道化 十二夜 2
未練未練の日々を過ごしていても仕方がない。
私が、ようやく、嫉妬の炎、未練の日々と訣別して、またも、いくらやってもものにならない英会話やら、ダンスの教室に通うようになった時、「奥様、大奥様がお呼びです」とメイドがやって来た。
義母からの呼び出しだ。
ドアをノックすると、「どうぞ」。
中に入ると、またも、義母は、何やら書をしたためている。
うーん……と色々思い返してみても、『熱愛発覚』『極秘結婚』以来、とんび関係には、余り進展がない気がするのだが。
年齢から言えば、三十は年下の私よりも、義母は、とんびのことを思い切れていないのだろうか。
前回と違い、今回は、メイドがお茶とケーキを運んできた。
義母は、憲法改正の問題とか、自衛隊の海外派遣の問題を、日本の将来にとって、非常に由々しき事態として、熱く語った。
私は、そんなことは、どうでもいい。
そんなもんは、そんなこと専門の人が考えることだと思っている。
私の専門外。
「坂田純子さんから、打診が来ました」と義母は言った。
それが、今回の本題だな、と私は思った。
「純子さんは、あなたの意向を聞いて欲しいということです」
「はあ?」
「とんびさんが明さんと離れて、一ヵ月、もう、これ以上、明さんの顔を見ない生活は耐えられないそうです」
「はあ……」そんなことを言われても……しかも、何で、とんびではなく、純子の方が打診をするのだろう。
『坂田』純子か。やっぱりムカツク。
「法律上、とんびさんには、明さんとの姻戚関係は全くありません」
「はあ」ま、法的には、そういうことかもしれない。
「ですから、いわゆる面会権もありません。これは、あなた次第で、断ってもいい話なんですよ、由紀江さん」
う……何となく、ここで、物事の全ての責任を押しつけられているような、イヤな気分がした。
「私としては」と義母が言った時、その次に来ることばが予想できた。
「親子の情というものは、特にとんびさんの場合には、海よりも深いものかもしれないと思っています」
はいはい。
海よりも山よりも、日本海溝よりも、バミューダ海溝よりも深い。
はいはい。
船舶も飛行機も行方が分からなくなるほど深いのです。
「でも、これは、あなた次第で、断ってもいい話なんですよ、由紀江さん」
大体、こういう言い方で来られる場合、断るなんていう選択肢は無い場合が殆どだ。
「お断りします」としかし、私は、言った。
確かに、まだ、とんびちゃんは、完全に、私の人生から消えてはいないけど、もう、無理に自分でリセットした人物。
また、それを勧めたんが、あんたら親子でしょうが!
「そうですか。わかりました。では、この話は無かったことにしましょう」と義母は言った。
そして、私は、自分の部屋に戻った訳だったが、あー、もうムカツク。
何か、それって、自分の子供に会いたいという、父親の気持ちを、私の一存で、全く無視したようなもんやんか。
そして、思った。
この生活て、とんびちゃんがいたから、何とかバランスが取れてただけで、そうで無かったら、私はまた、広いだけで何の楽しいこともない家の中を、うろうろするだけの、魂の無い人間に戻るだけやんか。
「お母ちゃん、私、離婚するわ」と言いたかったが、母に言える訳はなかった。
相談しようにも、夫は相変わらず、仕事で多忙。家には戻って来ない。
「もう、どうでもいいわ、アホー!」と自暴自棄になりかけた時、「奥様、お電話です」とメイドが取り次ぎ、えー、嘘でしょうの、田代、いや坂田純子、二十歳から電話がかかってきた。
「あのう、もしもし」というか細い声からは、あのドラマでハツラツとしている彼女を想像できなかった。
「こんなお電話をかける筋合いではないと思うのですが、とんびちゃんが、あんまり元気が無いので、かけさせていただきました」
「はあ」と答えながら、この落ち着き度では、私は、彼女に負けていると思った。
顔もスタイルもフェロモンでも負け、勝っているのは、年だけか。悔しい!
「私は、明さんを引き取ってはどうか、と言ったのですが、とんびちゃんは、『そんなことは、できへん』という一点張りなのです」
「はあ」
四十女、二十歳に負けるの図、と一人で思った。
「それで、私、非常に厚かましいとは思ったのですが、松本さんに連絡を取りまして、前にとんびちゃんが、暮らしていたお部屋で、生活させていただきたいと思って、お電話したのです。
松本さんの方は、奥様さえ、よければ、ということでしたので」
ガラーン、ガラーンと、私の頭の周りで、どこのものか知らない鐘が鳴っていた。
あなたもお義母さんも、何で、私に決断を押し付けるんですか。
「お願いします。とんびちゃんのために。私は、どんな目に会っても、何も言いませんので」
『とんびちゃんのために』というのは、超『殺し文句』だと、私は思った。
私だって、私だって、とんびちゃんのために……明に会わせてあげたい。
けど、何で、とんびちゃん泥棒のお前なんかを、私の敷地内に入れなアカンねん、と思いながら。
「私の一存では何とも申せませんが、松本が許可したのなら、それで結構だと思います」
と答えてしまっていた。
「ありがとうございます。こんな無理なお願いを聞いていただきまして」と丁寧にお礼を言われて、電話は切れた。
私は、切れた受話器を、しばらく茫然として握ったままでいた。
蛍光灯気味に、「私のアホー!」と叫び、周囲を見回したが、誰もいなくて、ホッとした。
じわじわーっと、不安が喉元にまで、込み上げてくる。
何度も言うけれど、私は超嫉妬深い女。
自分の嫉妬心に耐え切れず、坂田とんびをリセットした女。
坂田とんび、ゲームオーバー。一件落着。
それなのに、その嫉妬の大本山が、妻まで連れて、同居する。
とんびがもっと、視聴者の思っているような、尻の軽いチャラチャラした男なら良かった。
屋敷は確かに広い。
顔を会わせなくても、生活はできる。
けれど、新婚さんの雰囲気はわかる。
果たして、私が、それに耐えられるかどうか。
こんなことになるのではないか、と思った。
「由紀江さん、いやなら断れば良かったのですよ」と口では言いながら、お義母さんの顔は、ほころびっ放し。
『とんびちゃん、お帰りなさい』パーティーが開かれることになった。
さすがに、『結婚おめでとう』パーティーとは、誰も言えないだろう。
夫と長男の健は、仕事の途中で、顔を出すということだ。
次男の努は、朝から、元自分の部屋に帰って来ている。
「お母さん、イヤだったら、出掛けて来たらいいよ」と何となく、私を気づかってくれている。
しかし、ここで、尻尾を巻いて逃げては、人生今以上に終わりな気がする。
「大丈夫よ、勉君。挨拶したら消えるから」
「僕が、お母さんをエスコートするから」といつの間にか、大人になったものだ。
「由紀江さん、ちょっといらっしゃい」とお義母さんに呼ばれたのは、パーティー開始の一時間前。
義母の部屋に入ると、華やかな和服がかけてあった。
ま、まさか、お義母様、私に苦手な和服を着ろと……今まで一度もそんなことを言ったことも無いくせに。
義母は、自分でさっさと和服姿になると、メイドに手伝わせて、私には、有無を言わさずに和服を着せ、前後左右から見回してから、髪をセットし始めた。
お義母様、美容師になっても食べていけた方ですね。
伸び放題の眉を揃え、かなり派手目の化粧をし、どこから見ても、バーのママ風になってしまった。
「洋装では、完全に負けますので、これでいいでしょう」
そういうことでしたか。洋服では、完全に負けですか……
帯も何本か出して来ては、着物に合わせ、『それって地味すぎるんじゃ……』と思った帯を締められた。和服は苦しいので嫌いだったけど、お義母さんに着せてもらうと、案外、苦しくない。
「ホホホ。一度、由紀江さんに和装をさせたかったの。いい機会でした」とお義母さん。
「やっぱり、よくお似合いよ。鏡で見てごらんなさい」
帯が地味なので、バーのママから、奥様風に変身していた。
うーむ。自分でも別人を見ているような気がする。
化粧なんて、粉をはたいて口紅を塗るぐらいしかしていなかったが、本気ですると、かなり若返るものなのだ。ちょっと自分に見惚れたりして。
そして、和服は体型を隠すということを発見!
これは、大発見。
「坂田様達が到着なさいました」とメイドが告げに来た。
思わず、浮き足立つ私。
「アペリチフでも出して、待たせておきなさい」とお義母様は、悠然として言った。
これからは、心の中でも、「お義母様」と呼ばせていただきます。
「いいですか、由紀江さん。あなたは、この家の女主です。彼らは、向こうから頭を下げてやってきた、単なる居候の身。それを忘れてはいけませんよ」
「はい」肝に命じます。
「あなたは、何も言わずに、悠然と微笑んでいらっしゃい。奥様と旦那様とその家族が、一応、顔を出して差し上げるのですから。心配しなくても、頃を見て、着物からは、自由にしてあげます」
ははー、と私は、心の中で平伏した。何から何までお見通しでございますか。
「旦那様と健様が、お帰りになりました」とメイドが告げに来た。
「では、そろそろ、私達も顔を出しましょうか」
「はい」
部屋を出ると、次男の努が待っていた。
何と、フォーマルスーツにネクタイまでつけている。
「努さん、お似合いよ」とお義母様。
「ありがとうございます」と努は照れもせず、義母に先を譲ると、私をエスコートした。
どこに出しても恥ずかしくない我が息子。
内心、この屋敷の中で、私だけが庶民のまま野放しにされていたのね、とシミジミ思った。
和装と化粧のお蔭で、何となく自分が別人になった気がするので、坂田とんびと愛妻の姿を見ても、激しい動揺はしなかった。本当に、お義母様には、感謝するしかない。
「おお」と夫が、私の姿を見て驚いている。いつも冷静過ぎるのが玉に傷の我が夫。
「これは、美しい」と人前も構わずに、言うところが凄い。
「純子さん、紹介しますよ」と夫が、田代純子、もとい、今では、坂田純子を呼んだ。
「こちらは、私の母です。この家の影の主」とまず、義母を紹介した。
「今回は、ご無理をお願い致しました。坂田純子です。どうか、よろしくお願い致します」と美しい脚を惜しげもなく露出した、洋装の純子が言った。
「よろしく」と義母は、かなり上から話している。
「後で、メイドから、この家の決まりなどをお聞きになればよろしいわ」
「こちらは、私の最愛の妻」と夫は、私を紹介。
「奥様には、本当に、ご無理をお願い致しました。坂田純子です。よろしくお願い致します」
私は、義母に言われた通り、悠然と微笑んでいた。
長男や明の紹介はすんでいたのだろう。夫は、「私の自慢の息子」と言って、努を紹介していた。
努は、以前、とんびと一緒になって、「田代純子ちゃんて、可愛いですよね」とはしゃいでいたものだが、今回は、そんなことをおくびにも出さず、「よろしく」と答えていた。
一体とんびは何をしているのか、と横目でチラッと見ると、眠っている明を抱いて、悄然としていた。
とんび、今の状況にいたたまれず、小さくなっているの図だった。
人気者オーラ、金持ちオーラに負けるの図。
誰一人として、とんび夫妻を、有名人だとして扱っていなかった。
「では、私と健は、仕事の途中なので、これで失礼します」と夫と長男が、まず姿を消した。
夫は、何と、姿を消す前に、私にキスして、「本当に、綺麗だよ」と言った。
うーん。お義母様に、着付けやらお化粧を習おうかと、本気で考えてしまった私だった。
「明を自分の部屋に」と義母が言うと、メイドが、とんびの手から明を受け取って、明の部屋に寝かせに行った。
これは、この家の習慣。パーティーに子供は出席しません。
「では、とんびさん、夜も遅いですので、私達も、これで失礼します」とお義母様。
パーティーだと言うので、一緒に食事でもするのかと思っていた私。
とんびは、ふらふらーっと、私と義母の前まで来ると、黙って頭を下げた。
「食事の用意はさせてありますので、ごゆっくり」と義母は言い、私と努を伴って、自分の部屋に戻った。
私は、内心、ガッカリしていた。
夫のように、とんびにも、綺麗になった和服姿の私を見て欲しかった。
ま、詰まらない女の見栄ではあるけれど。
「由紀江さん、心配しなくても、とんびさんは、あなたの変身ぶりを見ていますよ」と超能力者のような義母が言った。
「あなたが、完全に、手の届かない存在になったと思って、どうすればいいのかわからないのです」
「はあ……」
「しかし、あの純子という女は、若いのにしたたかですね。下手に出ているように見せながら、全然臆していない」
「はあ」そこまでは、私にはわからない世界。
「僕も、それは感じました」と努。
おいおい、息子まで、そこまでわかるのか……
「お二人以外は全員男性ということで、悩殺スタイルでやってきましたが、それに効き目が無いとなると、上品な下手という戦略に切り換えました。頭は、かなり良さそうですね」
おいおい、努、あんたは、純子ファンじゃなかったの?
「お祖母様、あんまり張り切らないようにしてくださいね」と私には、何のことだかわからない話をしている。
「母の和装戦略は、完全に成功しました」
義母は、何と、Vサインを出した!
「私は、一度やってみたかったんですよ。嫁いびり」
「前から、おっしゃってましたね。でも、母には、何の効き目も無くて、ガッカリしたって」
え? え? え?
何の話?
「あなたには、天性のものがあるという話ですよ。いつも何かに一生懸命になっていて、こっちがいびっているつもりでも気がつかない。そのうち、バカらしくなってやめました」
ガーン。
知らなかった。
お義母様が、そんなことを考えておられたなんて。
まして、私をいびっておられたなんて。
聞かなければ良かった。大ショック。
「今回のことでもそうですが、驚くほど素直で正直で、思わず、応援したくなりました」
「あ、今日は、ありがとうございました」と蛍光灯気味にお礼を言うと、義母と次男は、同時に笑った。
う。何か私の知らないところで、二人が結託しているような気が。
「孫で息子の僕としては、お祖母様とお母様が、仲良い方が嬉しいですよ」
私は、かなり、自分が恥ずかしくなった。
自分の嫉妬にだけしか心が及ばず、自分以外の他人のことにまで、気も心も回っていなかった。身内である、夫や息子や義母のことにも。
「けど、やっぱり一番気の毒なのは、とんびさんだな」と息子。
「そうですね」と義母。
私一人が、何もわからないバカなのね、と思い、私はいじけた。
「あ、そうそう。由紀江さん、ご苦労様。努さんは、自分の部屋で。後で、一緒に食事しましょう」
そう。
「夜も遅いですので」と義母が言った時は、まだ、七時。
どこの世界の夜が遅いんだ、と私は思った。
メイド抜きで、私は、また、簡単に和装を解かれ、いつもの恰好に戻った。
いわゆる、おばさんルックだ。
おばさんの身体に、バーのママの顔と頭がくっついているという奇妙な感じになった。
義母に、化粧の落とし方を教えてもらい、頭もいつものに戻った。
今まで知らなかったが、義母というのは、魔法使いのような人だったのだ。
「さ、食事に行きましょう」
屋敷で一番大きなリビングには、もう、とんび夫妻もいず、義母と私と努が顔を合わせると、待っていたかのように、料理が運ばれて来た。
義母と食事をするのなど、初めてのこと。
それなのに、思っていたほど緊張もせず、食事もおいしかった。
食後には、デザートではなく、バーボンが出た。
食事も初めてなら、一緒にお酒を飲むのも初めて。
大体、この家は、各自バラバラで食事を好きな場所で取っていた。
私は、大抵、自分の部屋かとんびちゃんの部屋で。
「今頃は、まだ、メイドが、我が家のしきたりについて、とんびさんと純子さんに話しているところですね」と義母。
我が家のしきたり?
そんなものは、今までに聞いたことも無い。
「でも、お祖母様、ちょっとひどすぎますよ」と勉。
「いいえ。とんびさんが、今まで通りの境遇だと思うのは、大きな間違いです。
今までは、由紀江さんのお客様として、遇してきましたが、今は、女を連れて転がり込んできた居候の身。しきたりに従っていただくのは、当然です」
「あのー」と私。
「どういうしきたりなんでしょうか」
聞いた私は驚いて、とんびちゃんが、今までのマンションを解約していないことを祈った。
祈った後で、とんびちゃんと純子の収入なら、いくらでも新しいマンションを購入できることに気がついたが。
「私が、今回、新たに作った、あの二人用のしきたりです」
家賃(まで取るんだ!)は、月に十万。食事無し。
起床は、午前七時。(無理だ。とんびちゃんには起きられない!)
門限は(門限!)、午前零時。
「これは、彼らの仕事を、かなり考慮しました」と義母。
午前零時を過ぎれば、邸内には入れない。
一週間連続して、門限に遅れれば、住む意志無しとみなし、この契約は解除。
ただし、特別な事由がある場合は、考慮に入れることもある。
「これは、映画の長期ロケとか、病気入院の場合を考えてあげました」
はあ、と溜め息をつくしかない私。
「最後が残ってましたね」と努。
この息子、私の知らない所で、お義母様と何をやっている!
「そうです。この邸内にいる間は、すべて、邸内の掟に従うこと」
「あのう、邸内の掟と申しますと?」と事情にうとい私。
「それは、おいおい、考えていきます」と悠然と微笑むお義母様。
まだ、考えてないんかい!
食事の後、次男の勉は、義母の部屋に呼ばれ、私は、一人で、自分の部屋に戻った。
自分の嫉妬の招いたこととはいえ、何となく、とんびちゃんが可哀相になった私だった。
いやいや、今では、私のとんびちゃんではなく、あの純子の夫なのだ。
わーはっはっは。散々苦しめー、と思う私も、どこかにいる。
でも、寝ている明を抱いたまま、悄然として、生気を失ったとんびちゃんが、脳裏に浮かんだりする。
けど、今頃は、私の代わりに、純子に対して、バミューダ海峡よりも深い愛でエッチしているかと思うと、哀れみを抱く仏のような私は消え失せ、えーい、お義母様の掟どころでは物足りない!
もっともっと、苦しむが良い、という悪魔の化身になり果てるのだった。
その夜、見た夢は、残酷なことに、私ととんびが、一番愛し合っていた頃の夢。
「もう、自分とは離れられへん」ととんびが言い、私もそう思った。
あの頃、この頃と、幸せな場面が次々と続き、目が覚める寸前になって、美しい二本の脚が現れて、とんびの頭を踏みつけた。
「女王様!」ととんびが、私に背を向けて叫んだところで、目が覚めた。
この夢、許せん! と私は思った。
どうせなら、幸せなままで、終わらせて欲しかった。
「あんた、何を考えてるん!」という母の電話のベルの音で目が覚めたようだ。
「昨日の共同記者会見いうのを、ワイドショウで見たけど、あの極悪人間ら、松本さんとこで、暮らすいう話やないの。何で、そんなことになってるんよ!」
「ええ?」と目が、まだ覚め切っていない。
時計を見ると、とんび達の起床時間の七時だった。
そうだった。私の母は、朝の早い人だった。
「そら、とんびたらいうんは、ヤクザみたいなしょうもないコメディアンやけど、仮にも、仮にもやで。あんたのヒモになって松本さんの世話になってたくせに、あんたのヒモやめて、田代純子たらいう、芸能人と結婚した人間やろ。
仮にも、仮にもやで、明ちゃんの父親かもしれへんいうことだけで、何でまた、おめおめと、松本さんの家に居候できるん。
私、アイツはヤクザやとは思ってたけど、そこまでヤクザやとは思わへんかったわ。
また、何で、あんた、そこまでコケにされて、また、居候さす気になったんよ」
うーん、と眠い頭で考えた結果、母の黙る答えを発見した。
「松本と、お義母様が決めたことやから、私にも、訳がわからへんのよ」
どうだ。参ったか。
電話の向こうの声は、予測通り、沈黙した。
「……そんなこと言うたかて、あんた。反対ぐらいしたらいいやないの……」と母の声は勢いを失っている。大成功。
「お母ちゃん、まだわかってないかもしれへんけど、松本家では、私は、ただの嫁。
決めるのは、松本とお義母様。それに逆らったら、私、実家に戻されるだけやねんけど、それ
でもいいの?
私も、ほんま、物凄いイヤやねんけど、『イヤです』て言うて、実家に戻ってもいいの?
ほんまは、私、そうしたいいんやけど。戻ってもいいの?」
本心を言えば、実家には戻らず、どこかで一人で暮らしたかった。
元々、超庶民の私が、玉の輿なんかに乗るのが間違っていた。
子供達だって、私とは、とっくに人種が違ってるし。
「そうか。松本さんとお義母さんが決めはったことやったら、しょうがないな」とようやく母は言った。
「お母ちゃん、私、ほんまに、こんな生活、もうイヤやねんよ!」と思わず、本心を言った。
「女はな、辛抱やで、辛抱」と母は、訳のわからないことを言う。
「あんた、松本さんに見初められた時、ほんまに喜んでたやない」
「そやった?」
「そやで」
そんな遠い過去のことは、とっくの昔に忘れていた。
「あんたは、松本さんのお母さんに先に気にいられたんや」
「嘘ー!」と私。
「まだ、お父ちゃんが生きてた頃で、順番から言うたら、お父ちゃんが、最初に気にいられたんやったな」
これは、私の全然知らなかった世界。
父は無口で、感情を表に現すことのない昔気質の人間だった。
大工、佐官、電気工事、水道工事と何でもやった。
いわゆる器用貧乏。
「時田さんからの紹介の仕事やって」と母の話には、いつも、私の知らない名前が突然出て来る。
「電気の配線の具合が悪いからいうて行って、あそこの奥さん、今でいうたら、あんたのお義母さんと大喧嘩した。
いっつも私は、お父ちゃん、いい加減なとこで折り合わな、と思ってたけど、松本さんとこは、それで、お父ちゃんの意見の方が通って、ま、丸く収まって、松本さんは、時田さん抜きで、うちのお得意さんになったんや」
「ふーん」知らなかった。
「実は、私、内心、ヤキモキした時もあったんやで。お父ちゃん、奥さん目当てで通ってるんやないか、思て」
「ふーん」そんな時もあったんや。
「ある時、高校生やったあんたが、お父ちゃんが忘れていった弁当を届けに行って、あのお義母さんに会ったんや」
「へえ」全然覚えてないけれど、そう言われれば、そんなことが、どこかであったような気もする。
「見合いいうことでも無かったんやけど、次にあんたが行った時に、松本さんもいてはって、是非、嫁に貰いたい、いう話になったんやんか」
「へー。そうやったん」
そう言いながら、私は、その時の松本を覚えていた。
今から思えば、そういうことに無頓着な松本にも通用するぐらいの天然フェロモンが、当時の私にもあったのだろう。もしかすると、過剰に。
クールでカッコイイ、それまでに見たことの無い種類の男だった。
スーツを着ている男なんかには会ったことも無い私には、別世界の人間みたいに思えた。
だって、まだ、その時の私は高校生。
「そんな身分違いのとこに行ったら、由紀江が苦労するだけやろう」と珍しく、父が意見を言ったらしいが、母は、大の乗り気。
「何言うてんの、あんた。あの屋敷、見てみ。それから、会社の跡継ぎしはんねんやろ。
これは、あんた、思ってもない、『玉の輿』いうもんやで。
これで、由紀江は、一生、安楽に暮らせるんやで」
私は、世間知らずの高校生。
母の熱に感染して、『玉の輿』というのはどんなもんなんやろう、という好奇心もあり、母の言う『女の幸せ』とハンサムでカッコイイ松本に惹かれて、高校卒業と同時に結婚した。
何も考える暇も無く妊娠し、長男の健を育てあげると、次男の努を妊娠した。
子育て期間は、正に無我夢中の期間だった。
夫は、滅多に家には帰って来なかったけれど、若かった私は夫を愛し尊敬し、子供達を熱愛した。
高校時代の友人達は、大抵、大学に進学し、恋愛やのスポーツやのレジャーやらに明け暮れ、就職したり結婚したりした。
次男の努が中学生になった頃、私は、友人達の羨望の的になっていた。
「ローンも無いなんて、羨ましいわ」
「そんな高い私立なんか、うちは、よう行かさへんわ」
「ええなあ、会社の社長さんか」
「滅多に家に帰って来ないなんか、羨ましいわ。うちは、毎日帰ってきて、マジ、鬱陶しいで」
誰ともことばが、通じない。
子供達が大きくなり、たまに帰ってくる夫と向かい合っても、何一つ共通の話題も無かった。
私は、うろうろと、家中を歩き回り、空虚な心を抱えていた。
カルチャー・センターのはしごをし、買い物ざんまいをしてみても、心の空虚さは、埋まることなく、ますます虚しくなるばかりだった。
父が、呆気なく亡くなったのも、影響しているのかもしれない。
「お父ちゃんな」と母から涙声の電話がかかってきた。
「熱があるからやめとき言うたのに、建築現場の見回りに行って、そこから落ちて死なはったんや」
この時は、夫と義母が葬儀一切を取り仕切ってくれ、私と母は、ぼうっとしたままだった。
自分の結婚生活同様、父の死にも、実感は無かった。
結婚以来、実家とは完全に足が遠のいていたし、遠慮がちにかけてくる、母からの電話で、父の消息を知るぐらいだったからだ。
しかし、どこかで、心の空白が、もっと大きくなったような気がした。
私は、この生活で、金銭感覚が麻痺していたので、母が、その後どうやって、自分の生計を立てていたのかは、ハッキリとは知らない。
頼まれたら断れない母が、友人知人に頼まれる度に、父の生命保険を増やして行き、総額がいくらだったのかは知らないが、「食べるのには、一生困らへんけど、それより、お父ちゃんがいてくれた方が良かった」と母が言ったのは、覚えている。
その頃の私に、『食べるのに困る』などという語彙は無かったので、それも、あんまり実感を伴って聞いたわけではない。
そして、三十五になる手前で、坂田とんびと出会い、コメディアンとして、人気急上昇中の、とんびとの熱愛が発覚、別れ話のその夜に、カメラのフラッシュが光った。