばが、綺麗に消え去り、純子バッシングが始まった。

 今まで『清純派』で売っていただけに、さすがにそれは無いだろうと思う噂まで、手を変え品を変えて、登場した。

 大抵は、音声を変えた『関係者』の証言で、やれ外人と遊んでいただの、有名人には、色目を使うだの、主役を取るために、会社の重役を誘惑しただの、本当か嘘かわからない話に終始していた。

 当の純子は、どこに雲隠れしたのか、行方不明。

 気の毒なのは、努の言うように、坂田とんびだった。

「僕が至らないばっかりに、皆様方に、ご迷惑をおかけしています」と謝りっぱなしだ。

 何か言うたったらいいのに、と私の方が、ヤキモキする。

「とんびさん、やっぱり、離婚ということになりますか?」と質問が飛ぶ。

「いや、それは、本人の意見を聞かないことには、何とも言えません」

「では、純子さんが、離婚しないと言われたら、結婚を続けるつもりですか」

「はい」

 私も驚いたし、質問者の方も絶句。周囲もどよめいていた。

「純子は、可哀相な子なんですわ。あんまり、いじめんとってやってください」ととんびが、頭を下げた。

 純子と出会って以来、とんびは、頭を下げまくり。

 骨までしゃぶられてしまったみたいに、憔悴しきっている。

 私の方も、どっと疲れてしまった。

 もう、ワイドショウなんか見るのはやめよう、やめよう、と思いながら、見てしまう。

 純子が落ち目になっていくのと対照的に、我が家の客分の川上達也の方は、どんどんとドラマの出番が増えていった。

 きちんと記者会見も行い、「純子さんとは、劇団の同期の間柄で、いい友達であり、ライバルでした。僕の方は、恋愛感情を抱いて結婚したいと思っていましたが、全く相手にされませんでした」と言って、笑いを誘っていた。

「同棲していたということですが」

「そんな事実はありません。純子さんは、売れていて忙しい最中でしたし、僕の方にその気があっても、向こうに時間が無かったと思います」

 とんびちゃんといい、川上達也といい、優しいいい男やないの。

 きちんと、相手を庇って。守ってやろうとしている。

 幸せになろうと思ったら、どちらの相手でも、充分以上に幸せになれるのに、一体、何を望んでいるのだろうか。

 松本家の嫁?

 後は、五才の明を育てることだが、そんな長い時間は待てないだろうし。

「奥様、大奥様のお呼びです」

 大体、こういう生活に耐えられる性格ではないでしょうに。

 お義母様の部屋に入ると、明がいた。

「そうそう。川上達也さんが、ドラマの主役に抜擢されましたよ」

「まあ、本当ですか。それは、良かったわ」と言いながら、明がいるということは、とんびちゃんも来るのだろうか、と気持ちが落ち着かない。

「それで、今日で、ここを引き払って、自分で借りたマンションに移ることになった、というご挨拶に見えました」

「え、そうなんですか。それは、急ですね」

「今荷物をまとめているところなので、もうじき、挨拶に来られます。由紀江さん、お見送りしてくださいね」

「はい。それはもう」

 ドアがノックされて、私は、ビクッとした。

「どうぞ」と義母が言うと、最初の頃とは見違えるような、人気者オーラをまとった川上達也が登場した。

「ああ、奥様もいらっしゃったんですか」と顔を輝かされると、私も悪い気がしない。

「もう、挨拶はすみましたから、由紀江さんに見送ってもらいなさい」と義母。

「はい。色々お世話になりました。では、おことばに甘えて失礼します」と達也が言った時、遠慮がちにドアがノックされて、「坂田とんびでございます」という声が聞こえた。

「さ、あなた達は、先に行きなさい」と言われ、ドアを開け、とんびに軽く会釈すると、私と達也は、玄関の方に向かった。

「奥様にお目にかからずに、お暇するのが、本当に残念だったので、お会いできて嬉しいです」

「私の方も、こんなに、突然、出て行かれるなんて、思ってもみませんでした」

 などと和やかに話しながらも、私の全神経は後方にある。

 しばらくして、ドアがカチャリと閉まる音が聞こえたので、とんびがしばらく、後ろ姿を見送っていたのがわかった。

「とんびさんも、随分な目に会われましたね」と達也が同情するように言った。

「それから、大奥様から伺ったのですが、息子さんまで、散々な目に会ったとか?」と声をひそめて言った。お義母様のおしゃべり。

「ええ、随分、振り回されたみたいです」と仕方無く答えた。

「そのあげく、責任を取って、結婚してくれ、と言われたとか」

「ええ、まあ」

 どこまで話すんだ、お義母様。

「大奥様にも、努さんに責任を取らせてくれ、という電話がかかってきたそうですが、奥様にも?」

「いいえ」それは、知らなかった。

「僕が、もっとシッカリしていたら、とんびさんや奥様達に、ご迷惑かけることも無かったと思うと、申し訳ないです」

「いいえ、何も、あなたの責任なんかじゃありませんよ」

「僕の借りたマンションは、ここで暮らさせていただいた部屋に似たところを選びました。

 僕は、ここで、新たに生まれ替わらせていただいた気がします。本当にありがとうございました」

「本当に、主役に抜擢されて、おめでとうございます」

「ありがとうございます」

 川上達也は、最後に、じっと私の目を見ると、「握手していただけますか」と私の手を強く握って、車の方に歩いて行った。

 私は、しばらくぼうっとして、車の去って行く方向を見ていた。

「行ってしまわれましたか」と背後で声がしたので、私はギョッとして振り向いた。

 お義母様が、少し潤んだ目をして立っていて、その後方に、明の手を引いたとんびが、魂の抜けた人間みたいに、無表情に立っていた。

「由紀江さん、私も出掛ける用がありますので、後、よろしくね」とお義母様は言った。

「とんびさん、あんまり元気が無いので、何か慰めのことばでもかけてあげなさいね。何か、見ていられなくて」と小声で耳打ちした。

 うーん。こんな場合、何を言えばいいのだろう。

「とんびちゃん、何か面白いこと言うてよ」と私は、クルリと後ろを振り向くと、明るい声で言った。私まで暗くなって、どうする。

「何か面白いことですか?」ととんびの目が、一瞬光る。

 いわゆる職業病だ。

「あるところに、明君という子供を連れた、おじさんがいました」

「それ、僕? 明君て、僕?」と明。

「いいや。違うんやで。名前は同じ明君やけど、その明君には、お父さんもお母さんも、いてなかったんや」

「そのおじさんは、お父さんじゃないの?」

「うん。ただのおじさんやけど、明君が大好きなおじさんなんや」

「とんびちゃんみたいなおじさん?」

「そやな。とんびちゃんみたいなおじさんやな。明君は、一生懸命に神様にお祈りしました。『どうか、僕にも、お父さんやお母さんをください』」

「そしたら? そしたら?」

「最初は、神様は、何にも言うくれはらへんかったんやけど、あんまり明君が一生懸命に、毎日毎日お祈りするんで、とうとう、ある日、『お前の願いを叶えてやろう』て、言わはったんや」

「それで、お父さんとお母さんが生まれたの?」

「生まれたんとは違うんやけど、明君には、ほんまにいいお父さんとお母さんができたんや」

「明君は、嬉しかった?」

「明君は、とても喜びました。毎日毎日、お父さんとお母さんと、幸せに暮らしました」

「それから?」

「それで、お終い」

「とんびちゃん、全然面白くないわ」と私は言った。

「おじさんは、どうなったの? 明君が大好きなとんびちゃんみたいなおじさんは?」と明が、傍目にもわかるほど、必死になってたずねた。

「ああ、そのおじさんな。神様が『こんなものは、もういらんやろ』て言うて、ポイとゴミ箱に捨ててしまいましたとさ」

 ワーン、と明が泣いたので、私まで泣いてしまった。

「ダメだ。とんびちゃんを捨てたらダメだ。神様のバカー!」と明は、ボカボカと小さな拳で、とんびを殴っていた。

「痛い、痛い。神様のバカやなんか言うたら、バチが当たるねんぞ」と言いながら、とんびも明を抱いて泣いていた。

 努の言う通り、とんびは、この家を出て行こうとしていた。

「僕は知ってるねんぞ」と明が突然大阪弁を話したので、私もとんびも同時にギョッとした。

「とんびちゃんが、僕のお父さんやということぐらい」

「な、な、何で知ってるんや」と動揺しまくるとんび。

 私は、内心、それでいいと思った。

「そやかて、僕もとんびちゃんやお母様みたいなことばを話せるからだよ」と関西弁と関東弁のチャンポンになってしまっている。

「そうか。明君も、お母様と同じ、バイリンガルやったんか」

「知らなかった?」

「知らんかったわ」

「だから、お父さんやと思ったわけさ」

 うーん。単純な理屈だけど、真理をついているかもしれない。

 しかし、このまま、この変な大阪弁と東京弁のチャンポンを使うと、大阪にいても東京にいても、文化摩擦を起こす、と母は心配した。

「お母様」と明が私を見た。

「他の人の前では、使わないし、このことは秘密にするから、心配しないで」

 ほんまに、うちの子供は、みんな、父親の方の遺伝を受け継いで、頭がいいというか、シッカリしているというか、と思いかけて、明は、とんびの子供だったことを思い出した。

 子供の知能というのは、遺伝ではなくて、環境か、とつい思ってしまった私だった。

「だから、とんびちゃん。僕のお父さんなんだから、絶対に、ゴミ箱に捨てられちゃダメだよ。わかったね」

「……」ととんびには、返すことばがない。

「とんびちゃん、私からもお願いするわ。明のお父さんとして、ずっとここにいてやって。とんびちゃんが、いやにならない限り」と私も、素直に言ってしまった。

「僕からもお願いする」と明のお願いは、命令に近い響きがある。

「けど、もう、お義母さんには、出て行きます、て言うてしもたし」

「お義母様は、承知せえへんかったでしょう?」

「……うん。というか、今度出て行けば、二度と明には会えませんよ、て言われた」

 さすが、お義母様、とんびちゃんの一番痛いところを、よく知っている。

「けど、何か、自分に、いや、奥様に悪いような気がして。僕なんかが、ここにいたら」

「いたらいいやんか。明のお父さんやねんから」

「ありがとう。すまん。いや、どう言うていいかわからへんわ」

「色々、とんびちゃんも大変やったけど、元気出しいや。私で良かったら、相談にも乗るし」

「ありがとう。自分に、そんなこと言うてもらえるとは、思わへんかった。ほんまにありがとう」

「はい。仲直りの握手」と明が言った。

 私ととんびが、突然のことで、金縛りに会っていると、明が、二人の手を持って、握手させてくれた。

 二人で、変に照れていると、明が言った。

「これで、また、恋人同士」

 お互いに、慌てて、手を離したのは、言うまでもない。

「とんびちゃん、何、明に変なこと教えてるんよ」

「ちゃうわ。誰も、そんなこと、教えてへんわ。ほんまに、もう誰や」

「お祖母様」と明。

「ええ!」と二人で同時に驚いてしまった。

「男の人と女の人が、とても仲良しになることを、恋人同士になるって言うんだって。だから、僕とお母様も恋人同士」

「何言うてんねん。明君は、男の人と違て、男の子やないか。それに、お母様と息子は恋人同士にはなれないの」ととんびが、ムキになって言ったので、明は、ワーンと泣いた。

「とんびちゃんなんか、神様にゴミ箱に捨てられたらいいんだ」ワーン、とさっきとは別人になった明だった。

「もう、大人気ない」と私は、言った。

「そやかて、つい動揺して」ととんび。

 この日は、何となく、ぎくしゃくしながらも、純子登場前の二人に戻ったような感じだった。


 さて、これだけの大騒ぎを起こして、周囲に混乱の渦を巻き起こした当の純子は、ほとぼりの冷めた頃に、マスコミの前に姿を現して、『婚約発表』の記者会見を行った。

「婚約発表て、どういうことやのん? もう、あのとんびたらいうんとは、離婚したんかいさ」と母から、毎度の電話がかかってきたのは、言うまでもない。

「私かて、知らんて」

「あんたが知らん訳ないやろ。まだ、とんびたらいうんは、残ってる訳やろ?」

「あのね、お母ちゃん。うちは、物凄く広いんやから、どこで誰が何してるんかなんか、全然知らないの。

 それに、いつも言うてるように、全部、松本とお義母様の決めはることやから、嫁の私は、大抵、何も知らんのよ」

「そうか。あんたも大変なんやな。それやったら、テレビ見てる方が早いいうことやな」

「そやで。私かて、テレビ見て、初めて、ええ! て思うんやもん」

「そうか。それやったら、テレビ見るわ。あんたも見いや」

「はいはい」

 左手の薬指に燦然と輝く1.5カラットのダイヤモンドの婚約指輪。

 その横に座っているのは、いかにも気の弱そうな、総合病院の跡取り息子。

 誇らしげな表情の女王様と、精も根も尽き果てた風情の眼鏡をかけた下僕といった雰囲気だ。

「結婚式のご予定は?」

「来月です」

「それは、急ですが、出来ちゃった婚ですか?」

「ご想像におまかせします」

「新婚旅行は、どちらへ?」

「それは、ひ・み・つ・です」

「坂田とんびさんとの結婚は、解消されたと考えて、よろしいのでしょうか?」

「あの結婚は、無効でした」

「と申しますと?」

「いずれ、手記の形で、発表しますので、それまでは、ひ・み・つ・です」

 最後まで、純子の婚約者は、しきりに額の汗を拭う以外、一言も言わなかった。

 何となく、婚約者に気の毒な感じのする婚約発表だった。

 だが、またしても、可哀相なのは、突然、『結婚無効宣言』をされた坂田とんびだった。

「いやー、憧れのバツ一になり損ねてしまいました」と笑いを取ろうとしても、誰も笑ってくれなかった。

 もう、それまでに、既に、とんびは、日本中の笑い者だった。

 結婚したばかりの妻の過去が暴かれ、妻に浮気され、妻に雲隠れされ、各方面に頭を下げまくる日々。

 それでも、自分の一存では離婚しない、と言っていた当の妻から、『結婚無効宣言』を出された男。

 これ以上、哀れな男はいないということで、自分の番組のスタッフ一同から、『日本一哀れな男大賞』を受賞した。

「純子さんとの結婚は無効だと、当の純子さんが言っておられますが、どういったことなんでしょうか?」

「それは、純子ちゃんに聞いてみないとわからないことなので」と失笑を買う。

「大病院の院長の息子さんと結婚なさるということですが、そのことに対しては、どうお考えですか?」と質問の矢は厳しい。

「いや。僕は、純子ちゃんさえ幸せになってくれたら、それでいいと思ってます。純子ちゃん、婚約おめでとう」

「腹が立たないんですか!」と純子を庇って、各方面に頭を下げ続けているとんびの姿を知っている質問者の方が、興奮してしまっていた。

「いやもう。腹を立てるより何より、純子ちゃんが落ち着いて幸せになってくれたら、別に、僕としても幸せやし」

「お前は、アホか」と質問者は、大阪出身者だった模様だ。

「これだけコケにされて、純子ちゃんが幸せになってくれたらいいやと? お前は……」というところで、質問者は、画面から消えた。

 CMに切り替わり、『番組中、お見苦しい個所があったことを、お詫び申し上げます』というテロップがCMの後で流れた。

 この記者会見で、坂田とんびは、『日本一アホな男大賞』も受賞した。


「あんたが聞いたら笑うやろけど」と母が電話をかけてきて言った。

「私、何か、とんびたらいうん、可哀相になってきたわ」

「そやな、可哀相やな」と私。

「それでな、山本さんや秋田さんとも(誰やねん、それは!)言うてたんやけど、私ら有志で、『坂田とんびを励ます会』いうんを作ってやな、皆で寄せ書きすることになったんやんか。で、どこに送ったらいいか聞こう、思うて電話したんや」

「それは、テレビ局に送ってあげたらいいんと違う?」と言って、私は、テレビ局の住所と宛先を教えた。

「『坂田とんび様』て書いてあげたら、喜ぶと思うよ」

 あの母が可哀相に思うのなら、きっと、日本中の人が可哀相に思っているに違いない、という気がした。

 最低な賞をダブル受賞したにも関わらず、とんびの人気に陰りは無かったからだ。

 だが、田代純子が手記を発表した辺りから、風向きが変わってきた。

「『坂田とんびを励ます会』は、解散したわ。やっぱり思った通りの、タチ悪い男やったんやないの」と母からの電話でも、それは、伺える。

『私は、まだ、二十歳でした』から、純子の手記は始まっていた。

『自分で言うのも何ですが、その頃は、人気急上昇中の女優でした』


 私にとって、坂田とんびさんは、憧れの先輩でした。

 ドラマに共演するという話に、飛び上がって喜んだことを覚えています。

「坂田とんびさんですか? 私、ファンなんです」

「田代純子ちゃん? 僕も、ファンです」

 最初の出会いでは、意気投合したことを覚えています。

 でも、坂田とんびさんと言えば、日本中の誰でもが知っている『日本一下半身のだらしない男』という噂もありますので、必要以上に親しくするのは、避けようと思っていました。

「ディレクターも一緒やし、いいやないか」と強引に飲みに誘われたこともありましたが、何とか断って、家に帰りました。

 私には、仕事仲間はいても、特定の男友達は無いけれど、坂田とんびさんには、恋人がいることを知っていたためでもあります。

 でも、ドラマの中では、恋人同士の役ですし、相手は、芸能界では知らない人のいないぐらいの有名人。

「一緒に、僕のマンションで、本読みしよう」としつこく誘われて、断る勇気は、私にはありませんでした。

 練習しているうちに、とんびさんの様子が変になってきて、「今日は、ここまでにしましょう」と逃げるように、マンションから出た時が、最初の『熱愛発覚』のスクープでした。

「もう、僕からは逃げられへんで」というとんびさんのことば通り、私は金縛りに会ったように、とんびさんに振り回され、次々とマスコミを賑わすようになりました。

 その結果、「お前のお蔭で、恋人とも別れることになった。全部、お前のせいや」ととんびさんに責められ、ある時、「もう、結婚したから、逃げよう思っても無駄やで」ととんびさんに言われ、とんびさんが私に内緒で、結婚届けを偽造して、提出していたことを知りました。

 私は、世慣れたとんびさんとは違って、世間知らずの二十歳の娘。

 もう、仕方がないと覚悟を決めましたが、そんな私を待っていたのは、生き地獄のような生活でした。

 あろうことか、とんびさんは、私を元彼女の住んでいる家の離れに住まわせて、その家のメイドを手懐けて、芸能人にとっては辛い、朝の七時に起きて、掃除や洗濯をしてから仕事に行くという生活を強要したのです。

 今から思えば、私を愛する余りの仕打ちだったとも思うのですが、それは、本当に、地獄のような日々でした。

 唯一、私が、誇れるのは、とんびさんの劣情に、一度として屈しなかったことです。

 とんびさんの仕打ちは、私の純潔を守ろうとする強い意志に対してのものだったのだと思います。

 殴られたり蹴られたりしても、私は、自分の純潔は守り抜きました。

 そして、仕事にかこつけては、帰る時間を遅らせたり、とんびさんの仕事のある時にしか帰らなかったりと、苦労を重ねた末、今の彼と巡り合い、地獄のような日々と決別することができたのです。

 法律の専門家の助けを借りて、とんびさんが偽造した『結婚届』は、同一人が署名した物であることが証明され、無効だと認められました。

 今では、とんびさんの愛情をあり難く思うばかりで、恨む気持ちは、ありません。

 また、そのお蔭で、今の彼と巡り合い、本当の愛情とはどういうものか、ということも学ばせていただきました。

 大切な先輩である坂田とんびさんを非難するつもりなどは、全く無く、ただ、事実をありのままに知っていただきたい一心で、この手記をしたためました。


 母と同様、私まで、『坂田とんびたらいうんは、何ちゅうヒドイ男や!』と思った。

 うまい。

 うますぎる。

 実際に、とんびを知っている私でも、『ほんまは、そうやったんやないか』と思わせてしまうぐらい、うまい。

 それだけに、これは、ひどいとも思った。

 実際に『坂田とんびを励ます会』が出来たのよりも、もっと早いペースで、全国的に、『坂田とんびを弾劾する会』が結成されつつあるようだった。

 この手記のお蔭で、とんびは、『最低の中でも最低男大賞』を受賞した。

 最低トリプル受賞は、過去にも例がないらしい。

「とんびさんが、あれだけコケにされていても、純子さんを庇った理由が、これで明らかになりました」ということになってしまった。

『純子さんを励ます会』も各地に結成されたが、これは、純子にとっては、迷惑だったに違いない。

 お義母様も言う通り、「彼女の目的は、今回の玉の輿を成功させることですね」だったからだ。

 純粋無垢な処女、可哀相な犠牲者を装うつもりだ。

「とんびさんは、とんだ貧乏クジを引きましたね」

 とんだ貧乏クジどころではない。

 全国各地の婦人団体やら、フェミニズム関係者、動物愛護団体からも非難を受け、坂田とんびは、レギュラー番組を次々と下ろされ、芸能界の孤児になりつつあった。

 それだけではなく、公文書偽造の罪、ドメスティック・バイオレンスに、女性の監禁など、ありとあらゆる非難を受けていた。

「どないするんよ、とんびちゃん」と私の方が気が気ではない。

 仕事の無くなったとんびは、毎日、自分の暇がある時ではなく、明の暇のある時に、明と遊んでいる。

「な。そやから言うてたやろ。

 僕の人気なんてもんは、いつどんな時にでも、風に乗って、飛んで行ってしまうもんやて。

 そんなもんは、はかないもんや」と悟ったようなことを言っている。

「けど、あんな嘘を、日本中の人が信じてるんやで。悔しいと思わへんの」と私は、以前、画面から引っ込められた、テレビのレポーターみたいになって言った。

「世界中の人が、あの話を信じたかて、自分が嘘やと思ってくれるんが、一番嬉しい」ととんびは言った。

 クソー。女泣かせめ。

「そやかて、とんびちゃんが、そんな人間やないことぐらい、誰にでもわかるやんか」

「けど、一緒に仕事してた人間、僕が人気者やった時は、友達やった人間、今は、あの話、全員が信じてるで」

 明は、とんびに、『高い高い』をしてもらって、キャアキャアと喜んでいた。

「坂田とんび」と私は言った。

「何で、反論して、本当のこと、言わへんのよ」

「そんなことしたら、純子ちゃんの、ようやく掴んだ幸せを壊すことになるやないか」

 アホや。この男は、アホや、と私は思った。

 男は、アホやと思っていたけど、これは、その限度を越えたアホや。

「そんなに、純子ちゃんが、大事なん」と私は、絶望的な気持ちで言った。

「そやで」ととんびは、答えた。

「これは、あの子の最後の賭や。これに失敗したら、あの子は、ほんまに転落していくしかない」

「そうか」とここまでは、冷静に言えたけど、「自分のまいた種で、転落していくんやったら、転落したらいいやない!」と思わず、感情を高ぶらせてしまった。

「ま、最後の賭やねんから、見守ってやらな」

 私は、それを聞いて、もう無くなったと思っていた嫉妬の残りで叫んだ。

「とんびちゃんなんか、男やないわ。女の腐ったのて言うのも、女に失礼やわ。

 最低中の最低。そのまた、下の最低やわ!」

「ええて。そんな賞は、トリプル受賞したんやから。

 けど、あの賞も、人間用のものやから、僕みたいな『ケダモノ』にはやれん、言うて、全部、取り消しや」

 公文書偽造の件にせよ、誘拐やらDVの件にせよ、とんびは、何度も警察や官庁に呼び出しを受けたが、完全に黙秘し通した。

 あのしゃべりのとんびの黙秘は、私にはこたえた。

 それだけ、純子のことが大事だと思えたからだ。

「これは、完全に、クロに近いダークグレーというしかありませんね」とマスコミの方も、今や、社会的に抹殺されてしまった、坂田とんびには、もう余り関心を示さなかった。

 それと反対に、社会的弱者であり完全な被害者である、田代純子には、非常に温かい目が注がれ、かつての純子バッシングが嘘のようだった。

 田代純子改め、加納純子の結婚式は、全国生中継、その時間帯は、ケーブルテレビを除いては、どのチャンネルを回しても、角度を変えた結婚式中継だった。

 新郎が何度か倒れるというハップニングはあったけれど、とても荘厳で美しい結婚式だった。

 私は、とんびのいる離れで、とんびと並んで、テレビを見ていたが、途中で、とんびが、手の甲で涙を拭うのを見逃さなかった。

「あー、良かった」ととんびが言い、「良かったな、とんびちゃん」と私は、言った。

 私ととんびとの仲は、明のお蔭もあって、とんびのいる離れで、一緒にテレビを見るところにまでは、回復したけれど、それ以上に回復はしなかった。

「じゃ、まあ、これで、純子ちゃんは、幸せへの第一歩を踏み出せて良かったな」と言って、私は、とんびの部屋を後にした。


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