1-2.父との再会
真智恵子に父親はいない。
それと言うのも物心つく前に父親が自分と母親の前から姿を消してしまったからだった。
姿を消した理由は――浮気。
その時、父親には別に付き合っている女性がおり、両親は離婚し、真智は母親に引き取られることになった。以後、真智は父親に会うこともなかったが、3年前に母親の口から父親が死んだという事実を知らされた。
真智は知らなかったが、母親には父親の現在の状況を知る術があるらしく、父親が亡くなって初めて自分と母親を捨てた後でどのようにしていたのかを語ってくれた。
妻と娘を捨てた数年後、別の女性と結婚し、現在では娘が二人もいるらしく、高校生と中学生になる。真智にとっては、異母姉妹となる。
異母姉妹は、これからのことを思えば気掛かりになったが、今さら覚えてもいない父親のことなど気にならなかった。むしろ、二人の娘を置いて亡くなったことを天罰だとさえ思ってしまっていた。
死因はガンだった。
妻と二人の娘を養う為に忙しく働いていた父親は、定期的な健康診断を怠っていたため会社の上司から勧められるままに受けた健康診断でガンを見つけた時には既に手遅れであり、最期は苦しみながら息を引き取った。
もう、会うことはない……会えることはない、はずの父親が目の前にいる。
その姿を目にした瞬間、真智の中で怒りが沸き上がってきた。
「恵子、か……」
「ええ、そうよ。あなたが遠い昔に捨てた娘よ」
キッと父親を睨み付ける娘。
一応は確認しておかなければならない。
「そういうあなたは、進藤亮介でいいのかしら?」
「間違いない。お前の父親である進藤亮介だ」
進藤が何食わぬ顔で、自分が父親であることを肯定する。
それが真智にとっては気に入らなかった。
「今さら父親面しないで。父親がいなかったせいで私とお母さんがどれだけ苦労したと思っているの!」
シングルマザーの育児は大変だ。
養育費を稼ぐ為に母親は、朝から夜まで忙しく働き、体調が悪い日でも仕事へ赴かなければならなかった。
娘の真智も子供の頃から両親が傍にいないことを寂しく思っていた。だが、忙しい母親に対して我が侭など言えるはずもなく、ずっと寂しさに耐える日々が続いていた。
どうして自分がこんな思いをしなければならないのか?
その想いの矛先は、自分にはいない父親へと向けられた。
父親がいないことでクラスメイトからは馬鹿にされ、小学生の頃は友達が父の日にどうやって祝おうか相談していたのに自分だけは、その輪に加わることができずにいた。
「……やはり、そういうことになっていたか」
「そういうこと?」
父親が小さく呟いた言葉が気になった。
「その前に聞きたい。お前は何年後の未来から来た? 私の記憶が正しければ中学生になったばかりのはずだ」
「そうね。その認識が正しければ今は10年前ね」
本当に10年前へ来たのか?
ゆっくりと周囲を確認する。寂れた喫茶店は、店内にいる人が違うだけで店そのものには変化があるようには見えない。
だが、決定的な物を見つけた。
「平成……」
カレンダーだ。
まだ元号が平成のままのカレンダーが壁に掛けられている。それに年もきっかり10年前。手の込んだドッキリでも仕掛けなければ、こんな物があるはずがない。
何よりも死んだと思っていた父親の存在。
認めるしかなかった。
「10年経っても和解することはできなかったのか」
「和解? そんなことは絶対にあり得ないわ」
それは歴史が既に証明している。
父親は、自分が捨てた妻……元妻と娘に謝ることもなく、この世を去ってしまった。
もう、謝ることなど絶対に不可能だった。
それに真智自身が許す気になどなれなかった。
「私は、私とお母さんを捨てたあなたの事を絶対に許さないわ」
感情の籠った声。
進藤もしっかりと受け止めていた。
「捨てた?」
ただし、その言葉だけは受け入れられなかった。
「な、何よ……」
本気で戸惑ったような声。
思わず真智も聞き返してしまった。
「事実でしょう」
「お前は、そういう風に聞いていたんだな」
フッと小さく息を吐くと笑っていた。
心の底から安堵したような笑み。理由を聞いてはいけない、そんな衝動に駆られてしまうが、淡々と語る言葉に耳を傾けずにはいられなかった。
「離婚の原因は聞いているか?」
「もちろん。あなたの浮気が原因でしょ」
そもそも間違いはそこにあった。
「浮気をしたのは俺じゃない。あいつの方だ」
「う、嘘……」
父から語られる真実は、とても受け入れられるものではなかった。
「あいつ――豊子とはお見合いで出会ったんだ」
20代も後半になると親から結婚を望まれるようになる。
だが、仕事が楽しかった当時の進藤は結婚して家庭を築くよりも一人で気ままな生活を送りたかった。
それでも、親からの期待を撥ね退けることができずお見合いに参加。
相手も自分と同じように結婚には乗り気ではない女性。
お見合いの場では相手に合わせて会話をし、その後も何度か忙しい仕事の合間に時間を作って会っている内に「この人ならいいかな」と思える程度には親密になっていた。
そうして、しばらくは結婚生活も平穏に続き、娘も生まれてくれた。
ただ、出産と育児に問題があった。
結婚した後も仕事を続けていた母親。産休と育休で長期間休んでいた彼女に待っていた仕事は誰でもできるような閑職同然の仕事ばかりだった。
もっと華々しい仕事がしたい。
そう思うようになった彼女は、産休前に交流のあった上司に嘆願し、親密な関係を気付けば築くようになっていた。
その後、母親の浮気がバレ、夫婦間が冷え込むようになってしまった。
「その頃、自棄になっていた豊子は相手の男と結婚するつもりでいたんだ」
物心ついてない娘は父親に預けてしまうつもりだった。
だが、すぐに相手の男は別の若い女性と結婚してしまった。
つまり、彼女も遊ばれただけだった。
「さらに、上司との間に問題を起こしてしまったせいで会社にもいられなくなってしまった」
無職になった彼女は頼るものがなくなってしまった。
今さら旦那に頼る訳にもいかない。彼女なりの小さなプライドが頭を下げて頼ることを拒んでしまった。
だが、一人で生きていくのが難しい状況になってしまった。
そうして思い付いたのが旦那を利用することだった。
「周囲には自分が浮気した事実を隠したまま夫婦関係の冷え込みを理由に離婚してお前を引き取ろうとしたんだ」
「え、どうして私を……」
引き取る理由が分からない。
むしろ、養わなければいけない人間が増えて苦労を背負い込むことになる。
「簡単だ。お前がいた方が自分こそが弱者だと思われる」
子供を引き取ることで同時に苦労を背負い込んでいると周囲に思わせる。
逆に子供を引き取っていない進藤の方には、何も悪いことをしていないにも関わらず「無責任だ!」と問うような声が押し寄せてきた。
進藤としては、自分は何もしていないのに非難されることに怒りを覚えていた。
「だが、今になって分かるが、私にも責任があるのだな」
「そ、そうよ!」
話を聞けば聞くほど自分に優しかった母親に責任があるように思えて仕方ない。
それでも、唯一の家族と言っていい母親を庇わずにはいられなかった。
「俺が豊子のことをもっと気遣うことができていれば……仕事と同じくらい家庭もいいものだと思わせられるような旦那だったら、こんな風にはならなかったのかもしれない。だから、俺にも責任はあるんだよ」
進藤がコーヒーを飲みながら静かに言う。
「そんなことは……!」
テーブルを叩いて立ち上がる。
その瞬間――カチ、カチ、と規則正しく時を刻む音が聞こえてくる。
「――時間です」
さらに、いつの間にか近付いていたマスターが過去との邂逅が終了したことを告げる。
気付けば、目の前が真っ暗になり意識が途切れる。