第五話 浄化の巫女
「〝浄化の巫女〟というのは、その場に存在しているだけで、周囲を浄化する女性のことなんだ。澱んだ悪い気を祓い、清浄に導く。元々女性には浄化の性質が多少は備わってはいるが、お嬢さんくらいに強烈な浄化力を持っていると〝浄化の巫女〟と呼ばれるようになる。この家は人形に悪霊を封じて保管しているから、どうしても陰の気を引き寄せやすい。廊下や階段にあった陰の気の澱みが綺麗さっぱり消えているのはお嬢さんが出入りしているからだろう」
和人の言葉はあまりにもファンタジー過ぎて、理解するのは難しい。大体、〝浄化の巫女〟という名称自体が恥ずかしいと思う。
「……あ。だから夜刀は私を雇おうとしてたの?」
自分にそんな力があるかどうか知らなかったけれど、夜刀は最初からわかっていたのか。
「違う。誤解すんな。…………お前の就職先が全部潰れるのは、たぶんそれが原因だ」
「それ……どういう意味?」
夜刀は言外に私のせいだと言っているように聞こえる。
「お前の浄化の力が企業内の歪みや澱み、隠されてきた悪い部分を一気に顕在化させる。おそらくお前が仕事に情熱を燃やせば燃やすほど、その力は強くなる」
「待って待って待って。私が仕事頑張るぞーって思ってたのが会社が潰れた原因なんて、ありえないでしょ。たかが一人の新入社員よ?」
厳しい就職活動を乗り越えて、やっと職に付けたという喜びと同時に、これから一生懸命頑張ろうと誓ったことが原因とは思えない。
「俺も最初はそう思ってたけどな。……出会ってから半年で四社潰れただろ? これはマジでヤバいと話をするべきか迷ってた」
知っていたなら早く教えて欲しかったとは思っても、いまだに就職したいことには変わりはない。この呪いが解決次第、すぐにでも就職活動を始めるつもりでいる。
「じ、じゃあ、頑張るぞーって思わずに、適当でいいかーと思ったら潰れない?」
「それはわからない。それなりにデカい会社なら体力も柔軟性もあるだろうとは思っていたが、この前社長一家が夜逃げした会社の例もあるからな」
先日潰れたあの会社は、この辺りではそこそこ有名な老舗の企業だった。
「だ、だったら……超有名一流企業なら大丈夫かな?」
ごく稀に求人を見かけることはあっても、最初から一流企業は無理とあきらめていた。次からは選択肢に入れるべきかも。
「一流企業に適当でいいかーで入れると思うか?」
「…………思いません」
夜刀が正論過ぎて、ぐうの音も出なくて拳を握る。これまでの難関突破の採用も就職活動を必死に頑張った成果だと思っている。
「今の話を聞いた限りだと、お嬢さんは潰れた方がいい会社に呼ばれているんじゃないかな。会社自体に守護霊が憑いていることがあるんだけど、そういった存在が浄化してほしいと呼んでいるのかもしれないね」
「……それならいいのですが……」
私が目に見えてへこんでいるからか、和人がフォローするような言葉を紡いでくれても心は晴れない。浄化と聞いて、最近何度も耳にしたなと何か心に引っ掛かる。
「浄化……浄化……? ……あ! もしかして鎌倉時代の武将が成仏しちゃったのも私のせい?」
「……ああ。お前が作った服が浄化を加速させて、言霊でとどめを刺した」
「言霊? 私、何か怖いこと言った?」
悪霊にとどめを刺せるほどの言葉。自分があの時、何を言ったのか思いだそうと努力してみても、全く記憶に残っていなかった。
「お前が言った『可愛い』がとどめになった。そもそも『可愛い』という言葉は強力な言霊を秘めてる。『可愛い』は均整の取れた美しさや綺麗さではなく、多少の不格好さがあっても愛嬌があるということだ。愛嬌というのは美醜を超え、人の心を和ませて場を柔らかく整える。すべてを許容し、包み込む寛容の心を発生させる。だから『可愛い』は最上に近い誉め言葉であり、言祝ぎの力が強い」
その一言で夜刀が祓いきれなかった悪霊が成仏したとは俄かには信じがたい。
「よくわからないけど、そんな力があるのなら、気軽に『可愛い』って言えなくなるじゃない」
私に限らず、多くの女性はどうしても可愛いものを見ると『可愛い』と言ってしまうし、何でも『可愛い』で表現しがち。たった一言に、強い力があるのなら、気軽に使ってはいけないのだろうか。
「そうじゃなくて。祝いの力があるからこそ、もっと言っていいってことだ。体の大部分が水で出来ている人間は、水と相性の良い陰の気をすぐに呼び寄せる。だから笑って陽の気を出して、言葉で祝うことでバランスを取る。……あの武将が八百年以上抱え込んでた陰の気を、お前の浄化力と『可愛い』という陽の気を持つ言葉でぶっ飛ばしたんだ」
言葉にそんな力があるなんて知らなかった。
「『可愛い』で陰の気を祓うことができるって知ってるなら、夜刀も言えばよかったんじゃない? もっと早く成仏させられたかも」
「……あいつは人形を持った俺に『視覚の暴力』とまで言い放ったんだぞ。そんな俺に『可愛い』だの『綺麗』だの言われて素直に聞くと思うか?」
「あ。そういえばそうね」
そうか。長年の敵同士みたいな間柄では、明るい言葉は通じないのか。
「それに残念だが、俺はお前ほどの浄化の力はない。きっと俺が千回言ってもお前の一言には敵わない」
夜刀が口を引き結ぶ顔が拗ねているように見えてしまった。それを可愛いと言ったらますます拗ねてしまうだろうか。
「そうか。あの武将の霊を浄化したのはお嬢さんだったのか。就職先を探しているのなら、解呪の後、うちの神社で巫女をするのはどうだい? 給料は弾むよ」
和人の言葉にぐらりと心が揺れつつも、あの石階段を思い出して無理だと思う。
「ありがとうございます。ですが私は会社員を目指したいと思っています」
正直に言えば、この快適な都市部から離れるのがツラい。徒歩圏内で電車に乗れて、コンビニやスーパーが近くにある恵まれた環境を経験してしまった今では、山の中へ戻るのは相当な勇気が必要。ここから車で一時間半の八條家の神社の周囲には、山と田畑しかない。身分証替わりの原付免許しか持っていない私は車の免許を取る必要も出てくる。
「それは残念。まぁ、いつでも気が向いたら連絡を。……ということで電話番号……」
和人がスマホを取り出し、夜刀が取り上げる。
「電話帳が寂しいからっていうくだらない理由で俺の婚約者をナンパしないでください」
そうだった。今は夜刀の婚約者という設定になっていたことをすっかり忘れかけていた。
夜刀が取り上げた和人のスマホが鳴り、画面には可愛らしい黒猫のキャラクターのアイコンと雅の名が表示されていた。
「……当主、良い趣味をお持ちで」
「誤解しないでくれたまえ。雅の趣味だよ」
互いに半眼でスマホをやり取りし、和人が電話に出た。雅は顔に似合わず可愛い物好きなのか。
「ああ、はいはい。私は夜刀の家にいるよ。……残念ながら当初予定の場所は反対があってね」
和人と雅の電話のやり取りは短く終わり、雅がここへ来ると言って電話が切れた。
十五分後、雅は黒い高級国産車に乗って夜刀の家に現れた。夜刀が迎えに出て、一緒に居間へと戻ってきた。
「君を危険な目にあわせてしまって、本当に申し訳ない!」
「待って待って待って! 土下座禁止ーっ!」
土下座しそうな勢いの雅に駆け寄って、ぎりぎり押しとどめてほっと息を吐く。
「私が離れるようにお願いしたので、私の責任です。私のワガママで、ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
頭を下げたくても近すぎて下げられない。背の高い雅の顔を見上げつつ、離れると土下座されそうなので、どうしたらいいのか迷う。
「いや。私の方が……」
至近距離で謝罪合戦になりかけていた私たちの間に夜刀が割り込んできた。
「愛流が無事だったので、どうでもいいです。それよりも、雅さんの話を聞かせて下さい」
そういいながら、夜刀が私の肩を掴んで雅から引き離す。
「雅、夜刀もそういってるし、お菓子でも食べながら話を聞こうか」
にこにこ顔の和人が促すと雅が渋々といった表情で頷く。いつの間にか和人の手には有名和菓子店の茶色い紙袋が下げられていて、どうやら雅が買ってきた物らしい。
「……和人、彼女への謝罪の品を、何故お前が開けるんだ」
「まぁまぁ。変な霊がついてないかチェックするだけだから」
雅が止めるのも聞かずに和人は居間のテーブルで紙袋から次々と紙箱を取り出して広げる。雅のセレクトはとても可愛らしくて、綺麗な花を模した練り切り詰め合わせと、猫の形をしたお饅頭。肉球の焼き印が押されたどら焼き。小瓶に入った金平糖やカラフルな飴。この強面で選んだのかと思うと、何故か私の方がどきどきする。
「お嬢さん、和菓子は平気かな?」
「はい。甘い物は大好きです」
洋菓子も好きだし、和菓子も好き。ましてやデザインが可愛らしくて凝っているものを拒否する理由が思い浮かばない。ちらりと、先ほど和菓子店で置き去りにされた霊のことが脳裏に浮かぶ。私が呪われていなければ、この和菓子を一緒に楽しむことができたのに。
「おい、お前。変なこと考えてないか?」
「へ、変なことなんて考えてないってば。さっきの和菓子好きの霊が見たかっただろうなーって思っただけ」
夜刀の問いにびっくりして、変な声になってしまった。
「愛流……そういうこと考えると、霊に憑かれやすくなるからやめろ」
「そうなの?」
「下手な同情やら憐れみは、霊を引き寄せる。霊から見れば、仲間になってくれるかもしれない人間。つまりは『同じ立場になるために殺してあげるから、お友達になろうね』って思われるんだぞ」
その衝撃的な内容よりも、夜刀の女言葉が不気味で引いてしまうのは仕方ないと思う。
「こらこら。夜刀。変な例えで脅すのはやめなさい。お嬢さんは元々共感性が高いのかもしれないが、今は呪いのせいでその特性が強まっている可能性もあるから仕方ないよ。……この状態のお嬢さんがあの御遺体に会ってたら、あの男の霊が強力に憑りついて除霊に苦労しただろうね」
夜刀の言葉よりも和人の言葉の方が怖いのは気のせいだろうか。
「呪いを掛けられて、性格が変わってしまうということもあるんですか?」
自分の性格が変わったようには感じない。ここ数日で霊について考えることが多くなったから、ついつい霊寄りの思考になっているとは思う。
「それはあるよ。怒りやすい性格がおとなしくなったり、これまでは食べなかった物を好んで食べるようになったりと、性格だけでなく嗜好まで変わることもある。何か変わったことはある?」
「いいえ。全く思いつきません」
私の答えを聞いて、ほっとした顔の夜刀が立ち上がった。お茶を淹れるというので、一緒に台所へと向かう。
「誤解するなよ。俺はお前の浄化の力をあてにしてるんじゃないぞ」
やかんでお湯を沸かしながら、真剣な表情の夜刀が私へと話しかける。
「じゃあ、どうして私を雇おうと思ったの? この前も言ってたし」
「……もう一度俺にあのセリフを言えというのか……」
何故か夜刀は遠い目をして呟く。
「別に言わなくていいわよ。だって、私は正社員をあきらめていないもの。就職活動は頑張って、入社後は適当に過ごすというのが新たな目標よ」
山の中の神社の巫女はお断り。何とかして正社員として会社に潜り込み、おとなしく平凡な日常を過ごしたい。
私の決意を聞いた夜刀は、深い深い溜息を吐いて口を引き結んだ。
お茶を淹れて居間に戻ると、雅が書類を広げた。
「路上で水死した十一名の氏名と職業、動画をSNSに公開したと思われる八名のハンドルネームの一覧だ。この二名は家族から返信があって、本名と住所が確認できているが、他は確認作業中だ」
A4サイズの紙に印刷された名前やハンドルネームを見ても、全く心当たりも見覚えもない。本当に知らない人々が勝手に撮影して動画をネットに流したのかと再度確認して、心が冷えていく。
「……会社員とか、ちゃんとした職業なのに無断で撮影した動画アップしたりしちゃうんですね……」
「残念だが、職業も年齢も関係ない。動画サイトやSNSに慣れ過ぎて、基本的な倫理観が異常をきたしている人間が一定数存在している。俺が取り扱う案件でも『皆がやっているから自分もやっただけ』と何が問題なのかすら理解していない者ばかりだ。実際は肖像権の侵害や名誉棄損、酷い場合は脅迫罪に該当することもある。今回は理解する前に、おそらく撮影者全員が命を落としているようだが。……代償は大きいな」
雅が小さな溜息を吐いた。家族から返信があった二名の本名は、水死した十一名の名簿の中にあった。
「死んだからといって、許されることではないよ」
さらりと挟まれた和人の言葉は私の気持ちと一致していて、妙な安心感が心に広がった。冷酷と思われるかもしれないけれど、撮影者たちの自業自得と感じてしまうのは否めない。SNSで拡散された動画はこの先消えることはなく、私は無責任な憶測や噂に一生付きまとわれる。
「動画を公開した人の中に、この動画配信者はいないんですね」
「確認中だが、削除された再生数百万回超えの動画というのが、この古見浦 達樹という男が公開したものだと思われる。……いわゆる迷惑系動画の配信者で有名なトグルマだ」
「そのハンドルネームは知ってます。動画に出ている時には、いつも青い鬼の面を被っている人ですよね」
見ず知らずの人に悪戯を仕掛けたり、有名人の家に押し掛けたり、時には犯罪の被害者や家族に突撃したりする動画は世間の批判をいつも浴びていて、何が面白いのかさっぱり理解できなかった。それでも動画のチャンネル登録者は五十万人を超えている。誰に迷惑を掛けても謝罪しないし、訴えられると裁判の呼び出しの書類を公開してまた炎上させていた。
「雅、その消された動画を見る方法は無いかな」
「……そうだな……いろいろ方法はあるが、御遺体の祓の神事の際に理由を付けてスマホと自宅PCを確認するのが一番早いだろう」
「元の動画ファイルも消された可能性は?」
和人と雅のやり取りを聞いていた夜刀が疑問を挟んだ。
「物理的に完全破壊されていなければ、削除されていても復元の可能性はある。完全消去を謳う削除ソフトを使用していても、元に戻せる確率はゼロではない」
雅の言葉は経験を含んでいそうで頼もしい。
四人というよりも、夜刀と和人の二人での話し合いの結果、私に呪いを掛けた女性の正体を突き止めるのが一番の優先事項。私が見せられた記憶による人物追跡と、消された動画の確認。そして血を吐いて死んだ土岐川が出演したという動画についての情報を集めるという方針が決まり、和人と雅は帰っていった。
肉球の焼き印が押されたどら焼きを一口食べて、溜息一つ。
「……どうして私が? っていうのは考えても無駄なのよね」
「そうだな。前にも言ったが悪霊と化したヤツに理性は残ってない。悪霊とまともな対話ができるなんて考えない方がいいぞ。いつもどおり、霊力でぶん殴って完全に動けなくしてから話を聞くっていう方法は女相手には出来ないな。何をして欲しいのか要求を聞くだけか……」
めんどくさい。そんな顔をしながら、夜刀は溜息を吐いた。夜刀も雅も武闘派なら、和人はどんな霊能力を使うのか、密かに興味が沸いてきた。
「さっき、聞けなかったけど私は何をすればいいの?」
夜刀と和人の話の中で、私の役割は一切出てこなかった。
「そうだな……。あ、この前依頼した人形服を完成させてくれ。早く服を寄越せって煩いんだ」
そうだった。吐血事件の二日前、夜刀の人形部屋へ妙に注文の多い新人さんが入ったことを忘れていた。プリンセス願望があるらしく、魔法少女風のピンク色のドレスのオーダーを受けている。人形の中身の性別を聞く勇気は無かった。
「ごめん。モデルのドールと作りかけの衣装、部屋に置いてきちゃった」
呪いへの恐怖と友人たちとのやり取りで慌て過ぎていたから着替えや化粧品が最優先で、シェアハウスから持ち出してはいなかった。
「それなら、まだ霊が入ってない人形がある。裁縫道具は一通り揃ってるが、材料は通販か、俺と一緒に買いに行くかだな」
「……えーっと……これの代金……」
「ストップ。代金は返さなくていい。物を作る人間が技術を無料で、なんて言うなよ」
苦笑する夜刀は優しい。
「夜刀の解呪も技術でしょ。依頼料と私の滞在費もあるし……」
「……こんな状況で頼むのも何だが、人形部屋のヤツらの浄化を頼みたい。この前の四分割したヤツが、まだ馴染まないんだ。解呪の依頼料と滞在費はそれで釣りが出る」
「それって、バランス悪いわよ」
「いいや。〝浄化の巫女〟の浄化はとんでもない高額が取れる。俺が十回仕事して足りるかどうかだ」
夜刀の拝み屋としての依頼料がいくらかはわからないけれど、十回分の金額は相当な額になるはず。
「あ、だから私を拝み屋にスカウトしたいのね」
「ちーがーう。…………とにかく、金のことは気にすんな」
大きく溜息を吐いた夜刀は、何故かがくりと項垂れた。
それから五日が過ぎて、再び和人と雅が夜刀の家へと訪れた。
「こんにちは、お嬢さん。体調はどうかな?」
今日も涼やかな着物姿の和人と、夏だというのにきっちりとダークスーツを着る雅の組み合わせは何度見てもヤクザの若頭と護衛で笑ってしまいそうになる。
「ありがとうございます。元気です」
夜刀の術は私を完全に護ってくれているようで、腕の痣は一つも減っていなかった。和人が痣に触れて確認したいというので、腕を差し出す。
「……これだけの聖域にいて、まだ呪いは弱まっていないのか……」
「それはどういう意味ですか?」
「夜刀の結界で〝浄化の巫女〟の浄化の力がこの家の中に閉じ込められている。それに、お嬢さんは浄化の力を使っただろう? 普通の呪いならここで過ごすだけで浄化されていく」
確かに私は夜刀の人形部屋で浄化の力を使った。といっても、単に夜刀と一緒に部屋を掃除して、人形たちの髪や服を整えて可愛い・綺麗と褒めたり話し掛けただけ。たった半日で部屋にいた人形の半分が成仏してしまったので、今は棚がスカスカ。
「当主、俺の婚約者に触りすぎです」
夜刀がぴしゃりと和人の手を叩き落として、そういえばそんな設定だったと思い出す。夜刀は相変わらずソファで寝ていて、私は夜刀の寝室を独占中。同じ屋根の下での共同生活でも、友達感覚で色恋なんて全く感じていなかった。シェアハウス生活よりも快適で、戻るのが少々億劫になりかけている。
居間のソファに四人で座り、雅が持参した可愛らしい猫型最中と猫の形のせんべいと共に緑茶を飲む。可愛らしい猫の形の和菓子にほっこりしつつ、雅がこの厳つい顔で買っている光景と想像すると、店員さんはどう思っているのだろうかと不要な心配でどきどきしてしまう。
「さて。本題に入ろうか。雅、頼むよ」
和人に促され、雅が黒いケースから書類を取り出した。
「ああ。まず、女性の正体についての中間報告が上がってきた。条件に該当する夫婦は二十二組にまで絞られている。後はスタッフが現地の役所に行って地形条件等も調べることになっているから、調査待ちだ。結果が判明次第、また報告する」
書類には、二十二組の夫婦の名前と住所が並んでいる。住所は全国にわたっていた。私が見た少ない情報だけで、たった五日の間にここまで調べられるものなのかと驚いた。
「雅の弁護士事務所のスタッフには、凄腕の人探しがいるからね。一種の特殊能力といってもいいくらいだ」
特殊能力と聞いて、そういえばここにいる私以外は霊能力者揃いだったと改めて思い出す。一気に非日常空間を感じて、普通の生活が遠くなったような気がする。
「次に……動画を撮影したと思われる十四名の死亡を確認した」
示された書類は先日と同じA4サイズの紙に印刷されたもの。前回よりも明らかに人数が増えている。
「ふ、増えてませんか? 先日は十一名って……」
「二名が独り暮らしで発見が遅れたらしい。一名は登山中に滑落して死亡。いずれの遺体も全く乾かない状況で、事件の日は周辺にいたことが交通系ICカードの利用記録から判明している。まだ見つかっていない者がいる可能性もある」
改めて、あの凄惨な状況を思い出して体が震える。血を吐く男よりも、半笑いで撮影する人々の方が怖かった。そのおそらく全員が死亡していると思うと、あの時の人々は既に悪魔か悪霊か、何か恐ろしい物に憑かれていたのかも。
「各種プラットフォームに上げられた動画は削除が認められて消されている。ただ、動画のコピーを持っている者がかなりの数いるらしい。アップされては消されるいたちごっこだ」
それはどうしようもないことだと思う。一気に広まったデータを『消すと増える』というのは、ネット上でありがちな話で。
「それから……あの血を吐いた土岐川の持っていたスマホから動画を復元した。……その……出演したという動画の撮影風景と思われるもので……」
それまでは淡々と話していた雅の言葉が濁っていく。話して良いのか迷っているように聞こえた。
「本来は女性に見せるべきではない見るに堪えない動画なんだけど、どうしても意見が欲しいと思ってね。少し我慢して見てもらえないかな」
和人にそう言われれば見るしかない。頷くと雅がA4サイズのタブレット端末を出してきた。
「当主、先に俺が確認してからでいいでしょう? ヤバい動画はこいつに見せたくない」
「夜刀、お前はおそらく私や雅と同じ物が見えるだろう。お嬢さんにどう見えるかが知りたいだけだよ。音声は消しておこうか」
夜刀の言葉を聞いて和人が微笑む。納得できないという顔でさらに抗議しようとする夜刀を止めて、動画の再生を頼んだ。
タブレット画面いっぱいに表示された動画は、最初は真っ暗。一つ、二つとロウソクが灯り、炎が揺らめく。手持ちのスマホで撮影しているようで、時々大きく画面が揺れる。画面が明るくなると板張りの部屋の中央で、目隠しと猿ぐつわをされて全裸で腕を縛られた女性が吊り下げられ、黒い仮面を付けた男に犯されていた。
女性の体には鞭で打たれたのか無数の傷があり、男の行為は女性に対する気遣いも容赦もなく乱暴すぎて、音声が消されているのが唯一の救い。土岐川が出演した動画はAVだったのか。
「もういいだろ」
手を伸ばした夜刀が動画を止めて、自分の手を口元に当てて項垂れた。
「ど、ど、どしたの?」
「気分悪い。最悪だ。……当主、こんなモノ見せる必要ありますか? ……お前、あれ、どんな風に見えた?」
「どんなって……………………緊縛モノのAV?」
頬に集まりそうな羞恥を隠す為、なるべく平静を装いつつ控えめな言葉を選ぶ。男三人の前で見る動画ではないと思う。
「AVじゃない。……吊り下げられているのは白骨だった」
「は? いやいや、かなり華奢だけど、しっかりきっぱり女性よ」
そう口にして、白いワンピースの女性の顔が思い浮かぶ。この動画では目隠しをされていたから同一人物かわからないけれど、すらりとした腕や長い黒髪に共通点がある。
「私や雅、夜刀もそうだが、ある程度の霊力を持つ人間には白骨にしか見えない。こういった動画の多くは霊体が見えるはずなんだけど、この動画には一切残っていないんだ。それなのに陰の気と悪意はたっぷり沁み込んでいる。だから不思議でね」
三人には白骨を犯している変態男の動画としか見えないのか。想像すると滑稽で、一人で恥ずかしい思いをしているのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
「女性は……目隠しと猿ぐつわをされていたので顔はわかりませんが、華奢で長い黒髪でした。……体には鞭で打たれたような傷がたくさん……」
「目隠しか……お嬢さんが目撃した白いワンピースの女性に似てる?」
「断言はできませんが、共通点はあると思います」
かなり似ている……と思う。それなのに、そこはかとなく違和感がある。
「土岐川は、この動画に出演して霊に憑りつかれたってことかな。それにしても妙な動画だねぇ。こんなものをリアルタイムで配信していたんだろう? 大抵の霊は行動の中にメッセージを残しているものだけど、これは何が目的なのかさっぱりわからないねぇ」
和人が和服の袖の中、腕を組んで首を傾げる。はっきりとしたメッセージといえば、『我慢できないの』という一言だけ。
「人殺しがやめられなくて、憑りつく為にあんな動画に出たいと思う馬鹿な男を釣ってたんじゃないですか? 完璧にとばっちりじゃないですか」
夜刀はそう言って溜息を吐く途中で息を止めた。
「待て。何かおかしい。雅さん、もう一度再生してもらえますか」
「ああ。……これは……?」
再生された動画の端から、虫食いのような穴が広がって白くなっていく。私たち四人の目の前で、動画データは全て消え去った。
翌朝、夜刀と私は、吐血事件を最後まで撮影していた迷惑系動画配信者トグルマの祓の神事に同行していた。とにもかくにも解呪のヒントが欲しい。夜刀は猛反対したけれど、私が夜刀の結界の外に出ることで、何らかの接触があることを期待してもいる。
「俺から絶対に離れるなよ」
「わかってる」
雅が運転する車の後ろを夜刀の車が走る。トグルマの自宅は隣県で、一通りの検死が行われた遺体は管轄の警察署に安置されていた。
「もう一度確認したいんだけど、私の服の色、大丈夫? 明るすぎじゃない?」
喪服とスーツは却下され、夜刀の指定は淡いラベンダー色のワンピース。お堅い席にはどう考えても不似合い過ぎて不安。
「大丈夫だ。その方がいい。……黒や濃い灰色っていうのは、穢れや陰の気を呼びやすい。今のお前は引き寄せやすくなってるから、明るい色で跳ね返す」
そういいながら、夜刀自身は白の半そでシャツに黒のズボンと革靴姿。ノーネクタイなだけできちんとしていて、私だけが浮きそう。
「喪服とか黒でしょ? ……あ、だから家に入る前に塩振るの?」
お葬式の後、家に入る前には塩を体に振って穢れを落とすという神道の風習を思い出した。
「ああ。葬式では死の穢れと共に、他の穢れや陰の気を拾う。葬式でまとう黒は悲しみを示し、死者に寄り添う心情を表す色でもある。黒に惹かれて集まってくるような雑多な穢れは、軽く塩振るだけで簡単に落とせる。身内の葬式では不要というが、できれば振った方がいいな。おっと、曲がるのか」
前を走る雅の車がウインカーを出して曲がり、車間距離を取りつつ夜刀の車も曲がる。雅に習ったという夜刀の運転は滑らかで丁寧。急発進も急ブレーキもないから安心。
「ナビ通りだったら、まっすぐじゃないの?」
「そうなんだよな。……あー、わかった。あのまままっすぐ行くと、墓地の近くを通るから避けたんだな」
その一言でピンときた。その辺にいる浮遊霊を拾わないようにということか。霊が視える霊能力者は大変だなと、ふと思う。本当に視えなくて良かった。
和人と雅の顔が頭に浮かんで、忘れていた疑問を思い出した。
「そういえば、昨日、夜刀の結界の中なのに動画データが消えたのって、どうして?」
「雅さんが外部のネット回線に繋いでたからだろうな。俺の家の回線経由だったら外部干渉をブロックできてたかもしれない」
雅の凡ミスは珍しいことらしい。驚いたという顔をして夜刀が苦笑する。
「霊って、ネット上のデータも消せるのね」
雅のタブレット内の動画データだけでなく、弁護士事務所のPC、サーバーに保存されていたバックアップデータも綺麗さっぱり消えていた。
「ああ。昔は電話回線で移動する霊もいた。今はネット回線を介して移動する霊もいる」
「……私の腕の痣は関係ない?」
夜刀の結界の中、私が受けた呪いが白いワンピースの女性の霊につながってはいないだろうか。理由はわからないけれど、私が白骨動画の存在を知ると同時に、霊にも知られて消された可能性はないだろうか。
「それは関係ない。昨日から何度も言ってるだろ。痣の数が減ってない限り、俺の術は効いてる。お前は絶対に死なせないから心配するな」
夜刀の言葉は力強くて、その笑顔でほっとした。
隣県の警察署は、市役所と図書館に囲まれた比較的大きな建物だった。指定されていた駐車場へと車を止めて署内へと向かう。和人が神職の服に着替える間、夜刀と私は警察署前のコンビニに立ち寄ろうと駐車場を歩いていた。
「神主さんの服って現場で着替えるのね」
「その時々だな。時間や場所が限られている時は、そのまま着て向かうこともある。装束のまま車に乗ると背中やら尻にシワが出来て美しくないから、当主はなるべく現場で着替えるようにしてるそうだ」
八月下旬の空は秋の気配を含んでいても、まだまだ暑い。午後二時という時刻も相まって、太陽はぎらぎらと輝いている。車の中に置いてきた日傘を持ってくればよかったと密かに後悔。
「暑いな」
「夏だもの。涼しかったら、それはそれで問題よ。炎天下で食べるアイスと、冬のこたつで食べるアイスの醍醐味が無くなっちゃう」
「ふーん。アイスか。俺はかき氷だな」
他愛もない会話で笑う中、ふわりと花の香りが漂ってきた。
「夜刀! この匂い……」
私がまとっている香りと同じ。そう言い掛けた時、夜刀が後ろに振り向いて、つられて私も振り返る。三メートル程離れた場所に立っていたのは、夜刀と似た服装の男性。右手を中途半端に上げて固まっている。
「あのー、……すいません。その……えーっと……お姉さん、じゃなくて、お嬢さん……」
どうやら男は私に話しかけようとしていたらしい。必死に言葉を探している様子。夜刀と同年代の男は、茶髪のショートウルフでグリーングレイの瞳。身長は夜刀より五センチくらい低く細身でモデルのような美形。
髪型も髪色も全く違うのに、何故か私は、カーキ色の国民服を着た男に似ていると感じる。私と目が会うと、茶髪の男はいきなり大きく頭を下げた。
「弟がご迷惑をお掛けして申し訳ありません!」
「え? あ、あの? どういうことでしょうか?」
モデルのような美形から、唐突に謝罪を受けるような覚えは全くない。夜刀は口を引き結び、一気に不機嫌オーラを醸し出した。
「あ、僕はトグルマの兄で零音です。あの……動画に映ってた方ですよね? 男が血を吐いてた……」
「……」
その問いにはいと答えていいものなのか、盛大に迷う。違うと否定したい。答えられない私と男の間に夜刀が割って入ってくれて、ほっと息を吐く。
「まずは名前を名乗って頂けますか。ハンドルネームでは信用できません」
「あ、失礼しました。えーっと、僕は古三浦零音と申します。動画配信を仕事にしています。ネットでトグルマと名乗っていた古三浦達樹は僕の弟です」
口調も困惑する表情も柔らかで、あの時最後まで撮影していた男の兄とは俄かには信じられなかった。
「俺は彼女の婚約者、八條夜刀です。弟さんの動画は削除されているようですが、勝手に撮影されてネットに上げられて、非常に迷惑しています」
何故か勝手に夜刀が婚約者と名乗っていることがひっかかりつつも、今はそういう設定だからとざわつく心を落ち着かせる。
「それは……僕が動画を削除させました。でも全然間に合わなかったみたいで、すいません」
再び零音は深々と頭を下げた。髪色や目の色は派手でも、根は真面目な人なのかも。
「貴方が削除させた? どういうことでしょうか?」
「……えーっと……僕たち動画配信者は、大抵スポンサーがついてCMを動画内に流すことで稼いでいます。弟は非常識な炎上動画ばかりでスポンサーがつかなくて。チャンネル登録者からの投げ銭で生活していたんですが、時々、金が足りなくなると僕に動画の買取りを求めてきたんです。……今回の動画もアップ直後に連絡が来ました。今までは買取りに応じたことはなかったんですが……最初の十数秒を見て、これは絶対アウトだと思って金を払って削除させました」
「絶対アウトとは?」
「僕の勝手な理想ですけど、人の死は動画のネタにしちゃダメだと思っているんです。映っていた男性の吐血量はヤバかったし、演技には見えなかった。これは死ぬんじゃないかって、すぐに予想できました。僕は多くの人が笑って楽しい気分になる動画を作りたいと思っているので……あ、すいません。話が逸れました。とにかく、人が死ぬ動画はダメだと思っています。絶対アウトです」
語る内容からは、良い人なのが伝わってきた。落ち着いてみると、やはり零音からも同じ花の匂いが漂ってくる。
「そちらの事情はわかりました。ただ、彼女の被害はまだ終わっていませんし、弟さんは亡くなられている。貴方の謝罪は意味がありません」
不謹慎と思いつつ、きっぱりとした口調の夜刀が凛々しくて頼もしく感じる。一緒にいてくれて良かった。私一人の時に出会っていたら、ろくに話も聞けずに逃げ出していただろう。
「そうですね、すいません。……えーっと……できれば被害の賠償金だけでも受け取っていただけないかと……」
そう言って零音は一軒家が買えそうな超高額を提示してきたのに、夜刀は顔色一つ変えなかった。
「金銭は不要です。もし謝罪の気持ちがあるのなら、動画の削除にご協力ください。弟さんの動画はコピーされていないようですが、他の人間が撮影した動画が拡散しています。似たような動画を発見した場合は、プラットフォームへの通報とアップした人物への注意をお願いしたい」
「わかりました。僕の会社のスタッフにも指示します。これ、僕の連絡先です」
零音は動画配信で相当稼いでいるらしく、自らの会社を立ち上げ、数名の社員を雇っていた。渡された名刺には社長の肩書と、SNS総フォロワー数・一千万人超えと書かれている。
「有名な方なんですね……存じ上げなくて申し訳ありません」
私が見ている動画のジャンルが違うのか、一度もおすすめに流れてきたことはなかった。
「謝る必要ないですよ。有名って訳でもないです。テレビに出てる芸能人と違って、ネットで名前と顔が知られてても限られた世界の中だけです。世間から見れば無名ですから、知らなくて当然です」
結構失礼な発言をしてしまったのに零音の反応は穏やかで柔らかく、こちらが恐縮してしまう。漂ってくる花の香りのことを聞こうとした時、夜刀が口を開いた。
「……弟さんがアップされた動画の元データはありますか? もし弟さんのスマホかパソコンに残っているのなら確認したいのですが」
「動画データは僕が持っています。買取り金を動画を仕入れた経費にしたので。今、確認しますか?」
トグルマがアップしていた動画は、白いワンピースの女性が映っている動画のはずと思い出して緊張が走る。
「わ、私はパス」
「警察署の中で、部屋を借りられないか相談してみます。画像の確認はその時に。……もうすぐ神事が始まる時間です。貴方も立ち合いに来たのでは?」
夜刀の言葉を聞いて、そんな時間かとスマホで時刻を確認する。予定の十分前。そろそろ移動しなければならないだろう。
そうして夜刀と私、零音の三人で、警察署の中へと入った。
八條家当主が行う祓の神事は、通常の形式ではないらしい。警察署内の道場に白いビニールシートが敷かれ、中央に灰色の遺体袋が置かれている。シートの四隅には白木の柱が立てられ、紙垂が付けられた縄が張り巡らされていた。その前に置かれた祭壇も、地鎮祭等で見る物とは全く違うし、中央には鉄で出来た鉢が置かれている。
立ち合いは警察署長と夜刀と私、零音だけ。雅の姿がないと思っていたら、道場の扉が開いて白い神職姿の和人が現れ、雅はスーツ姿で付き人のように扉の開け閉めをしていた。ますますボディガードに見えて場違いな笑いが込み上げそうになる。
道場にある神棚と、急ごしらえの祭壇に礼をした和人が手を叩くと、道場内の空気がぴんと張り詰めたのを感じて背筋が伸びた。
「袋を開いて頂けますか」
ゆったりとした口調でありながら、その言葉には従わざるを得ない圧がある。警察署長と雅が縄の中に入って、遺体袋のファスナーを開けた。人の遺体を見たくないと目を逸らすと、夜刀が私を抱き寄せた。
「ちょ。何するのよっ」
「お前は見るな。マジでヤバい」
夜刀の囁きには緊迫感が溢れていて、見上げると額に汗をにじませていた。冷房が効いた道場内は涼しく、汗が出るなんて異常。それほどヤバいということかと抵抗する力を緩めて諦める。
夜刀に抱きしめられたまま、私は祭壇に背を向けた状態で神事が始まった。聞いたことのある祝詞から、聞いたことのない祝詞まで、いくつもの祝詞が聞こえてくる。時折、ぱちぱちと炎がはじける音と、炎が勢いよく燃え上がる音が混じる。
十分程経つと風もないのに、ざわざわと紙垂が揺れる音と、豪雨のような水音がして背筋が凍った。振り返って確認したくても、夜刀は私の後頭部を手で押さえつけて絶対に見せないようにしている。横目で隣にいる零音を見ると、右手で口を押えながら驚愕の表情で祭壇の方向を凝視していた。一体何を見ているのか、怖いけれど興味はある。
『うああああああああああああああ……がはっ……があっ!』
響き渡る男の絶叫が、途中から水を飲んでむせたような声に変化した。先日巻き込まれた幻影の水の感触を思い出して体が震える。手で耳を塞いでも、溺れる叫びは頭に響く。
「達樹……」
よろよろと前に歩き出した零音の腕を雅が掴んで止めた。
「彼はすでに命を失っている。君も死にたいのか?」
雅の警告に対して、腕を掴まれたままの零音は歯噛みしながら視線を逸らす。叫び声の主は死者なのか。和人の祝詞が続く中、断続的に助けを求める叫びが胸に刺さる。
どれだけの時間が経ったのかわからなくなった頃、炎が爆発的な音を立て、焦げた匂いを含む熱い風が辺りを駆け抜けていった。同時に夜刀が大きく安堵の息を吐き、抱きしめていた腕の力が弱まった。
「終わった?」
「ああ。おっと、まだ見るなよ」
終わったと聞けば、見たくなるもの。ちらりと振り返って超絶後悔。
「うっわ!」
灰色の遺体袋の中央には、黒焦げの何かが横たわっていた。一瞬だけでしっかりとは見なかったものの、それが何なのかはすぐにわかった。
「馬鹿、見るなって言っただろ?」
夜刀の呆れた声も右から左。夜刀のシャツにしがみつき、私は何も見なかったと心の中で繰り返す。和人が祓串を振り、遺体袋が閉じられて神事は完全に終了した。
警察署の応接室で和人が着替えている間、私たちは会議室で待たされていた。無機質な長机とパイプ椅子が並ぶ部屋の中、項垂れて座る零音に掛ける言葉が見つからない。あの花の香りのことを聞きたくてもきっかけが掴めず、我慢できなくなった私は夜刀の腕を引いて会議室の外に出る。
「何だ? トイレか?」
「違いますー。……あのね、零音さんから私と同じ匂いしない?」
「ああ。あいつも完璧に呪われてるな」
夜刀はそんなことかと言わんばかりの呆れ顔。私の時のように驚いたりはしないのか。
「ちょ! 何でそんなに冷静なのよっ? 死ぬ呪いなんでしょっ?」
「その話は後で本人に聞く。それより先に動画の確認だ。俺はお前の解呪を優先したい」
何でもないことのように言われると、そうかと納得してしまう不思議。再び部屋に入って椅子に座り直すと同時に扉が開いて灰水色の紗羽織に単衣の和服姿の和人と着替えと思しき大きなカバンを持ったダークスーツ姿の雅、夏の制服姿の警察署長と警察官が入ってきた。
「お待たせしてすまないね。……おや?」
和人の視線は項垂れたままの零音へと向かう。警察官は遺体の引き取り手続きの説明をすると言って、零音に声を掛けた。
「署長さん、その方に少々お話を聞きたいのですが、この部屋を貸して頂いてもよろしいですか?」
和人が署長に声を掛け、零音が承諾すると、署長と警察官は部屋から出て行った。
「当主、俺の方の用件を先に済ませていいですか?」
「用件?」
「彼は吐血事件の動画データを持っているそうです。今、ここで確認したい」
夜刀の言葉を聞いた雅が、部屋の片隅に置かれたプロジェクタの使用許可を求めると言って出て行った。プロジェクタは型落ちながらも小型の高級品。夜刀は置かれていた説明書にざっと目を通す。
許可を取り、すぐに戻ってきた雅が巻き上げられていた布スクリーンを降ろし、夜刀が機材をセットしていく。和人は何か言いたげな様子で、スマホでデータを準備する零音を見ている。
セッティングが終わると、夜刀はポケットから複雑な図形が描かれた白い付箋を取り出して機材の周囲に貼り始めた。
「夜刀、何それ?」
「護符。簡易だがデータに干渉されないように結界を張る」
以前短期間務めた会社で、パソコン周りにペタペタと付箋を貼る男性がいたことを思い出した。本人は備忘録のつもりでも、見た目は美しくない。
「零音さん、スマホの外部接続を切ってから、ここに置いて下さい」
夜刀に指示されるまま、緊張した面持ちの零音がスマホを机の上に置く。ケーブルでプロジェクタと繋いだ後、夜刀が唇に二本の指を当てて何かを呟くと白い光が護符の間を走り抜け、五芒星が浮かび上がった。
「動画を再生させます。……愛流、見たくなければ目を閉じてろよ」
そう言われると迷う。夜刀がスマホの画面を操作すると、スクリーン中央に縦長の映像が投影された。手持ちで撮られた画面は揺れていて、撮影者が公園を走っていることがわかる。中央に小さく映るのは……スーツ姿で座り込む私と、かなりの量の血を吐く土岐川の姿。すでに周囲には数名の男女がスマホで撮影していた。
さらに近づいた画面では、顔を青くした私のスカートにしがみつきながら血を吐く土岐川が顔まではっきりと映っている。
「僕はここまでしか見ていません」
零音がぽつりと呟いた。確かにこの吐血量なら死ぬと感じるだろう。私が記憶していたよりも血の量は多く、血だまりが広がっていく。走ってきた撮影者の荒い息遣いと共に揺れる画面が、動画の生々しさに拍車を掛ける。
しばらくして、スマホからではなく耳元で鈴が鳴った。
「あ……」
画面の中、座り込む私の背後に白い人影が小さく映り、徐々に近づいてくる。ぼんやりとした白いワンピースの裾が揺れて、儚げな美人が寂しそうに微笑んだ瞬間、大きな音を立ててスマホの画面が砕け散り、画面が消えた。
「……ちっ! 簡易じゃ無理か!」
「これは相当難儀な相手だねぇ。逃げ足が速い」
夜刀が舌打ちをし、和人がのんびりと首を傾げる中、私は壊れたスマホが気になって仕方なかった。人気スマホの最新機種は、画面だけでなく金属の枠までが裂けていて、修理するより買い直しだろうと想像できる。最高スペックなら数十万が一瞬で鉄屑状態。
「……ん? ああ、心配しなくていいよ。もう一台持ってるから」
呆然と画面を見つめていた零音は私の視線に気が付いて、苦笑しながらポケットからもう一台を取り出した。
「いつでも撮影できるように、基本的に二台持ち歩いてるんだ。……あれ?」
スマホを操作する零音の顔から苦笑が消え、何かを探す様子。
「そちらのデータも消えましたか?」
夜刀の問いに、零音は頷く。電話をしたいと言って、零音はどこかへ電話を掛けた。
「あ、ごめん。僕だけど。えーっと、達樹の最後の動画データ、そっちのパソコンに残ってるよね? クラウドサーバーにアップしてくれないかな」
どうやら零音は自らの会社に電話をしているらしい。しばらくのやり取りの後、零音は電話を切った。
「……すいません。僕の会社のパソコンからもデータが消えてます。もしかしたら、達樹のスマホには残っているかもしれません」
「これ以上の確認は不要です。俺が見たい物は確認できました。……この動画をネットを通じて見た者の一部が、体調不良を感じたという話は聞いておられますか?」
零音に対する夜刀の声は淡々としていて、先ほどの神事の時の和人と共通する雰囲気を醸していた。何故かその問いには答えなければならないという圧がある。
「はい。噂だけですが」
「貴方は体調不良を感じませんでしたか? 例えば左腕に赤い痣が出来た……とか」
夜刀の言葉に零音がはっと息をのむ。
「えーっと……どうしてそれを知って……って、そうか、霊能力者だからなのかな……でも、痣が出たのは動画を見る少し前……たぶん三日前くらいです」
動揺する零音が白い半そでシャツの袖をめくると、私と同じ赤い痣がぽつぽつと現れていた。
「医者にも掛かったんですが原因不明で。塗り薬で徐々に消えてはいます」
痣の数は生存可能日数。私は夜刀の結界に護られていて数が減らないから危機感が無くなっているけれど、零音の痣の数は明らかに少なくなっていた。
「動画の三日前? 何か変わったことはありませんでしたか?」
「……変わったこと……というか……ネットで出回っている噂について調べていた知人から夜中に妙な電話があって……途中で切れた後、音信不通です」
「どんな噂ですか?」
「……えーっと……毎日午前零時に始まるライブ配信の話で……かなりヤバい内容らしいという噂が流れてはいるんですが、何しろ誰も見たことがないし検索を掛けても出てこない。都市伝説やネットの噂を動画のネタにしていた知人が熱心に調べていて……夜中の一時頃かな……妙に興奮した声で『すげぇネタになる仕事がきた! 例のライブ配信に誘われた。お前もこないか?』って。その直後に何か言いかけた所で電話が切れました。変だと思ったんですが掛け直す程の知人でもないし、そのまま寝ました。朝になって電話をしても繋がらないし、毎日アップされていた動画も途切れて。そのままです」
ライブ配信の内容は女性との性行為。ただし相手は白骨で。誘われたというのは出演者としてだろうか。関係しなかった零音が呪われた理由がわからないと思いつつ、そういえば私も出演した土岐川と接触したことで呪われたと思い出す。理性を失った悪霊に理由なんてないのだろう。
「…………当主、〝闇香の呪い〟の対象者は女性のみじゃないんですか?」
「そうだねぇ。これまで男が呪われた話は聞いたことがないよ」
夜刀の問いにのんびりと和人が答えると、零音は驚いた顔を見せた。
「呪い……ですか? もしかして、この痣が?」
「そう。〝闇香の呪い〟は虐げられ非業の死を迎えた女性の呪いだ。これまで女性が呪われた話ばかりで、男が呪われたことは一度もない。……呪われた者は四十九日後に死ぬ。痣はその期限を示している」
穏やかな口調でも、和人が告げる内容は恐ろしい。
「痣の数が、命の残り日数ですか?」
零音の問いに和人が頷くと、何故か零音は安堵の息を吐いて柔らかな笑顔を見せた。




