S v S
続きです。
ラッコ男は、余裕綽々といった感じであったが、流石に誰かが囮になって、他の者が逃げるといった事は想定していなかったらしく、皆が走り出したのを見ると急に歩調を強めだした。
さて、時間を稼ぐと言ったものの、どうしよう? 正直、あの筋肉の塊には、勝てるどころか、瞬殺される自信があるんだが……
ラッコ男はもうそこまで迫っている。恐らく俺をさっさと殺して、他の五人を追いかけるつもりなのだろう。
俺は考える、更に考える。ここが死に際だと本能が理解しているのか、何だか一瞬が、永遠に思える。
今、俺の手持ちは、携帯に、名刺、時計、手帳、ハンカチ、財布にボールペン……駄目だ、せいぜい、ペンを刺すしか思いつかないし、何だかそれすら、避けられる気がする。後は、スーパーの袋に、煙草が二カートン、晩飯の食材に、殺虫剤、整髪料……
「くそっ! これでも喰らえ!」
気付けば、三、四メートル先まで迫って来ていたラッコ男。俺は咄嗟にスーパーの袋に手を突っ込み、一番つかみやすかった殺虫剤を取り出し、乱暴にフィルターを破りラッコ男に向けて噴射した。
殺虫剤の噴霧は、見事にラッコ男の顔面に直撃した。
「うぅぅぶるぅっっぁぁあぁ!」
どうやら思った以上に効果があったらしく、ラッコ男は目を押さえ、のたうち回った。やっぱ、目潰しはどんな生物にも有効なんだな……
「どうせ死ぬんだ! こうなりゃ、とことん嫌がらせしてやる!」
俺は、スーパーの袋から、整髪料を取り出し、その中身を容器ごと、ラッコ男の顔面に叩き付けてやった!
すると、ラッコ男は顔面を左手で覆い、「うぃぃいいいいぃいいいいいいい!」と叫びながら、蠅を払うかの様にその右手を振り回した。
「ぐぁ!」
正直、一連の顔面攻撃が成功したことで、勝てるかもと言う油断が生まれていたのかもしれない……俺は、横っ腹に右手の一撃を喰らい、四、五メートルほど吹っ飛ばされてしまった。
あれ、思ったより痛くない? というか、熱い! 腹が熱くて熱くて熱くて熱くて仕方がない。
「うぇえぇっぷ」
口から赤い吐しゃ物が湧き出てくる。あ、これは血かぁ……
「あぁ、皆、逃げ、られた、かなぁ」
あぁ、死ぬんだな、死ぬ前にもう一本くらい、映画観ておきたかったなぁ……
朦朧とする意識の中で、そんな事を考えていると、視界がハッキリとしたのか、ラッコ男がこちらに近づいてくる。その顔は、予想だにしない反撃だったのか、怒りと憎しみと戸惑いに満ちている様だった。
ラッコ男は、俺の目の前まで来ると俺の胸ぐらを掴み、そのまま俺の体を持ち上げた。血を吐き、息も絶え絶え、という状態の俺を見ると、ラッコ男は余裕を取り戻したのか、再び笑みを浮かべ、片手で俺を持ち上げ、もう片方の手で拳を強く握りしめていた。
「あぁ、くっそぉ……」
さっき、皆を逃がしてからまだ五分ほどしか経っていない気がする、もしかしたら、まだそんなに遠くまで逃げられていないかもしれない……もう少し、踏ん張らなきゃ……
そう考えると、ほぼ同時、俺はボールペンを取り出し、ラッコ男の左目にペンを突き刺していた。あぁ、避けられると思ってたけど、この至近距離ならあっさり刺さるんだな……
ラッコ男は、「ぐぅるぁぁぁ」と叫び、片手で掴んでいた俺をそのまま放り投げた。
片目を潰されたラッコ男の顔には、既に怒り以外の感情は無いように見えた。酷く顔をしかめ、その怒りを踏み締めるかのように、ゆっくりと俺に近づいてくる。
「はっ! リー、マン、の、執、念、思い、知っ、たか!」
その顔を見て、ざまぁ見ろと思いながら、いよいよ自分の死を覚悟していると、突然、目の前のラッコ男の頭に何かが突き刺さる。
「おじちゃん!」
それが矢だと理解すると、その矢が飛んできた方向から、声が聞えてきた。
ラッコ男は、矢の飛んできた方向を見て、鬱陶しいと言わんばかりの表情を浮かべ、そちらに歩き出そうとしていた。
「危ない! こっちに来るんじゃぁない! このファッキンラッコ野郎! よそ見してんじゃぁねぇ!」
俺はその声が、あの子供の声だと理解すると同時に、まだこんな声が出るんだと、自分でも驚く位の大声で叫んでいた。
ラッコ男は、瀕死の獲物からそんな声が出る事に驚いたのか、目を大きく見開きこちらを見ていた。
それが合図と言わんばかりに、今度はラッコ男の胸にドッチボール位の大きさの火の玉がぶつかってきた。ラッコ男にとっても、これは結構効くのか、上半身を大きく仰け反らせた。
それに続くように、次々と火の玉や矢が、雨の様にラッコ男に向かって行く。そのまま五分ほど攻撃が続き、攻撃によって上がった煙幕が晴れると、そこには全身から煙を上げ、尚、こちらを睨みつけているラッコ男がいた。
ラッコ男は、一際強くこちらを睨みつけた後、口の両端を上げ、顔の筋肉が全て吊り上がっているかの様な凄惨な笑みを浮かべた後、再び叫んだ。
「ぶぅるぅぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
それは、地面を揺るがすかの様な、凄まじい気迫を帯びた叫び声だった。そしてその後、再び俺を見て、例の凄惨な笑みを浮かべた後、強く地面を蹴り、森の中に入っていった。
「おじちゃん!」
「おじさま!」
「おじさん!」
「おっさん!」
「オッチャン!」
何が起こっているのか理解できず、暫くボーっとしていたが、再び聞えてきた皆の声で、我に返る。
そして実感する。俺は、助かったんだ……
Salary man VS Sea otter manです。