道化 十二夜 1
「すまん。許してくれ」と坂田とんびが、テレビカメラに向かって謝っていた。
多分、私に向かって、謝っているのだろう。
田代純子とテレビドラマで共演が決まった時、何となく、そういうことになるんではないか、という予感があった。
坂田とんびが、松本家の離れに住みついて、五年の歳月が流れていた。
私ととんびは、六年前に、その昔流行った『フォーカス』(死語?)された仲。
一時は、夫と離婚して、とんびと暮らすことまで考えたが、あくまでも懐の大きい夫は、とんびとの仲を公認し、晴れて(?)同居の身となった。
とんびとの間に生まれた子供も、もうじき五歳になる。戸籍上は、夫の子供ということになっているが。
気難しい夫の母も、実は、とんびの隠れファンだということが発覚。
そう。激動の後の五年間は、比較的、平和な日々が続いていた。
夫は、関西財界の黒幕的存在で、滅多に家には戻って来ない。
「とんび君、頼んだよ」と勝手に、とんびに私のことを頼んで出掛けて行く。
「もう、大船に乗った気で、行ってらっしゃい」ととんびも、快く引き受ける。
「いやー、ご主人は、男の中の男や」ととんび。
「とんび君がいてくれると、私も安心して、家を空けられる」と夫。
「もう、あんたら、絶対おかしいわ。私の知らんとこで、あんまり仲良くせんとって」と私の方が、嫉妬するほど、仲がいい。
私と夫との間の子供達は、長男の健はもう結婚して、夫の仕事を手伝っており、次男の努は大学生になって下宿している。
実家からは離れて暮らしているけれど、帰って来ると、私より先に、とんびのところに行って、『男同士の話』をする。
何となく、女一人、取り残された気分の私だった。
そして、様々な番組の司会をしたり、とんびの仕事もどんどん増えて、夫同様に、あんまり家に帰って来なくなった。
「ごめん、ごめん。仕事が立て込んでて、ようやく休みもらえたんや」
「もう! とんびちゃんなんか、もう知らんわ」と怒った顔を作りながら、内心、私は思っている。
坂田とんびは、男の盛りの三十五、そして、私は、五歳の子の世話に明け暮れている、四十女。
年月というのは、残酷なもので、男には風格を与えるが、女には、皺を加える。
もう一つ、私をいたたまれなくするのが、とんびとの間に生まれた明が、夫を『お父様』と呼び、とんびのことは『とんびちゃん』と呼ぶことだ。
「かまへんやないか。ご主人が戸籍上の父親なんやから」ととんびが言い出したことではあるけれど、私としては、何となく納得できない。
「とんびちゃん、それって、自分は永遠の独身気分なんと違うん?」
本当は、そんなことが言いたい訳ではないのだけど。
「大当たりー。坂田とんびは、永遠の独身貴族です」とおどける、とんびの顔が、どこか淋しそうだった。
とんび自身が、改めて語ることは無かったけれど、坂田とんびは、日本中の誰もが知っている『日陰の男』だった。
そして、私松本由紀江は、日本中の女に羨ましがられる、経済力に恵まれた夫と、年下で人気コメディアンの恋人と一緒に暮らしている女。
そういう類のドラマも数多く作られ、そういった小説がベストセラーになったりした。
が、現実は、子供の成長に伴って、徐々に歳を取っていく、不安な日々だ。
特に、疲れている時など、自分の老けた顔を写す、世界中の鏡に蓋をしたいと思ったりする。
「ただいまー。遅なってしまったなー。ごめん、ごめん」と帰ってくるとんびは、全身に『人気者』オーラをまとっている。
「遅すぎるわ、とんびちゃん」と憤って見せる私は、何者でもないおばさん。
「そんな怒らんかて、ええやないか。これでも『僕、彼女待ってますから』言うて、無理に帰ってきたんやで」
「一緒に、ごはん食べるて、言うてたくせに」
「何言うてんねんな。ほんまやったらやな、あの田代純子ちゃんと、一緒に飲みに行くいうとこやったんやで。あの純子ちゃんと。ま、お邪魔ディレクターも一緒やねんけど」
「ふーん。あの純子ちゃんとね」
新進女優・田代純子。
とんびが、しばらく前から、「可愛いなあ、この子、可愛いなあ」と言っていた女の子。
「そんなに好きなんやったら、誘ったらええやないの」とつい言ってしまった私。
実は、私は、とっても嫉妬深い女。
「何言うてんねんな。田代純子ちゃんいうたら、まだ、二十歳やで。こんなおじさんが誘ったりしたら、犯罪になるやないか」とムキになっていたとんびだったが。
「んでな。今度のドラマで、純子ちゃんと共演せえへんか、いう話になってんで。いや、もう、ドラマやったら犯罪やない。仕事やねんから」
「けど、共演者同士、恋愛感情がわいたりして」と笑おうとしたけれど、嫉妬の余り、顔が凍りついた。
「自分なあ。何考えてるんか知らんけど、そんなこと言うてたら、俳優なんか、毎回、恋愛せなアカンことになるんやで。そんなことしてたら、身体も心ももたんやろ」
「ほんまやね」と表面だけ笑ったけれど、心の中を冷たい風が吹き抜ける。
そして、ドラマの収録が始まり、とんびの帰宅は、ますます遅くなり、徐々に回数が減り、ついに、今回の『とんび、純子との熱愛発覚』のスクープになったわけだった。
「あー、偉い目に会うた」と記者会見の翌日、とんびは、憔悴しきった顔で帰って来た。
「な、わかってるやろ。僕がそういう男やないことぐらい。録画撮りの後、たまたま、お互い、腹が減ってたんで、一緒に、メシ食うただけや」
「うん。わかってるよ」と私は言った。
「わあ。気色悪ー。絶対、違うこと考えてるやろ。何もしてないって。何もする訳ないやろ。頼むから、もっと怒ってくれ。でないと、心身症になりそうや」
「とんびちゃん、よう考えてみ。私と知り合ってから、何回『熱愛、発覚』したん。両手、両足の指だけでは足りへんやろ?」
とんびは、しばらく、指を折って数えていたが、そのうち諦めたようだった。
「ごめん!」ととんびは、頭を下げ、「そやから、わかってるて、言うたんよ」と私は、言った。
本人は気がついていなかったが、今回は、今までとは違っていた。
今までの『熱愛、発覚』は、とんび流のマスコミサービスだった。または、スクープされる相手へのサービスでもあった。
「僕ら芸人は、視聴者に忘れられたら終いやから、たまには、サービスしとかんと」とマスコミで公言もする。
女性と一緒に食事したぐらいでは、最早、ニュースにはならない、坂田とんびだ。
それが、ニュースになったということは、とんびの側にも相手の側にも、よほどの親密な感情やら、雰囲気が無ければならなかった。
また、本気で、私に謝るなんていうのも、おかしい。
その証拠に、とんびは、私とまともに目を会わすのを避けている。
「とんびちゃんですよー」と息子の明の相手をし、「お義母さん、ご無沙汰ですー」と義母の部屋を訪問した。
私は、嫉妬深い女だったが、私の嫉妬の行き先は、『もしかすると』に限られており、今回のように、『そうなのか』になると、嫉妬はエネルギーを失って、何でもない顔をして、とんびと向かい合った。
「とんびちゃん。一休さんも言うてはるように、物事はなるようにしかならんて」
「はいはい。何度も聞きました」ととんびは言った。
「偉い偉い一休さんが亡くなる時、お弟子さん達に、『本当の本当に困った時には、この箱を開けなさい』て言わはったんやな。
何度も何度も困ったことが起きたけど、お弟子さん達は乗り切らはった。
けれど、とうとう、最終的に、もうどうしようもないことが起こった時、お師匠様の残した箱を開けた。
拝むような気持ちで中を見たら、一枚の紙が入っていて、『なるようにしかならん』と書いてあった、いう話やな」
「偉いわ、とんびちゃん。よう覚えたな」と私は、言った。
「そら、僕が、ネタに困る度に聞かせてもろたからな」
「うん」
「僕は、詰まらんコメディアンかもしれへんけど、僕の愛は海よりも深いし、山よりも深い」
「それって、深いばっかしやんか」
「そうや。それだけ深いんやで。日本海溝よりも、バミューダ海溝よりも深い」
「バミューダ海溝て、魔の海域と違うん」
「飛行機も落ちるし、船も沈む。そやのに、どこに落ちたか、どこに沈んだかわからんへん。それだけ、深いいうことやないか」
「はい、はい」
「よう思い知れよ」
「よう思い知ってる」と私は、言った。
「それなら、いいんや」ととんびは言った。
とんびと私は愛し合ったが、その愛は、二人の間の隙間から、細かい砂のように、こぼれ落ちていく感じがした。
そんな風に感じたのは、とんびと出会ってから初めてのことだった。
「自分、行かへんかったな」ととんびは、言ってはいけないことを言った。
「うん」と私も、馬鹿正直に答え、ほんの微かな隙間を、ますます広げた。
「とんびちゃん、なるようになったらええやん」と私は言った。
「何で、僕が、一休さんにならなアカンねん」ととんびは、憤って見せた。
とんびよりも年上の私は、どこか深いところで、今のこの隙間は、言葉とか行動なんかでは決して埋まらないものだと分かっていた。
それは、人の衝動の部分に属していて、行き着くところまで行かないと、決して治まるものではない。
かつての、私ととんびのように。
「自分、最近、変やぞ」と自分のことを棚に上げて、とんびは言った。
「そやかて、私が、とんびちゃんの子供を育ててる間に、若い女と浮気してるんやもん」
と言って、私は、わあわあと泣いた。
「もう、ほんまに、いつまで経っても、泣き虫で、焼き餅焼きやねんから」
わあわあ泣きながら、私は、冷静に考えていた。
とんびが、本当に飛んで行ってしまう日が来るのだろうか、と。
その時、私は、冷静に見送れるのだろうか。
「奥様、大奥様がお呼びです」とメイドがやって来た。
「もう、ほんまに、坂田とんびたらいうんは、癖悪すぎる。私は、松本さんにも、お義母さんにも、顔向けでけへんわ」と毎度、『熱愛発覚』の度に、「あんな男、早、放り出してしまい。今に、えらいことになるで」と言う、私の母とは違い、夫の母は、夫同様、かなり変わった人だった。
同居しているとは言っても、広い屋敷のことで、離れに住んでいる義母と顔を合わせることは滅多に無い。
多趣味の人なので、毎日、色々と忙しいらしい。
結婚以来、干渉されたことは一度も無く、健の時も努の時も、明が生まれてからも、孫のことで話があったこともない。
気楽と言えば、非常に気楽な間柄だ。
以前、次男の努に聞くまで、義母が、坂田とんびの番組は、ビデオに録画してまで欠かさず見ているなんて、全然知らなかった。
「え! あのお義母さんが、とんびの隠れファン!」とびっくり仰天したものだ。
とんびが、我が家に同居して以来、義母とは時々話をするようになったが、自分がとんびのファンだなんて、一度も聞いたことは無かった。
が、話があるのは、決まって、『熱愛発覚』の時だ。
ドアをノックすると、「どうぞ」という返事があった。
「お呼びでしたか?」と中に入る。
畳がないと生きていけない、という私の母と違い、義母の部屋は洋風だ。
ま、部屋とは言ったが、六畳間が二つに十四畳ぐらいのリビングダイニングがある、オールフローリングの家と言った方がいい。
義母は、筆を取って、熱心に何か書いている。
これが、『熱愛発覚』の時の、義母流の心の静め方なのだ。
「お座りなさい」とソファを勧められる。
「はい」と座る。毎度のパターンだ。
いつもは、ここで、メイドがお茶とケーキを運んでくるが、今回は、それが無かった。
お茶を飲みながら、季節の話や、時には、政治や経済の話が出るが、それも無い。
義母が、筆を走らせている間、私は、所在なく座ったままでいた。
「とんびさんがいてくれるようになって、この家も賑やかになって、私も喜んでいましたが」と単刀直入にとんびの話題が出たので、私の方が驚いた。
「はい」
「早いもので、もう五年になりますね」
「はい」
夫と義母は、長く関西に暮らしているが、いつまでも関東のことばのままだ。
私は、そのお蔭か、どちらの言葉にも堪能になった。
『バイリンギャル』ととんびちゃんには言われている。『ギャル』と呼ばれる歳でもないが。
「とんびさんがいなくなると、この家も淋しくなりますが」
あまりにも単刀直入、あまりにも意外、あまりにも自分の不安そのままだったので、一瞬、私の脳には、皺がなくなり、のっぺりしたような気がした。
「やはり、そうですか」と義母は、頭の中が真っ白になっている私を無視して、一人で納得していた。
「ど、ど、ど」と私は、吃ってしまった。
「どういうことでしょうか」
「今回の相手は、今までとは違うということです」
待ってください、お義母さま、まだ、私の気持ちは、そこまで追いついておりません。
そうかもしれない、という所で、足踏み状態。
「わかっておられると思いますが、とんびさんは、元々、かごの鳥ではありませんから、いつかは、かごから抜け出して行きます。
五年もの間、かごの中に閉じ込めていたのですから、もう自由にさせておあげなさい」
多分、私は、頭の中だけでなく、顔色まで真っ白になっていただろう。
「私はもう覚悟が決まりましたから、あなたも覚悟をお決めなさい」
「失礼します」と言って、私は、ふらふらと、義母の部屋を出た。
こういう時には、追い打ちが来るものだ。
珍しく、早く家に帰ってきた夫にも言われる始末だった。
「私も、とんび君には、本当に世話になったが、彼も、いつまでも我が家に居候というわけにもいかないだろう。正式な結婚もしたいだろうし」
夫が、そんなことを言うということは、全国に張り巡らされている情報網で、何らかの確固たる証拠が上がっている、ということだろうか。
また、私とは違って、とんびの出る番組を全て見ている義母も、同じような感触を得ているのだろうか。
「でも、明が……」と私は、子供をダシにしようとした。
「明は、君と僕の子供ということになっているし、本人もそう思っている。僕達二人で育てていけばいいことじゃないか。とんび君も、明に会いたい時は、いつでも来ればいいんだから」
「はい。でも……」と言いながら、とんびとの生活に、未練たらたらなのは、この私一人だと、周囲の全員に言われている気になってしまった。
その通りだった。
とんびの言う、海よりも深く、山よりも深く、バミューダ海溝よりも深い愛が、私以外の人間に向けられるのは、耐えがたいことだ。
「まあ、物事は、なるようにしかならない。いくら、あがいても」と夫まで、一休さんになってしまった。
「とんび君の代わりにはならないかもしれないが、君には、健も努も明もいる。そして、微力だけれど、私もいる」
「はい」
そうだった。
私は、夫の度量の広さに甘えていただけの、自分には何も無い人間だった。
そう。最終的に、今の形に落ち着くまで、一旦は、夫よりもとんびを選び、ついで、とんびよりも夫を選んだ人間だ。私は、この二人を徹底的に傷つけた。
因果応報。因果は巡る。
そのとんびが、私よりもフェロモンに満ち満ちた、若い女を選んだとしても、私には、それを責める資格はない。
上の息子よりも年下だというのに、少し(かなり?)ムカッとするぐらいだ。
「あー、偉い目に会うた」ととんびが、我が家に帰って来たのは、それから二週間後のことだった。
とんびが、二週間も帰って来ないなんて、今までに一度も無かった。
どんなに忙しくても、三日に一度は顔を見せに戻ってくる。
その間に、何度も『熱愛』は発覚し続けた。
レストランに始まり、遊園地に飛び火し、ドラマの中の演技、そして、最終的に、とんびが解約せずに借り続けているマンションから出てくるところまで。
さすがの私も、義母に負けないぐらい、いや、かなり負けていると思うが、とんびの姿をワイドショウやドラマの中に追った。
「お帰り、とんびちゃん」と言った私の声は、自分で思っているよりも平静だった。
「アカンで。テレビのワイドショウとか週刊誌なんか信じたらアカンで」ととんび。
まだ、周囲の全員が知っている自分の気持ちに気付いていないのか、または、私への罪悪感か。
「え? ワイドショウとか週刊誌に何か言われたん?」
私も、役者だ。
覚悟を決めないと、役者はできない。
「ええ! 知らんかったんかいな。ほら、あのドラマで共演してるだけの田代純子と、熱愛や、熱愛や、て言われ続けてんねんで。もう、堪忍して欲しいわ」
「え、そうなん?」
「何や、知らんかったんか。僕、自分が誤解してたら、どうしよか思て、生きた心地せえへんかった。あー、良かった」と笑ったとんびの顔が少し歪んでいた。
「そやから、怖うて、よう帰らんかったのもある」
「ふーん。そうなん?」
「そら、そやで。そやから、解約しよう思いながら、まだ借りてたマンションで、一人で色々考えてしもたんやないか。
そしたらやな、そこに、本読みしましょ、言うて、田代純子が来てやな、ここではまずいやろ言うて、追い返そうとした時に、カメラのフラッシュが光ったんや。ほんま、偉い目に会うたわ」
以前、とんびとの別れ話の後、そのマンションを出たとたんに光った、カメラのフラッシュを思い出した。
「もう、遅いわ!」ととんびは怒鳴ったが、今回は、どうしたのだろうか。
あの時、私ととんびは、エッチした後だった。
今回もそうなのか、と思うと、胃がムカムカして、吐きそうになった。
「そうか。エッチした後やったんやな」と私は言った。
言ってしまうと、胃のムカツキは治まった。
「アホか。そんな暇あるか。追い出すだけで、精一杯じゃ」
『暇があったらやったんか』とか、『ここではまずいけど、他やったらやったんか』とか、我れながら、情け無いフレーズが、頭に浮かぶ。
一番最悪なのは、『そうか、まだ、エッチはしてないんか』と心のどこかで安心したところだ。
「ええやん。エッチしたらええやん、とんびちゃん」と私は言った。
「あのな」ととんびは言った。
「僕は、よう覚えてるで。
『とんびちゃん、遊び。いっぱい遊び。それだけ遊んで、まだ私が好きいうんが、一番嬉しい』て、ずっと言われて、ほんまにそうかな、と思ったけど、『熱愛発覚』のガセネタの度に、自分、どんだけ大騒ぎして、僕に当たり散らしたか覚えてるか?
もう、そんな手には、乗りません」
「けど、ほんまは、可愛い純子ちゃんと、エッチしたいんやろ?」
「言うたろか? 僕のマンションに来た時、あの女、その気やったんやで。けど、僕は、『彼女いてるから』て、本気で断ったんやで。それ、わかってるか?」
ふと、目の端に、涙が滲みそうになった。
知らない人は、とんびは下半身の人格ゼロと思っているし、本人もそう思わせている。
それなのに、他の芸能人とは比較にならないぐらい、下半身は真面目だった。
そして、心は、もっと真っ直ぐで、真面目すぎるぐらい真面目なのだ。
「とんびちゃん」と私は言った。覚悟が決まった。
「最近の私、変やて言うてたやろ」
「う、うん」
「何でか、わかる?」
とんびは、しばらく、能面のような顔になった。訳がわからない時の表情だ。
「実は、私も、わからへんかった」
「自分、それ、オチになってへんで」ととんびが突っ込んだ。
「で、考えた末に、わかってん。知りたい?」
「う、うん」
「とんびちゃんのバミューダ海溝よりも深い愛情は嬉しいけど、実は、私、もう、とんびちゃんのこと、愛してないことに、気がついてしまってん。自分でも、ビックリしたで」
「う……嘘やろ……」ととんびは言った。
「自分でも、嘘やと思いたかった。
そやかて、とんびちゃんは、私の主人とも仲がいいし、お義母さんにも好かれてるし、私の子供達とも仲いいし、何というても、明の実の父親やし。
そやから、そんな詰まらない気持ちは、自分の胸だけにしまっておこう、思たんやけど、やっぱり身体は正直やわ」
とんびの顔は、蒼白を通り越して、紙のように真っ白になった。
この間のセックスを思い出したようだ。また、私の方は、じっくりと思い出させる時間、沈黙していた。
「それから、最近、とんびちゃんが、あんまり家に帰って来んようになってわかったことがあるん。
前やったら淋しいと思ったんやけど、今は、ホッとする。
お義母さんや主人は、とんびちゃんが帰って来なくて淋しいみたいやねんけど、私は、何でか、ホッとするん。
それで、ここまで言いたくなかったけど、今日みたいに帰って来られると、ええ、またエッチせなアカンのとか、何にも話したいこともないのに、何か話さなアカンのとか、考えてしまう。
こんなこと言うたら、主人やお義母さんや、下手したら息子にまで嫌われると思うて、自分だけのことにして、我慢してたんやけど、もうアカンわ。
もう、誰に何を言われてもいいと思った。
とんびちゃんが、前のマンション解約せんかって正解やったと思うわ。戻るとこあって、良かったやん。
で、とんびちゃん、私の立場もあるし、主人やお義母さんには、自分の一存で戻ることにして欲しいんよ。子供達や明にもね。
まさか、自分でも、こんな気持ちになるとは思ってなかったから、実際、信じられへんわ」
一息に言ってしまってから、言う前には、アカデミー賞候補になるかと思ったけど、言ってしまってから、ある部分は本当だと思った。
全ては、嫉妬がなせる技。そこから、何とか自由になりたい一心だ。
「あ、あんまりショックで、何言うていいのかわからへんわ」ととんびが言った。
「世界中の誰が、僕のこと、嫌っても、自分だけは違うと思ってたとこあったりして」
アハハハ、ととんびはおどけて笑ったが、その笑い声は虚ろだった。
「ほんま。マンション、暇なくて解約せんかって、正解やった。
そやねん。台詞いっぱい覚えなアカンし、マンションに行かなアカンわ。
うん。マンションに行かなアカン」
とんびは、どこか魂が抜けたように、フラフラーッと、帰って来た時の恰好のまま、この家から身一つで出て行ってしまった。
後に残された私は、それこそ、ありとあらゆることを考えた。
あんなひどい言い方をする必要は無かったのに。
エッチしてないんやったら、今のままでも良かったのに。
そやかて、とんびちゃん、私のことが、まだ好きやのに。
そう思いながら、別のことも考えていた。
本当は、考えたくもないことも。
『今までのとんびちゃんやったら、私の嘘と本当は、絶対に見抜けた』と。
それを見抜こうともせず、ことばだけを信じたとんびちゃん。
もう、その心は、私以外のところにあると思わざるを得なかった……
口に出せば口が腐るし、思えば心が腐るけど、私の半分の年齢の、フェロモン出まくりの田代純子のところに。
とんびが、この家から出て行ってしまったことを告げると、「そうか。よく決心した」と夫に褒められ、「由紀江さんは、私の見込んだ通りのお人でした」と夫の母に褒められた。
何も知らない子供達は、「お母さん、どうするの?」と心配してくれたけど。
『熱愛、発覚!』から、『坂田とんび、極秘結婚か!』までは、案外短い道のりだった。
まあ、何というか、祝福はできないにしても、認めることはできた。
そういう自分を、褒めてやろう。あんまり力は出ないけど。
私は、自分が真っ二つに引き裂かれた気がしていた。
日の当たる縁側で、膝に猫を乗せて、渋茶をすすりながら、「良かったなあ、とんびちゃん、いい相手見つけて結婚できて」ズズーと言っている私。
暗黒の世界で、腰の剣を抜き、それを天に向かって突き立て、「よくも私を裏切ってくれたなあ、とんびちゃん!」と叫んでいる私。
どちらも、本当の私だった。
実際の私は、引き裂かれたあげく、何の行動も取れなくなっていた。
祝福することも、恨むこともできない状態。
ま、言ってみれば、無感動無関心。
というか、自分の心から、坂田とんびの存在を全部リセットした状態。
『はい。これで、あなたの心から、坂田とんびは、消去されました』
それと同時に、自分も消去されてしまった気がした。
何でか、とんびの子供であるはずの明も、とんびよりは、夫に似ていた。とんびよりも、健や努に似ていた。
もしかすると、自分が勘違いしていただけで、これは、本当は、夫の子供ではないか、と思えるほどだ。
「もう、明ちゃん、お父さんにソックリやなあ」と私と明を電話で呼び出した母。
私と違って、母にとっては、今回の、とんび事件は朗報だ。
『あんな性悪な男、早、娘の傍から追放せな』とずっと思い、ずっと言っていた。
「うん。とんびちゃんも、そう言うてたよ、お祖母ちゃん」と明が答えた。
母は、そこで、ことばを見失った。
うろうろと迷う目で、私に救いを求めた。
私は、母の目を弾き飛ばした。
自分で言ったことばは、自分で責任を取るものだ。
「お祖母ちゃんは、前から、あのとんびたら言うんは、好かんかったんや」と母は、明のことばに答えるというより、私に向かって話していた。
母は、坂田とんびの現れる前の、私の孤独には、いつも目をつぶっていた。
母にとっては、願ってもみなかった『玉の輿』に乗った我が娘。
どうか、無事、永遠に乗っていて欲しい、と思ったのだろう。そして、それが、娘の幸福だと。
母にとっては、目に見えるものが全て。
夫の稼ぎ出すお金、大きな屋敷、大勢のメイドがいて、自分では炊事も洗濯も掃除もしなくてもいい生活。
「夢見たいな生活やなあ」とよく母は言っていた。
「それやったら、お母ちゃん、一ヵ月でも二ヵ月でも、うちに来たらええやんか」と何度も言ったが、「そんな非常識なことはできません。お姑さんもいてはるのに、娘の嫁ぎ先に泊まるやなんて」と母は、一度として、泊まりに来たことは無かった。
私の『玉の輿』の安定だけが、母の望みのようだ。それが、私の幸せである、と思い込んでいた。
それに、唯一影を落としていたのが、あの坂田とんびの存在だったのだ。
ま、そういう意味では、私は、ささやかな親孝行をしたことになる。
とんびのいた離れは、いた時のままだった。
ここも離れとは言っても、義母の離れ同様、フローリングの二LDK、全体で二十畳ぐらいはある。
クロゼットには、とんびの服がかかったまま、靴や下着類も残ったままだ。
そして、微かに、とんびの匂いが残っている。もっと言えば、とんびと私の匂い。
とんびのマンションに、全部送った方がいいのだろうか、と考えたが、「知らん間に、普通預金に一億もたまっててんで」と言っていたとんびにとっては、過去の遺物かもしれない。
そっかー、とんびちゃん、結婚したんや、と蛍光灯気味に考えたりする。
「頭と心と肉体は、全部別人」と言っていたとんびちゃん。
「ふーん、そう。頭も心も身体も全部別人やねんね。あ、そう」と言った私に、とんびは言ったものだった。
「そやから、普通の人の三人分、自分のことを愛せるんやないか」
ブルブルブルと頭を振った。
あかん、あかん。
過去に引きずられたら、アカン。
自分が冷たく追い出しておいて、「とんびちゃん、何で私を捨てたんよ!」と思わず憤っていたりする。
けど、二十歳の田代純子のフェロモンに、四十の私が太刀打ちできるわけもなく、これで良かったんだ、と自分を慰めたりしている。
明が、とんびに似ていなかったのが、何よりの救いだ。
「お母さん、とんびちゃん、どこ行ったの?」と明の澄んだ瞳で聞かれるのは辛い。
「とんびちゃんはねー、結婚したの」
「また、帰ってくるよね、とんびちゃん」
「うーん、どうかなー」
「結婚するって、お父さんとお母さんになることでしょう?」
「そうねー」
「じゃ、また、二人でここに来たらいいのにね」
「そうだねー」
子供というのが、ここまで残酷だとは、明を育てるまで知らなかった。
本人に自覚がないから、残酷度は大きい。
明と話す度に、罪悪感が、胸を刺す。
この子は、本来なら、生まれて来なかった子供。
私は、中絶することに決めていた。
それを、とんびは、土下座して「生んでくれ。家来にでも何にでもなる。初めてできた僕の子や、どんな顔してるか見てみたい。頼むから、生んでくれ。おろしたりしたら、一生、恨むからな」と私をかきくどいた。
「とんび君が、そう言うのなら、生んであげたらどうだ」と夫まで、とんびの肩を持ち、私は、高齢出産をする羽目になった。
私の今の年でも出産をする人がいるらしいが、その当時の私にとっては、決死の覚悟がいったものだった。
ま、全ては、今は昔の物語だ。
これは、私の未練の物語。