女に夢見る男と、女の内
「アートの借景」企画、参加作品。
黒田清輝の「野辺」に描かれたモデルの気持ちを想像したもの。
実際にどういう人物であったのか、黒田清輝がどういう思いを込めていたのか、私は知りません。
草の上に横たわり、あたしは手にした野花を見つめている。
あたしの肌を撫でる風は、まだ寒い。日差しには温もりを感じるけれど、風邪をひきやしないかしらと気が気じゃない。
なにせ何も身に付けていないんだもの。裸よ、裸。そんなあたしをキャンバスに描くなんて本当に、何を考えているのやら。
背中に敷かれた草が、しっとりとあたしの肌へ湿気を伝える。勘弁して。虫なんていないでしょうね、などと思っているあたしを、丸っこい顔の先生が一心不乱に筆で再現している。
あたしは描いている先生の顔を見ていない。髪を草の上へ流して、横に向けていた。
視線は持っている小さな花へ固定するよう、先生から指示を受けているからだ。
芸術だなんだと言うけれど、裸の女を描くなんてポルノじゃないの。事実、先生は数年前にも裸の女の絵が風俗を見だすって理由から、絵の下半分を布で覆って飾ったらしい。
外国では女の裸は美しい芸術なんだそう。それは遠い、外国の話。この日本ではそんなの受け入れられやしないのに。
なんでもこの先生は外国で絵を描いて、認められてるんだって。ここ日本でも東京美術学校の教授さま。あたしも知っているほどの偉い先生。
ああ、髪に草が絡みつきやしないかしら。緑の汁と土くれで肌が汚れるじゃない。
あたしはぼうっとミヤコワスレの花を見ながら、そんなことを気にしていた。
春といっても、日差しは夏のように強いし、風は温くあたしを撫でる。人も動物も活動的になり、動けば汗ばむことがあるほど。しかしそれは服を着込んでいた場合のことで、裸でいれば寒い。あたしが外でモデルをやるのは、昼の短い時間だけだった。
それもずっとではなくて、後は部屋の中で同じポーズをとったり、あたし抜きで外の景色を描いたりする。
先生はそれで十分らしく、あたしが裸で寝っ転がっていない時も、ただひたすらに絵に向き合っていた。
服を着込んだあたしは、先生のキャンバスを後ろから覗く。先生いわく、まだ荒描きらしいけれど、絵なんて描いたことのないあたしから見れば、既に本物みたい。
そしてその本物はあたし自身の筈。
なのに。
そこには、知らない女がいた。
横たわる裸体はとても綺麗で。じっと小さな野花を見つめる目に、幾筋かの毛がかかっているのが、なんだか悲しそう。草の褥しとねに髪を流しているから、白い首筋が色っぽい。ミヤコワスレへと注がれた眼差しは何を思い浮かべているんだろう。
そう、思ってしまった。
馬鹿らしい。何を思い浮かべているんだろう、なんて。
あたしを描いているのだから、何を考えてたかなんて、知ってるわ。あたしは草や土で汚れるのが嫌だとか、長く同じ格好でいることに飽き飽きしていただけ。
「君にしてもらったこのポーズはね、アリアドネ・ポーズと言いまして、私は別離の意味をこめているんですよ」
先生がちょっと笑いを含んだ優しい声で教えてくれた。なんでもギリシア神話に、尽くした恋人に置き去りにされたにもかかわらず、眠り続けたアリアドネって王女さまがいたそうな。
ふうん、とあたしは気のない返事をする。その王女さまは、馬鹿ね。男なんかに尽くして、盲目的に信じ込んじゃったなんて。
「君に持ってもらったミヤコワスレの花もね、別れの意味を持っている」
話しながらも先生の手は止まらない。
佐渡へ流された順徳天皇が、この花を見ると都への思いを忘れられると話したことから、ミヤコワスレの花言葉は「別れ」「しばしの慰め」なんだと先生が講義する。生徒はあたししかいなくて、そのあたしも真面目に聞いていないけれど。
あたしは今、先生が筆を乗せているミヤコワスレの花を見つめた。育てやすくて丈夫な花で、あちこちで目にする花だ。牡丹やシャクヤクのような華やかさも大きさもない、小さな花。
それを見つめるキャンバスの中の女。
女は別れを惜しんでいるのか。悲しんでいるのか。
どっちでもいい。あたしは別れを惜しんでも、悲しんでもいない。先生は勝手にあたしの中に清純さとか、憂いだとか、美しい夢を見てそれを絵で表現しようとしているだけ。
ううん、あたしの中身なんてものは先生には関係ない。先生はあたしの外側を利用して、自分の表現したいことをキャンバスに描いているんだから。
お金の為にモデルを引き受けているだけのあたしを使って。
いつかこの絵が完成して展示されたら、色んな人が絵の中の女を見て勝手に想像するんだろう。
それは男が女に抱く幻想のようなものかもしれない。
ポルノとしての、下品で卑猥な感情かもしれない。
勝手に色々思えばいいわ。女の心の内なんて、外から見たって分からないんだから。
先生から支払われたお金で、あたしはこの街を出る。きらびやかに着飾った活気ある、残酷なこの街から。
先生の筆が細かく、美しく、光を当てて、女を描いていく。あたしは先生の丸っこい目に鋭く観察されながら、時に眩しいものを見るように目を細められながら、浮き彫りにされていったのだ。
そうして、キャンバスの中の女は完成された。
野辺
黒田清輝
1907年
師であるコランの影響を色濃く受けた作品である。