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十話 雨の公園2

『親子ではないかもしれませんね』

 博文さんの声は硬い。

『しかし……だったらなんだと言うのだ?』

 義直さんは首を捻りながら二人を見て呟いた。

 目の前でこんなやり取りをしているというのに、女性の意識がこちらに向く気配は一向にない。

 私はにじり寄るようにして距離を詰め、子供を傘の下に納める。それから恐る恐る女性に向かって話しかけた。

「あの失礼ですが、この子のお母さんですか?」

 私は女性の返事を待った。

 傘を叩く雨音と、公園のそこかしこに出来た水溜りに落ちる雨粒のたてる音が、混ざり合ってハーモニーを奏でていた。雨の音は不思議だ。心地よく感じるときもあれば、煩わしいと耳を塞ぎたくなるときもある。今はそのどちらでもなかった。ぽつぽつぽたぽたぱらぱら、無数の水音が耳に届くたびに、追い立てられるようにして足元から悪寒が這い上がる。

「私の声、聞こえてますか?」

 逃げ出してしまいたくなる気持ちをなんとか押しとどめて、私は再び声をかけた。

『お返事してくれないの』

 小さな声が足元から聞こえた。

『お手て放してって言ってもお返事してくれないの』

 子供の声だった。

 視線を足元に移すと、つぶらな瞳が私を映していた。赤いボールには歪な字で大きく“まり”と書かれている。自分で書いたのだろうか。

「まり……ちゃん?」

『うん』

 服装と丸く整えられた髪型から、てっきり男の子だと思っていたが女の子だったらしい。

「えっと、手を繋いでる女の人、お母さんじゃないの?」

 まりちゃんが首を振る。毛先から滴が飛び散った。

『違うよ。ママは救急車に乗ってどっかに行っちゃった』

 もしかして、その救急車にはまりちゃんも乗っていたのではないだろうか。

『まりもついて行こうとしたの。そしたらおばちゃんが危ないから公園の外に出ちゃ駄目って、お手てを放してくれないの。ママすごく泣いてた。どうしてかなあ? まり、ママが心配』

 まりちゃんは途方にくれたように言って俯く。

 女性はまりちゃんの手を優しく包み込むように、しかししっかりと握りしめていた。顔は前を向いたままで、その視線は焦点を結んでおらず、どこを見ているか分からない。

『ふむ、悪意があって手を放さぬわけではないようだな。ここから出ては危険だと本心から思うておるのだろう』

 私は義直さんの言葉に頷いた。

 彼女はきっとまりちゃんが雨に濡れていることも気付いていない。ただ公園の外が危険だと信じて、まりちゃんが出て行かないように手を繋いでいるのだ。

 けど彼女が手を放してくれないとまりちゃんはお母さんのもとへ帰れなさそうだ。

 帰してあげたい。まりちゃんの意識が戻ることを信じて今もきっとまりちゃんの傍にいるに違いないお母さんのもとへ。

『我らの声は聞こえとらんようだなあ』

 義直さんが女性の目の前でひらひらと手を振る。そうまでしても彼女から何かしらの反応を引きだすことは出来ない。

「どうして反応がないのかな? まりちゃんには返事をしたみたいだったのに」

『死んでから時間が経っているのでしょう。何らかの理由からこの世に留まりつづけているものの、誰も気付かない。何もできない。無力感や諦めの気持ちから、気概を維持できず、意識を保てなくなってきているのです』

 博文さんはちらりとまりちゃんに視線を落とした。

『その子供の霊に出会わなければ、遠からず成仏していたでしょう』

 つまり、まりちゃんは女性に手を放してもらわなければここを離れられず、女性はまりちゃんがいる限り成仏できない……堂々巡りだ。

「どうしよう」

 霊に触れる事が出来れば彼女の手をこじ開けて、無理やり引きはがすことが出来たかもしれない。けどたとえ彼女に触れられても何故かそうしてはいけない気がした。

『ううむ。意識のない中にあっても、この幼子に執着しておるとなると、ちと厄介なことになるかもしれんな』

「厄介なこと?」

 義直さんを振り返って尋ねる。

 義直さんが口を開きかけたその時、泣き声が聞こえた。

 まりちゃんが俯いたまま肩を震わせていた。

『おばちゃんはどうしてお手てを放してくれないの。まり、お家に帰りたい。ママに会いたい』

 ひっくひっくとしゃくりあげるまりちゃん。小さな手から赤いボールが落ちて転がった。

『あ、まりのボール』

 頬を涙で濡らしたまりちゃんが、そう言って手を伸ばす。

『だめっ! 彰、止まって!!』

 絶叫が耳をつんざいた。

 ぼうっと虚空を見ているだけだった女性が、取り乱した表情で叫ぶ。

『だめよ! 彰、とまりなさいっ!』

 こんなに切羽詰まった声を聞いたことがなかった。

 虚ろながらも優し気だった女性の顔は恐怖に引きつり、唇を震わせて、まりちゃんを食い入るように見詰めている。

 “彰”それがこの女性が公園の外にある何かから、本当に守りたかった子供の名前なのだろう。

『我が子と重ねたか』

 義直さんの声には憐憫の情が滲んでいた。

 転がるボールと追いかける子供。そして救急車。

 彰君とまりちゃんの身に降りかかったであろう出来事は何となく想像がつく。

『や、やだ。おばちゃん、怖い。お手て離して。痛いよお』

 子を思う女性の気持ちは、しかしまりちゃんには恐怖でしかなかった。まりちゃんからしてみれば、知らない名前で自分を呼ぶ、家に帰してくれない人なのだから。

 離れようと、繋がれた手を振り回す。

 子供を離すまいとする女性はますます繋いだ手に力を入れる。

『やだ、痛い離して』

 まりちゃんが痛みに眉を寄せて、激しく泣きはじめた。

 泣きわめくまりちゃんを見ても女性は手の力を緩めない。

 まりちゃんの拒絶を感じ取ってか、女性の必死の形相が、徐々に歪んでいく。子を守ろうとする母の顔から、違う何かへと変わっていくようで、その先を見るのが恐ろしかった。

『拙いですね』

 博文さんが呟いた。それから私に向き直り告げる。

『確固たる意志はありますか?』

「はい?」

 いきなり振られたその言葉に、思わず語尾が上がる。

『祓えとは言いません。僅かでいい、弾きなさい』

 博文さんを弾いたようにこの女性を弾けと、そういうことだろうか。

「いや、急に言われても……」

 私は口ごもった。まりちゃんを家族のもとに帰してあげたい。その思いは変わらない。けどそれと同時に私は今やこの女性にも同情してしまっていた。きっとこの気持ちは、意志を鈍らせることに繋がるのだろう。同情が危険だと言った博文さんの言葉が身に染みるようだった。

 私の迷いを見透かしたように博文さんの目が据わる。

『確固たる意志がありますね?』

 二度目の質問は有無を言わせぬ形だった。

『放れろと。強く願うのです。そこの武者。子供を頼みます。女の力が緩んだ隙に公園から連れ出して』

『あいわかった』

 博文さんの指示に義直さんが力強く頷く。

 博文さんは迷う私の肩に手を置いて――もちろん感触はなかったけれど――私の目をじっと覗き込んだ。

『いいですか、貴女は生きている。ここにいる誰よりも力に溢れている。自分を信じて……』

 ふっと博文さんが微笑んだ。それは初めてみるような優しい顔で、ああ、勇気付けてくれるんだと感激した次の瞬間には、冷たい声音が耳に滑り込む。

『死ぬ気で挑みなさい。大丈夫です。しくじった際には、死に水をとってさしあげます』

 スパルタにも程がある。

 これっぽっちも大丈夫じゃない博文さんの激励に、それでもなんとか勇気を引き立たせていると、まりちゃんの鳴き声が一際激しくなった。見れば女性がまりちゃんを引き寄せようとしている。

 彼女の腕の中に囲い込まれたら、もう手はだせなくなるかもしれない。

 腹をくくるしかなかった。確固たる意志なんてものがあるのかどうか分からないけれど、当たって砕けるくらいなら出来るはずだと信じて。

「死んだら、先輩としてちゃんと面倒みてよ!」

 私はまりちゃんと女性の間に割って入った。両手を広げて、まりちゃんを背後に庇う。

「この子は彰君じゃない。この子は生きてるの。だからまりちゃんを待っている人のもとへ帰してあげて」

 懇願しながら強く願う。まりちゃんを離して。まりちゃんに何かあったらきっと彰君も悲しむ。何よりこの女性が正気に戻ることがあれば自分を許せなくなるだろう。

「放して!」

 渾身の力を入れて叫ぶ。

 女性の体が微かに揺れたのが分かった。

『今です』

 博文さんの声を合図に、義直さんがまりちゃんの体を攫う。

 抵抗はなかったように見えた。女性の手はするりとまりちゃんから解ける。

 ほっと息をついたのも束の間、焦りを含んだ博文さんの声が聞こえた。

『何をぼさっとしているのですか、貴女もさっさと公園から出なさい』

 不思議なものを見る目で空っぽになった己の掌を見詰めていた女性が、のろのろと顔を上げた。辺りに視線を彷徨わせ、その目がまりちゃんを捉える。しかし、彼女は義直さんに抱えられてすでに公園の外に出ていた。

 女性の顔が絶望に染まった。

『公園から……お母さんから離れちゃ駄目って言ったのに……』

 掠れた声でそう言いながら、クォーツ時計の秒針のように、間を空けて小刻みに首を回す。

 暗く陰った瞳と目があった。

『貴女が?』

「ひっ」

 悲鳴は喉の奥に張り付いて出てこない。

 逃げなければと思うのに、震える足はじわじわとしか動かなかった。

 見つめ合ったまま、少しずつ、少しずつ後退を続ける。

『彰を返して、あき…ラ……を』

 白い指先が、私に向かって伸ばされる。

『さっさと走りなさい!』

 博文さんの声に弾かれるようにして、私は走った。走って、走って、もう少しで公園の外に辿り着くというところで足がもつれた。草の上に前のめりに倒れ込む。

『立って。早く!』

 博文さんが叫ぶ。

 背後からひやりとした風が吹きつけた。

 振り返った先には、髪をふり乱し今にも掴み掛らんとする女性の姿。

 私は手にしていた買い物袋を咄嗟に顔の前に着きだした。目の前でお守りが二つ、仲良く揃って揺れる。

 その時、なぜだか助かったと思った。これだ、と。

「神様、仏様、雷様。お願い、助けて!」

 神様が助けてくれる。お守りが私を守ってくれる。だって間違ったことなんてしていない。だから絶対大丈夫。無条件にそう信じ目を閉じて祈った。

 何かが叩きつけられるような音がした。

 冷たい風が遠のく。そっと目を開けると、目前に迫っていたはずの女性が、数歩離れた位置まで後退していた。

『今のうちです』

 博文さんの声は幾分か冷静さを取り戻していた。

 私は這うようにして公園の外に体を押し出す。

 鋼板で覆われた側溝を乗り越え、掌にアスファルトの感触が伝わったときには心底安堵した。

 女性が追いかけてくるのでないかと心配したが、彼女はこちらに来ようとはしなかった。またあのぼんやりとした顔に戻って、公園の中に一人でぽつんと佇んでいた。

『ようやったな』

 義直さんの声がする。

 見上げると彼の腕の中にまりちゃんの姿はなかった。

『母のもとへ帰れと言うたら、あっという間に飛んで行きおった』

 雨はいつの間にかやんでいた。

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