七話 鎧武者
翌朝、登校途中に神社が見える位置にくると、私は大きく息を吸い込んだ。
大丈夫。あいつはあそこから出て来られない。怖くない。
駄目押しにのの字を掌に書いて吞みこむ。よし、いける。
私は勇ましく足を踏み出した。
眼鏡の霊はやはり石段の上に佇んでいた。見ていると気付かれぬよう、ちらりとほんの一瞬向けただけの視線が、ばっちり合う。
向こうは私のことをずっと見ているんだ。そう気付いて、張り付けたはずの平常心がぺりぺりと音を立てて剥がれた。
こうなると神社の前を歩いて通り過ぎるなんて無理だ。私は鞄を胸に抱え込むと、脱兎のごとく走り出した。
あそこから出て来られなくて実害がないとしても、覗き魔の霊にじっと見られているなんて気持ちが悪くてしょうがない。
焦って走ったせいか、校門前の側溝の蓋で滑り、私は盛大にこけた。幽霊ではなく日頃の運動不足に祟られた。
「いったあ……。あーあ、血が」
鞄を抱えていたせいで手も付けず、膝は皮膚が破れひどいありさまだ。
『慌てて走るからですよ』
背後から、呆れを含んだ声が聞こえる。博文さんだ。
立ち上がれば次から次に血が溢れ、靴下を汚した。
「うわ、痛そう。大丈夫か、友田。保健室いってこいよ。教室に鞄もってってやるから」
博文さんと違って、労わってくれたのは、通りかかったクラスメイトの広田祐だった。
「ありがとう、お願いしていいかな」
私はハンカチを取り出してから、鞄を広田に預けた。
お気に入りのハンカチだったが仕方ない。広げたハンカチを細長く畳み直して膝に巻く。伸縮性などない綿のハンカチでは上手く固定できないが、保健室まで持てばいい。
痛む膝をなるべく曲げないようにしながら、保健室に向かった。
「失礼します。先生いますかー?」
声をかけつつ扉を開ける。室内はしんと静まり返っていた。どうやら先生は不在らしい。鍵もかかっていないのだから、長い時間不在にする気はないはずだ。私は椅子に腰かけて先生の帰りを待つことにした。
丸椅子に座るとついつい回りたくなってしまう。博文さんの視線を気にしながら、控えめにくるくるしていると彼が腕を組んで難しい顔をしていることに気付いた。
どしたのかと問おうとしたとき、博文さんが自身の唇にそっと人差し指をあてて私を見た。次にその指先で私の背後を示す。
私はくるりと椅子を回転させた。保健室の奥。窓際にはベッドが二つ置いてある。その一つにカーテンが引かれていた。先客がいたのだ。
危ない。博文さんに話しかけていたら、独りでしゃべるおかしな人だと思われていただろう。
この時間からベッドにいるということは余程体調が悪いに違いない。ひょっとしたら寝ているのかもしれない。私は居住まいを正して息を潜めた。誰も口を開かない動きもしない、保健室に妙な緊張感が漂う。
……ちょっと待って。
博文さんの姿は私以外の人には見えない。当然、声も聞こえない。なのになぜ、彼は言葉ではなくジェスチャーで注意を促したのだろう。
嫌な予感がする。
上目づかいに隣に立つ男を見上げる。博文さんの今日のコートの色は紺。胸元から白い立ち襟が覗いていた。
博文さんは私の視線を受けて頷いた。
残念なことに当たりらしい。カーテンの向こうに霊がいるのだ。
私は物音を立てぬよう、そっと立ち上がる。ひっきりなしに痛みを訴える膝の傷を無視して、そろりとドアに近付いた。
ドアに指先がかかる。あともう少しだったのに、無情にも背後からカーテンレールをランナーが滑る音がした。
「先生? あ、ごめんなさい」
弱々しい声だった。保健の先生が戻ってきたと勘違いしたらしい。
聞こえなかったことにして廊下に出てしまいところだが、無理があるだろう。
「先生はまだ戻って来てませ……んん!?」
私は叫び声をあげそうになって、咄嗟に両手で口を塞いだ。
かなり怪しい行動をとってしまったが、悲鳴を上げなかった私は偉いと思う。
カーテンの奥から顔を出したのは長い髪の少女だった。見るからに具合が悪そうで、青白い顔をしている。不思議そうに私を見詰める少女の後ろでは、甲冑に身を包んだ、頭に矢を生やしたざんばら髪の男が、怪訝な顔をしてこちらを見ていた。
「あの、どうかしたの?」
目を見開き、口を押えて固まる私に少女は心配そうに声をかける。
「や、その……あんまり顔色が悪いものだからびっくりしちゃって。大丈夫ですか?」
胸元の名札を見て、言葉づかいを改める。三年生だ。
「ありがとう、大丈夫よ……と言いたいところだけど、大丈夫じゃないかも。頭痛がひどくて……」
少女は頭に手をやり、項垂れた。
「家を出た時はなんともなかったのに、電車に乗ってたら、急に。まるで頭に何か刺さってるみたい」
文字通り刺さっている。ただし、彼女ではなく背後の霊に。
彼女の頭痛と背後の霊が無関係だとは思えなかった。ひょっとしたら悪霊なのだろうか。自分が味わった痛みを、憑りついた相手にも与えているのかもしれない。じわじわと相手を苦しめて衰弱させ、やがては……。
そんな想像をして胃のあたりが冷たくなるのを感じた。彼女はまだまだ若い。死ぬには早すぎる。彼女が弱っていくのを、指を咥えて見ているしかできないのだとしたら……。
昨日は悪いことばかりではないと思えたのに、今日は見えることが恨めしくてたまらない。
見えるだけで何も出来ないなんて理不尽だ。
私はすがるように博文さんを見た。彼なら妙案を授けてくれるのではないだろうかと思って。しかし博文さんはこちらを見ない。その代わり真っ直ぐに前を見据えて静かに首を横に振った。
……そんなっ。
思わず声を出しかけたその時、がらりとドアが開いて、保健の先生が入ってきた。
「あら? 今日は朝からお客さんで賑わうわね」
そう言って笑う先生に手当を受けると、私は苦しむ少女に背を向け、保健室を後にした。
四限目が終わると同時に、私は体育館の裏へ走った。
芝生が生い茂っており、放課後は部活動途中の生徒の休憩場所として賑わうが、昼休みには誰も来ない。そんな場所だ。
「博文さん、教えて」
『何をですか?』
ふわふわと後を付いて来ていた博文さんは体育館の壁に背を預け、腕を組んで答える。
いつも姿勢よく立っているのに、珍しい。
「分かってるでしょ。あの霊を祓う方法。確固たる意志を育めば除霊も不可能じゃないんでしょ? 私、今確固たる意志を持ってる」
鼻息も荒く宣言する。すると博文さんは冷たく言い放った。
『貴女が首を突っ込む問題ではありません。放っておけば良いのですよ』
「そんなこと出来るわけないでしょう。先輩が死んだりしたら、後悔してもしきれない」
義憤に燃える私を見おろし博文さんは眉をしかめる。
『貴女は何を言っているのですか』
その言葉に私は切れた。
もうこうなったら一人でなんとかしてやる。怖いと思わなければいいんだ。今なら博文さんを弾き飛ばしたみたいに、勝てるきがする。憤りが恐怖に勝っている今なら。
私は身を翻して走り出した。保健室にまだ彼女がいるか分からないけれど、とにかくじっとしていられなかったのだ。
体育館の角を曲がる。その途端に誰かとぶつかりそうになって、勢いよくつんのめる。
「わっ、あぶなっ」
「ごめんなさい。急いでで……って保健室の!」
そこにいたのは青い顔でベッドで休んでいた少女だった。
背後には甲冑の霊もいる。
ここで会ったが百年目! 私は甲冑男を睨みつけた。
怖くない。大丈夫……怖く……ないなんて、嘘だ。
甲冑に無数に走る細かい傷は、それが飾り物などではなかったことを如実に物語っている。彼はこの甲冑を着て戦場に赴いていたんだ。腰にある太刀で幾人もの人を切ったに違いない。そう思うと、足元から恐怖が這いあがる。
極めつけは頭に刺さった矢。ざんばら髪のおかげで傷口は見えないけれど、生々しいことこの上ない。
『素晴らしい確固たる意志ですね』
こんな時まで厭味ったらしい博文さんが、恨めしい。
それでも彼の嫌味は私に力を与えた。怒りという名の力を。
――消えろ。彼女から離れろ。さっさと成仏しろ!!
私は甲冑男を見据えて、心の中で力の限りに叫ぶ。
甲冑男が驚愕に目を見開いた。
これは……、もしかして効いてる?
『やはり、お主。私が見えるのか!』
違ったらしい。
『いやあ、まさかまさかと思うておったが。どうやらそこな御仁も見えているようだな。見える相手ならば護りがいも一塩というものであろう。のう? 同輩よ』
甲冑男はなぜか親しげな笑顔を浮かべて博文さんに近寄ると、背中を叩こう……として避けられていた。
なんだか思っていた展開と違う。
「あー、今朝の怪我をして保健室来てた子?」
何が起こっているのか、全くついていけない私に澄んだ声がかけられる。悪霊に憑りつかれて頭痛に苦しんでいたはずの先輩だ。
「そ、そうですけど。あのお加減は? 頭はもう大丈夫なんですか?」
彼女はきょとんとしたあと、可愛らしく両手を合わせて頭を下げた。
「心配してくれてたの? ごめんねー。片頭痛持ちで、時々あるのよ。雨の前とか特にね。あ、今日きっと雨降るよ。帰り気を付けて」
空を指さして彼女は言う。見上げれば雲一つない青空が広がっていた。
前日の部活の折に忘れたタオルを取りに来たらしい彼女が去ると、体育館の裏には私と、博文さん、それから甲冑男が残された。
博文さんが長い長い溜息を吐く。
『貴女、昨日僕が話したことをもう忘れたんですか? 死者は生者においそれと干渉できないと言ったでしょう』
「そうでした……」
すっかり忘れてました。私は小さくなって博文さんの説教を受ける。
「ごめんなさい」
『ごめんなさいで済む問題だとでも? そこらの人間より、見える貴女のほうが危ないとなぜ理解しないのです。それとも三歩歩けば人の忠告も助言も忘れる鳥頭なんでしょうかね?』
ちくちくくどくどと博文さんの説教は終わりが見えない。
『まあまあ、もう良いではないか』
と間に入ったのは甲冑男だった。
『ところで、いまいち話が見えんのだが、お主、さきほどはもしや私を祓おうとしたのか?』
「い、一応。彼女の頭痛とその矢が無関係だと思えなかったので……。すみません、霊が見えるようになって日が浅いもので勘違いしてたみたいで」
まさか無関係だったなんて。
『ほう、学友を救うために己の危険も顧みず、立ち向かおうとする意気やあっぱれ。気にいった。今日この時より、この義直、お主を守護しよう』
『結構です』
守護? なんですかそれ? と私が質問するより早く、間髪入れずに博文さんが断りを入れる。
なんだか分からないけど、私に選ばせてくれないかな。
『そう言うな。これでも伊達に長くこの世に留まっておらん。それなりに役に立つぞ』
『結構です』
博文さんの返答は素っ気ない。
「あの、博文さん。守護ってなんですか?」
私は二人の会話に割って入って説明を求めた。
『霊にも特性があるのは貴女でももう理解しているでしょう。この男は守護霊や背後霊と呼ばれる類のものです。といっても解釈は百人に聞けば百通りの答えが返るほど、線引きは曖昧ですがね』
博文さんは面倒そうに説明をすると甲冑の男――義直さんを見た。
『だいたい、貴方、さっきの女性を守護していたのでは?』
『いかにも。今朝がた、あの者が電車にて老婆に席を譲るところを見かけてな。殊勝な心意気の女人よと守護しておった』
「今朝、守護を始めたばっかりなんですか……」
それでもう私に鞍替えとは、男心と秋の空とはよく言ったものだ。というか幽霊も電車に乗るんだ。
『うむ、半日様子をみておったが、特にこれといった危険も見当たらん。ならば、お主のほうが私を必要としておるのではないかと思うてな』
『ですから、結構ですと申し上げています。お引き取りを』
「ちょっと待ってよ、博文さん。守ってくれるっていうなら居てもらったほうがいいんじゃないの? 長生き……じゃないや、長く幽霊やってるのなら有意義な話がきけたりするかも」
たとえば、見える人間が幽霊に勝利する方法とか。
見た目は博文さんより若いけど、服装を見る限り、幽霊生活は博文さんより余程、年季が入っている。博文さんの知らない知識を有している可能性は十分ある。
『その通り、亀の甲より年の功だ。なんでも聞いてくれ』
義直さんは自信ありげに頷く。
博文さんは少し興味をひかれたようだった。顎を撫でながら義直さんに尋ねる。
『具体的には?』
『こう見えて馬と弓の扱いには少々自信がある。裸馬の上から弓を射るコツを伝授しよう。それから……』
「あ、やっぱり結構です」
私はそう言って、甲冑の守護霊こと義直さんの申し出を断った。