子猫が死んだ
雨が降る、とある休日に僕は子猫が死んでいるのを見つけた。
道路に横たわっているそれは、明らかに車で轢かれてしまったことが死因で、遠目から見ても血で赤く染まっていた。
よく見る光景ではあった。道路に横たわる動物の死体。だけどいつもは手の届かない距離にあるか、車に乗っているときに見かけるということが殆どの光景であるそれは、今回の場合、とても近くて、手を伸ばせば届く距離、近づけば抱き上げられる距離にあった。だから僕は、生まれて初めて死んでしまった野良猫を埋めてあげることにする。
死んでしまった動物を埋めること自体は初めてじゃない。昔飼っていた鳥が死んでしまった時にも埋めてあげたし、もう一匹の飼っていた鳥も埋めてあげた。あとは実家で飼っていた犬がいたのだけれど、その犬は小屋が壊れた拍子に逃げ出してしまったため僕は埋めたりはしていない。けど、逃げ出した後に、車に轢かれて死んでしまったらしいことは後から両親に話で聞いた。きっと僕に黙って両親が埋めてくれたのだろう。愛する犬の傷ついた姿を正視するには、あの時の僕はまだ幼すぎた。
そんな風にして三回、僕は動物の死に関わってきた。だけどそれは全部、自分と家族同然の付き合いをした動物たちばかりで、全く見ず知らずの動物の死に関わるのは初めての経験だった。その子猫とは、死んでから知り合ったと言っても全く過言ではない。子猫も僕のことなんて何も知らない。一生知らない。
もしかすると愛すべき友がいたのかもしれないし、愛してくれる母親がいたのかもしれない。子猫の死を心の底から悲しむものがいるのかもしれない。僕は全く知らない。そんな何も知らない僕だけど、その子猫の姿は痛ましく映り、同じ人間のしでかしたことだと思うと子猫に申し訳なくて、悲しくなった。
ごめんね子猫。僕なんて君を殺してしまった人間とさして変わりもない、仕様がない人間だけど、近くには僕しかいないから、僕が君を埋葬するね。人間なりのやり方で埋葬するね。
とりあえず場所を移そうと僕は子猫に近づいた。そして、近づくとよく見えた。子猫の亡骸が。僕は目が悪いから遠目から見る分には、なんとなく子猫が赤く染まっているなくらいにしか映らない。きっと車に轢かれたんだから悲惨な様子ではあるんだろうな位には想像していた。近づいてよく見るその子猫は想像通り悲惨な様子だった。きっと僕の飼っていた犬も、こんな風に悲惨な様子で横たわっていたのだろう。確かに僕には耐えられそうもない。子猫の顔からは黒くて丸いビー玉の様なものが飛び出していた。それが猫の目玉であることに気づくのにはあまり時間がかからなかった。目玉の根元から顔の広い範囲にわたって血が赤く広がっている。不幸中の幸いにも、体にはなんの傷もなかった。けれど、そんな幸いになんの意味があるのだろう。子猫は死んでしまったし、その様子は十二分に惨たらしいものだ。子猫の姿は客観的に見て、可愛いとはあまりにも言い難かった。
生前は、道行く人々に可愛い可愛いと言われて写真を撮られたりなんてしていたんだろう。ここら辺には大学生が多く住んでいるし、その多くは猫好きだ。みんなから持て囃され、愛され、時にご飯を貰ったりする日常が、子猫にとって幸せなものだったのかどうかは僕には分からないけど、それでも、その愛くるしさが失われて、近くを通る人々には憐憫の、あるいは奇異の目を向けられるであろうその風貌になってしまった事実は、あまりにも悲しすぎた。あまりにも悲しすぎると僕は思った。そして、生前のようにちやほやと接してあげないことが、とても薄情に思えた。あまりにも薄情すぎると僕は思った。
僕はごめんね、とだけ呟いて、子猫の背中をそっと撫でた。その後で持ってきた紙袋に猫の亡骸を入れて、埋葬する場所へと向かう。持ち上げた子猫の体は重かった。命が無くなってもこんなに重いなんて、命の重さとはいったいどれだけなんだろうか。僕には分からない。
いつか、本で読んだ話を思い出した。もうすぐ死ぬ人間を、体重計のような機械に乗せておいて、死ぬ前と死んだ後の重さをそれぞれ量るという実験をした学者がいたらしい。その実験の結果によると、なんでも、死んだ人間は死ぬ前よりも数グラム軽くなったというのだ。つまり、人間には魂が宿っていて、死んだことによって抜け出してしまったのではないか、ということ。魂とは人間の命そのものとも考えることができる。それならば命の重さというのは、実験で軽くなった分の数グラム程度のものでしかないのだろうか。僕には分からない。だけど所詮これは人間の話で、猫も死んだら軽くなるのだろうか。もしも軽くなるとしたら、どれくらい軽くなるのだろうか。僕には分からない。人間の方が軽くなるのだろうか。それとも猫の方が軽くなるのだろうか。僕には分からない。もしもこれで人間の方が軽くなっていたのだとしたら、それは、人間の命の方が、猫の命よりも、重いということになるのだろうか。…
僕には分からない。
僕には分からないことだらけだけど、少なくとも僕の認識の中では猫の命も人の命も重さは変わらない。
どちらも等しく尊く、どちらも等しく愛すべきものだ。
つまり、森羅万象の真実なんて知らないけれど、僕にとっての真実は、命の重さとは尊さと愛しさの合計であって、その合計値は、量りに乗せたらメモリが吹っ飛ぶくらいの重量で、死んだときに軽くなった数グラムなんかでは全然足りないと言うこと。自分の中で答えが出せているということが「分かっている」ということならば、僕は命の重さを痛いほどに「分かっている」。だから、ただ道端で横たわっていたこの子猫にも、できる限りのことをしてあげよう。
子猫のお墓は、なるべく人が来なそうな山奥にした。猫としては、人がよく通る場所の方が良いのか、人はあまり通らない場所の方が良いのか、僕にはやっぱり分からないけれど、独断で山奥にした。猫は死が近づくとその姿を隠すという。その行為は、自分の死を大衆に晒したくないという想いから来ているのだと、僕は勝手に解釈している。猫にとっては自分の亡骸を見られるというのは恥ずかしいことなのかもしれない。そう考えると、事故にあって酷い姿になってしまったこの子猫に関しては尚更、自分の姿なんて見られたくないだろう。それだからそこを選んだ。子猫からしてみれば余計なお節介なのかもしれないけど、僕には分からないことが多すぎるから自分の中の答えに従うしかない。自分の中の最善を選択するしかない。
いざ埋めるための穴を掘ろうという段階になって、僕は忘れ物に気が付いた。穴を掘るためのスコップがない。結構遠くまで来たし、今更家にスコップを取りに帰って、またここまで戻ってくるというのもとても億劫なので、僕はそこらへんにある木の枝と、自分の手を使って穴を掘ることにした。第一、僕の家にはスコップなんておいていない。
雨がちらほらと弱く降っているので、けっこうな泥作業になった。土のにおいがする。手は真黒に汚れて、足は靴から水が染みてぐっしょり濡れた。それでも子猫のお墓を作るため僕は必死に手足を動かす。このときは子猫のためという気持ちよりも、目の前の穴を掘るという単純作業に集中して無心でいた。
ようやく子猫が一匹埋まりそうな大きさの穴が出来上がったので、僕は子猫を紙袋から持ち上げる。ゆっくりと丁寧に穴の中に寝かせてあげる。寝かせてみると、丁度くつろげるくらいの広さで穴が出来上がっていたので良かった。土の中で横たわる姿を見ると、いよいよ終わりなんだなという気持ちになる。ゆっくりと眠れるだろうか。僕には分からないけど、ゆっくりとゆったりと穏やかに眠ってくれたら嬉しい。子猫の姿は改めて生前よりも痛ましいものだ。だけど、最後はやっぱり一匹の子猫として接してあげよう。一匹の可愛い可愛い子猫として触れ合おう。それが子猫にとって嬉しいとか悲しいとかじゃなくて、それが子猫に対する礼儀だと僕は思ったのだ。そっと子猫の背中を、泥だらけの手で撫でる。自慢の毛並みは雨で湿って冷たかった。最後におやすみ、と声をかけて、土をかぶせた。
またここに来よう。今度は花を持って来よう。それが子猫にとってどんな意味を持つのか分からない。
だけど、僕にとってもそれはどんな意味を持つ行為であるのか良く分からなかった。
帰り道。
僕は家近くでカップルとすれ違う。仲のいいカップルだ。
カップルは手をつないでいた。
僕は自分の泥だらけの手を見る。
子猫のために尽くした手と、愛する者に尽くす手。
穴を掘った泥だらけの両手と繋がれた綺麗な両手。
どちらも同じだけのことをしているのにこうも違う。
なんだか子猫みたいだなと僕は思った。