第2章
冷たい秋雨が打ちつける路地裏。古い修道院の裏手にある荒れ果てた墓場に、その赤ん坊は棄てられていた。
泥と濡れた雑草の匂いの中、赤ん坊は一抹の温もりもない冷えた土の上に転がされていた。身につけていたのは、粗雑に巻かれた薄汚れた一枚の麻布と、胸元に添えられた小さな木製の十字架だけ。
凍えそうな息を吐いていたその赤ん坊が、レイだった。
それから五年後。修道院に隣接する古い教会の重い扉の前に、三歳の幼い少女が置き去りにされていた。
少女は一切の言葉を話さなかった。誰に話しかけられてもサファイア色の瞳をかたくなに伏せ、その胸には言葉の代わりに、古びた一枚の羊皮紙を抱きしめていた。
それが、アリスだった。
修道院を兼ねた孤児院での暮らしは、幼い二人にとって酷寒の地獄にも等しい試練の連続だった。
孤児院を仕切る修道女たちは、施しの金を懐に流し込む強欲な女たちだった。
とりわけ言葉を話せないアリスは、「神の恵みを泥で汚す者」「言葉も話せぬ役立たず」と蔑まれ、露骨ないじめの標的とされた。
冬の凍てつく夜、アリスだけが薄布すら奪われ、冷たい石造りの物置に閉じ込められた。他の孤児たちも大人の悪意を察し、アリスの髪に泥を投げつけ、彼女が抱える羊皮紙を奪おうと追い回した。
アリスは声が出ない。どれほど痛くても、恐怖に震えても、悲鳴ひとつ上げることができないのだ。
サファイアの瞳から涙をこぼし、ただ体を小さく丸めて耐えるしかなかった。
そんな彼女を、身を挺して庇い続けたのがレイだった。
「アリスに触るなッ!」
レイは泥まみれになりながら、自分より背の大きな少年たちに飛びかかった。拳で殴られ、石畳に叩きつけられ、口の中を切って血を流しても、レイは絶対に退かなかった。
修道女が体罰として鞭を振り下ろす時も、レイは即座にアリスの上に覆いかぶさり、その小さな背中で打撃のすべてを受け止めた。
肉を断つ嫌な音が響くたび、レイは歯を食いしばり、顔を歪めて耐えた。
腕の中で震えるアリスの頭を抱きしめ、耳元でそっと囁く。
「大丈夫だ……大丈夫だからな、アリス。僕が、ずっと守るから……」
アリスは声にならぬ叫びを殺し、レイの破れた服の胸元を泣きじゃくりながら強く握りしめることしかできなかった。
夕食の刻になれば、アリスの分のご飯は与えられなかった。カビの生えた黒パンの切れ端すら貰えず、冷たいスープの残り汁さえ与えられない。
レイは自分の皿から、まだ食べられそうな柔らかいパンの芯をちぎり取り、ひっそりと物置の隅で待つアリスの口へと運んだ。
「お食べ。僕はもうお腹いっぱいなんだ」
空腹に鳴る腹を隠し、レイは優しく彼女の頭を撫でて微笑んだ。
レイには生まれつき、驚くべき手先の器用さがあった。
落ちている鉄くずや真鍮の破片、歪んだ針金を拾い集めては、指先を血で染めながら、まるで魔法のように美しい小鳥や花の装飾品を作り上げたのだ。
修道女たちはアリスを虐げながらも、レイの作る金属飾りの美しさには目をつけ、それらを街の市場で売り払っては私腹を肥やした。
どれほど不当に扱われようと、アリスを守るための僅かなパンや薪を手に入れるため、レイは黙々と鉄くずから美を生み出し続けた。
ある日、レイは一向に言葉を発さないアリスの口元を覗き込んだ。
「ほら、こうやって口を大きく開けてみて」
アリスはレイの真似をして口を大きく開けた。
焼けただれた咽喉の惨状に、レイは怯んでしまった。
「アリス……いったい誰がこんな酷いことを!」
アリスは固く口を閉じ、俯いて首を何度も横に振った。
アリスは何者かに喉奥を焼かれ、言葉を奪われていたのだ。レイだけが、アリスの身に起きた惨劇を知った。
せめて首筋の傷を隠せるよう、レイは拾い集めた細い布に、丹念に鍛えた金属の花飾りをあしらって贈った。
「ほら、これで首のただれは隠せるよ」
アリスはサファイアの瞳を輝かせ、レイに『あ……』と精一杯の感謝を伝えようとした。
レイには、その声がしっかりと届いていた。
その晩、飾りのついた布を見つけた修道女が、手に裁ち鋏を持ってアリスに迫った。
「その首に巻いた布を渡しなさい!」
アリスは壁に押し付けられ、強引に宝物をはぎ取られた。半狂乱になって取り戻そうと、か弱い小さな腕を振り回した。
しかし、その手が修道女に届くことはなかった。
翌朝、レイは修道女から珍しく焼き上げた卵を与えられた。
「珍しいこともあるのだな。高価な卵をくれるなんて」
レイは卵をむさぼりながら、思った。
「半分は、アリスにあげるとするか」
一人呟き、レイは自作の小さな金属箱に卵の半分を納め、アリスを探し回った。
修道院の片隅にうずくまる彼女を見つけると、アリスを驚かせようと箱の蓋を大げさに開けた。
「卵だよ、アリス!」
振り返ったアリスの瞼は腫れ上がり、首元からはあの布が消えていた。
レイの顔色が鍛冶窯の鉄のごとく赤く煮え滾る。
すべてを察したレイは立ち上がり、修道女のもとへ駆け出した。
「シスター! 奪ったな! アリスに返せ!」
怒号を上げて飛びかかったレイだったが、即座に年長の孤児と修道女たちに組み伏せられた。
「返せ、アリスの首飾りを! アリスの……!」
ぬかるんだ地面に顔を押し付けられ、口と目を麻布で覆われる。
柱に括り付けられ、容赦のない鞭と打撃が叩きつけられた。
レイは、一切の悲鳴を上げなかった。
肉体の痛みを遥かに超えた、ただ奪うだけに命を弄ぶ世界への底知れぬ憎悪が、彼の魂を支配していた。




