魔術師と野菜のスープ
「ねぇ、マリアは結婚しないの?」
食事中、野菜のスープを飲みながら私の仕える主は言った。私はスプーンを取り落とした。慌てて拾おうとすると、主は指をくるりと回して、食卓の下に落としたスプーンを私の手元まで持ち上げた。主は魔術師なのである。ありがとうございます、とお礼を述べると、主はいいや、と言ってから、少々不機嫌になった。
「そんなに驚かなくてもいいのに」
僕が聞くのそんなにおかしい?と、口をすぼめて少々不貞腐れた仕草をする主は子供みたいだ。成人した男性らしからぬ態度が、内心なんだか可笑しい。
「あまりそういった世俗のことに興味はないのだろうと思っていましたから」
「なんで?」
「華やかな夜会や、大きなお屋敷はあまり好まれないようですので」
主は城勤めの高位の魔術師だ。時々夜会に出席するし、貴族並の屋敷も買える。しかしスープを呑む姿に町人と差はなく、住んでいるのも首都ではあるが城からはやや遠くにあるこぢんまりした借家。使用人は私一人で、食事を共にさせている。この主の下で勤めてから一年と少し経つけれど、豪華や贅沢な類の品に関心を寄せている様子はなかった。
だからだろうか、質問に驚いた。
私の言葉に主はちょっぴり眉をしかめる。
「まあね、好きな人はすきなんだろうけど、僕はちょっと。マリアはそういうのがすきなの?」
私は考え、手元の汁物を眺める。少し冷めたがあたたかく、中にはキャベツと人参が入っている。それにお肉が少し。豪華さなど微塵もないが、不足もない。
「いえ、野菜のスープで充分です」
主は一つ頷いて軽く同意を示す。
「僕だってそうだよ」
「そういうものですか」
「そういうものだよ」
主は当たり前のように答えた。私は首を傾げたが、本人がいいというのだからいいのだろう。
そうですか、と返すと、主は一つ頷いた。
「で、マリアは結婚しないの」
「なぜお聞きに?」
「だってマリア、今年で確か十七歳でしょ」
あぁなるほどと納得する。一般的に婦女子の適齢期は十八歳前後だ。二十歳を越えると年増と呼ばれる。主はそれを心配してくれたらしい。
「確かに生家からも、そろそろ結婚を催促されてますねぇ」
「ふうん…結婚は家関係で?」
「家で見繕うこともできるが、私にいい人がいるならその方とでもよいと」
「良い人いるの?」
「お付き合いしている方は今のところおりませんが」
「が?」
私はいつになくグイグイと尋ねてくる主に戸惑った。少し言葉に詰まる。
「が、と言われましても……特には」
「肉屋のジョンに付き合い申し込まれたんじゃなかったの」
「あれは花屋の娘さんが狙ってるんです。恐ろしくてお付き合いなんてとても」
「ピエールさんちのお屋敷のエミールは?」
「お断りしましたよ」
よく知ってますね、といって私は微妙な視線を主に送ると、なんでもないことのように主は口を開いた。私の不審はあっさりと氷解する。
「隣のアパートの大家さんが教えてくれた」
「意外にあの方、口軽いんですね…」
「そうでもないんじゃない。それよりさ、マリアは、結婚する気ないの?」
「そうですねぇ」
隣の大家さんに人の事情をそんな簡単に広めないでほしいと思いつつも、私は答えに困る。
結婚したくないわけではないし、将来的には子供も欲しい。だけれどそれをうまく言えなかった。結婚はしたい。けれど、誰とでもしたい訳ではない。好ましく思う人がいた。そのことを言えば、もしかしたらこの人は考えてくれるかもしれない。しかしまた、そのせいでこの日常が終わってしまうかもしれないと考えると、踏み込もうと思えなかった。野菜スープを呑むような日々を、私は思った以上に気に入っていた。
「そうですねぇ、って。結婚、したくないとか?」
「そんなことありませんよ」
「じゃあしたいの」
「そんなこともないかもしれません」
「どっちなのさ」
「聞かれても困りますって」
「きみ、あのねぇ…」
「主はいかがなんですか」
呆れている主を誤魔化しがてら、へらりと流して話を主に振った。主は一つ嘆息して、答えた。
「このまえ夜会でも同じこと聞かれた…。僕は、そうだね。結婚はしたいかも。相手も、まぁ、いることには、いるし」
相手、という言葉が冷たい氷になって、喉から胸に伝っていく。そんな心地がした。尋ねたことを、私は今更ながら後悔した。声が震えないよう気をつけながら、私は言葉を紡いだ。
「どなた、なんですか?」
「夜会で知り合って、僕でもいいと思ってくれる人…けど」
「けど?」
「君はどうするの」
ひゅっと息をのんだ。同時に、今までの話の流れも理解する。私に執拗に結婚の話をしたのはそういうことだったのか、と暗い気持ちになる。暗に私の退職を仄めかしていたのだ。主が結婚すれば、相手である女主人がこの家にきて、世話をする。もしくは、相手の家に行くのかもしれないし、新しい家を探すのかもしれない。どちらにしても私はいらなかった。なるべく主の顏を見ないようにしながら、言った。
「そう、ですね。結婚でも、しましょうか」
部屋に束の間沈黙がよぎる。私を解雇することに、主は罪悪感を抱いているらしかった。そんなのいいのに。口を開いた主の言葉は、私の耳に、右から左へと流れていく。
「マリア」
「はい」
「僕は野菜スープが好きだ」
「はい」
「慎ましく暮らし、働く君の姿も好ましかった」
「はい」
「今までありがとう」
「はい」
「マリア」
「はい」
「きみに、しあわせになってほしくない」
「はい……え?」
不穏な言葉が耳を掠めたことに、驚いて主の顏を見た。私を見据える瞳とかち合い、息がとまる。
「ねぇマリア。僕と、」
結婚してよ。
私は目を大きくしてちょっぴり泣きそうになり、ゆっくりとほころぶ笑顔をそのままに、頷いた。