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道化 十二夜  作者: まきの・えり
3/5

道化 十二夜 3

「ま、辛抱しいや。松本さんや、お姑さんの言わはる通りにしてな。女は、辛抱やで」という結論で、母からの電話は終わった。

 今までは、うるさいだけの母からの電話だったが、これまでの人生を走馬燈のように蘇らせる効果はあった。

 また、初めて、父が亡くなって以来の、母の孤独を思った。

 そんなこと、今までに一度も考えてみたことはなかった。

『玉の輿』に乗った自慢の娘が、裕福に幸福に暮らしているというのが、母の孤独を和らげていたのかもしれない。

 四十にして、ようやく、自分以外の人間のことにも思いをはせる。

 私という人間は、自分のことしか考えていない『自己中』人間かもしれない、と初めて思った。

 神様、遅すぎるでしょうか?

 とんびとの『熱愛発覚』の後、黙って離婚届けを差し出した夫の顔が蘇る。

 それまで知っていた、自信に満ちた顔では無かった。

「私は、どこか間違っていたんだろう。一番愛し信頼していた人間に去られるということは」と夫は言った。

「子供達も大きくなり、いざ、君と向かい合ってみると、気のきいた言葉の一つも出てこない。

 ビジネスは、得意だけれど、恋愛は苦手でね。

 今度生まれ替わる時には、とんび君のようにしてもらおう」と言って、夫は笑った。

 孤独な笑い声だった。

 私は、その瞬間まで、夫にとっては、自分は取るに足らない人間で、話すに足る何も無く、子供達の母親であるだけの、ただただ、詰まらない存在だと思っていた。

 母が思ったように、私にとっても、夫というのは、雲の上の存在。自分の手の届かない存在。ただただ、仰ぎ見るしかない存在だった。

 それが、その瞬間に、私がいる同じ地面にいて、同じように喜んだり悲しんだりする、生身の人間だということがわかった。

 私にとっては、これ以上の、愛の告白は無く、また、今までの自分の人生が、確実に意味を持った瞬間でもあった。

 私は、自分の意志で、坂田とんびとではなく、夫と人生を共にすることを選んだ。

 生活は、今までと同じだったけれど、それに、意味ができた。

 夫は、私を愛し、必要としている、という。

 カルチャーセンターに通うのにも、別の意味ができた。

 暇つぶしではなく、自分の教養を養うという。

 夫と対等に向かい会えるように、自分を高め向上させていこう。

 事件のことは、表沙汰にはならなかったけれど、知っている人もいるかもしれない。

 坂田とんびが、屋敷に侵入し、私の心変わりを責めに来たあげく、偶発的に、私を刺してしまった事件だ。

 あと、二センチぐらいずれていたら、心臓を一突きだったらしい。

 あの時は、こういうのも運命か、愛し愛されたとんびに刺されて死ぬのなら、本望かもしれない、などと思ったものだ。

 収容先の病院で、とんびの子供を妊娠しているのがわかり、年齢的に、即中絶する決断をした私に、とんびが、「生んでくれ」と懇願して、生まれたのが、明だった。

 明、そんなことを考えたお母さんを許してちょうだい。

「とんび君が、そう言うのなら、生んであげたらどうだ」と言う夫の言葉は、意外中の意外。

 そして、夫ととんびは、なぜか、私の知らないところで意気投合。

 お義母様が、坂田とんびの隠れファンだったのも、影響したのかどうかまでは知らないが、とんびは、妻妾同居ならぬ、夫恋人同居状態で、我が屋敷の離れに、客人として、住むことになった。

 客人+明の父親として。

 多分、松本家のマスコミ対策でもあったのかもしれない。

 松本家の敷地内は、日本でのアメリカの軍隊同様、治外法権の場。

 下手に写真でも撮ろうものなら、肖像権の侵害で、お抱え弁護士が訴えを起こす。

 敷地内に一歩でも踏み込めば、不法侵入で警察のご厄介になる。

 また、松本家に忠誠を勝手に誓っているヤクザ組織とか、恩義を感じている会社の創業者などもいて、『松本に手を出すと、大変なことになる』らしい。

 思えば、大変な家に嫁いだものだが、お蔭で、とんびちゃんのことなどは、半ば、公然の秘密なのに、正式に取り上げる勇気のある出版社も新聞社もテレビ局も無かった。

 ただ、ネタに困ったとんびちゃんが、少しずつもらすという形で、全国に広まってしまっただけの話だ。

 テレビを見ていると、『松本』という個所には、必ず『ピー』という音が入る。

 で、とんびちゃんも、調子に乗って、「これは、ピーの話なんですが」とネタにするという訳だった。

 中でも有名な、私ととんびちゃんの『熱愛発覚』を最初に報道した、老舗に近い写真週刊誌は、『報道の自由』を旗印にして、『松本』の名前は、さすがに出さなかったが、『坂田とんび 近影』として、望遠レンズで、私ととんびちゃんの写真を、『大公開』した。

「ふーむ。これは、高性能の望遠レンズですね。どこか、遠くのビルの屋上で、ずっと待機していて撮ったものでしょう」とお義母様が、言っていた。

 失礼な話だが、私の目の回りは、まるで汚れたもののように、黒く塗り潰されていた。

「わ、きしょー、わ、目茶きしょー。これて、未知の病原菌に汚染された患者の写真やないか」ととんびは騒ぎ、また、それを話のネタにした。

「こんな失礼な掲載の仕方は無い」と写真週刊誌なんかには、何の関心も無い夫も憤慨し「この根気は、買ってあげてもいいのですがね」とお義母様も溜め息をついた。

 その写真週刊誌が廃刊になったのを、私が知ったのは、かなり後のことだった。

 広告が激減したのが、原因のようだ。

 時代がもう、写真週刊誌ごときに興味を示す時代でも無くなったせいもあるだろう。

 戦争が起こり、テロが起こり、信じられないような事件が起こり続けているのだから。

 そして、我が家でも、夫公認の妻の元恋人が、現在の妻を連れて、同居するなんていう、信じられないような事態が進行している。

 私が、写真週刊誌の親玉なら、廃刊してもいいから、載せたい記事だろう。


「奥様、大奥様がお呼びです」とメイドが言った。

 また、何か事件でも起こったのだろうか、と部屋に伺うと、女性が三人立っていた。男性も一人いて、座っていた。

「ささやかなファッションショウです」とお義母様が言った。

 ファッションショウ? 家の中で?

「私の分はすみましたから、あなたの服をお選びなさい」

「あなたと同じサイズのモデルさんに来てもらいましたから」

 ヒエー。目が回る。

 三人のモデルさん達は、入れ替わり立ち替わり、普段着から外出着までを着て、登場して、くるりと回って引っ込んだ。

 お選びなさい、と言われても、こんな服の選び方をしたことがないので、どうしていいのかわからない。

 全般に趣味のいい服ばかりだというのはわかるのだが。

 私のいつも選ぶ服は、超庶民的なものばかり。

 根が庶民なので、服にあんまり高いお金をかける気がしない。

「あ、今のをもう一度見せて」とお義母様のすることを見ているだけの私。

 座っている私の足の型を男の人が計っている。

 男の人がいるのに、今度は、下着のファッションショウになった。

 下着は、バーゲンの時に買う私。実は、バーゲンセールが大好き人間。

「これは、私からのプレゼント」とお義母様。

「ありがとうございます」とお礼を言った。

 お義母様は、下着や服だけでなく、靴までプレゼントしてくださるようだ。

「この下着は、身体の線を美しくするんですよ。身につけてみたら、驚きますよ」とお義母様。

「由紀江さんの部屋に伺っても、よろしいかしら」

「は、はい」掃除は、メイドがしてくれているので、綺麗なはずだが、何となく、自分の部屋を見られるのは、恥ずかしい気がする。

 三人のモデルさんと靴屋さんが、沢山の服や下着を持ち、お母様は、綺麗な箱を持って、私の部屋に来た。

「ご苦労様」と四人の部外者を帰すと、「服は、ご自分で仕舞ってくださいね」と言った。

「はい」

 私を鏡の前に座らせると、お義母様は、持って来た箱を開けて、眉のカットの仕方とか、お化粧方法を教えてくれた。箱の中には、化粧道具一式が入っていたのだ。

「これは、プロのメイクアップ・アーティストに譲ってもらったものなの」

 この間の和装用の化粧よりは、自然に近いが、何と、最近気になっていた目尻のしわが綺麗に消えた。

「丁寧にお化粧すれば、十才は若返って見えますよ」とシャドウを入れてくれた。

「それに、これは、肌にもいい化粧品なの。石鹸で綺麗に落ちます。この間のは、少しきつい化粧品でしたけど」

 何となく、洋装でも負けないように、との心尽くしか、と感謝した。

「オホホ、私らしくもないことをして、驚いたでしょう」

「いいえ。本当にありがとうございます」

「とんびさんといた時の、あなたは、こんなお化粧品に頼らなくても、充分若々しくて、綺麗でしたよ。でも、今手入れしておくと、十年後二十年後が違ってきます」

「はい」

 お義母様は、すーっと滑るように歩いて、ドアから出て行った。

 私は、ドアに向かって、頭を下げた。

 そして、あの歩き方を真似しようとやってみたが、無理だった。

 お義母様のプレゼントをクロゼットに仕舞いながら、何ていい手触りの服だろう、と思った。

 下着も私の昔の友達が売りに来た補正下着に似ていたが、生地がもっと良さそうだった。絹のショーツやストッキングまである。

 きっと、値段を聞くと、母や私が目を回しそうな額なのだろう。

 折角、十才も若返ったのだから、下着も身につけてみた。

 おお! 

 バストアップにヒップアップ。

 背中のラインが、自分でも惚れ惚れするぐらいに綺麗だ。

 最近、せり出し気味の腹部も、見事に収まっている。

 しばらくは、若返った下着姿で、鏡の前を行ったり来たり。

 ドアがノックされ、「奥様、坂田純子様が、ご相談があるということですが」とメイドが言った。

「リビングで待ってもらって」と私。

 超能力者のお義母様、こういう事態を想定していた?

「それが、奥様、大奥様のしきたりで、坂田様達は、離れから出入りするようにとのことになっておりますので、リビングを使用することはできません」

 新たな掟だな、と私は思った。

「では、会える場所がありませんね」と私は、内心ホッとして言った。

 十才若返ったと言っても、三十才。二十歳に比べれば老けている。

「離れの方に来ていただきたい、ということなのですが」

 私に離れまで行って、相談に乗れ?

「お断りしてください」とかなり冷たい声になった。

「かしこまりました」とメイドは引き上げた模様だ。

 折角の若返りの楽しい気分が台無しになった。

 しばらくすると、内線電話が鳴った。

「はい」と冷たい声で出ると、「私ですよ」とお義母様だった。

「私もとんびさんに久し振りに御挨拶したいので、明と一緒に行ってみませんか?」

「わかりました」と私。

 気が進まないけれど、お義母様に言われると断れない。

「私の離れからは、すぐですから、まず、私の所にいらっしゃい」

 という訳で、明を連れて、お義母様の後について行くことになった。

 お義母様の滑り歩きが、ウキウキしている。私の気も知らないで、とんびちゃんに会えるのが、よっぽど嬉しいようだ。

 コンコンとドアをノックすると、すぐにドアが開いて、純子の方が顔を出した。

「まあ、お義母様」と驚いている。部屋の奥の方に、生気の無いとんびがうずくまっていた。

「純子さん」とお義母様は、私と明が思わず、後ずさるような怖い声で言った。

「あなたに『お義母様』などと呼ばれる筋合いはありません」

「では、どのようにお呼びすればよろしいのでしょうか」と純子も負けてはいない。

「私のことは、大奥様、こちらの方は」と私を差して言った。

「奥様とお呼びなさい。わかりましたね」

「はい」

 うー、怖い。お義母様、怖すぎます。

 部屋に入ると「とんびちゃーん」と言って、明がとんびに抱きつき、「明君」ととんびが明を抱き締めて、かなり雰囲気は和やかになった。

 まさか泣いてるんじゃ、と思ったら、案の定、とんびは、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。

「とんびちゃん、僕に会いたかった?」と明。

「うん。明君に会われへんで、ものすご、ものすご、淋しかった」ととんび。

「僕もー」

 二人が転げ回って遊んでいると、女三人が残された。

「ま、お掛けなさい」とこの離れの主のように、お義母様が言った。

 私は、腰掛けて、とんびちゃんと明を見ていた。

「メイドに聞きましたが、何か、私に相談があるとのことですが」とお義母様は、メイドに言うよりも、遙かに高いところから話している。私には、真似できない。

 目の端で、純子が、チラチラと私の方を見ているのがわかる。私が、言いつけたのだと思っているのだろう。

「はい。私はいいのですが」と純子が言った。

『私はいいのですが』と誰かが言う時は、大抵、『私はよくない』時に決まっている。

「坂田と明君」と純子が言ったとたん、「明様とおっしゃい」とお義母様がピシャリと言った。

 う。怖い。

「松本の息子を、あなたに『君』づけで呼ばれる言われはありません。それから、とんび

さんとおっしゃい。彼は、うちのお客様でもあった人です。外では何と呼ぼうと、あなたの自由ですが、この屋敷内では、とんびさんと呼んでいただきます」

「とんびさんと明様が会う時間を決めてしまわれると、仕事の関係で、滅多に会えなくなってしまうことになります」

「それは、明ととんびさんの問題で、あなたの口出すことではありません」

「それから、プライバシーの問題があります。

 朝の七時になると、メイドさんが鍵を開けて入って来て、私達を起こして、掃除や洗濯をさせるんです。それって、メイドさんの仕事なんじゃありませんか。

 お家賃だってお払いしているのですし」

 オーッホッホッホ、とお義母様は笑った。

「何か、心得違いをしておられるようですね。

 この一等地で、この間取り、しかも、外部からのプライバシーは完全に守られています。

 とんびさんへの好意での値段だったのですが、二十万にいたします。

 申し上げておきますが、こちらでは、離れを借りてくださいと言ったことは、一度も無いんですよ。

 あなたが、どうしても貸してくださいとお願いされたので、仕方無くお貸ししたまでのこと。

 また、メイドは、私共のメイドであって、あなたのメイドではありません。それもお忘れ無く。

 七時起床、自分達の汚したものは、自分達で始末する。それが、我が家のしきたりです。

 メイドが、他の部屋の掃除や洗濯をさせたのなら話は別ですが、自分が汚したものなんじゃありませんか?

 メイドに起こされなくても、七時に起床して、掃除や洗濯が出来るのであれば、メイドも余計な仕事をしなくてもいいのですよ。

 自分で自分のこともできずに、呼び出して苦情を言うなんて、最近の若い娘には、呆れますね」

 とんびが、明の手を引いて、ふらふらと歩いてきたので、私はギョッとした。

 私の顔を悲しそうに見ている。

 そして、両手を合わせて拝む真似をした。

「何してんの、とんびちゃん」と思わず、私が言ったので、義母もとんびの方を見て、ギョッとしたようだった。

「何の真似です、とんびさん」

「大奥様や奥様には、会わせる顔も無いのに、無理聞いていただいて、ほんまに感謝してます」ととんびは、土下座した。

 明も真似をして、土下座した。

「およしなさい、とんびさん」と義母は、とんびの前に座った。

「いえ、本当に申し訳ない。

 きちんと七時に起きて、掃除も洗濯もします。

 純子ちゃんは、僕のため思うて言うてくれてるんで、あんまりきつう叱らんとってやってください」

 ふと、目の端に涙が浮かんだ。

 そうだった。こういう優しい男だった、と思った。

 坂田とんび、愛妻を庇うの図。

「とんびさん、あなたは、今まで通り『お義母さん』とお呼びなさい」と別人のように、優しい声になったお義母様。

「私の離れにも、遊びにいらっしゃい」

「はい。ありがとうございます」

「私は、アカの他人に邸内をうろうろされるのはイヤなんですが」と鬼の声で純子を睨み、「とんびさんは、身内のようなものですから」と仏の声でとんびに言った。

 お義母様、俳優になっても成功なさいました。

「私の部屋でなら、時間外でも、明に会わせてあげられますよ」

「ほんまですか。ありがとうございます」ととんび、再び土下座。

 明の方はさっき土下座したままだ。そのまま寝てしまった模様。遊び疲れたのだろう。

 お義母様が、ポンポンと手を叩くと、メイドが現れ、明を抱いて行った。

「では、私達は、これで失礼します」

 お義母様の後をついて歩きながら、私は、心の中で、ポンと手を叩いた。

「じゃ、由紀江さん、ごきげんよう」とお義母様は、上機嫌。

 そうか。あの嫁いびりは、お義母様なりの嫉妬の表現だったんだ。

 ただ単に、私を贔屓したのではなかった。

 いびった末に、うまいこと、とんびちゃんだけを自分の部屋に招く口実も作った。

 お義母様は、戦略家。

 きっと、私の数十倍、いや、数百倍、頭がいい方なのだ。


「あんた、どないしたん」と母からの電話で、喫茶店で待ち合わせをすると、私を見た母は、前から後ろから、私を眺め回した。

「無茶苦茶、綺麗になって。物凄く若返ったやないの」

「ほんま?」とちょっといい気分だ。

「それに、えらいいい服着て」

「お義母様からのプレゼント。ほら、この靴もあつらえてもらったの。お化粧道具とか香水もいただいたし」

「へえ。あのお義母さんが。やっぱり、とんびたらいうヤクザなタレントと別れたからやで」と母は、何でも、とんびのせいにする。

「それで、どうなん? 押し掛け夫婦は」と母は好奇心旺盛だ。

 私は、声をひそめて、「お母ちゃん、ここだけの話やで」と言って、お義母様の嫁いびりの一件を、もっと誇張して話してあげた。

 母は、「うわー」「うわー」「嘘ー!」と言って聞いている。

「お義母さんも、やらはるなあ」

「私もビックリした」

「あんた、よう、いびられへんかったなあ。ま、気にいられての話やったもんなあ」

「そやねー。私には、ほんまに、ようしてくれはる」と母が心配するといけないので、本当は、いびっていたらしいが、私が気がつかないのでやめた、という話はしなかった。

「それやったら、今日びの若い女は、すぐ尻尾巻いて、逃げて行くわ。あんたも、気分がスッとしたやろ」

「まあね。けど、ちょっと怖かったけど」

「そら、現場にいたら、怖いやろなー」と母は、ブルブルと震えた。

 後は、大好きな歌手の喜多村一朗の話題で、母は、唾を飛ばしながら、しゃべり散らしていた。

「まだ、生きてはったんやなあ」

「何言うてんの。まだ、現役バリバリやで。中々大阪でコンサートしはらへんから、それが淋しいわ」

「お母ちゃん、新幹線代プレゼントするから、東京まで行ってきいや」

「それがやなあ、秋田や青森で、コンサートしはんねん。元々東北の人やしなあ」

「そうか。それは、遠いなあ」

「そやねん。遠いねん」

「私、飛行機代プレゼントする」

「いややで、私、飛行機なんか乗るん。あんな鉄が空飛ぶんなんか、何か危ない」

「私もお母ちゃんの子やなあ。そう言うたら、まだ、飛行機乗ったことないわ」

「そやろ? 絶対危ない気がするやろ?」

「きっと、お母ちゃんの影響やな」

「けど、何やの、今日は、プレゼント、プレゼントて」

「そやかて、お義母様に、いっぱいプレゼントしてもろたから、お母ちゃんにも何かプレゼントしよかと思って」

「あんたな、それは、お義母さんにお返しするもんやで」

「そんなこと言うたかて、何でも持ってはるもん」

「そういうたら、そうやなあ。それやったら、何か作ってあげたらええやん」

「私、そういうん、何もできへんて知ってるやろ。それに、お義母様は、手先が器用で、大抵のことはできはるもん」

「ま、ええやん。そんなんやから、気にいってくれてはるんかもしれへんし」

 そうかもしれない、とふと思った。

 これが同じように器用で、何でもできたら、きっと張り合ってしまうだろう。

「ほなね。これから、歯医者の予約があるから」と母は、帰って行った。

 私は、一人で、ぼんやりと、喫茶店に座っていた。

 お義母様ではないけれど、とんびちゃんに、また会えて嬉しかった、と思った。

 もう、私のとんびちゃんではないけれど、とんびちゃんが、無事に生きているだけで、いいような気がした。

 そやかって、私は、まだ、とんびちゃんが好きやから。

 嫉妬深くて、未練たらしい女やけど、やっぱり、とんびちゃんが好き。

「とんびちゃんが好きやー!」と世界中に向かって叫びたかった。

 きっと、私は、とんびちゃん中毒にかかっているに違いない。

「松本さん」と何度も呼ばれたみたいだったが、気がつかなかった。

「松本由紀江さん」と呼ばれて、「はい」と学校の生徒みたいな返事をした。

 声の方角を見ると、歳の頃なら二十三か四ぐらいに見える、ハンサムな男性が立っていた。

『いや、若返ったとたんに、ナンパやわ。どないしよう』と内心、嬉しい反面、うろたえもした。

「少し、お話したいことがあるんですが」

 うーん。ナンパも進化したもんや。

「何でしょうか」と奥様風に答えてみる。

「ここでは、ナンですので、少し違うところで」

 ホテル直行組か。ガッカリ。

「坂田とんびさんについて」

 心臓を突然、つかまれたような気がした。

 しかーし、とんびと付き合い始めた頃、同じ手口で、ひどい目に会ったことを思い出した。

「どういったご用件でしょうか」と少々、お義母様の口調を真似してみる。

「歩きながらでも、よろしければ」と男は、母と私の伝票を手に持って、レジで精算している。

 ちょっと待てよ、若者。お前に奢ってもらうほど落ちぶれてないわ、と思って、慌てて、後を追う。

「お待ちなさい」と義母の口調を真似したが、追いついた時には、息が切れていた。

「こうでもしないと、話を聞いていただけない気がしたもので」と若者は言い、素直に代金を受け取った。

 受け取るなよ、ナンパする気なら、と私は、内心思った。

 仕方無く、公園のベンチに座る羽目になった。

 まさか、野外エッチする気やないやろな、と私は、警戒した。

「僕は、川上達也といって、余り売れない俳優です。田代純子とは、同じ劇団の出身で、実は、恋人同士でした」と話は、意外な展開を見せる。

 この男が、田代純子の元恋人か、と私は、男の横顔を見た。

 とんびちゃんは、ハッキリ言ったら悪いけど、本人も認めるように、美形ではない。

 物凄く良く言って、感じのいい顔だ。

 ところが、この男性は、かなりの美形。しかも、長身。

 美人の純子とは、似合いのカップルに思える。

「僕達は、愛し合っていました。ま、そう思っていたのは、僕だけかもしれませんが」

「はあ」と私は、一方的な聞き役。

「僕と違って、純子の方は、どんどん人気が出てきて、その辺りから、何となく、お互いの時間が合わなくなって、ギクシャクしだしたんですが、まだ、恋愛関係は続いていたんです」

「ふーん」

「何となく、凄くイヤな予感がしたのは、坂田とんびさんとの共演が決まった時です。

 こんなことを言っては失礼かもしれませんが、とんびさんは、女癖の悪いので有名な男です。

 僕が、その心配を口に出すと、『とんびなんか目やないわ』と純子が言ったのです。

 安心もしたけれど、何か不安になったのも本当です」

「ほんまに、『とんびなんか目やないわ』て言うたん?」とお義母様の口調は、スッカリどこかに行ってしまった。

「はい。けど、心配した通り、とんびさんとの熱愛が発覚して、何度も連絡を取ろうと電話したりしたんですが、自宅にも携帯にも繋がらず、会おうとしても、どうしても会えず、とうとう『極秘結婚』に発展して、松本さん宅で暮らすことになった、という訳なんです」

「そうやったん」と元々美形に弱い私は、いたく同情してしまった。

「情け無い男やと軽蔑されても仕方がないと思いますが、時間ができる度に、松本さんのお宅の辺りをうろついていました。一目でも純子を見られないかと思って。そして、できたら、話をしたいと思って」

 聞いているうちに、何となく、同病相憐れむ気分になってしまった。

「純子には会えなかったんですが、一度、とんびさんとお会いして、話をしたことがあります」

「え、とんびちゃんに会ったん?」

「はい。ほんの十分ほどでしたが、僕の話を聞いてくれて、『すまん。堪忍して。許してくれ』と頭を下げられて、僕の方がビックリしました。

 何か噂と違って、すごく優しい、いい人みたいで、ああ、この人やったら、純子を幸せにしてくれるやろうな、と思ってしまいました」

 ふー、と私は、溜め息をついた。

 そうやねん。優しい、いい人やねん。そやから、女は惚れてしまうねん。

「それでも、僕は、未練たらしく、また暇があると、松本さんの家の周りをうろついて、今日、奥さんが出て来られるのを見て、運良くタクシーが来たもんで、後を追わせていただいて、喫茶店の外で、様子を伺っていたんです」

「そうやったんですか」

 う。ナンパやと思った自分が恥ずかしい。

「勇気を出して、声をかけて、本当に良かった。何か、奥さんに全部話してみたら、自分の気持ちがスッキリしました。

 純子が幸せでいてくれたら、それだけで、僕も幸せやと思える気がします」

 ほんま、同病やな、と私は、思った。

「多分」と彼は言った。

「間違っていたらすみません。話を聞いてもらっているうちに、奥さんも、僕と同じ気持ちなんではないか、と思ったもので。

 まだ、とんびさんが好きだけど、とんびさんが幸せなら、それだけでいい、と思っておられるんでしょう?」

 私は、かすかにうなずいた。

 君と同じ病気持ちです。

「でも、辛いですね」

「何言うてんの」と私は、明るく言った。

「自分の好きな人が、生きててくれるだけで、充分やないの」

「そうですよねー」

 初めて会った青年と、おばさんの私は、並んで、空を見上げていた。

 空は、私達を祝福するかのように、雲一つ無い晴天だった。

「あんたなんか、まだまだ、人生これからや。もっといい女、いくらでも現れるって」と言って、私は、青年の背中をポンと叩いた。

「そうだといいですね。僕も、好きで始めた仕事ですから、もっと仕事に打ち込むことにします」

「私も応援してるから、がんばり」

「今日は、ありがとうございました」

 何となく、人助けをしたような、いい気分。

 そして、同じように、自分も助けられたような気がした。

 その日から、新聞のテレビ欄のドラマの出演者を見て、『川上達也』という名前を見つけると、「がんばれ、がんばれ」と応援しながら見るようになった。

 そして、私の知らないところで、ある病気が着々と進行していたのだが、その頃の私は、全然知らなかった。知らぬが仏様だった。


「あんた、偉いことやで」と母からの電話がかかってきた。

 またも、とんびちゃん達の起床時間の午前七時。

 母は、お義母様のしつけた、私用のメイドなのだろうか……

「何やの、お母ちゃん。こんな朝早うから」

「何言うてんの。私は、もう朝の散歩から帰ってきて、ごはん食べた後やで」

「はいはい。元気やね」

「はいはい、元気やねや、あらへんで。あのとんびたらいうんが結婚した女、同棲してた男がいてたらしいで。『とんびと純子 破局か』いうて、今騒いでいるらしいで」

「また、ワイドショウ?」

「私は見てへんかったんやけど、今朝一番に、友達の安井さん(誰?)から電話があって、昨日、その相手の俳優が追い掛け回されてたみたいやで」

 母の朝一番とは、一体何時ぐらいなんだろう、と思いながら、「ほんま。それは、えらいことやね」と答えた。

「名前は、忘れてしもたけど、サングラスかけた背の高い男やったいうことやわ。今日のワイドショウ、絶対見逃されへんな」

「私も見てみるわ」と言うと、「絶対、見いや」と言って、電話が切れた。

 純子と川上達也とのことは、とんびちゃん、知ってたんやろか、とふと思った。

 とんびちゃんは、アホやから、また騙されたんやろか。

 人がいいからな、とんびちゃんは。

 そんなことを思いながら、お義母様に教えられた通り、綺麗にお化粧して、ぶらぶらと庭を散歩していると、同じように、ぶらぶらしているとんびちゃんに会ってしまった。

「あ」とお互いに、何を言えばいいのか。

「奥様、おはようございます」ととんびが、九十度の角度で頭を下げた。

 ささっと周囲を見回したが、誰の姿も見えない。

「やめーや、とんびちゃん」と私は言った。

「誰もいてへんし」

「いや、私のようなお目汚しの者が、庭など散歩して、申し訳ありません」

「お義母様は、勝手を知らない純子さんに言わはったんで、とんびちゃんに言わはったわけと違うし。それは、そうと。また、偉い騒ぎみたいやないの。大丈夫なん?」

「うん」ととんびは、頭を下げたまま、うなずいた。

 あらら、私のことを『泣き虫』呼ばわりしてた癖に、グスングスン、とまた泣いているみたいだ。

「そんなにショックやったん」

「うん」グスン、グスン。

「元気出しいや。昔のことやねんから。騒ぎも、すぐ収まるし」

「昔のことやない」

「え? まだ続いてるん?」

「そうや。奥様なんかには、わからへんやろけど、ずっとずっとずううっと続いてるんや」ととんびは、言った。

「嘘……」

 あの青年は、そんなことを言ってはいなかったが、あの後、再会して、愛が再燃したのだろうか。

「ほんまや。奥様なんか、大嫌いじゃ。アホー」と言うと、とんびは、離れの方に、走って行ってしまった。

 ちょっと待てよ、とんび。

 私に当たり散らしても、仕方がないやろに、と茫然として、庭に立っていると、「奥様、大奥様がお呼びです」とメイドが現れた。

 はいはい。とんびちゃんの『熱愛発覚』以来、お呼びが多い。

 今回のお呼びも、大体見当はつく。

 しかし、メイドさん、一部始終、聞いていたわけじゃないでしょうね。

「どうぞ」と言われて、お義母様の部屋に入った私は、ギョッとした。

 な、な、なぜか、あの川上達也が、お義母様と向かい合って、何やら楽しそうに、話しているではないか!

「あ、由紀江さん、ご紹介するわね。こちらは、川上達也さん。ちょっと訳があって、しばらく、ここにいてもらいますので、よろしくね」

「川上達也です、よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」と初対面みたいに挨拶している。

「達也さんは、今、人気急上昇中の俳優さんでね、松本の知り合いの製薬会社のCMにも出ていただくことになってるんですよ」

「そうなのですか」と悠然と微笑もうとしたが、慣れないせいで、顔が強張る。

「由紀江さん、家の中を、ご案内してさしあげて。今、お部屋の支度をしているところですから」

「は、はい」

 というような訳で、何が何だか、訳のわからないまま、私は、家中を案内する羽目になった。

 とんび夫妻とは、待遇が違うようだ。

「この間は、ありがとうございました」と礼儀正しい好青年だ。

「僕が、彼女のことを吹っ切って、仕事に熱中し出したとたん、過去の恋愛関係が取り沙汰される」

「大変な騒ぎらしいですね」

「僕は、添え物ですが、とんびさんと彼女は有名人ですしね。しかし、よりによって、彼女と同じ邸内に住むことになるとは」

「忘れようにも、忘れられませんね」

「ああ」と言うと、達也は、私の目を正面から見て、私の両手を取った。

「奥様も、同じ立場におられるんですね」

 まさか、その時の私は、その姿を、明を連れたとんびが見たなんていうことは、知らなかった。

「さ、リビングにご案内します」と私は、そっと手を離した。

 正直に言えば、少し(かなり?)胸がドキドキした。

 リビングでソファに向かい合って座ると、メイドがお茶とクッキーを運んできた。

「で、どうやって、ここに来ることになったのですか?」

「昨日から、テレビのレポーターやらカメラマンに追い掛け回されて、そんな経験が無いもので、困り果てていたところに、ガードマンの制服を着た人が僕を取り囲んで、引きずるように、車に乗せられ、ここに連れて来られたということで、自分でも、何が何やら訳がわかりませんでした」

 ははあ。松本かお義母様の差し金だろうが、また、何でなんだろう。

「ここにいれば、マスコミは手が出せませんから、安全ですよ」と私は言った。

「とんびさんも、そうやって、ここから仕事に通っておられたんですね」

「そうですね」と言ったきり、しばらく沈黙が、辺りを支配した。

「……彼女も、そうやって?」

「はい」

「こんな贅沢な暮らしに慣れてしまったら、自分の安アパートに帰るのが、辛くなりそうですね」

「大丈夫ですよ。仕事に打ち込めば、今に豪華マンションだって、大邸宅だって、手に入ますよ」

「何か、奥様と話していると、自分でもそんな気になってしまうから、怖いですよ」

「あれ以来、あなたの出る番組は、大抵見ていますよ」

「それは、恥ずかしいな」と相手は、はにかんだ。可愛いではないか。

「少しずつ、出演する機会が増えているじゃないですか」

「はい。お陰様で」

「お義母様が、『人気急上昇中の』って紹介しましたよね。目の肥えた方ですから、滅多なことでは、そんなことは言われません。あなたに見込みがあるからですよ」

「ありがとうございます」と川上達也は、突然立ち上がって、頭を下げた。

「まあ、お座りなさい」と私は言った。お義母様のように。

「僕は、あまり野心も望みも無い人間で、夢と言えば、好きな俳優を続けながら、幸せな家庭を築くこと、ま、彼女とのですね。そんな詰まらない男で、だから、彼女に捨てられてしまったんだ、と今はわかります。

 その後でもやったことと言えば、彼女に一目会いたいと思って、この屋敷の周囲をうろつくことぐらいでした。

 でも、奥様に話を聞いていただいた、あの時から、自分の好きな仕事を、とことんやってみる気になったんです。

 あなたは、不思議な方ですね。今だって、話しているうちに、自分がどんどん高いところを目指そうとしてきている。

 とんびさんは、幸せな人だったんですね。だから、もう今では、誰も並ぶ者のいないぐらいの人気者になった」

「あれは、彼の実力ですよ。人には見せないだけで、スランプもあったし、私とのスキャンダルで、干された時期もあったんです」

 ヤクザに殴られたことも、強姦犯人として、警察に逮捕された時もあった。

 十八の女の子の恋愛を応援して、自分が悪役になったこともあったっけ。

「よーし、僕も頑張るぞー。とんびさんを目指し、とんびさんを追い越してやる」

「そうよ。若いんだから、いくらでも、チャンスはあるわ」と言いながら、そうか、とんびも、こういった若い世代に、追い越されていく年代に入ったのか、と思った。

「川上様、お部屋の準備が整いました」とメイドが現れた。

 川上達也は、お礼を言いながら、メイドと共に去って行った。

 まさか、今の話を全部聞いていたわけではないだろうな、といつもタイミングのいい現れ方をするメイドの後ろ姿を見送った。

 何となく、一日の一定の時間に、メイドが『今日見たこと、聞いたこと』をお義母様に報告している姿まで、目に浮かんでしまった。

 私の妄想だけど、無いとは言えない。

 でも、あの超能力者のようなお義母様は、そんな報告を受けなくても、全部お見通しな気もした。

 あんまり考えると、頭が変になりそうなので、途中で考えるのをやめた。

「奥様、お食事の支度ができましたが、こちらで召し上がりますか?」とメイドの声がした。

「部屋で」と私は答える。

 何で、私のおなかのすく時間までわかるんだろう。

 私は、外出しない時には、大抵、朝は遅く、昼と夜に食事する。

 今朝は早起き。だから、おなかも、早くすいていた。

 食事でもしながら、お昼のワイドショウを見よう、と思った。

 こんなものを見るようになったのは、とんびと付き合い始めて以来だ。

 チャンネルを切り換えながら、ワイドショウのはしごをする。

 おお、やってる、やってる。

『とんびと純子、ついに破局か』

 おー、ここまで行くか。とんびちゃんが泣くはずや。

「まったく、このカップルには、驚かされっぱなしです」

 ふん。他人事のくせに、自分のことみたいに言うな。

 サングラスをかけた川上達也が、報道人にもみくちゃにされている。

 気の毒に。

 あ、さっきの話の実況中継。

 警備員の恰好をした男数人が、達也に上着みたいなものをかぶせて、引っ張っていっている。

 何となく、これって、何かの事件の犯人を警察が連れて行く場面に似ている。

 車に拉致すると、走り去って行ってしまった。

 その車を追い掛ける、社旗をはためかせたマスコミの車。

 ヘリコプターからの映像も入る。

 モザイクをかけられているのは、この屋敷。

 これぐらいなら、松本も怒らないと踏んだのだろうか。

 車が屋敷に到着するところまでは、放映しないようだ。

「いやー、驚きました」と言っているが、何に驚いたかは言わないつもりのようだ。

「また、つい先程入ったニュースによりますと、坂田夫人の純子さんは、ある青年実業家との密会の現場を、押さえられた模様です」

 ええ! まだ、男がいてるん?

 それは、とんびちゃんが泣くはずや、と私は思った。

「まだ、現段階では、確実なことは何もわかっておりませんが、これが、事実とすれば、

短期間に三人の男を手玉に取った女、ということになりますね」

「坂田純子さんは、まだ二十歳、末恐ろしいと言うしかありません」と女性キャスター。

 他のチャンネルでは、図解までしてあった。

 夫―妻―坂田とんび―坂田純子―川上達也

               ―青年実業家

 そして、夫―妻の間に縦線が入り、『?』マークと共に、その線は、青年実業家に延びていた。

 シャキッと私が座り直したのは、その瞬間だった。

 少し前までは、赤の他人だった『青年実業家』だが、この線が入ると、私と夫の子供達。

 明は五才だから、まず絶対違うとして、健か努?

 けど、それよりも、この放送局、勇気があるなあ、と感心した。

 松本の弁護士は、訴えを起こすだけだけれど、今頃は、抗議の電話やファクスやメールで、回線はパンクしているはずだ。

 松本を勝手に尊敬しているヤクザや過激派が、爆破したり、出演者を襲ったりしないことを祈るだけだ。

 明日には、『不確実な報道で、視聴者の皆様や関係者の皆様方に、多大なご迷惑をおかけしたことをお詫びします』と内容は訂正されるだろうが、近いうちに、装いも新たな別の番組になることは確実だ。

「奥様、大奥様のお呼びです」

 一日に二度のお呼びとは、新記録だ。

 部屋に入ると、健と努だけでなく、久し振りの夫までが、勢揃いしていた。

「お母様、申し訳ありません」と努が頭を下げた。

『青年実業家』というから、長男の健だと思っていた。だって、努は、まだ大学生。

 いつも書をしたためている義母の机の上に、写真のコピーが載っていた。

 私同様、目を黒く塗り潰された努が、純子の隣に、スーツ姿で写っている。

「週刊誌からは、掲載の許可を求めてきたので、断った」と夫が言った。

「民放の一社は、事後承諾だった。さすがに写真を見せる勇気は無かったらしい」

「昨日から、ヘリコプターが、うるさいこと」とお義母様。

 努は、小さくなったままだ。

 こういう騒ぎに巻き込まれたのは、初めてだから、驚いたのだろう。


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