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闇香  作者: ヴィルヘルミナ


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第四話 乾いた死体と濡れた死体

 数時間後、和人からの電話を受けて、夜刀と私は警察署近くの公園で待ち合わせをすることになった。平日の公園には、近くの保育園の子供たちが遊んでいて可愛らしい歓声と笑い声が満ちている。この明るくて賑やかな場所を待ち合わせに選んだのは、霊と呪いが持つ陰の気を抑えるためと夜刀に説明を受けた。日光の下、確かに陽気な空気が流れている。

「保育園や小学校の子供の声がうるさいっていうクレームがあるって、たまに聞くだろ? あれはクレーマー本人に陰の気が溜まって、陽の気に耐えられなくなった結果だ」

「そうなんだー。後から引っ越してきて文句言うワガママな人って思ってた」

「そういうヤツは初めから引っ越してくんなって話だな。もともとは平気だったのに、突然我慢ができなくなったっていうパターンが一番ヤバい。陰の気は凝り固まると病気を呼ぶから、体か心のどこかで病気が始まってる可能性が高い」

「近所で遊ぶ子供の声がうるさいっていうのも?」

「いや、それは陰の気どうこうの話とは違ってくるな。親の躾ができてない子供が遊びを超えて暴れてたら怒りたくもなるだろ。公園ならまだしも、道路や他人の敷地で暴れて事故られたら困るしな」

「そっか。それだとクレーマーじゃなく迷惑掛けられた被害者よね。複雑ー」

 出会って半年、これまでは人形の話題が多かったのに一昨日からは様々な話をしている。こうして話していると呪われているという恐怖が紛れて、普通の日々のような気の緩みも感じていた。左腕の痣は夜刀の霊力による封印結界のおかげでまだ一つも消えてはいなかった。呪いの香りは強いものの、徐々に慣れてしまってきている。和人や洋子が口にした〝浄化の巫女〟について夜刀に聞いてみたのに、解呪のめどが立ったら話すと約束されただけ。夜刀に何も返せない私は、それ以上を聞くのはためらわれた。

「どうやったら陰の気が解消できるの? やっぱ滝に打たれるとか禊とか?」

「そこまでするのは行者か特殊な人間だけだろ。普通の生活で溜まる陰の気を解消するには酒一合か二合と粗塩一掴み入れた風呂で十分だ。あとは毎日日光を浴びたり、それこそ童心に帰って遊ぶとか本を読むとか、人それぞれ解消方法は違う。誰でも出来て手っ取り早いのは睡眠だな。さほど疲れを感じていなくても、異常を感じたらとにかく寝るといい。二十分の昼寝でも効果はある。……呪いを受けてから睡眠時間が長くなってるだろ? それは無意識に陰の気を散らそうとしてるからだ」

 成程。だから起きられないのか。

「……来たな」

「わかるの?」

「当主の方じゃないヤツの気が半端なく強烈だからな」

 夜刀の言葉がどういう意味なのか聞こうとしたとき、曲がり角から和人が姿を見せた。淡い灰水色の紗の羽織と着物の組み合わせが涼やか。

「やあ。こんにちは。お嬢さん」

 にこにこと優しい笑顔の和人の横で、鉄紺色のスーツ姿の体格の良い男性が険しい表情で佇んでいた。和人と同じ三十前後だろうか。和服姿の和人と並ぶと護衛のような雰囲気が漂う。

みやび、もう少し愛想よくできないか?」

「和人、俺に愛想は求めるな。……叡山(えいざん)雅です。初めまして」

 雅という名前がこれほど似合わない人も珍しいと思う。夜刀はすでに知り合いのようで、私だけが名前を名乗って挨拶をした。

「雅はうちの顧問弁護士なんだ。親父さんの代から世話になってる」

 弁護士と聞いて、さらに困惑してしまうのは何故なのか。どこかのジムのインストラクターやSPと言われた方がしっくりくる。弁護士という職業の印象から、書類ケース等を持っていないのも違和感がある。

「お嬢さんの話をしたら、司法解剖なら事件性があると思われてるはずだって雅が言うから連れてきた」

「事件性がある? 一昨日は全然そんなこと……」

「執拗に同じ質問を繰り返されたり、所持品検査をされなかったか?」

 雅に言われて思い返せば、何度も何度もしつこく知り合いかどうか聞かれたし、女性警察官に所持品検査をされた。これまで、警察の取り調べを受けたことがなかったから、それが普通と思っていた。

「……死因が不明で即日拘束できるほどの理由はないから、誰か見張りに付いているはずだが……それはなさそうだな」

 雅は私の背後をさっと見ただけで断言した。そんな程度でわかるものだろうかと考えて、もしかしたらこの人も何か霊能力か特殊能力があるのかもしれないと思い至った。


 四人で警察署に入って受付に向かった途端、カウンター内にいる十数名の空気が変わった。一昨日はもっと和やかな雰囲気だったのに、打って変わってぴりぴりとした緊張感を漂わせていた。私の顔を見て、あっという表情をした人もいる。

「八條様、本日はどういったご用件でしょうか」

「こんにちは。藤内さんから呼ばれてきました」

 和人の返答を聞いて、応対した受付の中年男性の表情がますます緊張の色を帯びた。あの血を吐いた男性の遺体を見に来たはずなのに、呼ばれてきたというのはどういうことだろうか。

「ということは……つまり……あの変死体は……」

「はい、ストップ。この件には可能な限り関わらないように。事務的な対応にとどめておいてください。他の人に話すこともやめておいたほうがよさそうですよ。……同じ目にあいたくないのでしたら」

 にこにことした和人の口からでた言葉は、周囲の人々の顔色を悪くさせるのに十分な効果を見せた。

「で、では、こちらへどうぞ」

 青い顔をしたままの中年男性はそう言って、私たちを警察署内の応接室へと案内した。立派なこげ茶色の革張りのソファと飴色の木製のローテーブルが置かれた室内は、壁面にモニタが埋め込まれているだけで他に何の家具も置かれていない。

「こちらで少々お待ち下さい」

 中年男性が頭を下げて扉を出て行くと、和人が肩を落として溜息を吐いて苦笑する。

「呼ばれて来たってどういうことですか?」

「藤内さんに電話したら、私にどうしても見て欲しい御遺体があるというから一緒に片付けることにした。電話では話せないと言っていたけど、署員のあの様子だと相当異常な件だろうね」

 夜刀の問いに和人はそう答えて肩をすくめた。藤内は警察署長らしい。

「どの事件ですか?」

「さあ? 私があらゆる先入観を持たない為に、新聞を読まないようにしているのは知っているだろ?」

 その言葉で私が驚いたのが伝わってしまったのか、和人が笑う。

「山奥の神社の宮司というのは便利でね。多少世間知らずでも許してもらえる」

 複数の新聞を読んで事件の情報を把握する夜刀と違って、二人の霊能力者としての事件との向き合い方は全く異なっている。テレビもネットも見ないと聞いてさらに驚いた。

「ネットといえば、お嬢さんが災難にあったようだね」

「和人、お前は身内認定すると口が羽のように軽くなるのをやめろ」

 雅の顔がますます険しくなり、対照的に和人が笑顔を増す。この人も夜刀と同じで和人にからかわれる分類なのか。身内認定という言葉がむずがゆい。

「申し訳ない。あとで話す予定だったが気になるだろうから一部話しておく。夜刀から受けた動画の件は削除申請がネット上で出せる会社には出しておいた。連絡が取れる個人に対してはスタッフが接触しているが、妙な事態になっている」

 雅は大きく溜息を吐いて一気に話し出した。

「妙な事態?」

「自ら撮影した動画をネットにアップしたと思われる八名の人物のうち、二人が死亡している。家族が返信してきて判明した。他の六名からは返信がない」

 雅の話を聞いて、今朝の記事と繋がった気がした。夜刀も同様に思ったらしく、二人で顔を見合わせる。

「どうした?」

「……あの時、最後まで撮影していた人が昨日死亡していました。道を歩いていて、何故か水死したと今朝の新聞に」

「路上で水死? それはまた妙な死に方だな」

 和人が首を傾げた時、扉が叩かれて年配の男性が入ってきた。水色のワイシャツにノーネクタイの夏用の制服姿。穏やかな笑顔を見せてはいてもドラマや映画で見る警察の偉い人という圧力めいた空気を感じる。

「八條さん、このお嬢さんはどなたですかな?」

「私が確認したいと申し上げた御遺体の第一発見者、というより被害者でしょうか」

 和人の言葉を聞いて藤内の顔が渋くなった。

「死因が明確になるまで関係者には……」

「お嬢さんには外で待っててもらいます。それでよろしいか?」

 和人の確認には強制が込められていて、藤内は圧されるように渋々承諾した。


 警察署の中は複雑で、ざっくりとした案内地図板と部屋の前に付けられたプレートしか表示がない。その案内地図にも何も描かれていない部分が多く、地下に降りると自分が今どこにいるのかわからなくなっていた。

「向こうは留置場やらいろいろあるからな。絶対に行くなよ」

「そんなのわかってる」

 子供じゃないのに。隣を歩く夜刀の言葉に反論しそうになって、振り返ったにこにこ顔の和人の視線に気が付いて口を閉ざす。何故か夜刀も顔を赤くしている。

 迷路のような廊下を歩き、一際暗い廊下の奥に遺体安置所はあった。

「ここに八條さんに見て頂きたい御遺体と、ご覧になりたい御遺体が安置されています」

「……できれば彼女の入室を許可して頂きたいのですが」

 いざ、私が廊下で待つとなった時、夜刀が迷いを見せた。

「じゃあ、雅がお嬢さんのボディガードをしばらく務めるということでどうかな? 雅は霊体を物理的に殴ることができるから、安心していいよ」

 霊を殴り飛ばす屈強なスーツの弁護士。その姿が簡単に想像できて、変な笑いが込み上げてきた。必死に笑いをこらえつつ頷く。

 夜刀と和人、藤内が安置所の中へと入り、雅と私が少し離れた廊下で待つ。

「霊って、殴れるんですね」

 夜刀の除霊現場を見るまでは、霊に物理攻撃できるなんて信じられなかった。

「……困ったな。俺は単に変質者を殴ってるつもりだ。女は絶対に殴らないが、俺と目が合うと何故か逃げる。……ネットの動画の件は気にならないか?」

「正直に言うと、気になります。……夜刀といろいろ話しているから気が紛れていますが、独りでいたらスマホやパソコンで動画を探したりしていたかもしれません」

 ふとした瞬間に思い出すのは、友人たちの好奇の目。男が血を吐いて縋ってくる光景は、どんな風に写されているのか。全く見ず知らずの相手なのに、勝手に恋人やストーカーと言われ、挙句の果ては私が殺人犯。動画を見た人全員に説明する機会も与えられず、面白可笑しく揶揄されるのを一方的に受けるしかない。『人が一人死んでいるのに不謹慎』なんていう言葉は瞬間の娯楽を求めるだけの人々には無意味だと知った。

「状況を説明する動画とか、アップするというのはどうでしょうか」

「それは勧められない。不特定多数の悪意を持つ人間に玩具になる『素材』を提供するだけだ。これ以上玩具にされないよう可能な限り手を回す。名誉棄損に該当する者は、時間は掛かるが警告していく。悔しいとは思うが、しばらくは我慢してほしい」

 雅の言うことは頭で理解はできても感情が納得できない。溜息を吐きかけた時、何かがぶつかる大きな音と女性の叫び声が廊下に響き渡った。

「誰か助けて! 誰か来て! 助けて!」

 甲高い女性の叫び声と、がんがんと何か硬い物がぶつかるような大きな音が混じる。反射的に声の方向へと走りだそうとして、雅が私の肩を掴んで止めた。

「危険だ。ここは警官に任せて関わり合いにならない方がいい」

「で、でも、助けを求めてますよ?」

 音は激しさを増し、叫び声は切羽詰まっているように思える。私の数度の訴えで雅は視線を揺らした。

「……俺が見てくる。君はここで絶対に動かないでくれ」

 その言葉に頷くと雅は声のする方向へ走り出した。一人廊下に残されると、その薄暗さが気になってくる。地下のせいで窓もなく、天井の照明だけ。古臭いまっすぐな蛍光灯が発するジジジという音が妙に気になり始めた。

「……あれ?」

 その時私はようやく気が付いた。あれだけ響いていた女性の叫び声が聞こえない。あの大きな音も聞こえない。静まり返る廊下に蛍光灯の微かな音が聞こえるだけ。


 ――耳元で鈴が鳴った。

 背筋がぞくりと寒くなり、花の香りが強く漂ってくる。夜刀に助けを求めようと振り返って安置所の扉を見ると消えていて、五メートル先が曲がり角になっていた。その角を白いワンピースの女性が歩いていく。

 どうしたらいいのかわからない。あの女性にどうやったら呪いを解いてもらえるのか聞かなければと思っても、脚が震えて動けない。

 雅が走っていった方へと視線を戻すと、また白いワンピースの女性が歩く背中が見えた。追いかけてこいと言われているような気がする。それでも、追いかけたら終わりのような気もする。

 腰まである長い黒髪は艶やかで、その華奢な手足が白いワンピースを引き立てている。髪に結ばれた白いリボンが揺れて、まるで私を呼んでいるよう。

 心臓は恐怖で早鐘を打ち、冷や汗が流れていく。白いワンピースの背中が、廊下を曲がって消えた。ほっとした途端、背後に冷気を感じて体が硬直する。

『……我慢、できないの……』

 か細い声が背後から聞こえて、氷のように冷たい手が私の口をふさいだ。


 逃げ出したくても、甘い花の香りに脳がしびれていくようで指一本すら動かない。口を塞がれたまま、華奢な腕に背中から抱きしめられて、ただ震える体から温度が奪われていくのを感じているだけ。見ている景色は暗い廊下のままなのに、足元からせりあがってくる水の感触は怖すぎてたまらない。

 足首から脛、膝までが見えない水に浸かるのはあっという間。路上を歩いていて水死したという事件を思い出し、死への恐怖が体を縛る。太ももを這いあがる冷たい水面の揺らめきが、背筋にぞくりと悪寒を走らせて一瞬だけ恐怖が解けた。

 ――助けて!

 叫びたくても冷え切った口は凍ったように動かない。心の底での絶叫と同時に白い光が煌めいて、冷たい手がはじかれたように離れ水が引いていく。甘い花の香りも薄れて、頭の中にかかっていた霧が綺麗に晴れた。

 逃げるなら今しかないと歯を食いしばって壁に手を付き、力の入らない脚を動かす。足先はすでに冷たさで感覚が失われていて、転んでしまいそうになる。

 曲がり角の先から、薄暗い廊下に明るい光が差し込んできた。あの場所まで行けば、あとは夜刀がきっと何とかしてくれる。そう信じながら、ずるずると壁に縋りつき足をひきずって前を目指す。

 前へ進むと甘い花の香りも冷気も遠ざかっていく。足先に力が戻り始め、壁から手を放してのろのろと歩き出す。光に、もうすぐ手が届く。助かりたい一心で小走りに曲がり角に入ると周囲の景色がまばゆい光に変化して、私の体は飲み込まれた。


 光が和らいだことを感じて目を開くと、最初に目に入ってきたのは綺麗な青空。周囲を山に囲まれた丘で、私は青々とした広大な水田を誰かと見下ろしていた。隣に立っているのは、カーキ色のシャツとズボンを着た細身で背が高い男性。顔は逆光になって良く見えない。雰囲気は二十代前半。

『ついに僕にも赤紙が来た。君と夫婦として過ごした半年を僕は忘れることはないだろう』

 優しい声が耳に心地良く響く。赤紙というのは召集令状のことだろうか。カーキ色の上下は第二次世界大戦中の国民服かと思い出した。

『まだ病が完治しておられませんのに、徴兵なんて……』

 私の口から勝手に言葉が出て行く。男性の服装から見ても、私ではない誰かの思い出の中に私はいるのか。

『それだけ、厳しい戦況だということだ。新聞は大勝だ連勝だと威勢よく報じているが、おそらく真実を伝えてはいない』

 学生の時に日本史で習ったことを思い出すと、軍部は新聞を使って連勝だと国民に嘘を付き扇動していたと教科書には書いてあったように思う。教師は何故か明治以降の現代日本史を詳しく扱うようなことはなく、定期試験用に詰め込むように教科書を読んだだけで、はっきりとは覚えていない。

『……行かないで……お願い……』

 か細く絞り出すような言葉を聞いて、男性が驚き困惑している様子が伝わってくる。

『君が初めて口にした願いを叶えてあげられないのが本当に残念だ。……今の僕の一番の願いは、君が住むこの国を護ることだ。君が生き延びることが、僕の幸せなんだ。これからつらいこともあるとは思うが、どうか生きて欲しい。どんな形でも、君の元に帰ってこられるように僕は最大限努力する』

 どんな形でも。その言葉に秘めた悲壮な決意が胸に痛い。病弱でも聡明な男性は、絶望的な戦況と理解していながら妻を護るために戦地へと赴くのだろう。

『貴方の無事の帰還をお待ちしております。いつまでも』

 それは決意に応える誓いの言葉。溢れる涙が頬を伝い落ちるのを感じながら、私の意識は闇に飲まれた。


 次に目を開くと、私は暗い水の中でたゆたっていた。長い黒髪と白い長襦袢の袖が揺れている。どちらが上なのか下なのかわからない完全な冷たい闇の中。

 突然丸い光が現れて、水面が光で煌めく。私がいるのは深い深い水底。目が光に慣れると丸く切り取られた小さな青空が見えた。その青は、あの日見た空の青に似ている。

『――何故、私は独りなのか。何故、あの方は帰ってこないのか』

 疑問で心がいっぱいになった時、丸い空から何か黒い塊が降ってきた。派手な水音を立てて透明だった水が白く泡立つ。

 泡は徐々に潰れて消えて、濁っていた水が透明感を取り戻す。私と同じ水底に落ちてきたのは、長い黒髪と白い長襦袢の華奢な女性。手首と足首には縄が巻かれ、大きな重石が付けられている。女性は目を見開き、後ろ手に縛られて水の中で揺れるだけ。

 小さな光で薄暗く照らされた水底を、よくよく見れば同じように沈められた女性たちが周囲で揺れていた。長い黒髪と白い長襦袢。その虚ろな黒い瞳は、一様に丸い青空を見上げている。

 やがて青い空は閉じられて、ゆらゆらと揺れる白い女たちだけが水底に取り残された。


 ゆらゆらとした緩やかな揺れが、強く揺さぶるような揺れへと変化していく。冷たいと感じていた水の感触は消え、暖かな温度が体を包み込んだ。

「愛流!」

 目を開くと夜刀の必死な顔。ぼんやりとした頭で視線を巡らすと私は廊下の床に座り、傍らで跪いた夜刀に上半身を抱き締められていた。

「何が起きたの?」

「すまん…俺の力が足りなかった」

 悔しげに歯噛みした夜刀は、ますます私を抱き締めるだけ。

「相手は相当な力を持っているな。雅をおびき寄せてお嬢さんを異界へ連れて行こうとするとは思わなかった」

 和人の声に驚いて、体に力が戻ってきた。夜刀の胸を手で押して少々の距離を取る。『みやび』とは誰のことかと思い出すまでたっぷり十五秒。周囲を見回しても雅の姿は無かった。

「あ、あの、雅さんは?」

「護送中に逃亡しようとした男を取り押さえて、事情を聞かれているよ。藤内さんが同席しているから、すぐに解放されるだろう。お嬢さんの護衛を頼んでいたのに離れるなんて、役に立たなくて申し訳なかったね」

「いえ。雅さんは警察に任せた方がいいっておっしゃっていたのに、女性を助けに行ってほしいと言ったのは私です」

 私の言葉を聞いて、夜刀と和人が顔を見合わせる。逃亡犯は凶悪事件を引き起こした男で女性は遠ざけられていて、二人は廊下での逃亡未遂に関係する叫び声や騒音は聞いたのに、女性の叫び声を聞いてはいなかった。

「愛流、体に異常はないか?」

 夜刀があちこちを触るのを押し留め、自分の体を確かめつつ服についた埃を払い、手を借りて立ち上がる。

「ありがと。体は平気なんだけど、変な夢見ちゃった」

「変な夢? どんな夢か覚えてるか?」

 夜刀の問いに素直に頷く。覚えているというレベルではなく、自分自身が体験したような生々しい記憶として残っている。

「記憶が残っているのなら、場所を変えて話を聞こうか。私たちが見た御遺体の話もしよう」

 和人の提案に同意して、私は夜刀に支えられながら警察署を後にした。


 雅の車に乗ってきたという和人を車の後部座席に乗せ、夜刀が口を開いた。

「どこで話す?」

「私の行きつけの料亭かレストランの個室ではどうでしょうかねえ」

 微笑む和人の行きつけの店の名前を聞いて恐れおののく。グルメに疎い私でも聞いたことのある老舗有名店ばかりで、高そうという印象しか頭に浮かばなかった。

「待ってください、当主。一般人を巻き込んだ場合、どう責任を取るつもりですか。ただでさえ、死人が続出しているというのに」

 夜刀がいつになく真剣な口調で和人に言い放つ。私としては夜刀を全力で応援したい。どう考えても私と夜刀のカジュアルな服装では場違いに決まっている。

「警察署に溜まった陰の気によって夜刀の結界が弱められたけど、料亭やレストランなら陽の気で結界を強められるだろう?」

「あ、あのっ。警察署って陰の気が溜まっているんですか?」

 穏やかに笑う和人の言葉を聞いて思わず口から疑問が飛び出た。子供がたくさんいて陽の気を発しているという小学校や保育園とは全く逆なのか。

「そうだよ。日々、犯罪者や被害者が訪れる場所だからね。署長室や道場に神棚を設置して御札を貼って、定期的にお祓いで浄化していても追いつかないというのは、全国どこの警察署でも同じだと思うよ」

 私が和人と話している間に、夜刀は無言で車を走らせ始めた。

「夜刀、どこいくの?」

「俺の家。他人を巻き込む可能性を心配しながら茶を飲むくらいなら、俺の家で水飲む方が百倍マシだ」

 ぎりぎりと歯噛みしながらも、夜刀の運転は丁寧で優しい。信号で停止する時は体に圧が掛からないし、曲がり角も滑らかに進む。 

「夜刀の運転技術は随分上がったね。免許取り立ての頃はいろいろ酷かった」

「……雅さんの指導のおかげです。あの人には感謝しかありません」

 この丁寧な運転方法は雅から習ったのか。教える側だった雅がどんな運転をするのかちょっぴり興味が出てきた。

「ということは、雅がブチ切れた時の運転方法も習った?」

「……誤解を招く発言を愛流の前でしないでください。愛流、雅さんがブチ切れるっていうのは、怒るとか乱暴になるとかそういうのじゃないからな。冷静さが極まってプロのレースドライバー並みの運転になるだけだ」

 そう聞くとさらに興味が沸いてくる。雅がどんな車に乗っているのか見てみたい。


 夜刀の車はいつもとは違う道を走っていた。小川が流れる公園がある閑静な住宅街を抜け、中途半端に開発されて荒れ放題の土地を過ぎ、ようやく遥か彼方に夜刀の家が見えてきた。

「いつもと道が違うのね。どうして遠回りするの?」

「霊が家まで付いて来ないように、途中で霊が好きそうな場所を通ってる」

「それって、私を呪った霊のこと?」

「いや、違う。俺たちが遺体安置所から引き連れてるヤツらだ」

「は?」

 さらりと流された言葉が怖すぎる。血の気が引くのを感じつつ車の後ろをサイドミラーで見ても何も映ってはいない。

「今、私、霊とか見えなくて幸せだなって思った!」

「……お前は俺が護るから見る必要ないぞ。お前、悪霊に連れ去られそうになったのに随分余裕あるな」

 そう言われれば、そうかもしれない。連れ去られることなく、無事に戻ってこれたからというのが大きいとは思う。後は……。

「何て言ったらいいのかな……。さっき、たぶん私を呪った女性の記憶の一部を見せられたんだけど、愛する人を失った上に誰かに殺されちゃったみたいなの。ものすごく可哀そうな人だったんだなって。誰かを呪ってしまうのも仕方ないかも…………どうしたの? 何か私、悪いこと言った?」

 私が何気なく口にした言葉で夜刀と和人の二人が息をのみ、空気が尖ったものへと変わったのがわかる。にこにことした笑顔の和人も目が笑っていない。

「愛流、それはマジでヤバい状況だ。お前が悪霊の意識に取り込まれようとしてたんだぞ。どんなに憐れみを感じても同調したら負けだ。記憶といっても都合の良い場面だけを切り取って見せてきたり、改ざんするヤツもいる。悪霊に善悪を判断する心なんてないからな。恨みの念だけで行動してるだけだ。…………こんなことになるなら、お前と離れるんじゃなかった……」

 歯噛みしながら夜刀はハンドルを切る。まっすぐ家へと向かわないのは、まだ霊が付いてきているのかもしれない。

「夜刀の言いたいことはわかるが、お嬢さんがあの御遺体の近くに行ったら、もっと厄介なことになったかもしれない。加工されていたとしても何らかの記憶を見せられたのなら、相手の正体を探る手掛かりにもなるじゃないか」

「もっと厄介なことって何ですか?」

「それは後で説明しよう。一番面倒な霊がその窓から離れてからかな」

「ひっ!」

 笑う和人が指さしたのは、助手席に乗る私のすぐ近くの窓。咄嗟に可愛らしい悲鳴なんて無理無理無理。体を小さくして運転席に寄せてみても、シートベルトは外せないから気休めにもならない。

「愛流をからかうのはやめてください。当主」

「……夜刀」

 和人は私をからかっているだけかとほっとしたのに、夜刀の言葉は続いた。

「一番面倒なのは先ほど離れました。残ってるのは二番目に面倒なヤツです」

「本当に私、見えなくて良かった!」

 手を握りしめて断言しつつ、視線は夜刀の方へと固定する。霊がいると言われると何だか気配を感じるような気がするから怖すぎる。何もいないと言って欲しいのに、見える二人はそう言ってはくれない。

 しばらくして和菓子屋の前を通った後、やっと夜刀が口を開いた。

「よし。離れた。どうも和菓子好きだったらしい」

「も、もしかしたら、今後あの和菓子屋に幽霊が出るっていうことになるの?」

「それはわからないな。和菓子を見ることで満足して、いわゆる成仏をすることもあるし、未練で周囲をうろつくこともある。供え物を期待して自分の体に戻るかもしれない。……正直に言うと、ずーっと和菓子の蘊蓄(うんちく)を窓越しにお前へ語ってた。和菓子屋の幽霊になったとしても見えない人間には害はない。もしかしたら和菓子が食べたくなったりするかもしれないが……どうだ?」

「全然」

 和菓子のことを語り続ける幽霊。怖くはないかもしれないけれど、それはそれでうざい。


 ようやく夜刀の家へとたどり着き、車を降りて家を見上げた和人が呆れた声を上げた。

「これはこれは。夜刀はエグい仕掛けしてるなあ」

「エグい仕掛けって何ですか?」

「霊がこの家に近づくと問答無用で強制浄化するようになってる。これは誰も近づきたくないだろうね」

 だから先ほど、霊を振り払うために遠回りをしていたのか。

「無差別にはしてないです。守護霊は承認制にしています」

 夜刀と和人、この二人の目にはこの古民家周りに何が見えているのか知りたいような知りたくないような複雑な気分。

「これだけの仕掛けをした上で夜刀得意の結界。内部に〝浄化の巫女〟のがいれば完璧に聖域だな」

 また〝浄化の巫女〟。夜刀の方をちらりと見ると、夜刀が視線を揺らして慌てているのがわかった。

「おや。これはまだ、お嬢さんに説明していないということか。いろいろと話すことが多そうだね」

 和人は菩薩のような柔らかな微笑みを浮かべ、夜刀は口を引き結んだ。


 夜刀の家に入った和人はあからさまにきょろきょろと周囲を見回していた。先を歩く夜刀の後ろ、和人と並んで話しながら廊下を歩く。

「何か珍しいことでもありますか?」

「妙に明るくなったと思ってね。特に廊下や階段あたりの空気が澄んでる。以前は暗くて近づきたくなかった場所だ」

 和人の指摘は私が先日感じたものと同じだった。

「私も同じことを感じていました。何故ですか?」

「陰のある場所というのは、文字通り陰気が溜まりやすい場所でね。陰の気を持つ人の霊だけでなく、動物霊や植物霊等々いろんなものを引き寄せる。部屋の隅とか特定の場所で妙にたくさん綿ボコリが溜まるのは、空気の流れが原因だと言われているが、実は陰の気が穢れを呼び寄せて汚れを連れてくるからなんだ」

 和人の話を聞きながらシェアハウスはどうだったかと考える。私の部屋は洋裁で布を扱うものの、毎日掃除をしていたからか綿ボコリは防げていた。共用部分もみんなで分担して曜日を決めて掃除していたので綺麗だった。仲が良くて笑い声の絶えない楽しい場所だったから陰の気を寄せ付けなかったのだろうかと考えていると、友人たちの顔が浮かんできた。友人たちからのメッセージやメールは溜まる一方で、まだ一つも読んでいない。何が書いてあるのか気になっても、心が重くて確認しようとは思えなかった。

 居間に入ると、夜刀は和人と私にソファを勧め、自分は座ることなくあちこちの窓を開け放つ。手持ち無沙汰な私はお茶を淹れることを思いついて立ち上がった。

「夜刀、お茶淹れてくるね。緑茶でいい?」

「ああ、頼む」

 台所へと向かいながら警察署と比べると、古民家の中に流れる空気はとても清々しく感じる。和人が聖域と表現していたのを聞いて成程と思った。やかんでお湯を沸かしつつ、急須と茶碗、茶托を用意する。この白磁の急須と茶碗のセットは、二階の部屋を夜刀と一緒に掃除している時に見つけた。

 玉露の茶葉の香りがふわりと辺りに漂うと心が落ち着いていく。深呼吸をすると、もう完全に慣れてしまった甘い花の香りを感じて心が痛む。呪いの主に対して、私は恐怖よりも憐れみを感じている。憐れんではいけない、共感してはいけないと思っても、彼女の境遇は余りにも悲惨。

「……私が呪われたのは、彼女より幸せだから?」

 幸と不幸を比べることに意味はないとわかってはいても、彼女の身に起きたことを考えると、普通に生きている私のことが彼女にとっては幸せに見えたのかもしれない。公家の姫君は新婚の夫婦をうらやんでオトメユリを手折った妻を呪っていた。私は何も持ち去っていないし、結婚も婚約もしていないのに。

「可哀そうと思われるのが腹立つ……とか?」

「悪霊の心理分析しても無駄だぞ。理由も理屈も通じない。あいつらは大抵理性を失ってるから、死んだ時に強く残った感情に忠実に従ってるだけだ」

 背後からの夜刀の声が突然過ぎて、飛び上がりそうなほど驚いた。振り向くと台所の入り口で苦笑いを浮かべる夜刀。

「ちょ。驚かさないでよ。あー、びっくりしたー。わざわざ迎えに来てくれなくても大丈夫なのに」

 ちょうど沸いた熱湯を茶碗に注ぎ、温度を下げてから茶葉の入った急須へお湯を移す。

「……腕、見せてくれないか。痣を確認したい」

 請われるまま、ブラウスの袖を肩までまくりあげて夜刀に示す。落ち着いてくると自分の二の腕のぷにぷに感が気になってきた。後でストレッチ動画を探すべきかと悩むうちに、真剣な眼差しで痣を数えていた夜刀が安堵の息を吐いた。

「良かった……痣は減ってない」

「それって、夜刀の封印結界が悪霊に勝ってるってこと?」

「一応な」

「成程ね。夜刀の封印結界が強すぎるから、お嬢さんを直接異界へ連れて行こうとしたんじゃないかな。結界ごと取り込んだら、そのうち無効になるからね」

「うわっ!」

 唐突に割り込んできたのは和人の声。夜刀と二人で派手に驚いて、変な声が出てしまった。そもそも絹を裂くような甲高い悲鳴なんて難しいと思う。

「無効になるってどういうことですか?」

「結界で護られてても、水の中とか土の中とかに放り込まれて時間が経てば、中の人が死ぬだろう? 霊にとっては百年もあっという間だ」

 水の中に百年と言われれば、ぞっとする。とはいえ、このまま夜刀の家でお世話になるのも忍びない。早く呪いを解かないと。 


 私が淹れたお茶を夜刀が運び、居間のソファに三人で座りなおした。私の隣には夜刀、向かい合う位置に和人。まずは私が警察署の廊下で経験したことを話すようにと和人に求められ、私は見たまま全てを二人に話した。

「……名前はわからずじまいか。もしかすると愛流の憐れみを誘う為に記憶を都合良くつぎはぎ編集してるのかもしれないぞ」

 夜刀が口を引き結んで黙り込む。夢の中、女性も男性も名前は一度も出てこなかった。それは意図的なものだったのだろうか。

「戦時中に赤紙が届いた場所は日本各地にあるから、それだけで調べるのは難しそうだ。病み上がりで結婚半年という条件を付けて探してもらうが、時間が掛かりそうだね」

 どうやら和人は人手を使って探そうとしているようだ。

「そちらは数が多そうなので女性の連続殺人事件で調べた方が早いのではないでしょうか。水に沈められていた女性は十人以上……いえ、二十人以上いたと思います」

 水底で揺れる白い女たちを思い出すと、体が恐怖で震える。

「それはどうだろうな。終戦前後の混乱期だったとしても、死蝋(しろう)化した二十名以上の女性の死体が見つかっていたら話題になっていただろ。もちろん閉鎖的な土地で揉み消された可能性もあるが、まだ死体が隠されていて事件として発覚していない可能性もある」

 夜刀の表情は硬く、意味が分からなかった言葉を聞くかどうか迷って、結局聞くことにした。

「……ごめん、夜刀。『しろう』って何?」

「冷たい水とか湿った土の中、死体が腐敗しない状態で保たれている間に体がロウソクやチーズみたいに変化することがある。それを死蝋って言うんだけど、最近は石けん死体とも言うらしいねえ」

 私の問いに答えてくれたのは和人。ゆらゆらと揺れていた体がロウソクやチーズ、ましてや石けんと言われると気持ち悪くなってきた。

「若い女性の死蝋化死体が多数っていう事件が発覚していたら、世間の好事家たちが騒ぐだろうからね。やはり、まだ発見されていないかもしれないねえ」

 それは確かにそうだと思う。今回の呪いの話がない状況で、腐敗することのない綺麗なままの遺体とだけ聞けば、死体に関心の無い私も怖い物見たさの気持ちはあっただろう。

「それなら、あの女性の願いは自分や他の女性の遺体を見つけて欲しいということでしょうか」

「それはどうかな……もしも見つけてほしいというのなら、もっと手掛かりになる情報を出してきたはずだよ。私としては『我慢できない』という言葉が気になるな。……何が我慢できないというのか」

 和人は私が聞いた最初の言葉に引っ掛かりを感じているらしい。

「人殺しが我慢できないってことじゃないですか? 誰でもいいから自分より苦しんで死ねばスッキリするから連続で人を殺す。……迷惑極まりないな」

 溜息を吐きつつ夜刀がお茶を口にする。


「今度はこちらの話をしようか。血を吐いて死んだ男の御遺体を見たが、乾燥してミイラになっていたよ」

 妙に明るい口調の和人のにこにこ顔が怖い。

「え? 警察署の遺体安置所って、御遺体を干物にしちゃうんですか?」

 和人の言葉に驚いて聞くと、隣の夜刀が肩を落として脱力する。

「ちーがーう。……お前、緊張感を粉々にするなよなー。遺体の腐敗が進まないように温度管理がされた部屋で、普通はミイラになる訳ないぞ」

「でも、ミイラになったんでしょ?」

 警察署の廊下を思い出してみても、冷やりとしているだけで特別乾燥しているようには感じなかった。

「あの警察署の安置所は引き出し式の冷蔵庫になっていてね。念の為に確認したけど、他の御遺体は普通だったよ。藤内さんも間違ったかと慌ててた。今回の呪いの主は、水を自在に操るらしいね。体中の水分が抜けているから、検死をしても死因が特定できないかもしれないのが厄介だ」

「あの女性は、土岐川さんの水分を奪っていったということでしょうか。そういえば搾り取られるって言っていましたし」

 血を吐く前の土岐川は『無理だと言っても搾り取られる』と言っていた。体中の水分を取られるという意味だったのか。

「土岐川? ああ、そんな名前だったね。男の水分をカラカラになるまで全て奪って満足したのか、呪いの香りは消えていた。もう関心もないとばかりに、呪いの痕跡すら残っていないというのは珍しいよ。普通は多少なりとも痕跡は残っているものなんだけどね」

「綺麗さっぱり呪いを消し去ったのは辿られないようにする為かもしれません。実際、当主も俺も全く掴めなかった」

 夜刀は相当悔しかったのか、膝の上で手を握る。こんなに頑張ってくれているのにと思いながらも、私は呪われている当事者という意識が薄いというか、危機感が無くなってしまっていた。これが悪霊に取り込まれそうになっている心理状態なのか。


「そうそう。この件に関係あると思うから、藤内さんが見て欲しいと言っていた御遺体の話をしようか。警官たちが変死体と言って怖がっていたのは、道を歩いていて水死したという男性で二十になったばかりの専門学校生。こちらの遺体は真逆で全く乾かない。服も髪も水から上がった直後というような濡れ具合だ」

「乾かない? 油ではありませんか?」

「それは流石に調べたらしい。間違いなく水だそうだよ。タオルで拭っても、吸水シートを使っても、どこからともなく水が沸いてきて使い物にならないくらいに濡れてしまう。それでいて、皮膚がふやけたりはしない。……実は同じ状態の御遺体が、他の警察署にも保管されてるらしくてね。どうしたらいいのかと相談を受けた」

 路上で水死。あの見えない水に全身を包まれていたら、私も同じようになっていたのだろうか。

「その御遺体は、どうするんですか?」

「検死が終わった後、私がお祓いをすることにした。あのままでは焼いても焼けないからね」

 和人の言葉につられ、水濡れして焼けない遺体を想像してしまいそうになって慌てて取り消す。

「その水死も〝闇香の呪い〟ですか?」

「いいや。恨みも残留思念も残っていないし、全く性質の違うものだった。お嬢さんの件と繋がりがあると知っていなければ、きっと関係のない霊障として片付けていた。……現状で確認されているのは男女含めて十一体。夜刀が見た新聞記事では犠牲者九名と発表されていたようだけれど、それから増えた。一人暮らしの部屋で亡くなっている者もいるかもしれないね」

「愛流、男が血を吐いているのをスマホで撮影していたのは何人ぐらいだ?」

「えーっと。そうね……二十人はいなかったと思うから、十数人くらい。……水死したのは、撮影していた人なのかな……?」

 カジュアル服やスーツ姿、通りすがりの十数名の男女だった。二十代から三十代が多い印象がある。二十歳の専門学校生と聞いても、写真も無いし誰とは特定できなかった。

「おそらくそうだろうね。後で雅に調べてもらうけど、動画をネットにアップした人物とも一致するだろう。呪いや霊障を撮影してしまったのなら、それで霊と縁が出来てしまったことになる。本物の心霊写真をポケットに入れて常に持ち歩いているのと同じ状態だ」

 和人はさらりと言っていても、スマホで撮影した動画のせいで悪霊に殺されてしまうなんて怖い。

「それじゃあ、アップされた動画を見た人はどうなりますか? 何十万回も再生されてると友人が言っていました」

「実際の動画を見てみないとわからないけど、霊の姿が映っている物があればかなりマズい。その動画が霊の通り道を作ってしまうからね。映っていなくても、敏感な人間なら体調不良程度は起こすだろう」

 撮影された動画を見たいとは思えない。血を吐いて苦しむ土岐川の姿は、映画やドラマではなく現実だった。

「……愛流には黙っていたが、雅さんに電話する前に動画の何本かは確認した。どれも霊の姿は無かったが、消された動画に白いワンピースの女が映っていたという話がある」

 そういえば、シェアハウスの友人が再生回数が百万回超えの動画が消されたと言っていた。

「動画って簡単にコピーできるでしょ? コピーは残ってないの?」

「その動画だけ、コピーしてもスクリーンショットを撮っても真っ黒になるだけだったらしい。高熱が出たとか、吐いたとかいうのもいたな」

「……いろんな意味で危ないから消されたってこと?」

「それはわからんが、一番ヤバいのが消されてるだけでもマシだと思うしかないな。できれば、全部消してくれたら面倒が減って良かったのにな」

 夜刀と一緒に深い溜息を吐く。冷めきったお茶を口にしていると、微笑む和人と目が合った。

「今回の呪いとは関係ないけど〝浄化の巫女〟の話をしておこうか。夜刀が話すかと思ったけど、このままだとのらりくらりとしそうだからね」

 和人の言葉を聞いて、何故か夜刀が口を引き結んだ。

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