九話 雨の公園1
六畳の洋室に、甲冑姿の武者とトンビコートに山高帽の男、それから私。ベッドと勉強机に占拠されてただでさえ狭いというのに、なんとも息苦しい。
「定員オーバーな気がするんですけど」
『だそうですよ』
耐えかねてぼそりと呟けば、博文さんが義直さんを見やって言う。
『気にするな。我らはほれこのとおり、宙にでも浮いておればいいからな』
完全に自分の存在を棚に上げる博文さんと、論点がずれている義直さん。
そんな二人にどうやって出て行ってもらおうと考えていると、階下から母の声が聞こえた。
「智。ちょっと悪いんだけど、お使い行ってきてくれなーい? ブイヨン忘れちゃってー。お母さんは火の側離れられないのよー」
いつもなら、なんだかんだと理由をつけて断るか、お駄賃を要求するところだが、二つ返事で引き受けた。
狭い部屋で二人に挟まれて過ごすより、雨の中、片道一五分のスーパーへ傘をさして行く方がマシに思えたのだ。
手渡された買い物袋には交通安全と家内安全のお守りが付いている。初詣に行くと数種類のお守りを買ってくる母の仕業だ。私が受験生の年には合格祈願もぶらさがっていたっけ。
傘を手に外に出れば、当然のようにこうもり傘をさした博文さんがついてくる。義直さんは傘をささないが、雨に濡れている様子はない。
……博文さんの傘は果たして必要なのだろうか? そんな疑問を抱きながらスーパーへ向かう道中で、その霊に出会った。
そこは小さな公園だった。ブランコが二台と象を模した滑り台が一つ。着地点にはレンガに囲まれた砂場。
周囲の住宅街の高齢化が進み、子供が遊んでいる姿を見ることもすっかり少なくなった。
見通しを良くするため根元に鋸を入れられえた木が無残な姿をさらしている。
その公園の中にぽつんと二人はいた。傘をさした中年の女性の霊と、その女性と手をつなぎ、反対の手で赤いボールを大事そうに抱えている小さな子供の霊。
彼女たちが何をするでもなく公園の中央に佇んでいなければ、あるいは今日が雨じゃなければ、私は二人が霊だと気付かずに通り過ぎていたかもしれない。
私が異変に気付いたのは、子供がぐっしょりと濡れそぼっていたからだ。
母親らしき女性は傘をさし、しっかりと子供と手を繋いでいる。しかしその傘の下に子供はおらず、また差し出そうとする様子もない。
一目で分かる異様さだ。
「あれって……」
彼女たちの姿を遮るように博文さんが隣に並んだ。
『やめておきなさい』
博文さんの言いたいことはわかる。
義直さんのビジュアルに尻込みし、神社の地縛霊と目が合って笑われたぐらいで、びびって平常心を保てなくなるような私に出来ることなんてないってこともわかってる。
多くの霊が数年経てば諦めて成仏するというのなら、わざわざ首を突っ込むこともないのかもしれない。
でも――
私はちらりと傘の影から二人をみた。
中年の女性は生気のない虚ろな瞳でぼうっと虚空を見詰めている。ボールを持った子供の服からは吸いきれなくなった雨が雫となってぽたぽたと滴り落ちていた。
霊とはいえ幼い子供が雨に打たれているのをほうっておくのは心が痛む。
せめて傘を……と思って気付いた。
「結局、幽霊に傘って必要なの?」
ぽつぽつと雨を弾く博文さんの傘と、雨に降られているのに濡れない義直さん。雨にぬれそぼる子供。正しい霊の姿はどれ?
『必要だと思えば必要になります』
謎かけのような博文さんの言葉。意味はさっぱり分からない。
「噛み砕いてお願い」
『雨が降っていると霊自身が認識して、濡れなければおかしいと霊が思えば濡れるのです』
「……義直さんは雨が降っていると気付いてないってこと?」
私がそう言うと、ざんばら髪の霊は首を振った。
『私も死んだばかりのころは、あの幼子のように雨に濡れておった。しかし雨が降るたびに鎧や服が張り付く不快さに嫌気がさしてな。ある時、雨になど負けてたまるかと気合で打ち勝ってやったのだ。それ以来天候に左右されぬようになった』
私は呆気にとられて義直さんを見た。そんな芸当が出来るなら先に矢を消せばいいのに。
「幽霊って結構でたらめなんだね……」
『思念の塊ですからね。雨の日に死んだせいで、常に濡れている霊なんてものもいますよ』
常に濡れているなんて気の毒だ。さぞ気持ちが悪かろう。
傘をさした女性と子供の、親子らしき幽霊。二人にいったい何があったのだろう。どうして子供は雨に濡れたままなのだろう。
「あの女の人が傘に入れてあげたら子供は濡れずに済むのかな? あの二人って悪霊じゃないよね? 地縛霊?」
彼女は子供が雨に濡れていることに気付いているのだろうか? もし気付いていなのだとすれば、一声かけるだけでいいように思える。仮に機嫌を損ねて危険な状態になっても、地縛霊なら急いでこの公園から離れれば問題ないはずだ。
『悪いものではない……が、どこかおかしいのう。博文よ、その方はどう考える』
呼び捨てにされた博文さんは眉を顰めて不快感を示して見せたが、溜息を吐いただけで文句は言わなかった。
『女性は地縛霊と言って差し支えないでしょう。ですが子供は……』
博文さんは一度言葉を切ると、私を見た。
『あの子は恐らくまだ死んでいません』
「は? 死んでない? どういうこと?」
『やはりそうか。生霊ってやつだな』
私の疑問に答えたのは義直さんだった。博文さんが頷く。
『体は生きているが、意識が戻らない状態にあるのでしょう』
「それって生死の境を彷徨ってるってことじゃ……」
『一概にそうとは言い切れませんが、可能性はあります』
ボールを抱える小さな手。まだ幼稚園に行き初めたばかりぐらいの歳だろう。
あの子が死にかけている?
「このまま公園にいたらまずいんじゃないの?」
『良くはないでしょうね』
博文さんのその言葉を聞くなり、私は公園に向かって足を踏み出した。
隣の女性が母親なのだとしたら、目覚めたとき、あの子は悲しい思いをすることになる。それでも小さな命が消えるのは間違っている。子供の目が開く瞬間を待っている人がきっといるはずだ。
「止めないでよ」
少し遅れて隣に並んだ蝙蝠傘の人物にそう告げる。
博文さんは肩をすくめた。
『もう止めたんですがね……』
諦めたような博文さん。義直さんは何故か得意げな顔で付いてきた。
『幼子の目を覚ましにいくのか。良い心意気だ。さすが私が見込んだだけはある』
私を褒めているのか、自分を褒めているのか。どんな霊であろうと関わるのを嫌う博文さんと、義直さんのスタンスは少々違うらしい。
私は公園の中を横切り、二人の前に立った。
子供が顔を上げてこちらを見る。女性はぼんやりと前を向いたままだ。まるで私達を気にする様子がない。
私は女性の様子を眺めて「あっ」と声をあげた。彼女の持つ傘がレースで縁どられているのに気付いたのだ。日傘だ。
彼女は今、雨が降っていると認識していない。雨の日に死んだ霊がずっと雨に降られていることがあるように、彼女にとって今は日傘が必要な天候なのだろう。その証拠に半袖のTシャツにアンクル丈のパンツ。足元はサンダルといった出で立ちだ。
女性から子供に視線を移す。ぞくりと寒気が背筋を伝った。
不思議そうな顔で私を見上げる子供の服装は、長袖に長ズボン、スニーカー。
「……季節が合ってない」