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閑話 美術室の幽霊が遺したもの

 Tシャツに短パン姿でコーナーを曲がる少女の絵。ポニーテールからこぼれた後れ毛が風を受けて後ろにたなびいている。高く腕を振り、ゴールを目指して走る一瞬を切り取った。 

 「青春」をテーマとした絵だ。たまたま目についた、美術室から見える陸上部の練習風景を選んだ。題名は“走る”。何のひねりもない。

 粗削りな下絵に、繊細な色使い。仕上げに急いだ感がでているのが少々惜しいが、センスが垣間見える。それがこの絵につけられた評価だった。

 私は絵の前に立ち、罪悪感と戦っていた。

 白い壁に飾られた絵の横には、「激励賞」の文字。

 そうこれは美術室の幽霊のアドバイスを受けて、彼と共に描いた絵だ。

 彼が消えた次の日、絵を見た先生や桜に絶賛された。柔らかい筆のタッチが素晴らしい。能ある鷹は爪を隠すのねとまで言われた。しかしその後の仕上げで首を傾げられ、一夜限りの奇跡として美術部の語り草になった。

その絵がこともあろうに、とある企業が企画したコンクールの、高校生の部で激励賞を受賞してしまったのだ。

 はたして、私はこの賞を受け取っていいのだろうか……

 受賞の知らせを受けたとき、喜びよりも後ろめたさが勝った。

 こんな気持ちは小学生のころ、母に手伝ってもらった夏休みの宿題の貯金箱が、クラス代表に選ばれて以来だ。あの時貰った参加賞の鉛筆は漢字の練習に使って、即使い切った。

 絵の前で葛藤する私の隣に、一人の女性が並んだ。

 品の良い婦人だった。

 学生の作品ばかりが並ぶ、この部屋に絵を見に来る人は多くない。白い壁にずらりと飾られた絵の中に、彼女の子供の作品があるのかもしれない。

 子供の絵を見に来たついでに作品を見て回っているのだろう。そう思って再び走る少女の絵に視線を戻す。

 少女に降り注ぐ陽の光が、彼女の直向きさと明るい未来を暗示している。なんて大層な注釈が付いているけれど、もちろんそんなことなど考えてない。ただらしくなるかなと、思いつきで光をいれただけだ。それも、先輩の綿密な指導のもとで。

 もし彼が最後まで監修していたら、大賞も夢ではなかったかもしれないんじゃないだろうか……。最後まで共に描きたかったと思う反面、そうならなくて良かったとも思ってしまう。

 展示が終われば、今度は美術室に飾りたいと顧問の先生に言われ、どうやって辞退しようかというのが目下の悩みだ。

 それにしても……。

 私は隣の婦人をそっと窺い見る。随分長いこと絵の前に立っている。

「素敵な絵ね」

 私の視線に気づいたのか、単なる偶然か。彼女は絵を見詰めたままぽつりと呟いた。

 独り言にしては声が大きい。

「もしかしてこの絵を描いた人かしら?」

 やはり私に話しかけていたらしい。婦人は私を見てそう尋ねた。

「はい……ありがとうございます」

 頷くと、婦人はまた絵に顔を向けた。

「こんなことをいうと、気を悪くされるかもしれないけど、息子の絵に雰囲気が似ている気がするの。この淡い色使い。あの子もよくこんな風な絵を描いていたわ」

 私は夫人の横顔を凝視した。この人は、もしかして……

「とても絵を描くのが好きな子だった。何年も前に、学校の帰りに事故にあってしまって……もういないのよ」

 婦人の優しげな風貌に美術室の少年の顔が重なる。

「あの子の絵。ほとんど残ってないの。気に入らない絵は捨ててしまう子だったから。事故に合った時に、持っていたスケッチブックは雨に濡れて駄目になってしまったし……」

 婦人は私に向き直ると、微笑んだ。

「とても懐かしい気持ちになれたわ。ありがとう」

 そう言って深々と頭を下げると、廊下へと歩き出す。

「ま、待ってください!」

 私は思わず呼び止めていた。婦人が振り返る。

「この絵、展示が18日までなんです。その後、飾る所もなくて。良かったら貰っていただけませんか?」

 驚いた顔で私の言葉を聞いてから、彼女は絵を見た。じっと絵を眺めて、首を横に振る。

「うれしいわ、でも貴女が一生懸命描いて、賞をいただいた絵でしょう。親御さんも家に飾りたいのではないかしら。申し訳ないわ」

「いえ、その、家族は絵とか興味ないですし、家も狭くて飾るところもないですし……」

 なんて言おう。どうしよう。評価された部分のほとんどは先輩が描いたようなものだけど、筆を持っていたのは私だし、押し付けになってしまわないだろうか。でも息子の絵がほとんどないと話すとき、とても寂しそうだった。ごちゃごちゃと色んな考えが頭を巡る。

 俯いてあれこれ考えていた私は意を決すると、顔を上げて、婦人の顔を見詰めた。

「私、富永高校の美術部の者です」

 婦人が「まあっ」と小さく声を上げる。

「だから、多分、息子さんと、この絵、無関係じゃないんです。その、筆を持ったのは私ですが……」

 私はしどろもどろに言葉を紡いだ。こんなことを言ったら変に思われるかもしれない。気分を害するかもしれない。けど言わずにおれなかった。

 婦人は私の言葉の意味を考えているようだった。口元に手をやり逡巡し、何かに気付いたように目を瞠る。

「あなた、どうして息子が富永高校に通ってたって分かったの?」

 私はまた俯いた。美しく磨かれた廊下に目を落とし、黙り込む。美術室で息子さんの幽霊に会った、と決定的な一言を口にするのが躊躇われたのだ。

 沈黙が長くその場に満ちた。

「……ごめんなさい。今のは聞かなかったことにしてもらえるかしら?」

 恐る恐る顔を上げる。

「お言葉に甘えて、この絵、いただいてもいい?」

 婦人の顔には嫌悪も、奇異なものを見るような色も浮かんでいなかった。

「はい! 18日の夕方に取りに来てください」

 そう言うと彼女は「ありがとう」と微笑んだ。それからまた絵を見詰める。

「ねえ。あの子は今、どうしてるのかしらね。若くして亡くなって悲しんでないかしら。貴女はどう思う?」

「彼は大好きな絵に携わって、満足して、今頃は天国で笑ってると思います」

 私はありのままを伝えた。

「そう。きっとそうね。……ありがとう」

 婦人は目尻を緩めて微笑んだ。その拍子に雫が一滴頬を伝って落ちた。

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