第三話 闇香の呪い
梅雨明けの夏の日差しが容赦なく都会のビルの谷間に降り注ぐ。就職活動用の黒いスーツが熱を帯び、額から汗が流れていく。
駅から五分の好立地。商業ビルが立ち並ぶ中、とある企業の中途採用の面接会場へと私は向かっていた。
(夏の就活って、ホントに地獄よね……)
これから面接という状況では、いつも使っている愛用の日傘は使えない。髪をきっちり一つに結び、シャツは半袖、スーツは夏用。最高に最悪なのがストッキング。冷感タイプと表示してあっても、ぴったりとした一枚が不快感を煽る。就活用のナチュラルメイクは『自然に見える』というだけで、しっかりと顔表面を汗で流れない化粧品の膜で覆っているから熱が籠る。要するに暑い。暑過ぎる。
(よし。受付四十五分前に到着っと)
面接会場周辺にある商業ビルで涼んでから向かう予定で早めに来た。受付を確認しに行くと入り口手前で数名のスーツ姿の女性がスマホを見ながら佇んでいる。おそらくは同じ面接を受けるのだろう。中途採用二名の募集に何名応募しているのかと考えるとうんざりしてきた。それでも稀にみる好条件だから何とか受かりたい。
女性たちからちらちらと視線を受けつつ、踵を返して商業ビルへと向かう。化粧品や衣類、おしゃれな雑貨店が並ぶ中、やはり就活スーツの女性の姿が散見される。
条件の良い中途募集は一名に対して数百名、時には千名を超える応募があると聞いた。そんな超難関を何度も突破してきたのに、毎回その会社が潰れてしまうのは何故なのか。新入社員の私のせいではないと思いつつ、無意味な職歴だけが増えていくのは地味につらいから今回で終わらせたい。
軽く化粧直しをしようとトイレに向かうと、手洗い場の鏡の前で同じくスーツ姿の女性たちが陣取ってメイクをしていた。中には一からメイクをしている女性もいて、全く動く気配なし。
あきらめて店内に戻って歩いていると、ふわりと良い匂いが鼻を掠めた。花の香りだと思っても、何の花なのかはさっぱりわからなくて興味が沸く。香水にしては不自然さも不快感も一切なくてただただ良い匂いとしか感想が出てこなかった。どこかで売っているのかと匂いを辿る。
花の香りに引き寄せられるように歩いていくと、とうとうビルの外に出てしまった。受付開始まであと三十分あると確認して、香りの元を探すと決めた。ビルの外に出るとますます香りは強くなっているのに、周囲の人々は何の反応も示していない。これはおかしいと思いながらも、匂いの正体が知りたくて足を進める。
商業ビルとビルの間には、小さな公園が作られていて、生い茂る木々の下、あちこちにベンチが設置されている。地面は黒っぽい石のタイルが敷き詰められ、砂場や滑り台といった遊具がない代わりに水遊び用の噴水が設置されていた。きっと休日には小さな子供の遊び場になるのだろう。
どこかで花が咲いているのかと見まわしてみても、青々とした緑ばかりで花は無い。ビルとビルとの通り道として歩いている人々は、この花の香りには関心がなさそう。
――あきらめた方がいい。
誰かが私にささやいた気がした時、緑の生垣の中央に置かれたベンチに項垂れながら座る男が視界に入った。茶色の短髪はぼさぼさで、夏だというのに長袖の灰色のパーカー。黒いジーンズと汚れたスニーカー。ホームレスではないとは思っても、そこだけが墨絵の別世界のような異様な雰囲気を醸し出している。
通り過ぎて見なかったふりをしようと思っても、男から匂う花の香りが心をつかむ。香りの正体を知りたいと、話題のきっかけを探しながら近づいて行く。
「あ、あの、気分でも悪いんですか? ……救急車を呼びましょうか?」
「……無駄だ……」
顔を上げた男の目の下には、真っ黒なクマができていた。三十代の男の目は異様なまでにギラギラとしていて頬はこけ、まるで骨と皮。男の足元に散らばるゴミは、カフェインドリンクの瓶や缶。空になった錠剤の包装シートがいくつも目に入った。まさかとは思うけれど、危ないクスリでもやっているのではないだろうか。これは救急車ではなく警察案件かもしれないと、すぐに走って逃げられるように肩にかけたカバンの持ち手をしっかりと握りしめる。
「病院に行っても無駄だった。一度出演したら、もう逃げられない」
「出演?」
男の話す意味が分からなくて問いかける。
「動画だよ。俺は誘われてライブ配信に参加しただけなのに……眠ったら、あの女が来るんだ。……もう無理だと言っても搾り取られる。だから起きているしかない。俺を誘ったヤツはどこかに消えた。友達だと思っていたのに、俺を残して逃げた!」
自嘲する男の目はますますギラギラと輝き、異常な精神状態であることを示している。言っている意味もわからないし、これは本当に関わり合いになってはいけないとようやく危機感を覚えた。
「えーっと、その……す、すいません。私ではお役に立てないようですから……」
失礼しますと続けようとした時、男は座ったままの姿勢で唐突に大量の血を吐いた。真っ赤な鮮血が飛び散って、私の足元にも飛沫が掛かる。
「ひっ! きっ、救急車っ!」
カバンの中のスマホを取り出そうと私が慌てていると、男はベンチからよろめくように離れて、私の足にしがみついてきた。
「う、嘘っ! 嘘っ! 嘘っ!」
男は再び血を吐いて、私は足を滑らせて地面に座り込んだ。男は荒い息の中、呻きながら足にしがみつく。とにかく恐ろしくて手が震えるから、カバンの中からスマホを取り出せなかった。誰かに助けを求めようと周囲を見た私は、さらに恐怖した。
「うわ、ヤバーい」
「いやー、これはすげーな」
口々につぶやくスーツ姿の男女や、カジュアルな服の男女、十数名がスマホのカメラをこちらに向けて撮影していた。血を吐き倒れて苦しんでいる人間がいるのに、誰も通報しようともしていない。
「あ、あのっ、誰か、救急車! 救急車呼んでください!」
私が叫んでも誰も撮影をやめない。スマホ越しにニヤニヤと半笑いで撮影する人々の光景は、血を吐いている男よりも怖かった。誰にも頼れないと掴んだスマホを何度も落とし、震える指で一一九番へと電話を掛ける。
「も、もしもしっ! 人が血を吐いてるんです!」
『救急車が向かう場所はどこですか?』
人生で初めて掛けた一一九番で気が動転しながらも、何とか救急車の出動要請ができた。血を吐いている理由がわからないので、到着まで何もせずに待っていてほしいと指示を受け、通話が切れた。
「……今、救急車が来ますから! が、頑張ってください!」
何を頑張れと言っているのか、自分でもよくわからない。それでも何か声を掛けなければならない気がしていた。私のスカートを掴む男の指は力を込めすぎているのか白くなっていく。縋りつく男のぜえぜえという荒い息遣いが耳障りで、誰か助けてと心の中で叫びながら震える。
「うあああああ! あいつだ! どうして……! 俺は起きてる! 起きてるんだ!」
私の背後を見て目を見開いた男が叫び、しがみついていた手が離れた。何かから逃げるように血の跡を残しつつ地面を這っていく。男が驚いた方へ振り向くと、水遊び用の噴水から水が噴きあがっているだけで、スマホで撮影している人々も何故かそこだけはいない。
地面を這う男を、撮影している人々が避けていく。誰も助けないのかと歯がゆくても、私自身も逃げたくて仕方ない。私のスーツは血だらけで、スカートは男が強く握ったシワが残っている。とにかく立ち上がろうとすると、花の香りが一層濃くなった。
「……何?」
花の香りを漂わせていた男は地面を這い、私から三メートルは離れている。それなのに、何故香りが強くなったのか。
――耳元で鈴が鳴った。
背筋がぞくりと寒くなり、背後から花の香りが漂ってくる。絶対に見るなと私の心の中で誰かが叫んでいるのに、私は振り返ってしまった。
その場に立っていたのは、私と同年代の髪の長い華奢な女性。黒髪に結ばれた白いリボンと白いノースリーブのワンピースの裾が風もないのに揺らめいている。儚げな美人は悲しげに首をかしげて微笑んだ。
「ぎゃああああああ!」
凄まじい咆哮のような悲鳴の方を見ると、男が喉をかきむしりながら地面を転げまわっていた。その恐ろしい光景を見て、一人、二人と撮影していた人々が逃げていく。暴れる男を落ち着かせなければと思っても、女の力で止めることはできそうにない。
「うわ、やべー」
転がってきた男を避けながら、まだしつこく撮影を続けている者がいることに驚きは隠せなかった。派手な柄のTシャツにジーンズ姿の二十代半ばの男の顔は、禍々しいとしかいいようのない歪んだ笑顔を浮かべている。
本物の地獄というのは、この光景なのかもしれない。咄嗟に私はそう思った。もがき苦しむ人間を、助けようともせずに笑いながら撮影する人間。
「撮影なんてやめて!」
ようやく口から出た私の叫びを聞いても、撮影者はやめようとはしない。他の撮影者はすでに逃げて、別の野次馬が私たちを遠巻きに取り囲んでいる。
救急車のサイレンが響き渡って安堵した時、転げまわっていた男がびくびくと体を大きく痙攣させて、ぴたりと動きを止めた。
「え? 何?」
自らが吐いた血の海の中に倒れこみ、極限まで見開いた男の瞳には青い空だけが映り込んでいた。
救急車が到着した時、男は完全に死んでいた。警察が呼ばれることになり、私は何故か関係者として取り調べを受け、解放されたのは夜の八時。白いワンピースの女性と、最後までスマホ撮影していた男は逃げたのか姿は見えなかった。もちろん面接には不参加だし、そもそも連絡するということも思いつかなかったので、無断欠席になってしまった。
血にまみれた黒いスーツはかぴかぴに乾燥していて、ストッキングを脱ぐことは出来ても、着替えも何もない状況ではそのままいるしかない。
迎えに来てもらえる親族が近くにいないと告げると、警察がパトカーで送ってくれ
るというので、とっさに夜刀の家を指定した。もしもシェアハウスにパトカーで乗り付けたなんてことになったら、どんな噂になるか想像するだけでも怖かった。教えた住所と違う住所へ送ってもらうことで何か揉めるかと身構えたのに、警官はあっさりと私を夜刀の家に送り届けた。
勝手知ったる夜刀の家とは言っても、事前に電話をして夜刀の許可は得ている。玄関のインターホンを鳴らそうとする前にドアが開いた。
「愛流! 大丈夫か?」
「大丈夫じゃないわよ! 夜刀、ちょっと愚痴聞いて!」
紺色の作務衣姿の夜刀の顔を見てほっとすると同時に、怒りが込み上げてきた。どうして見ず知らずの男の為に警察で取り調べを受けなければならなかったのかという理不尽さが突然爆発した。
「愚痴? ああそれは構わな……い……愛流、何だその匂い……」
私の顔を見た夜刀の顔色が変わった。匂いというのは、血の匂いなのかそれともまとわりつく花の匂いか。
「あー、やっぱ匂う? ……何するのよっ!」
「お前、服、早く脱げ!」
真剣な表情の夜刀が私の肩を強く掴んで玄関の中へと入れた。スーツの襟を引っ張るので、ボタンを留める糸が嫌な音を立てた。
「はっ? 何言ってんのよっ? ちょ、やめてよっ!」
血まみれとはいえ、いきなり服を脱げなんて意味が分からない。抵抗しようと手を振り上げると、夜刀が叫んだ。
「それは死臭だ! ヤバいんだよ!」
「し、刺繍?」
いきなり刺繍と言われて思考が停止した。
「何でもいいから脱げ!」
「ちょ、引っ張らないで! 脱げないでしょ!」
上着のボタンを外し半そでブラウスが露になると、夜刀が左の袖をめくりあげた。
「……これは……」
夜刀の視線の先、私の左の二の腕には、丸く小さな赤い痣がぽつぽつと広がっていた。
「何……これ……」
痒くも痛くもない、ただの赤い痣。今朝、出かけるときには何もなかったことを確認している。まさかあの男は人に伝染する病気持ちだったのかと血の気が引いた。
「くそっ! 愛流、動くなよ!」
口元に人差し指と中指を当て、夜刀は何か呪文のような言葉をつぶやいた。白い光を発した右手で痣に触れた途端、破裂音が響く。
「……ちっ!」
「ちょっと! 夜刀! 何でっ?」
夜刀の右手の平が、赤い血に染まっていた。状況からみると私に触れたからケガをしたらしいのに、理由がさっぱりわからない。今まで、どんなに強力な悪霊と戦っても血を流したことが無かった夜刀の姿に動揺する。顔色の悪い夜刀は、深呼吸を繰り返して口を開いた。
「……心配しなくていい。俺のは大したケガじゃない。……服とカバン、全部新しいの買ってやるから、今すぐ捨ててくれ。とりあえず俺の服を貸す。服が届くまで、ここにいてくれないか?」
「……よくわかんないけど……わかった」
私のせいで血を流している夜刀の要求を拒否するのはためらわれる。真剣な表情の夜刀に、私はうなずくしかなかった。
日本酒一升と粗塩一キロが入ったお風呂に入った後、私は夜刀の浴衣を借りて居間に置かれたソファに座りながらスマホで通販サイトを見ていた。
「服と下着の注文終了っと。ギリギリ明日届くみたいねー。よかったー」
いくら信用しているとは言っても、流石に男の前で下着なしというのは居心地が悪すぎる。夜刀は私が座るソファではなく、少々離れた別の椅子に座っていた。
「で。理由を説明してもらえる? この痣、何なの?」
夜刀の右手には、鋭い刃物で浅く切られたような傷が無数に残っていた。紙や草で切れた傷のようで、見ているだけでも痛そう。
「……その前に、お前が何故、その死臭を漂わせてるのか聞いていいか?」
そう聞かれて、血を吐いて絶命した男の一部始終を話すと夜刀は頭を抱えてしまった。
「女の顔を見たのか……」
「見たらダメだったの? もったいぶらないで、早く教えて。私、何かヤバいの?」
夜刀が死臭と呼ぶ甘い花の香りは、お風呂に入っても取れなかった。むしろ私が使っている整髪料や化粧が落ちたことで、さらに匂いは強まっている気がしている。
「……気をしっかり持って聞いてくれ。……お前は呪いを受けてる」
「呪い? どういうこと?」
夜刀の職業が拝み屋だと理解はしていても、私が呪われるなんて本気で意味が分からない。
「それは〝闇香の呪い〟だ」
「アンコウ? 鍋にしたら美味しいヤツ?」
単語のアクセントは違っても、頭に浮かんだそのままを口にすると夜刀はがっくりと肩を落とした。
「ちーがーう。……お前、緊張感を粉々にするなよなー。闇の香りって書いて闇香だ。この呪いはマジでヤバい。お前の二の腕にある痣が残り日数を示してる」
「残り日数って?」
「生存日数。その痣が消えると死ぬ」
「ちょ。何なの、それ」
突然過ぎる話で思考が真っ白になった。余命宣告なんて小説や映画のタイトルでしか見たことがない。
「呪われたのが今日だったら、残り四十八日だろうな。数えていいか?」
「嘘でしょ……何とかならないの?」
私の腕の痣を数える夜刀の切羽詰まった表情で、ようやく私にも危機感が芽生えてきた。
「……俺ができることはやる」
「えっと……依頼料はいくら?」
血の気が引いて指先が冷えていく。拝み屋への依頼料は、一体幾らになるのだろう。呪いに保険は降りないだろうし、口座に入っている金額で賄えるものなのか。
「お前から取る訳ねーだろ。…………絶対に助けると約束する。だから心配するな」
震え始めた私の体を夜刀が強く抱きしめた。恋人でもないのに近すぎると思っても、死のカウントダウンが始まっているという恐怖で体が動かない。
「解呪できるまで、就活は中止。ここに住んでもらうぞ」
「どうして?」
「呪いの進行を少しでも遅らせる為だ。空き部屋はあるから、明日服が届いたら荷物を取りにお前の部屋に行く」
「ちょっと。勝手に決めないで」
夜刀の胸を手で押して、顔を上げて抗議する。私にも予定はある。三日後には別の会社の面接もある。
「……俺はお前を死なせない為に言ってるんだ。不安なら、半年でも一年でも俺が雇って給料払ってもいい」
「そんなの……受け取れるわけないじゃない」
無言になった夜刀の腕の力が強まって、速すぎる胸の鼓動に包まれながら私は途方に暮れるしかなかった。
目が覚めると木の天井が視界に広がった。私の部屋の天井は白いはず。ここはどこかと考えて、夜刀の布団の中だと思い出すまでたっぷり十五秒。夜刀は私に寝室を明け渡し、自分は居間のソファに寝ると言って譲らなかった。寝室は八畳の床張りで、和風モダンなダブルサイズのフロアベッドと、和紙と木で出来たフロアライトが置かれているだけ。窓に掛かる遮光カーテンはしっかりと光をさえぎっていて、何時なのかわからない。
枕元に置いたスマホを確認すると、午前十一時を示していて完全に目が覚めて飛び起きる。いくら昨日疲れていたといっても、十二時間以上も眠っているなんて衝撃。
着ていた服やカバン、財布まで本家で焼却するらしく、私の手元に残されたのはスマホとカード類と現金のみ。ある意味で言えば、就活時で助かった。お気に入りの化粧ポーチやハンカチは自室に置いてあって、今回処分するのは就活用に買った思い入れのない物ばかり。
ベージュ色の遮光カーテンを開くと、白いミラーレースのカーテン。私が昼近くまで眠れたのも、徹底した遮光のおかげなのだろう。窓の外は夏の空が広がっていて、昨日のことが夢のようで現実味が全く感じられなかった。
浴衣の襟を合わせ直し帯を結び直してから二階の寝室を出て、一階の居間へと向かうと夜刀は壁際の棚に置かれた固定電話で誰かと話している最中だった。黒いダイヤル式の電話は、受話器と本体がくるくると巻かれたカールコードで繋がっている。アンティークな置物だと思っていたのに、実際に使えるとは思わなかった。
「――あ! それじゃあ、出発前にまた連絡します。よろしくお願いします」
振り返って私に気が付いた夜刀は、そう言って電話を切った。
「おはよう、愛流。どうだ? 変な夢は見てないか?」
夜刀の笑顔はぎこちなくて、少し疲れているように見える。服は白い半そでシャツに黒のカーゴパンツ。作務衣を部屋着にしている夜刀は一度出かけたのかもしれない。
「おはよう、夜刀。夢は全然見てないの。心配してくれてありがとう。……出かけたの?」
「ああ。宅配便の集配所に行って荷物を受け取ってきた。そこに置いてあるから確認してくれ。あと昨日言ってた『お泊りセット』とかいうやつをコンビニで買ってきた」
居間のローテーブルの上には、大きめの段ボール箱が三箱積まれている。昨日注文した服と下着と靴にしては大きいことに疑問を持ちつつ、自分で買いに行くつもりだった化粧品セットを手渡されて焦りながらお礼を告げる。
「着替えたら……お前の部屋に荷物を取りに行く前に、八條の本家に行く」
「本家に? どうして?」
「……八條の先々代当主の弟は〝闇香の呪い〟の解呪に成功してる。本人は亡くなっているが、その状況を知っている人がいるから話を聞く。現役から退いてはいるが、その人も霊能力者だ」
命を助けてくれようとしている夜刀は真剣で、言うことを聞くしかないと思う。
夜刀の寝室に戻って箱を開けると、私が頼んだスーツと下着と靴、カバンの他、私が良く着ている服と似た渋ピンク色のワンピースと茶色のカバンと靴が入っていた。どちらを着るべきなのか迷って、夜刀に聞こうと扉を開くと本人が廊下の壁に寄りかかって立っていた。腕を組み、物思いに沈む顔がかっこよくて胸がどきりとする。
「あ! や、夜刀、服、ありがとう。どっち着たらいい?」
「どっちでもいい。……できれば、いつもの格好がいい」
ならばワンピースかと理解して、さっさと支度をして部屋を出ると夜刀に驚かれた。
「……もっと時間が掛かるかと思ったが、意外と早いな」
「メイクしてないから、こんなもんよ。コンビニに寄る時間はある?」
完全ノーメイクで知らない人に会うのは緊急時とはいえ心情的に厳しい。コンビニでミニサイズの化粧品を買っておきたい。
「ああ。飯も食っていこう」
夜刀の言葉にうなずいて、私たちは家を出た。
夜刀の車は国産クーペのスポーツカー。見る角度によってバイオレットが光る黒色は夜の闇を感じる。ツードアでも最大四人乗り。座席を倒すと荷物も意外に載せられるお洒落で便利な車。
ファミレスで軽く昼食を取って向かった八條本家は、夜刀の家から車で約一時間半の山奥の集落にある大きな日本家屋。神社は山の頂にある。
「うわ……でっかい……」
古き良き時代のお屋敷。まさしくそんな雰囲気に圧倒されて委縮していると、夜刀が言いにくそうに口を開いた。
「……愛流。悪いが、俺と婚約していることにしてくれ」
「私が? 何で?」
突然過ぎる話で、頭に疑問符しかわかない。どうして恋人でもない夜刀と婚約偽装しなければいけないのか。
「正直に言うと『俺の知り合い』と『俺の婚約者』では本家での扱いが変わる。赤の他人には見せられない儀式もあるからな」
他人と身内では、本気度が変わる。そういうことか。
「わかった。……えーっと、婚約者って……手土産とか何にも持ってないけど大丈夫?」
私が了承すると、夜刀はほっと安堵の表情を見せた。
「緊急事態に土産はいらないだろ。まだ口約束ってことにして、正式な挨拶は後日に予定していることにすればいい。それなら正式な挨拶の前に別れたってことにできる」
そう言って笑った夜刀は、高級車が並ぶ広い駐車場に車を止めた。
立派過ぎる玄関へと向かうと、着物にエプロン姿の中年女性に出迎えられ、私たちは和室へと案内された。二十畳はある広い部屋の中央に、座布団が置かれているだけなのに、高級そうなオーラがにじみ出ている。
「只今、当主が参ります。お座りになってお待ち下さい」
着物の女性が部屋から出て私たちが座布団に座った後、紺色の和服姿の男性が入ってきた。八條本家の当主と聞いて緊張していたのに、部屋に入ってきたのはにこにこと柔らかな笑顔を携えた三十代前後の男性。夜刀と面差しが似ているのに親しみやすい印象が強くて、ほっと肩の力が抜けていく。男性は私たちと対面する場所に置かれていた座布団に座った。
「初めまして。八條和人です。……いつも夜刀がお世話になって……」
和人の挨拶が途切れ、視線が私の二の腕へと向かった。
「それを受けてて、うちの結界を超えられたのか……お嬢さん、体調はどうですか? 気分は? 腕に痛みはない?」
突如として始まった医者の問診のような言葉に驚いて固まってしまう。体調も普通だし、気分も悪くない。腕の痣も痛みは感じない。
「俺が封印結界で押さえてるだけです。彼女に負担は掛けたくない」
「ああ、成程。〝浄化の巫女〟だからかと思ったが、お前の結界か。……お嬢さん、強力過ぎる呪い持ちは通常うちの敷地へは入れないのですよ」
八條本家と神社には、強い呪いは持ち込めないように結界が張られていると和人は笑顔で説明した。
「あ、あの……〝浄化の巫女〟って何ですか?」
「おや? 自覚無し? 夜刀はわかっているよな?」
そう確認する和人に対して、夜刀は口を引き結んで頷きつつも視線を逸らしていた。
「ふーん。……夜刀、後でちゃんと説明してあげなさい。ということで、お嬢さん、夜刀が説明しないようであれば、私に電話してください。……電話番号は……」
和人が懐から銀色のスマホを取り出したのを見て、夜刀が慌てて遮った。
「俺が必ず説明しますから、彼女に接触しないでください。というか、いつからスマホ持ちになったんですか? 不用意に霊道が繋がるから絶対に持たないとおっしゃっていたでしょう?」
「時代の流れに逆らえなくてね。一昨日買ったばかりで、アドレス帳がすかすかなのは寂しいだろう? ああ、夜刀の番号は登録済だよ」
にこにこと笑う和人を前に、うんざりとした顔で夜刀は溜息を吐く。当主に対して失礼な態度ではないのかと心配になってしまう。
「お嬢さん、私と夜刀の仲はとっても良いから心配しなくていいよ。子供の頃からの特別な仲なんだ」
「誤解を招く言い方はやめて下さい」
これは完全に夜刀がからかわれている。どんな顔をすればいいのかわからなくて、私は苦笑するしかなかった。
本家の屋敷から神社までの距離は近くても、山の上まで延々と続く石階段を上るのはとても大変だった。日頃の運動不足を実感しつつ、流れる汗を拭い一段ずつ踏みしめる。私の為に速度を落としていたからか、和人と夜刀は平気な顔で上り切っていた。
「愛流、大丈夫か?」
「……全然、無理」
途中で段数を数えるのはやめた。これは絶対に明日、筋肉痛になる予感がする。
「お嬢さん、解呪まで夜刀と一緒にうちに泊まるといいよ。毎日二往復でもすれば慣れるだろう」
和人の提案に顔がひきつるのは仕方ないと思う。この長い階段を毎日上ることを考えるだけでぞっとする。
「いえ。結構です」
即座に断りを入れたのは夜刀。和人はさらににこにこと笑う。この人のよさそうな笑顔は仮面で、実は性格が悪いのではないかと思うのは気のせいではなさそう。
到着した神社は、長い時間を感じさせながらも立派な造り。青々とした緑の木々が茂る林の中に建っていた。玉砂利が敷かれた参道は木の枝のおかげで陰になっていて、ひやりとした空気が流れている。
鳥居の前まで来て、和人は足を止めた。
「参拝はその呪いが解けてからにしようか。うちの神様が力業を発揮しそうだから」
和人の言葉がどういう意味かと首をかしげると、夜刀が重い口を開いた。
「呪いと一緒に対象者も消滅させる……つまりは殺すってことだ。ここの神は嫌いなものは徹底的に嫌う」
「こ、怖っ」
思わず漏れた一言を聞いて、和人が笑いだす。
「いくらなんでも、女性に対してはそこまではしないよ。男だったら可能性はあるけど」
笑う和人に案内されて鳥居をくぐらず横を通り、神社の境内からは外れた場所に建てられた平屋に到着した。すりガラスの引き戸を見て、田舎で見かけた古い民家を思い出す。
民家には、高齢の女性が一人で住んでいた。先々代の当主の弟の妻だった八條洋子は、昨年夫を看取ってからこの家に移ってきたらしい。結い上げられた白髪は美しく、紬の着物の着こなしは完全に着慣れた雰囲気。若い頃は相当な美人だったと推測できる顔は、年齢を重ねても可愛らしくてうらやましい。
洋子に求められて私が昨日経験したことを語ると、首を傾げられた。
「あの香りが薄いねぇ。〝浄化の巫女〟の力かねぇ」
「夜刀が封印結界で押さえているそうです。そうでなければ、うちの結界には入れなかったでしょう」
和人の説明で、洋子はそうかとうなずいた。
「それでは私のことを話そうかねぇ。……これまでは言っていなかったが〝闇香の呪い〟を掛けられたのは私だ」
その告白で和人と夜刀が息をのんだ。私は呪いを掛けられても生きている人がいることに内心喜んだ。
「私が呪われたのは、夫と祝言を上げた直後のことでな。戦争が終わって十年が経っても、一部の霊たちが騒がしくうごめいていて……そして神や先祖の霊の存在を信じなくなった人々の不敬のせいで、封印されていた古の悪しき霊たちが放たれることも少なからず起きておった。夫も私も霊を鎮める為にあちこちに呼ばれておった。……ある時、とある山村の温泉宿で依頼を片付けた後、しばらく滞在してはどうかと言われて私たちは厚意に甘えることにした」
そこで洋子は一旦話を切って息を整えた。
「だがそれは、隣村で起きていた祟りを鎮めて欲しいが故の足止めでねぇ。他の霊能力者は皆、逃げ出したという話だった。夫は仕方ないと苦笑しながら隣村へと向かい、その間、私は宿で待っていた。……ちょうど今頃の時期でねぇ。時間を持て余した私は森の中を散歩するのが日課だった。ある日、私は今まで嗅いだことの無い良い香りに気が付いた。まるで誘われるようにして森の中を歩いていると、一輪のオトメユリを見つけた。淡い桃色の可愛らしいユリの花でねぇ。今では絶滅危惧種入りも間近と言われているが、当時はそれほど貴重なものではなく、香りに魅入られていた私は折り取って宿に持ち帰った」
香りに魅入られていた。その状態が私にも痛いほどわかる。どうしてもあの香りの正体が知りたくて、見知らぬ男に声まで掛けてしまったのだから。
「宿の部屋に花を飾ると、私は部屋に引きこもって一日中花ばかりを見つめていた。三日目に戻ってきた夫の叫び声を聞くまで、私は眠りもせずに花を見ながら笑っていたらしい。夫はすぐにその花を使って、呪いの元凶を呼び出した。〝闇香の呪い〟は虐げられ非業の死を迎えた女の呪いだ。私を呪ったのは、殿様に輿入れする道中で野盗に襲われた公家の姫君だった。攫われた姫君は野盗の砦で死ぬまで慰み者にされ、枯れた古井戸に捨てられた。私が手折ったオトメユリは、その古井戸が埋まった場所に咲いていたものだそうだ」
洋子は一瞬のためらいの後、また言葉をつづけた。
「夫は姫君の霊の訴えと望みを聞き、井戸につながる池のほとりに建つ小さな家を買った。真新しい家具を入れ、桐の箪笥には綺麗な着物を並べ、酒は嫌いだというので甘い饅頭と果物を毎日供えて弔った。それで姫君の霊は満足して、七日目に呪いと共に消え去った」
「姫君は、何故貴女を呪ったのですか? 花を手折ったからという理由だけですか?」
洋子が話を終えた時、夜刀が鋭い口調で問いかけた。彼女は何か隠している。そんな直感が私にもあった。
「……花を手折った……だけではない。まだ新婚で幸せそうな私が憎くて仕方なかったと。……夫は七日の間、姫君の……仮初の夫になっていた」
静かな告白が胸に痛かった。解呪の為とはいえ、自らの夫が他者の夫としてふるまう姿を想像するだけで悲しい。
「それは…………無理にお聞きして申し訳ありません。お話下さりありがとうございました」
夜刀と和人、私の三人は洋子に頭を下げ、その場から離れた。
神社から屋敷の部屋に戻っても、しばらくは誰も言葉を発しなかった。
「……呪いを掛けた女性霊の望みを叶えることが解呪条件だとは聞いていたんだけどね。……まさかそこまでとは思わなかったな」
和人がため息交じりで口を開いた。新居や家具を用意し、夫として過ごすこと。新婚の女性にとっては、とても苦しいことだと思う。
「今回の場合は、お嬢さんが夜刀と婚約しているのがムカついたってことになるのかな」
「待ってくれ。まず呪われるきっかけがわからない。彼女は花を手折った。愛流は何もしてない。そうだよな?」
夜刀に問われて、何度も頷いてしまう。私は何かを持ち去ったりはしていない。
「それなら……死んだ男は謎の動画に出演して、女に憑りつかれていた。そのターゲットに声を掛けたことで、横取りしたと思われた……とか? どうにかして女性の霊を呼び出して呪った理由を聞き出すしかないが……何か残っていないのかねえ?」
声を掛けただけで横取りしたなんて普通は考えないと思う。恨みを強く持って死んだ霊は、正常な判断力を持ってはいないのかと考えて、だから悪霊になるのかと思い直す。
「何か残っていないか確認したが、愛流の体に残った死臭と痣だけだ」
夜刀の表情は硬い。スーツやカバンの確認をしている時、私も横で見ていた。私の手が離れると、あれだけ匂っていた甘い花の香りはスーツやカバンから綺麗に消え失せた。
「死んだ男の方をあたるしかないのか。お嬢さん、警察から何か聞いてる?」
「あの男性は土岐川栄樹という人です。九州に住む三十一歳の会社員ということしかわかりません。あとは司法解剖になると聞きました」
血を吐いた男は運転免許証を持っていて、身元確認はすぐに行われた。取り調べの中で知り合いではないかと何度も確認されたものの、相手は遠方に住んでいて経歴も職歴も生活圏にも一切接点がない。変死扱いで司法解剖に回されると言っていた。
「司法解剖に回るなら遺族への遺体の引き渡しは数日かかるな。私が一度見てこよう。……ああ、お嬢さん、驚かせてしまったかな。警察も検死の医者の方にも伝手はあるんだ。年に数回、警察の手には負えない不可思議な事件というものがあってね。そんな時に呼ばれるんだ。酷いことにタダ働きだよ」
肩をすくめて和人が苦笑する。
「俺も行く」
「それじゃあ、向こうの都合を聞いて連絡する。……お嬢さん、洋子さんが助かっているし、夜刀は洋子さんの夫よりも霊力は強い。あまり心配しなくていいよ」
和人の言葉が明るいのは、私の心配を軽くするためなのだろう。和人に対して何か言おうとした夜刀は何故か口を引き結んだ。
「……どうかよろしくお願いします」
何の役にも立てそうにない私は、二人に頭を下げることしかできなかった。
本家を出てファミレスで軽めの夕食の後、シェアハウスに夜刀の車で到着したのは午後九時過ぎ。電子カードキーで玄関を開けて、一階の居間へと向かう。このシェアハウスでは居間の壁に設置された白板に在室かどうか表示する義務があり、たとえ短時間の在室でも避けては通れない。白壁の居間に入ると部屋着姿でゲームをしていた二人が振り返った。
「あ! 愛流! お帰りー!」
私と同い年の二人は、同級生。ハンドクラフト趣味で稼ぎつつ、派遣社員をして生活している。
「ただいまー」
誰かがゲームをしている時には邪魔をしないという暗黙のルールがあって、挨拶だけで自分の部屋に戻ろうとしたのに二人が駆け寄ってきた。
「ねーねー、愛流、動画見たよ! あれって、マジで事件? それともドラマ?」
「え?」
何を言っているのかわからずに固まっていると、二人が早口で話し出す。
「男が血を吐きながら、愛流にしがみついてるヤツよ。ネットで動画がいっぱい流れてるの。あれ、愛流でしょ?」
「昨日帰ってこないし、連絡もないから、皆で心配してたのよ!」
「あ、ご、ごめんなさい。心配掛けて……」
心配していた割には、目が輝いているように見えるのは何故なのか。声もハイテンションで明るい。
「凄いよ! 愛流、有名人だよ! 百万再生超えた動画は何故か削除されちゃったけど、ショート動画で五十万回超えはいくつもあるし! 凄いじゃない!」
有名人? 百万再生? 二人の嬉々とした声が耳を通り抜けていく。
――これは、誰なんだろう。
何か私の心のスイッチが、ぱちりとオフになったような気がした。友人だと思っていた人間が知らない人のように見える。とばっちりで血を吐かれて、呪われただけで全然凄くも何ともない。……凄いって気軽に使っているけれど、その言葉に隠された意味は何なのか。
「ねえ、警察で泊まってたの? 留置所?」
「もう、何言ってるの? 愛流は迷惑掛けられた被害者なんだから違うわよ。警察が用意したホテルとかじゃないの? カッコイイ刑事とかいた?」
二人の盛り上がる勢いは止まらない。鼻息荒く詰め寄られてパニックになりつつも、どこか冷静になっている自分を感じている。
「え、えっと。き、昨日は警察行った後、彼氏の家に泊まってたの」
偽婚約者とも言えず、とりあえず彼氏と口にすると二人はさらに目を輝かせる。
「えーっ! 愛流、彼氏いたんだ? じゃあ、血を吐いてたのってやっぱストーカー?」
「ストーカー?」
どうしてその単語が出てくるのかさっぱり理解できなかった。
「別れ話のもつれで男が毒飲んで自殺したんじゃないかって言う人と、愛流はスーツ姿だし嫌がってるからストーカーじゃないかって言う人がいてね、もう酷い人だと別れる為に愛流が毒飲ませたんじゃないかって言うのよ! あ、絶対そんなことないって私たちは言ってたのよ!」
「ぜ、全然知らない人に決まってるじゃない。私は就職の面接に行く途中だったし、ただの通りすがりよ」
答えながら血の気が引いていく。私は気分が悪いと言っていた人に声を掛けただけなのに、そんな風に言われているなんて全く考えもしなかった。
「ねえ、詳しく話を聞かせて!」
声をそろえた二人の姿が不幸を楽しんでいるように見えて、背筋がぞっとした。何か人ではない、恐ろしいバケモノのように感じる。
「え、えっと。その、警察から詳しいことは話すなって言われてるから」
口止めはされてはいない。私が知っていることは全部話して調書も作ったし、後日追加で取り調べが必要な時は連絡すると言われているだけ。男が口にしていた動画のことも、姿を消した白いワンピースの女性と、最後まで動画を撮っていた男のこともすべて話した。女性と動画撮影の男のことは事件には関係ないと、調書には採用されなかった。変な女と思われても、警察に聞かれたのだから全部言っておかなければという義務感が強くあった。
「えー、誰にも言わないから少しだけー。お願いっ。ねー、いいじゃん、友達でしょー? 皆で一緒にお菓子食べながら、ちょーっと話すだけでいいからさー」
友達という言葉が、これほど軽薄に感じたことはなかったように思う。私が経験した不幸は、彼女たちにとってお茶請けに消費する娯楽にしか過ぎないのだと衝撃を受けた。
「ご、ごめん。これからまた出かけるから。外で彼氏に待ってもらってるの」
「え? 外で待ってるの? マジで?」
目を丸くして驚いた二人が外が見える窓へと向かうのを横目で見ながら、私は二階の自室へと駆け上がった。
二十分後、着替えや靴を詰め込んだスーツケースを持って、私はシェアハウスの外で待っていた夜刀の車に乗り込んだ。見送る友人たちの顔は私を心配しているのではなく、詳しい話が聞けなくて残念そうに見えて仕方ない。事件がきっかけで私の心が歪んでしまっているのか。それとも……。
「……愛流? どうした?」
遠くなっていくシェアハウスをサイドミラーで見ていると夜刀が声を掛けてきた。
「……もうあの部屋には戻れないかも。…………ちょっと無理」
「言える範囲で理由を聞かせてくれないか」
「……昨日の事件の動画がネットにアップされてるんだって。顔もばっちり映ってるみたいで……変な噂にもなってるって……」
「変な噂?」
「別れ話で揉めて男が自殺した……とか死んだ人が私のストーカーだったとか……私が……毒を盛った……とか」
「……それは……酷いな」
私の話を聞いた夜刀は口を引き結ぶ。ぎりりと歯噛みする音が聞こえた。悔しいと思ってくれているのだろうか。この気持ちを共有してくれているだけでも、悔しさが和らぐ。
「昨日の件って、ニュースとかになってた?」
「いいや。昨日の夜から大物芸能人の離婚がトップニュース扱いだった。今朝の新聞もチェックしたが報道はされてない。はっきり言えば、一般人がカフェイン中毒で突然死というのはニュースにもならないだろうな」
その言葉で少しだけほっとしても、全然安心はできなかった。私の知らない所で動画が出回っているという事実は重すぎる。動画も写真も拡散されたら完全削除は不可能と理解はしていても、SNSで顔出ししていない自分が被害に合うとは想像もしていなかった。
「刑事さんは司法解剖回すからって詳しい死因とか教えてくれなかったけど、やっぱカフェイン中毒ってことになってるのかな」
「おそらくな。霊に取りつかれて死んだより、カフェイン中毒で死亡の方が現実的だろ」
男が座っていたベンチの周囲に散らばっていたカフェイン入りドリンクの瓶と空になった薬の包装シートの光景が脳裏に浮かぶ。一日の上限がどのくらいなのかわからないけれど、あれだけの量を飲めば体に影響があるだろう。
「動画のこと、警察に相談したら何とかなるかな?」
「どうだろうな……難しいかもしれないな。……本家の顧問弁護士に頼んでみるか」
「弁護士? どうして?」
「肖像権の侵害と名誉棄損で動画の削除を各プラットフォームに申請する。……悪いが完全削除は難しいかもしれない」
「夜刀が謝る必要ないわよ。悪いのはアップした人間だし、ネットに流れたら完全削除は難しいっていうのもわかってる」
それでも気分は最悪。無断で切り貼り加工されたり、面白可笑しく心無いコメントが付けられてネット上に永遠に残るのかと思うと胃が痛くなってきた。
「まずは呪いを解くことを優先……ごめんなさい。夜刀に迷惑ばっかかけちゃうね」
元凶はおそらくあの白いワンピースの女性。何が理由なのかさっぱりわからないけれど、彼女が満足する為に何が要求されるのだろうか。
「そもそも、呪われた時点では愛流と俺はつきあってないし婚約もしていない。ってことは、何か別の要求があるんだと思うぞ。俺はお前が助かればそれでいいから、迷惑かけたくないとか遠慮するな」
そう言って笑う夜刀がいつもより凛々しく見えて、私は戸惑うしかなかった。
翌朝、スマホで朝六時に目覚ましアラームを掛けていたのに、何故か八時に起きてしまった。慌てながら着替えて階下に降りると、真新しい新聞を持った深緑色の作務衣姿の夜刀と出会った。
「おはよう、夜刀。へー。紙の新聞なんて久しぶりに見たー」
「おはよう、愛流。あのシェアハウスでは新聞を取ってないのか?」
「仲介業者から、最初にどうするか聞かれた時に六人全員がいらないって答えたの。だって年間にしたら結構な金額でしょ。ニュースなんてスマホでいつでも見れるし。それだけあったら別のことに使った方が有意義だもの」
実家の両親は新聞を取っていた。毎朝、会社員の父親が新聞紙を広げてニュースをチェックしている姿を見慣れていたけれど、私自身は手に取ることもなかった。
「まぁ、仕事に関係ないなら、その選択はありだな」
「〝拝み屋〟の仕事に新聞って必要なの?」
「必要だな。事件や事故の情報と、最低限の時事問題は押さえておきたい」
事件や事故のことは〝拝み屋〟の仕事に関係がありそうだと思っても、時事問題が関係あるとは思えなかった。
「今や新聞紙は絶滅危惧種だ。古いと言われるが俺は紙の方が見やすくて頭に入りやすい。以前は六社取ってたけどな。二社潰れて一社はデジタルのみになって、残ったのがこれだ。そろそろ一社潰れそうだな」
よく見れば、夜刀が持つ三部の新聞はどれも違う社のもの。
「新聞って書いてある記事はどれでも同じじゃない?」
日本で起きる大事件なんて限られているのに。
「そうでもない。社によって報道内容に偏向があるからな。同じ事件を取り扱う記事を複数付き合わせて読むことで書いてないことや隠されてること、世論誘導の方向が推測できたりする。気になる記事があればネットで深掘りして一次情報を探す。……なんだこれ?」
テーブルの上に、夜刀が新聞を開いて並べていく。三紙共に大きな見出しで目に飛び込んできたのは『路上で謎の水死相次ぐ』という記事だった。道を歩いていた人が、突然水死するという事件が別の場所で同時に起こったと書かれている。犠牲者は九名。年齢も職業もバラバラで共通点はない。そんな中、一人だけ写真付きで動画配信者と紹介されていた。
「……夜刀、この人……見たことある」
「どこで見た?」
「……あの時……スマホで最後まで撮影してた人」
間違いない。SNSから拾ったものなのか、ふざけた顔で撮影された写真を見て、私はあの時感じた別の恐怖を思い出していた。




