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一話 私と博文さんの日常

短編「エクソシストは今日も高笑い」の連載版です。

一話はほぼほぼ短編のままですが、一部改稿しております。

『霊と相対するときの心得』

一.顔を見せてはいけない

二.優しく笑いかけてはいけない

三.頼みごとは一つしか聞いてはいけない


 交差点を挟み東西に設置された信号が、青から黄色に変わった。西から来た白い軽自動車がスピードを上げて交差点に進入し、左折して北へ針路を変える。

 少し遅れて、南北に設置された歩行者向けの信号が青に変わると、紺やグレーの制服に身を包んだ学生達が、いっせいに道路を渡り始めた。

 コンビニ前の交差点は、昼日中は長閑なものだが、朝夕になると急に往来が激しくなる。

幹線道路に続く抜け道として利用する通勤の車と、近くにある富永第一中学と富永高校の生徒が行きかうためだ。

 ……まだいる。

 忙しく人と車が行き来する交差点に、ぽつんと佇む人影を見つけ、私はため息をついた。

 自転車に乗った中学生が、左折する車に轢かれて亡くなったのが一週間前の出来事。

 それから彼は、日がな一日、ひしゃげた自転車の幻影を不思議そうに眺めていた。

『ほう、まだいるのですか』

 ふわりと背後で灰色の布が舞う。

『一週間経ちましたか。とうぶん居座りそうですねえ』

 私は答えない。

『どうします? 道を変えますか?』

 振り向きも、答えもしない私に、灰色の布を纏った人物は、気にする風もなく声をかけ続けた。彼にもわかっているのだ。今、私が返事など出来ないことを。

 ここは交差点を見通せる位置にあるコンビニで、数人の客と店員がいる。しかし、その誰にも彼の姿は見えていない。

 なぜなら、彼もまたあの少年と同じ、幽霊なのだから――。

『気付いていないんでしょうね。己の死に。哀れな事だ』

 まるで他人事のように語る背後の人物は、もうとっくに自分の死を自覚しているらしい。

 なにせ死んだのが大正時代らしいから、どんなに鈍い人間でも、さすがに百年も経てば気付くだろう。

『一週間も経過して気付かない者は、一ヶ月たっても気付きませんよ。あの自転車を車や人がすり抜けても、おかしいと思わないんでしょうかね。彼は』

 大抵の人は死んだその日のうちに自分の死を理解して、この世を離れる。

 けれど極稀に、あの中学生や背後の人物のように死んだ後もこの世に留まり続ける者達がいる。

 留まり続ける理由は様々だけど、一番多いのは、自分が死んだ事に気付いてないってパターンだ。

 火葬場で自分の遺体が焼かれるのを見れば嫌でも気付くだろうに、ああやって死んだ場所から動けずにいて、タイミングを逃してしまうとそれも難しくなる。

 俗に言う地縛霊の誕生だ。もっとも私は、自縛霊というほうが正しいと思っている。彼らは別にその地に縛り付けられているわけではない。自分で自分を縛ってしまっているだけなのだ。

 しかしホラー映画や小説のように、成仏できないからといって、生きている人間を呪ったり、寂しいから仲間を増やそうと誰かを殺したりなんてことはしない。

 普段、温厚で優しい人が、ショックな出来事があったからといって、見境なく人を殺してまわったりなんてしないのと同じで、死んだからといってそうそう人は変わるものじゃない。「三つ子の魂百まで」という諺は死んだ後にも当てはまる。

 まあ、ごくごく稀に、あまりに強い恨みを残した者はそうなるみたいだけど……。

『僕は遠回りをお勧めしますけどね。ほらその道を少し戻れば迂回路があるでしょう』

 雑誌を読むふりをしながらチラチラと交差点へと視線を送る私に、背後の人物は自分勝手な希望を述べる。その迂回路を利用すると十分は余計な時間がかかってしまう。一日二日のことならいざ知らず、いつ消えてくれるか分からないあの少年が成仏するまで迂回路を使うだなんて面倒もいいところだ。

「さて、帰ろうかな」

 雑誌を棚に戻しながら、呟いた独り言は、背後の人物へとかけたものだ。

『かまいませんがね……今度は、失敗しないでくださいよ』

 店を出るために振り返った私の目の前には、灰色のとんびコートを羽織り、焦げ茶色のステッキを持った紳士が立っていた。

 歳は四十に差しかかろうというところだろうか。

 一筋の乱れもなく後ろに撫で付けられた髪は、左右の耳の上に白いものが混じっている。口元や目頭に刻まれた皺は、男に上品な渋みを与えていた。

 古臭い言い方だが、ナイスミドルという言葉がぴったりな人物だった。

 立ち読みだけで何も買わずに店を出た私に、「ありがとうございました」と皮肉の利いた声がかけられる。私は交差点へと歩き出した。

 信号は……赤。

 しまった。あの少年の隣へ並ばなければならない。

 けど、ここで変に歩調をゆっくりにしたりしてはいけない。私に彼の姿が見えていると、少年に悟られてはいけないからだ。

 横断歩道の手前で足を止めた私に少年の視線が注がれる。少年が一歩近づいた。

 私は真っ直ぐ前を見詰めた。大抵の信号待ちの人がそうするように、向かい側の電柱に取り付けられた信号機が、青い色に光るのを未だか未だかと待ちわびているように。

『あの、あの自転車……壊れてるんでしょうか? 僕、あれに乗って行かないといけないんですけど。何度動かそうとしても動かなくて、すみませんけど、動かすの手伝ってもらえませんか?』

 決して振り向いても、逃げ出してもいけない。

『あの? 僕どうしても行かないといけなくて、約束してるんです』

 どこにいくつもりなのだろう。約束の相手はもうそこには居ないのに。少年が死んだことなどとっくに知っているだろうから。

『自転車を起こす手伝いをしてもらえるだけでいいんです。お願いします』

 少年が短く髪を刈った頭を下げる。

 信号が青に変わった。

『あの……』

 少年の寂しげな声を聞きながら私は白と黒に塗り分けられた道路を渡った。

『上出来ですね』

 角を曲がって、交差点が視界から消えると、また、とんびコートの男が現れた。今度は背後ではなくて、私の真横を、かつかつとステッキをつきながら歩いている。

 私はちらりと男へと視線を走らせた。

 今日は和装か。

 膝下丈のコートの裾から縦縞柄の袴が見える。

 幽霊も服を着替える。と、私は男に会って初めて知った。

 男の服装は様々で、スーツにネクタイといった洋装だったり、蝶ネクタイにベストだったり、袴だったり、時には書生のように、着物の中に立て襟の洋シャツを着込んだりと、実に多彩な格好で私の前に現れた。

 けど、どんな服装の時も、とんびコートとステッキはかかさない。『これでも身だしなみには気を使う性質でしてね』とは男の言だ。

 男は名を博文さんという。姓は知らない。気になってしつこく尋ねると『伊藤ですよ』と笑いながら答えてくれたことがあったが、すぐにからかわれたのだと気づいた。

 博文さんは自分の事をあまり喋りたがらない。彼自身、自分の事を忘れているからなのか、語りたくないからなのかは分からない。

 私が博文さんについて知っていることと言えば、博文という名と、服装に気を使うということと、大正時代から幽霊をしているということぐらいだった。

 私と博文さんの出会いは、今から数か月前に遡る。ある日、窓を開けたら空中を浮遊していた博文さんと目が合ったのだ。

 その時の私の驚きと言ったらなかった。何せ、私はオカルト話を信じない性質だったのだ。

 幽霊なんて存在するはずがない。全て錯覚や勘違い。もしも幽霊が見えるなんてことがあるなら、お祓いではなくて病院で脳か目の検査を受けるべきだと常々思っていた。

 だから博文さんと目が合ってしまった私は、己の信条に従って真っ直ぐ病院に向かった。

 結果はどこにも問題なしの健康体で、何故かふよふよと空中を漂って付いて来ていた博文さんに、『だから言ったでしょう? 貴女が病気なのではなくて、僕は確かに存在するのだと』と小ばかにされることになった。

 博文さんは意地悪な皮肉屋だが、機嫌が良ければ概ね紳士的に接してくれる。

 齢17にして突如幽霊が見えるようになってしまった私に、ベテラン幽霊の博文さんの存在は正直有難かった。時にとても鬱陶しいけれど……

 少年の幽霊をパスして無事に家にたどり着くと、私服に着替えておやつを頬張りながら課題を片付ける。

夕食を食べて、お風呂に入って、とここまではいつも通りだ。

 だが、寝る前になって、私は普段のルーティンには組み込まれていないことをした。ベッドの下にあるものを引っ張り出したのだ。

 軽く埃を叩きながら、引っ張り出した品々を見分していく。

 土産物屋で見つけた狐の面。水道水の入った小瓶。十字架のネックレス。初詣で買った交通安全のお守り。数珠。それから――お爺ちゃんのお墓から失敬してきた卒塔婆。

『また、そんなものを出して……。無意味だといつも言っているでしょう』

 一つ一つ、指をさして確認していると、どこからともなく博文さんが現れた。

 博文さんは、私が入浴中や私室で寛いでいるときには、いつもどこかに消えている。

 本人曰く『女性の生活を覗いて喜ぶような変態ではありませんよ』だそうだが、小言を言いに来るタイミングが絶妙なので、本当かどうかは怪しいと思っている。

 呆れた顔で私を見下ろす博文さんを黙殺して、リュックに取り出した道具を詰めていく。卒塔婆はリュックに入らないので、失敬してきた父の竹刀袋にしまう。

『霊を祓うのに必要なのは確固たる意志。それだけで十分なのですよ? いつまでそんなものに頼っているのですか』

 博文さんとの邂逅を皮切りに、霊が見えるようになってしまった私は、最初の頃こそ色々と失敗を犯したが、近ごろではそれもなくなった。

 それは博文さんに霊の対処法を教わり、さらにそれを自分なりにアレンジしたおかげだと思っている。

 本来、博文さんの言うように霊を祓うには強い意志さえあればいいらしい。だが、言うは易し行うは難し。

 色々と透けていたり、口が裂けていたり、致命傷を負わせた物が頭に突き刺さっていたり……。ショッキングな見た目をしている霊達を前に、平静を保てる人間が果たしてどれだけいるだろうか。

 少なくとも私には無理だった。

 だから生前「お前のことは爺ちゃんがずーっと守ってやるからなあ」が口癖だった祖父の卒塔婆を拝借し、メッキで加工されたの十字架と、千円の数珠を買い、お守りを身に着けている。

 守ってくれるものがあると思うだけで、少しは心が安らぐ。

 自分の意志は信じられなくても、孫を思うお爺ちゃんの気持ちや、千円の数珠は信じられるのだ。

『だいたいなんですか、その小瓶の水は』

「何って、ポケットに忍ばせて近所の教会を徘徊して作った聖水だけど」

 この聖水を用意した時、博文さんは堂々と教会の中まで付いて来ていたはずだ。分かっていて、あえて聞いてくるところが、博文さんが博文さんたる所以だろう。

『いいですか、聖水というのは主教や司祭が聖水式において成聖して初めて、聖水と呼ばれるのであって……』

「あー、はいはい。うるさいなあもう。意志の力があれば十分だって言ったのは他ならぬ博文さんでしょう」

 くどくどと説教を垂れてくる博文さんの言葉を遮ると、彼は頭に指を添えてため息を吐いた。

 そんな少し芝居がかった動作を博文さんは好んでとる。

『そもそも、放っておけばいいのですよ。今日のように見えていると気取られぬようにするか、無理なら迂回すればいいだけの話です』

「いつまでもあんなところに居座られちゃ迷惑なの。帰りはともかく朝の十分がどれだけ貴重か! ……にしても博文さんって、幽霊なのに、幽霊仲間に冷たいよね」

『仲間ではありませんので』

 やけにきっぱりとした口調だった。

『小童の霊だからと油断しないで下さいよ』

 と捨て台詞を吐いて、博文さんはトンビコートを翻す。

 チャコールグレーの布地が舞ったかと思うと、次の瞬間には博文さんの姿は消えていた。

 退場の仕方まで芝居がかっているなんて、思うに博文さんは生前、どこかの劇団員だったのではないだろうか。

 何はともあれ、やっと煩いのがいなくなった。

 私は清々とした気分で、用意し終えた荷物を部屋の隅にまとめて置き、ベッドに上がった。目覚まし時計を午前二時にセットして、横になる。

 草木も眠る丑三つ時。それが、私が霊と相対する時間なのだ。

『起きてください。早くこの煩いアラームを止めなさい。家人に見咎められてしまいますよ』

「ふあぁぁあい」

 欠伸交じりの返事を返すと、腕だけ出してアラームを止める。

『さっさとしなさい。なんですか、その恰好は。みっともない』

 博文さんに実態があったなら、彼はきっと私の布団を剥いでいただろう。

 蓑虫のように布団にくるまってもそもそとベッドの上を移動する私に、博文さんは容赦なく嫌味を叩きつける。

『ほら、さっさと体を起こす。起きられないのなら、霊媒師の真似事など、やめておしまいなさい』

「うるさいなあ。もう起きた!」

 私は腫れぼったい眼をこすると、博文さん目がけて枕を投げつけた。

 当然、枕は博文さんの体を通り抜けて床へと落ちる。

『……枕を投げる前に、乱れた衣服を正しなさい。全くだらしのない』

 毎度毎度アラームで起きられなくて、起こしてもらう私も悪いけど、博文さんの小言体質は何とかならないものだろうか。

「着替えるから、出てってよ。ほら早く」

 言うなり、寝起きの機嫌の悪さのままに、乱暴にパジャマを脱ぎ捨てる。

 頭を引き抜くころには、自称紳士の博文さんは、当然のように姿を消していた。

 着替えを終えてリュックを背負い、卒塔婆の入った竹刀袋を手にすると、また博文さんが現れた。

 黒一色のTシャツに同色のパンツという私の格好をしげしげと眺めて、嘆かわしいと言わんばかりに首を振った。

『除霊に失敗して取り殺されるのが早いか。不審者がいると通報されて捕まるのが早いか……』

「だから、わざわざ夜中にしてるんでしょ」

 霊と相対する時間を午前二時と決めているのは、何も霊の力が強まり接触がしやすくなるといったオカルティックな理由からではない。単に人通りの少ない時間だからだ。服が黒なのも目立たぬため。

『夜中だからこそ不審なのでしょう。もっとも日中でもその竹刀袋の中を検められてはおしまいでしょうけどね』

 私は最早博文さんを無視することに決めて、そっと部屋の戸を開けた。

 足音を殺し、階段を下りると、細心の注意を払って玄関扉から外へ出る。冷やりと澄んだ夜の空気を胸いっぱいに吸い込むと、昼間少年と出会った交差点へと急いだ。

 都心から程よく離れたベッドタウンには、終電の時刻を過ぎると人影はほとんどなくなる。

 私は誰にも会わぬまま、交差点へと辿り着いた。

 交差点の角に立つ家の塀に身を隠して、そっと様子を窺えば、思った通り、少年は昼間と同じようにぼんやりと自転車を眺めていた。

『準備を』

「分かってる」


――幽霊に相対する時の心得 其の一、顔を見せてはならない――


 私はリュックから狐の面を取り出し、手早く被った。次に十字架のネックレスと数珠を身に着け、お守りをベルト通しにひっかける。聖水は後ろポケットへ。仕上げにお爺ちゃんの卒塔婆を握り締め、いざ出陣だ。

 信号は黄色の点滅を繰り返している。

 交差点内へと足を踏み入れると、近づく人影に気付いた少年が縋る様な表情で顔を上げた。

 きっと、また自転車を動かしてほしいと懇願するつもりだったのだろう。しかし、少年は私を認めるなりぎょっとした顔で後じさった。

 それもそうだろう。卒塔婆を手にした狐面の人物など、これまで出会ったこともないに違いない。

 少年の怯えを利用して、さっさと距離を詰めると、腰に手を当てて心持ち顎を上げる。そして、そのまま少年を見据えた。

『え? あの……えーと』

 少年は大いに戸惑っているようだった。

 だが、辺りをきょろきょろと見回したあと、意を決したように私に話しかける。

『僕、友達と約束があって。それで自転車に乗りたいんですけど、どうしても動かせなくて……。お願いです、自転車を起こすのを手伝ってもらえませんか?』

 今の私の出で立ちでは、生きている時なら、声をかけるどころか、近寄るのも躊躇するだろう。けれど、これまで誰に声をかけても、聞き入れてもらえないどころか、見てももらえなかったのだ。やっと自分を見てくれる人物に出会えたとなれば、それがたとえどんなに怪しい風体の人物でも声をかけずにはおれないもの……らしい。

 かつて博文さんが言っていた通り、霊達は見えているとアピールすれば、必ず反応を見せた。

 さあ、ここからが肝心だ。

 私はカツンと音を鳴らして卒塔婆をアスファルトに打ち付け、口元に手の甲を当てた。

 すうっと息を吸い込み、上体を反らす。


――幽霊に相対する時の心得 其の二、優しく笑いかけてはいけない――


「おーっほっほっほっほっ」

 この半年で身に着けた、甲高い笑い声が交差点に響き渡る。

「自転車を起こすのを手伝えって? 馬鹿じゃない? あー、おかしい。臍で茶が湧かせそう」

『……えと、すみません? でも、あの、どうしても友達のところに行きたくて』

 いきなり居丈高な態度をとられ、明らかに少年は怖気づいていた。とりあえず謝ってくるあたり、小心で素直な人物のようだ。そのことに少しの安堵を覚え、私はさらに言葉を紡いだ。

「ほーっほっほっほ。笑わせてくれるわ。友達があんたを今でも待ってると、本当に思ってるわけ?」

『どういう意味ですか?』

 戸惑いの中にもむっとした響きが混じる。

 少年は私の狐面を睨みつけた。

「あーら。本当に気付いてないわけ。間抜けね! あんたはとっくに死んでるの」

 少年はきょとんとした顔で瞬いたあと、ぐっと眉を寄せた。

『どういう意味ですか』

「どういう意味もなにも、そのまんまの意味よ。あんたの言う友達だって、あんたがどうなったかきっと知っているわよ。だから、あんたは約束を守る必要はもうないわけ。分かる?」

 少年はますます気分を害したようだった。

 今やその視線には軽蔑や嫌悪がはっきりと見て取れた。

『嘘つくなよ! 俺が死ぬわけないだろ!』

 少年が吠えた。

 瞬間、強い風が少年から吹き付ける。

 ばたばたと音を立てて髪が舞い、狐面が風圧で押し付けられる。

 恐怖を感じて思わずたじろぎそうになったが、胸元の十字架を意識してゆっくりと息を吐いた。

 大丈夫。私にはキリストも、神も、仏も、お爺ちゃんもついている!

 博文さんが聞けば、『ナンセンスですね』と一笑に付すだろう。だが、私にとってそれらは挫けそうになる意志を支えてくれる強い味方なのだ。

「嘘だと思うんだ? ならこれを見てみなさいよ」

 言うなり、自転車に近寄る。

 怪訝な顔をする少年の視線を意識して、私は自転車の上を歩いた。否、自転車の幻影を通り抜けた。

 これで分かったでしょ。と得意げに少年を振り返るが、彼は眉を憮然とした面持ちのままだった。

『それがどうしたんだよ』

 気付いてない……

 さすが、何百台もの車が自転車を素通りしても気付かないだけはある。

「よく見なさいよ。透けてるでしょ! もうこの世には存在しないのよ。あんたも、自転車も!」

 私はだんだんと自転車幻影のを踏みつけ地面を打ち鳴らした。

『え?』

 少年の顔に驚きが広がる。

 もうひと押しだ。

「あんたは車に跳ねられた。赤に変わりかけた信号を強引に左折しようとした車にね。信号が変わる間際で、焦った運転手はアクセルを踏み込んだようね。加速した車に、あんたは自転車ごと跳ねられたのよ」

『俺が? ……まさか、本当に?』

 とろりと少年の頭から赤い液体が流れ出す。それはぽたぽたと音をたてて、彼の服にしみ込んでいった。

『俺……血が……出て。いっぱい、出て。それから!』

 今や少年は鮮血に染まっていた。血に濡れた両手を震わせて、とうとう少年はアスファルトに膝を付く。

『……それから……それから、俺……』

 眦に涙があふれ出す。

 透明な涙は、すぐに流れ出る血に浸食され、共に頬を滑り落ちた。

 静かな嗚咽が少年の口から零れだす。

 取り返しのつかない現状を嘆く、心の奥底から絞り出される声は、何度聞いても慣れるものではない。

 私は狐面の中で唇を噛みしめた。

『どうやら、取り殺されるのが早そうですねえ』

 耳元で博文さんの声が囁いた。

『彼にその気がなくとも、引き摺られてしまいますよ。見える人間は容易く同調してしまいますからね』

「ご心配なく。引き摺られるつもりは毛頭ないから」

 私は項垂れる少年の前に立つと、卒塔婆を突きつけた。

「いつまで泣いてるの? 約束なんてもう存在しないんだから、さっさと成仏しなさいよ」

 少年はのろのろと顔を上げると、力なく頷いた。

『俺、死んだんだな』

「そうよ」

『本当に、死んだんだな……』

「だからそうだって言ってるでしょ」

 少年が立ちあがる。いつの間にか、彼の体を伝っていたおびただしい量の血は消えていた。足元の自転車も見えなくなっている。

 私はほっとして息を吐いた。この分だと、何もしなくても彼は天へ上れそうだ。

『俺、もう行かなきゃ』

「そうね。さっさと行けば」

 寂しげな笑みを見せる少年にぶっきらぼうに告げる。

『なあ、一つ頼みがあるんだ。あいつに……泰明に、行けなくてごめんって、伝えてくれないか? 俺と同じ富永一中の奴なんだけど』

「……いいよ。ちゃんと伝えておく」

 私はほんの一拍、逡巡したのち頷いた。

「ありがとう」

 少年は微笑んだ。心残りがなくなった安堵と、自分で伝えられない寂しさの混じった笑顔は、はっとするほどきれいで切ない。

 少年の体がふわりと地面から離れる。

 ゆっくり、ゆっくりと、天に上る少年。

 よし、もう大丈夫。そう油断したときだった。ふと何かに引かれたように少年の体が止まる。

『そうだ、忘れてた。もういっこいいかな? 秀人に借りてたゲームを返……』

 頬が引きつるのがわかった。あと、もう少しだったのに!

『おやおや』

 と呟く博文さんの声が鬱陶しい。


――幽霊に相対する時の心得 其の三、頼みごとは一つしか聞いてはいけない――


 幽霊お得意の最後のお願い。死んだんだし、自分にはどうしようもないだし、見えるんだし、話が聞こえるんだし、もちろん叶えてくれるよね? という他力本願の甘えに満ちたこの頼み、軽々しくあれもこれも聞いてしまうととんでもないことになる。

 私は後ろポケットから自作の聖水を取り出すと、口にくわえて栓を抜いた。それを、優しく頷いてくれるに違いないと信じて待つ少年に降り掛ける。途端に少年の姿は崩れ、丸く光る魂へと変化した。

 少年の変化を認めると卒塔婆を両手に持ち直し、打席に立つバッターよろしく構えをとる。

「泰明君には伝えておく。でも、それ以外は却下! 何があっても、願いごとは一つしか聞かないって決めてるの!」

 言うや否や、戸惑うようにゆらゆらと宙に浮く人魂に向けて振りぬいた。

「わかったら、さっさと成仏しやがれ!」

 卒塔婆は少年にクリーンヒットした。カキーンと音が付きそうな勢いで宙を飛び、みるみる遠く小さくなっていく人魂。

 暗い夜空に突如さした光が、家畜を浚う宇宙船のように、少年の魂を回収したのを見て、私は肩の力を抜いた。やっと……

『やっといきましたか。それにしても今回も力技でしたねえ。そんなものに頼っているから、いつまでたってもスマートに祓えないのですよ』

「博文さん、煩い」

 卒塔婆を使ったこの除霊はとても精神を消耗する。

 博文さんいわく、『力みすぎているからです』らしいが、他の方法じゃあ、霊達はうんともすんともしないのだから仕方がない。

 私は疲れた体を引きずるように家へ帰ると、ベッドへ倒れ込んだ。

『まさかそのまま寝てしまうつもりですか。寝間着に着替えてはどうです。せめて、道具をお片付けなさい』

 ……ほんと煩い。

 博文さんの小言を子守唄に、私は深い眠りについた。


 翌日、私は疲れの残る体を叱咤しながら、のろのろと身支度を整え外へ出た。

 件の交差点には、もう壊れた自転車も、少年も見えない。

 交差点の角には小さなビンに活けられた新しい花。白い花弁を眺めながら、私は交差点を渡った。

 ややして、歩きなれた道から逸れると、すぐ隣に博文さんが現れた。

『やれやれ、頼みごとを聞いてやる必要などないと何度言えば分かるのでしょうかね。彼が死んだことなど泰明君とやらはとっくに知っていると、貴女も言っていたではありませんか』

 私は無言で博文さんを睨みつけた。

 少年が事故に合い亡くなった事実を泰明君が知らないはずがない。本当は幽霊の願いは一つも聞かないほうがいいのも分かっている。けれどこれは私の精神衛生上、必要なことなのだ。

 早めに家を出たせいで、まだ少ないものの、周囲には登校中の中学生の姿がぽつぽつと見える。

 私は富永第一中学校の門扉の前に立つと、続々と中へ入っていく学生の名札をチェックする。

 高校の制服を着て佇む私へ向けられる好奇の視線が痛かったが、素知らぬ顔をして耐えた。

 目当ての少年が五分もたたずに姿を現したのは幸いだった。

 私は他の生徒と同じように、じろじろと不躾な視線を送ってくる少年の前に立った。

「あなた泰明君?」

「そう……だけど?」

 泰明君は露骨に怪訝な顔をして、身を引いた。仕方のないことだが、警戒されているらしい。そんな泰明君にお構いなしに、口を開く。

「いけなくてごめん」

「は?」

「確かに伝えたからね」

 ぽかんと口を開ける弘明君の横を足早に通り抜ける。その瞬間、彼がはっと息を呑んだ音が耳に届いた――


『やはり、取り殺されるのが早いですかね』

 中学校を後にして、高校への道を駆ける私の頭上を優雅に遊泳しながら、博文さんが一人ごちた。

「もう本人は成仏しちゃったあとなんだから関係ないでしょ!」

 思わず答えてしまって、慌てて口を噤む。

 素早く辺りを見回し、人影がないことに気付いてほっと胸をなでおろす。

『他の生徒はとっくに登校していますよ。すでに九分の遅刻です』

 今度はちゃんと無視をして、私は走った。

 教室に駆け込めば、丁度ホームルームが終わったところだった。

「遅刻だぞー」

 と抑揚のない声で告げる教師に頭を下げ、自分の席へ向かう。

 そこにいつもの面々を見つけて、私は重い溜息を吐いた。

『遅い。博文、お前が付いていながら何という体たらくだ』

 そう偉そうに告げるのは、鎧兜に身を包んだ霊だ。頭には矢が突き刺さっている。

 彼は私が最初に除霊に失敗した霊だった。伊達に長くこの世に留まっていない。私の力はさっぱり及ばなかった。

『そうですよ。先生に怒られてしまったじゃないですか。可哀想に』

 消え入りそうな小さな声。

 眼鏡と、長く伸ばした前髪で顔を隠した青年の霊が、びくびくと怯えながら抗議する。

 彼は私が2番目に除霊を失敗した霊だ。彼は比較的死んでからの時間が短く、力は決して強くない。にも関わらず失敗したのは、偏に色々なものが透けているからだ。

 皮膚が透けて筋肉が見えるのはまだましなときで、時には筋肉すらすけて内臓が露出したりもする。だが、それすらも私には良いほうだ。服だけが消えて男性の大事なところをぷらぷらされた日には、人目も忘れて思わず叫んでしまった。

『ほーんとよねえ。彼女の面倒は僕が見ますから、皆さんは付き纏わないで下さい。邪魔です。なーんて、言っちゃってさあ』

 色っぽい声でちくちくと嫌味を口にするのはマスクをした若い女性の霊だ。妖艶な肢体は、世の男性の垂涎の的だろう。ただし、マスクの下の口は裂けている。

 彼女は私が3番目に除霊に失敗した霊だった。かつての恋人に顔をめった刺しにされたとかで、この顔のままあの世にいくのは嫌だと、執念ともいえる意志でこの世に留まっている。

 彼らは皆この世に未練を残して死んだ。

 未練を残した霊に、他者を介してでも、この世との繋がりが持てると不用意に希望を与えればどうなるか……

 その時の私には分からなかったのだ。

 彼らとの邂逅と失敗を経て、私は霊と相対するときの心得を三つ作り、それを守っている。

『お黙りなさい。長く留まりながら頭の矢も消せない無能に、露出狂、それから色狂いにどうこう言われる謂われはありませんよ』

 博文さんの彼らに対する言葉はいつも辛辣だ。

『なんだと若造が!』

『お、横暴だと思います!』

『やだわー。これだからモテない男の僻みって嫌なのよねえ』

 三人が一斉に反論するが、博文さんはどこ吹く風だ。

『無能に無能と言って何が悪いのです。せめてこれぐらいの芸当ができるようになってから、吼えて下さい』

 そう言う博文さんの手にはどこから現れたのか瀟洒な茶器。中には琥珀色の液体が白いな湯気を立てている。

 涼しい顔で椅子に腰かけて、頭の矢が消せない武士を嘲笑った。

『それから、貴方、また透けていますよ。人に見せられるほど立派でもないのによく恥ずかしくありませんね』

 ……女の私でも聞いているだけで痛い。ガラスのハートの持ち主である青年にさえ、博文さんは一欠けらの容赦もない。

『ところで、僕がもてなかったと思いますか?』

 博文さんは切れ長の目が印象的なナイスミドルだ。おまけにいつも小粋な服に身を包み紳士然としているときている。生前女性に困らなかっただろうことは容易に想像がつく。

『当然、もてましたよ。貴女と違って、声をかけてきた人を端から全て相手にするには体が足りない程度にはね』

 三人の完敗だった。悔しげに唇を噛みしめ、あるいはすすり泣き、あるいは地団太を踏む。

 舌戦で博文さんに勝てるわけがないのに……

 毎日繰り返される光景に、頭痛を覚えながら私は思った。

 そこ私の席なんだけど退いてくれないかな。


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