三話 祟り
「お母さん、お願いがあります」
翌朝、誰よりも早く起きるなり、私はまずシャワーを浴びた。
それからあまりの早起きに驚く母に向かって頭を下げた。
「何も聞かずに、病院に連れて行ってください」
「は? 何言ってるの?」
母は呆気にとられた様子で絶句したあと、眉を顰めてため息を吐いた。
「聞くに決まってるでしょう。まだ具合が悪いのね? 安田内科でいいわね。診察券を用意しておくから、病院が開くまで暖かくして寝てなさい」
食事もとらずに寝たせいで、すっかり体の具合が悪いと思われているらしい。私は受診の支度を始めようとする母を押しとどめて言った。
「いえ、眼下と脳神経外科でお願いします」
母は今度こそ言葉を失ったようだった。たっぷり一分はぽかんと大きく口を開けてから、困惑顔でそっと私の頭をなでた。
「どうしたの? 頭が痛いの? どこかにぶつけた?」
「うん、ちょっと……そんな感じ」
言えるわけがない。幽霊が見えたから病院に連れて行ってくれだなんて。
「そんな感じって、どんな感じよ、もう。ぶつけたのなら、いつ、どこで、ぶつけたかちゃんとお医者様に説明しないと。やっぱり内科にも行ったほうがいいんじゃない? あ、念のため熱を測っておいてね。とりあえず洗濯機を回して、お父さん起こさなくちゃ。朝食は自分でしてもらって、あとやっておかなきゃいけないのは……」
小さなころから滅多に風邪もひかない怪我もしない健康優良児な私が、病院に連れて行けと言い出すなど、何かあるに違いないと考えたのだろう。母はぶつぶつ言いながらも了承してくれた。
言い付けどおり体温計を取り出すが、当然熱などあるはずがない。母はしばらく首を傾げていたが、私の希望通り眼科と脳神経外科に連れいくことにしたらしい。行きつけの眼科と、かつて祖父がお世話になった脳神経外科の診察時間をチェックし始めた。
ややして準備が終わると、心配する父に見送られ、私は母と共に車に乗り込んだ。
「あら、やだ。マスクを忘れちゃった」
エンジンをかけようとした手を止めて母が呟いた。母は病院に行くときには風邪予防のためマスクを欠かさない。さすがに眼科と脳神経外科には必要ないと思うが、余計なことは言わないでおこうと私は口を噤んで、マスクを取りに戻る母を大人しく待つことにした。
それにしても、病院でなんて説明したらいいんだろう。見えるはずのないものが見えて、聞こえるはずのない声が聞こえた。なんて言った日には間違いなく違う科を紹介されるだろう。
『おや、どちらへお出かけですか?』
私以外には誰もいないはずの車内に突然響いた男の声に、私はびくりと肩を揺らして固まった。
『今日は学校がある日では?』
まず最初に耳鼻科に行くべきだろうか。声がした方角――私の左隣を務めて見ないようにしながら考える。
『まさか、正気を疑って医者にかかろうというのではないでしょうね?』
「疑ってるのは、目と脳の病気です」
とは言ってみたものの実のところ、正気も疑うべきかと思っている。何らかの原因で脳の機能に障害が生じて幻覚や幻聴があるのと、精神に異常をきたしているのとではどちらが治る見込みがあるだろうかと、そればかり考えている。
『自分は正常で、僕が実在するのだとは考えないのですか?』
「いやだって、おかしいでしょう」
幽霊が実在するというのなら、なぜ今まで見えなかったのか。また周囲に見える人がいないのか。
友人の知り合いの親戚がどこそこで幽霊を見ただとか、従妹の友達の友達が怪奇現象に遭遇しただなんて話はたくさん耳にするけれど、幽霊に出会った本人にはお目にかかったことがない。
幽霊の目撃話なんて眉唾物。皆もそれを分かっていて怪談話に興じているのだと思っている。お化け屋敷に行くように、ただキャーキャー言いたいだけなのだと。
『残念ながらと言うべきが、安心なさいと言うべきか……。貴女は正常ですよ』
「幻聴に言われても説得力に欠けます」
ふうとため息を吐く音が聞こえた。
『医者にかかって、貴女が納得するというのならお好きになさい。時間の無駄だったとすぐにわかりますよ』
ガチャリと音がして車のドアが開く。
「お待たせ。あら? どうしたの。顔が真っ青よ。まさか頭痛がひどくなってきたの?」
運転席に座った母が、振り返って私の顔を覗き込み、慌てた様子で告げる。
「ううん、大丈夫。ちょっと寒かっただけ」
「そう? 今、暖房つけるわね」
こうして私は、眼科と脳神経外科を梯子することになり、その結果、全く問題ないと太鼓判をおされた。
幽霊が見えるとは、言えなかった。
『気が済みましたか?』
母が車を出すと同時に姿を消していた男が、ふわりと目の前に現れた。
コンビニで買ったおにぎりで昼食を済ませ、制服に着替えて学校に行こうと靴を履いた、その玄関に突如である。目を逸らす暇もなかった。
『ああ、返事はなくて結構です。母君に聞かれてはまた医者巡りになってしまいますからね』
昨日とは違うモカブラウンのとんびコートに山高帽子、ステッキを手にした男が澄ました顔で唇に人差し指を当てて立っている。
昼日中に堂々と……。幽霊だというのならせめて現れるのは夜限定にしてほしい。
『貴女がいくら否定しようと僕は確かに存在するのですよ。いい加減に認めて楽になりなさい』
まるで取調室の刑事のような台詞を口にして、男は何故か学校に送ってもうら車にまで乗り込んできた。
運転席の後ろに私、その左隣に男。今朝と同じ位置だ。
おかげで私は顔を右に向けて、窓の外を眺めている体を装わねばならなかった。
「何もなくて良かったわねえ……」
そう言ってハンドルを握ったきり、母は車を出そうとしない。不思議に思っていると、母はためらいを含んだ声で話し始めた。
「智希……何か悩みごとない? もし辛いことがあるのならいつでも話してね。お母さん、貴女が話してくれるの待ってるから」
「は?」
隣でぷっと吹き出す音がする。
「いえ、いいのよ。無理に聞く気はないから。ねえ、今日本当に学校にいくの? お休みしてもいいのよ? なんだったら保健室で休んでいても……」
いやいや、ちょっと待って。
夕食もとらず、部屋にこもって寝た娘が、翌朝病院へ行きたいと言い出して、いざ連れて行ってみたら健康体だった。
そこから母がどういう結論を導き出したかはすぐに分かった。
「お母さん、心配してくれるのは嬉しいんだけど、全く違うから。いじめなんてないし、友達と喧嘩もしてないからね。教師とのトラブルもありません」
昨晩急に具合が悪くなって、そのせいか怖い夢を見た。自分が深刻な病に侵されている夢で、朝起きてから心配になってしまった。夢に影響をうけただなんて恥ずかしくて言えなかった。そんな内容をいっきに捲し立てると、母はようやく笑顔を見せた。
「なんだ、そうだったのね。深く考えすぎちゃったわ」
発進した車の中で、私は隣に座る男を睨みつけた。
諸悪の根源である男は、私が母とやり取りしている間、ずっと肩を揺らして笑っていたのだ。
男は私の視線に気付くと、流し目にこちらを見やる。
『誤解が解けてなによりです』
なんて性格の悪い幽霊なんだ。
文句の一つや二つ言ってやりたいのに言えないのが悔しい。
こうなったら徹底的に無視してやると決めて、私は窓の外へと視線を戻した。
「智ちゃん、おそよう。どうしたの、あんたが病院なんて。何か拾って食べた?」
「私は犬か。ちょっと気分が悪くなっただけだよ。もう大丈夫」
「鬼の霍乱だね。あ、これ。今日のノートね。今のうちに写せるところだけでも写しちゃいなよ」
昼休みも終わろうかという時間になって登校した私に、茜は軽口を叩きながらノートを差し出した。
「ありがとう。助かる」
「いいってことよ。ところで、聞いた? 八田神社の話」
ノートを写しだした私に茜は顔を寄せて囁く。
「ああ、聞いた聞いた。転んで頭を打ったんでしょ?」
つられて、小声で返したが、声を潜める理由が分からない。
「うん、そうなんだけどね。どうもそれだけじゃないらしいよ」
「あの神社ね、五年前に人が死んでるだって」
「え?」
私はノートを写す手を止めて、茜の顔を見た。
「ほら、あの神社高台にあるでしょ? 神社のほうが高いし、木もあるから、周りからは神社が見えないけど、逆はそうじゃないらしくてね。斜面の上ぎりぎりに立つと隣に建つある民家が覗けたんだって。んで、その家の娘さんの部屋を覗いてる男がいて、ある時、娘さんと目が合ってばれて、慌てて逃げようとして、足を滑らせて石灯籠の角に頭をぶつけて死んだの」
「それは……気の毒だけど、自業自得だね」
そう言いながら、嫌な符号に気付いていた。
「石灯籠の角に頭をぶつけて……って一緒でしょ?」
――昨日、発見された人と。
茜は一際小さな声でそう言うと、両手を顔の前でだらりと下げた。柳の下の幽霊がとるあのポーズである。
「たたりじゃー。昨日の事故は単なる事故じゃなくて、死んだ覗き魔のたたりなのじゃー、って話でもちきりなの」
昨日までの私なら、そんな馬鹿な。石畳の苔を掃除した方がいいんじゃないのと笑ってすませただろう。けど、今は笑えない。なぜなら今も私の後ろにはトンビコートの男がいるのだから。
それにもう一つ気に掛かることがある。私の目に幽霊の姿が映るようになったのはいったいいつからだったのだろう。背後の男と目が合ったのがファーストコンタクトだと思っていたけれどそうじゃないとしたら?
「死んだ覗き魔って、どんな人だったの? もしかして若くて細身の眼鏡の男の人じゃ……」
昨日の朝、石段に佇んでいた男性。よくよく考えてみると不思議だった。関係者ならあんなところでぼうっと周囲を眺めていられるような状況じゃなかったはずだ。
「んー、体型は知らないけど。若い男の人だったらしいよ。遺体の傍には血まみれの眼鏡が落ちてて……って、よく知ってるねえ」
その後も茜は色々としゃべっていたけれど、私の耳には入ってこなかった。
最初の一行を写しただけで、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。